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胡蝶

胡蝶嵐

作者: 薊

 胡蝶が嵐を起こせるか。それを確認する手段は存在しない。しかし明確に否定する根拠を示すこともできない。

 悪魔の証明とも称される人智を超越した領分。その答えは神のみぞ知る。




 もしも脳から記憶の情報を読み取ることができたならば、記憶の復元や外部媒体への保存ができるようになるのではないだろうか。

 事故で記憶障害を発症した母親に縋り付いて少年が泣いていた。それが総ての始まりだった。


 脳はシナプスと呼称される電気信号で情報を伝達しており、記憶はシナプス伝達により記録媒体が刺激されることで形成される。記録媒体はスパインだと考えられており、短期記憶が形成される際には一時的にシナプスが強化されることが知られている。

 測定した脳波から強化シナプスを検出し、大脳皮質に存在するスパインを対象としたシナプス伝達を解析すれば記憶をデータとして可視化することができるのではないだろうか。




 ワイヤレス機器の普及により、巷には電磁波を発生させる電子機器が溢れている。電磁波の強度は飽くまで医学的に無害とされている数値が遵守されているはずだが、稀にそれらを感知して身体などに異常をきたす者がいる。

 千差万別の非特定症状を発症する、電磁波過敏症と呼称される未知の症状。時を経て脳科学者となった少年はその症状に着目して脳の電気活動の研究を続け、記憶領域に干渉する技術を発見した。

 脳から記憶情報を読み取り、情報を解析して可視化する。この技術が確立したことにより、記憶は外部の記録媒体へ保存することが可能となった。今は保存した記憶を脳へ戻す実験を試みている段階であり、安全性が確認された暁には認知症の進行を緩和する補助技術として医療に組み込まれることが検討されている。




 脳はブラックボックスのようなものであり、現在に於いても全貌の解明には至っていない。未知の領域に踏み込むこの実験は不確定要素が多く、失敗を前提としていると評しても過言ではない。しかしスポンサーからの突き上げを無視し続けることもできず、時期尚早ながらも実験の規模を拡大せざるをえない状況に陥っていた。

 サンプルデータは多い方がよいとの主張は否定できないが、暗中模索の現状で不用意に目立つのは得策ではない。研究費という究極の手札を切られた科学者は研究以外の問題で苦悩することになる。

 科学者が自身の望む研究を続けるためにはスポンサーが望む研究の成果を出さければならない。そのためには不特定多数の人体実験のデータが不可欠だったのだ。




 かつてはプログラムをカセットテープに記録していた時代があった。パソコンに接続したカセットデッキで録音を行い、記録した磁気データを再生することでロードを行う。数十分間の電子音として記録されたプログラムは音響機器でダビングすることができ、複製データを使用しても問題なくロードすることができた。

 スペックの低い旧式のパソコンで使用されていた技術なのだ。より高性能な演算機能を持つ脳に応用できない道理は無く、理論上では脳に任意のプログラムを焼き付けることは不可能ではない。電磁波過敏症を利用して脳に磁気データをインストールすることはできないだろうか。


 莫大な額の支援を受け続けてきた科学者はスポンサーの意向に従う義務があり、手段を選べる立場ではない。倫理を説いても無駄だろう。そもそもスポンサーが望む研究は『催眠状態の脳をクラウドに接続してプログラムを処理させる』という非人道的な技術なのだから。

 非道な研究ではあるが、科学者が望む研究と無関係とは言い切れない。その技術が確立すれば、ハードを必要とせずに仮想現実を構築できる可能性がある。仮想現実の体験が記憶として脳に定着するならば、過去の記憶を追体験させることで疑似的に記憶を復元できるようになるのではないだろうか。

 科学者はサンプルデータ収集の手段としてクラウドを利用した無線ゲームを提案し、開発された催眠誘発プログラムは【胡蝶の迷宮】と名付けられた。




 そもそも一般企業が運営するプロバイダで非合法な実験などできるわけがない。スポンサーはこの実験のために回線事業に参入し、表向きのサービスと平行して実験用の無線LANを普及させていた。幻のゲームと噂された空白の5年間はこの準備期間でもあったのだ。

 想定では参加者の大多数が対象外となるためにゲームとの関連を裏付ける証拠とはなりえないだろうが、スペック条件を充たした被験者は漏れ無く光の明滅を体験する。身柄の確保に失敗すればパソコンの異常動作として騒ぎ立てる者が現れてもおかしくはない。

 目に余れば機密保持の名目でスポンサーが処理するだろうが、それは飽くまで最終手段だ。実験の性質上、被験者は短絡的な人間がよい。無闇に騒ぎ立てず、無用な詮索をしない者であることが望ましかった。


 βテストへの参加条件を先着順としたのは理論型のプレイヤーを排除するためだ。情報収集を優先させて無難な構成で挑むようでは話にならない。過去の実験では理論型のプレイヤーは未知の要素を敬遠する傾向があり、ほぼ全員が【覚醒】を初期値のままテストを終えている。

 αテストの統計結果によると、登録時に【覚醒】を高めていた者は他者と比べて催眠が深くなる傾向があった。そして催眠深度が深い者の精神はキャラクターデータの影響を受けている可能性が示唆されていた。しかし被験者全員に指示して【覚醒】を上げさせた実験では惨憺極まる結果となっており、単純に【覚醒】を上げればよいというものではないようだ。

 理屈は不明だが、統計では【光魔法】を取得した者は盲信者になる傾向があり、対となる【闇魔法】を取得した者は狂信者になりやすくなっている。未知の要素を選択するという好奇心が暗示にかかりやすくなる要因なのだとすれば皮肉なものだ。




