178 ベルシエラは麓の森へと出発する
シャルル翁が持たせてくれた花蜜茶の効果には目を見張る物がある。大きめのマグ一杯分ほどを水筒から飲むと、呼吸は楽になり吐き気や関節の痛みも消えた。ヴィセンテは長年盛られた毒と掛けられた呪いの影響を脱したのである。
「ほう、これは凄いな。花蜜茶とやらのことはまるで知らなかった。霊獣の大地で産する物は、これまで秘されて来たからなあ」
杖神様も驚嘆している。小説「愛をくれた貴女のために」でも描写がなかった秘薬である。クライン家と関わる事がなかった一周目のベルシエラも知ることが出来なかった飲み物だ。
「まあ、こんなお茶があったのねぇ。あっという間に効果が現れたわねぇ。素晴らしいお薬だわ」
先代夫人も空中に浮かびながらしきりに感心している。
ヴィセンテの血行は目に見えて良くなった。青褪めた顔に血の気がさして、陰気な雰囲気が払拭された。頬はこけたままだったが、顔色ひとつでかなり印象が良くなる。活発に血が巡り始めたので、目の周りに目立っていた黒ずみが消えた。
ヴィセンテは筋肉も脂肪もほとんどなく、元来彫りの深い顔立ちである。落ち窪んだ眼窩ばかりはどうしようもない。暗く澱んだ目付きには婚礼の夜に希望が灯った。その僅かな気力が体力を得て息を吹き返した。
復讐を遂げた意志の強さが魂の窓から覗いている。ギラソル領の厳しい現状から眼を逸らすことなく、勇気を持って向き合っていた。花蜜茶を飲んだ後、ヴィセンテの見た目は幽鬼から猛禽へと進化した。
「それじゃあ私は、外の様子をひと通り観て来るわね」
ベルシエラは、3つに分けたギラソル領の討伐隊を順に見に行くことにした。状況の把握と怪我人の回収が望まれる。可能ならば村人たちの避難もしたいところだ。
「いってらっしゃい、気をつけて」
ヴィセンテはベルシエラの助けを借りて起き上がる向きを変えて立ちあがろうとするのをベルシエラが押し留める。
「立たなくていいわよ。体力は温存しなくちゃ」
「そうだね。いざって時に寝込んでたら何も出来ないよね。ありがとう」
花蜜茶で回復したとはいえ、基礎体力はまだ病人のままなのだ。せっかく戻った体力も、すぐに使い果たしてしまいそうだった。そこでヴィセンテはベッドに腰掛けたまま、ベルシエラを抱きしめた。
筋力がないので、相変わらず弱々しいハグである。だが、それだけで疲れてしまうほどのやつれ方ではなくなっていた。ベルシエラは恥ずかしさと喜びで居心地が悪い。
「気をつけてね。くれぐれも無理はしないようにね」
「心配しすぎよ。兎に角行ってくるわ」
ベルシエラは抱きつく腕にぎゅっと力を込めた。ヴィセンテは首を僅かに動かして、ベルシエラの頬に軽い口付けを落とす。みるみる新妻の首から額が真っ赤に茹で上がった。
「エンツォも、無理しないようにね?」
照れ臭さを誤魔化すように、ベルシエラは少し早口になった。
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