118 マテオ・ヒメネスの記録
ベルシエラが手にした本には、マテオ・ヒメネスという名前が載っていた。発行は100年ほど前の王立薬学研究所資料室だ。底本は300年前の手稿である。もしかしたら、今でも王立薬学研究所資料室に保存されているかもしれない。
(一周目でお会いした本草学の最高権威、プフォルツ領に隣接するクロイター伯爵家出身のオルトルフ・マイスター先生なら、きっとご存知ね)
マテオ・ヒメネスの項目は、魔物から毒を抽出する研究の記録の中にあった。そんな研究は、現在では失伝している。原本の劣化により記録者は不明だ。その人はエルグランデ全土を巡り、毒の利用を試みている人と接触したようだ。
マテオは騎士家系ヒメネスの嫡子でありながら、剣の才能はなかった人物。フィールドワーク中の研究員にその頭脳を見出され、後にエルグランデ王国徴税官に抜擢された。
マテオは故郷で奇妙な果実を食べてから、魔法酔いになる。だが、研究員は結局その果実を見つけることは出来なかった。マテオの魔法酔いは王宮で過ごすうちに改善した。
抄録なので、内容はそれだけだ。しかし、一歩前進である。
(ヒメネス領の奇妙な果実)
おそらくその果実は植物系の魔物であろう。現地調査で見つからなかったということは、何者かが秘匿していた可能性がある。
(ヒメネス領にも行ってみないと)
ベルシエラはヴィセンテに話しかける。
(エンツォ、起きてる?)
(うん!起きてるよ。残念ながら今夜は水薬飲まされたけどね)
(それは仕方ないわよ。少しだけ話せる?)
(話せるよ。何か分かったの?)
ベルシエラは逡巡した。あの花粉に関する資料は、ファージョン魔法公爵家の書庫にしかない。この特別書庫の資料にあったと嘘をつけば、信用を失う可能性がある。魔法酔いの研究は、当然セルバンテス家でも代々してきたのだ。嘘はすぐに見抜かれる。
かと言って、本当のことを説明するのは今ではない。一周目の話は長くなるし、先代夫人も交えてしたい。
(あのね、効くかは分からないんだけど)
結局、ベルシエラは無難な言い訳を選択した。
(試して欲しい薬があるのよ)
(書庫で何か見つけた?)
ヴィセンテは当然の反応を示す。ベルシエラは落ち着いて説明した。
(ううん。あ、書庫でも資料を見つけたことは見つけたけど、薬はお散歩で見つけたの)
(散歩で?)
ヴィセンテは少なからず驚いた。
(ええ。お散歩してたら、魔法の気配がある花を見つけたのよ。一般の吐き気や頭痛を和らげる薬草と混ぜて煎じてみたら、効きそうな香りと味がしたわ)
(シエリータ!)
ヴィセンテの恋心が直接ベルシエラの心臓に向かって放たれた。
(ああ、君はなんて賢い人なんだ!誰も見つけられなかった薬になる花を、黄金の太陽城に来てからほんの数日で見つけてしまうなんて!)
それはもううっとりと、蕩けるような視線が眼に見えるようだ。
(エンツォ。大袈裟よ)
ベルシエラが照れて目を伏せる。実際には一周目のガヴェンから教わった、薬になる花粉である。発見したというのは、確かに誇張なのだ。
(!!!!!)
その反応が心の会話の向こうにいる夫を悶絶させた。ヴィセンテは新妻の賢さに感激した数倍、胸の高鳴りを感じたのだ。恥じらう可愛らしさには生命の危機を感じていた。
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続きます




