130 ヒメネス領には海がある
ベルシエラは逡巡した。炎の防壁でソフィア王女一行を包むことは出来ない。能力としては出来るが、宿泊地まで体力がもつか不安なのだ。
かといって、見殺しにも出来ない。このまま通り過ぎてしまえば、十中八九、王女一行は吹雪に巻かれて力尽きてしまう。何か出来ることはないか、とベルシエラは忙しく思考を巡らせた。
「そうねぇ、出来る事といえば、道案内くらいかなぁ」
ベルシエラは掌の上に小さな火球を浮かべた。
「ヒメネス領に入って最初の村だと、この人数は泊まれなさそうだけども」
「迷子になんねぇだけでもありがてぇよ」
フランツはほっとして肩の力を抜いた。
「隊長ーっ!ベルシエラが来てくれましたーっ!」
「ちょっとフランツ!支援出来ないからね?」
ベルシエラは隊長が後ろまでやってくる前に、自分の馬車へと戻る。道案内の火球だけ投げて、文字通り飛んで帰った。
「長い話は村についてから聞くわ!」
旅慣れた巡視隊の面々や、最高級設備を持つソフィア王女の一行が迷子になった経緯には興味がある。ベルシエラは、きちんと聞いておかないと厄介なことになると直感した。
ヒメネス領に入ると、なだらかな丘が続いた。太陽も月も見えず、時刻は定かではない。一行は火球の導きに従って、小高い丘の天辺に辿り着く。真っ白に塗り潰された視界が晴れれば、きっと海が見えるだろう。風の唸りに混ざって、遠く潮鳴りが聞こえた。
ベルシエラはその音を美空の時に知っていた。ベルシエラとしては初めて聞く。この国の海がどんなものなのか好奇心をそそられた。
「いつか晴れたら、この先にある海に行ってみたいわ」
「海ですか?」
「ええ。イネスは見たことある?」
「いいえ。聞いたことがあるだけです」
「それなら、一緒に行ってみましょうね。ギラソル魔法公爵様もご一緒に、お城のみんなと」
工業馬車には壁や窓がない。ベルシエラが乗る魔法馬車は、雨露を凌ぐ魔法の壁と窓がある。イネスとベルシエラは、渦を作っては吹きすぎる雪片の向こうに、それぞれの海を思い浮かべた。
吹雪の中では、ソフィア王女たち以外の人影に遭遇することはなかった。来た道を眺めても彼らはまだ見えない。ベルシエラは念のため遠見の魔法道具を起動する。
「順調に進んではいるけど、まだ丘の麓にも辿り着いてないみたいね」
「奥様がいらっしゃらなかったら、わたくしどもも遭難したかもしれませんのね」
イネスは身震いした。
「奥様の魔法は、飛び抜けて素晴らしく感じますわ」
「ふふ、杖神様に教わった魔法ですからね」
「難しい古代の魔法を軽々と使いこなされるなんて、特別な才能だと思いますよ」
「ありがとう、イネス」
ベルシエラはにこりと笑って礼を言う。だがその笑顔は曇っていた。
(あの精鋭部隊が雪に巻かれて遭難寸前だなんて。一体何があったのかしら?)
ベルシエラには、ソフィア王女や隊長たちが道から大きく外れたことが信じられなかったのだ。
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閑話
馬車
古代ローマのチャリオットは絵画にも残り有名である
両脇に車輪がついた一人乗り戦車である
専任の御者はおらず、乗り手の戦士が立ち乗りで馬を御す
15世紀前後には二頭立ての馬車が登場した
貴族の馬車には専任の御者も定着していたが、御者台はなかった
御者は一頭の馬に乗り、その馬が馬車を引く
荷車はロバだけではなく馬も引き、幌つきの物も図版に残されている
旅行には替え馬を連れて行ったようだ
16世紀には、東ヨーロッパでサスペンションつき馬車も現れた
この頃は車体を革紐で車軸に繋いで衝撃を緩和した
当時の人々にとっては画期的な新発明である
初めは王族のみの特権だったこの馬車は、次第に貴族階級にも愛用されるようになった
ただ、革紐が切れやすくメンテナンスも難しいため、ヨーロッパ全域への普及は進まなかったという
車部分には窓も壁もなく、天蓋とカーテンがついた輿のような物だった
海外の博物館サイトで実物の写真が公開されている
残念ながら筆者が歴史博物館などで見学したのは、もっと新しい時代の物だけだ
16-17世紀にかけて、御者台が発明される
鎖を使ったサスペンションも一般化していった
18世紀になると王侯貴族の馬車では、頭飾りをつけた6頭だてのものなど権勢を誇示するものも現れた
6頭だてならさぞ速かろうと現代人は思うのだが、実際には飾りが重く馬が疲れやすいことや、車のほうの耐久性などにより、さほど速くはなかったらしい
二頭立てとたいして変わらなかったという説もある
宿場町で馬を替えるサービスもこの頃には一般化しており、歴史小説や冒険小説で急ぎの旅をする主人公が馬の買い替えを行うシーンも多い
19世紀、18世紀末に颯爽と登場した自動車と併存していたが、次第に実用性は失われていった
現代の馬車は、儀式や観光のために使用されている




