17 その人には自分と向き合う勇気があった
放置はいただけないが、妻にも落ち度はあった。虚弱で不機嫌な夫の看病に疲れて、好きに生きることにしたのだ。贅沢をしたり引き篭ったり、評判は最悪だった。
(それでも亡き妻の介護日記を読んで後悔したんだから、さすが小説の主人公よね。悪妻ざまぁとか思わず、自分の弱さと向き合う勇気があったんだもの)
壊れる前の妻は献身的だった。全てはエンリケの策略であると知り、復讐劇が開幕する。
(小説のヴィセンテは遅すぎたけど、幸せになっていい筈の人だわ)
物語は復讐を遂げたヴィセンテの自死で終幕となる。
(小説は心理描写が素晴らしくて、読み終えた時にはただ泣いただけだった。でも、決めたわ。夢の中でくらい、ヴィセンテを幸せにしてあげたい。ベルシエラが死ななければいいのよ。2人でエンリケ叔父の悪事を暴こう。待ってて、ヴィセンテ!貴方に後悔はさせないわ。一緒にハッピーエンドを目指しましょう!)
部屋の中はシンとしている。ベルシエラに視線が集まっていた。名前を賜った時と同じ作法が求められているのだろう。ベルシエラ=美空は、立ち上がって傍へとずれる。王から姿がよく見える位置に移動したのだ。
そして徐に両膝をついて頭を垂れた。両腕はこの国の作法に則って、胸の前でクロスする。指先を揃えた両手は反対の肩先にそれぞれ添えて、反意のないことを示す。
(この姿勢、現実世界では、古い古い祈る人のポーズなのよね。南ドイツ発祥の保存食だったプレッツェルの形だわ。あの小説は、現実から色々取り入れてたんだ)
だからこの夢も、全くの不思議な世界とも思えなかった。所々知っている部分があって、却って落ち着かなかったのだ。反面、その奇妙な混ぜ合わせの中では、知っている部分に出会うと安心もしたのだが。
ベルシエラは目を閉じて呼吸を整える。それから、はっきりとした声で発言した。
「謹んで拝受致します」
簡潔に、明瞭に、ベルシエラとなった美空は答えた。この夢がいつ覚めるかは解らない。今この瞬間にも起きてしまうのかも知れない。
(だけど、できる限りやってみよう)
小説は大長編だった。余暇の全てを使い夢中で読んで、3ヶ月ほど掛かってしまった。主人公が炙り出しに苦労した敵どもは、読了者アドバンテージで知っている。
だが油断は禁物だ。長編故に細部は忘れた。夢なのでストーリーそのものの変化もあるかもしれない。
(悪妻側にも、まだなんかあった気もするし。一昔前の後悔復讐恋愛物なら真ヒロインが登場しそうだけど、もっと古臭い純愛主人公だったもの)
題名も、「愛をくれた貴女のために」である。介護疲れで壊れただけの妻なら、同情止まりだろう。だが主人公は、最後まで妻への二度と叶わない恋情を抱えて息を引き取る。
(うーん、私、小説のベルシエラじゃないしね)
美空は考えるのをやめた。
(ま、夢だし。なんとかなるでしょ)
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続きます