「食事の用意ができました」

「ありがとう。……見た目と違ってとてもよい香りだ」


 科学者の助手を務めている女性研究員が料理を机に並べる。このような食事風景は珍しく、普段は買い溜めした保存食を適当に食べている。しかしいつからかはわからないが、科学者が食べたい料理を書き置きした時だけは何故か必ず助手が手料理を提供するようになっていた。

 部屋中に広がる香りは間違いなくよい香りなのだが、夕食のリクエストとして科学者が書き置きしたメモにはレバニラ炒めと記されていた。


「ニラレバではなくレバニラ炒めをご要望とのことでしたので、レバーをバニラエッセンスで炒めました」

「間違いは誰にでもある。非は認めるが、バニラエッセンスは調味料ではなく香料だ。甘いのは香りだけで、あれは苦い液体だ」

「間違いは誰にでもあります。私も非は認めますので、どうぞお召し上がりください」


 科学者は日本人ではない。時には料理名を勘違いすることがあり、文字を書き間違えることもある。しかし助手はメモに書かれた品をそのまま作ろうとし、これが科学者がリクエストした品なのだと主張する。

 例えばパイタンラーメンがリクエストされた際には【白湯】を【さゆ】と読み間違えて熱湯に麺だけを入れた品を提供し、本格スープパスタと書かれた際には6時間かけてじっくりと煮込んだ結果としてスープにマカロニの残骸のような物体と化したパスタが沈んでいた。

 助手が科学者に確認していれば、或いは調理法を調べていたならば、避けられた惨事はどれだけあっただろうか。


「何度も言っているが、店屋物で構わない」

「不経済ですので。それにこれは私を受付嬢にしてくれたお礼なんですよ」


 不満はあるが、不経済だと言われては強気には出られない。スポンサーが痺れを切らして出資の打ち切りを仄めかし始めており、雑費を切り詰める必要に迫られているのは事実なのだから。

 背筋が凍るような殺気を迸らせながら科学者に食事を促す助手の笑顔は、今まさにモニターに映し出されている萬冒険者管理処の受付嬢に酷似していた。




「被験者はどうだ?」

「肉体は確保できていますので生命維持に問題はありませんが、精神は夢の中ですので何とも言えません」

「シナプスに異常があるのか?」

「解析自体はできていますが、記憶情報の映像化には時間がかかりますので」

「技術の限界を嘆くのは無意味だ。タイムラグによるトラブルの事例は報告されていない」

「今まではそうでしたが、今回は特殊なケースです。リアルタイムでの経過観察ができない状況で実験を続けて大丈夫なんですか?」


 αテストは比較的短時間の実験を繰り返していたこともあり、常時観察が必要とされる被験者はいなかった。しかし今回の被験者はαテストで登録された他者の身体データに記憶が上書きされてしまっている。何が起きても不思議ではなく、脳にどんな影響を及ぼすのかも予測がつかない。

 記憶は飽くまで主観だ。視覚情報を再現しても当人の視点でしか情報は得られず、被験者自身の姿が見えるわけではない。従って記憶を解析するだけでは被験者の監視はできず、仮に異変の徴候を察知できたとしても記憶された時点で過去の情報なのだ。タイムラグが命取りとなりかねない。

 本来ならばすぐに実験を中止してカウンセリングを施すべきだが、その要請はスポンサーの意向により却下された。科学者にとっては不慮の事故だが、スポンサーにとってはこの未知の事例こそが渇望し続けたサンプルだったのだ。

 かつて様々な憶測を生んだ幻のゲームの都市伝説。まことしやかに囁かれた噂の多くは荒唐無稽ではあったが、総てが的外れだったわけではない。その中には確かに『洗脳プログラム開発のための軍事プロジェクト』という噂が存在していたのだから。




 考えてみれば不自然な点はいくつもあった。被験者の最初の搬送先は都内の警察病院だ。そこは生半可な病院よりも設備が整っていたはずの総合病院だった。

 意識不明の患者は扱いが難しい。不用意に動かすと危険な場合があるというのに精密検査をせず、経過を見もせずに即時移送の判断を下すだろうか?

 何らかの事情で受け入れができなかったとしても、移送先がスポンサー傘下の病院になったのは偶然だろうか?


 一般常識として、家庭用のパソコンを外部操作した程度では深い催眠などかけられはしない。仮に成功したとしても短時間の意識混濁を引き起こせるか否かといったところだろう。搬送先がスポンサー系列の病院であればその時点で被験者を確保できるが、そんな偶然など滅多にあるものではない。大抵は被験者の移送が必要になる。

 身体に異常が無ければ脳の異常を疑うのが定石だ。対応できる病院は限られているのだから、移送先の病院が受け入れ準備をしている間に被験者が意識を取り戻すこともありえただろう。

 もしも搬送先で精密検査をしていれば。経過観察をしていれば。転院に手間取ったならば。電磁波過敏症の影響で催眠が深かったとしても、被験者が目覚める可能性は充分すぎるほどにあったのではないだろうか。そもそも被験者が救急搬送されることが必須条件なのだ。偶然が重なった結果とするのは無理がある。


 近年の警察病院は民間人も利用できるようになったために組織から距離を置いた印象があるが、元は警察関係者のみを診療していた施設だ。天下りや癒着などの繋がりが残っていても不思議ではない。組織ぐるみでの関与なのかはわからないが、恐らくスポンサーの意向に従う何者かの介入があったと考えるべきだろう。

 そうでなければ不自然なほどに迅速に、あまりにも都合よく処理されすぎていた。




 身柄を確保して肉体を管理している病院が全面的に協力しているのだから、被験者が自然に目覚めることなどありえない。研究が完了すれば実験の記憶を消して解放することもできるが、脳を酷使する実験をいつまでも続けられるわけがない。実験が長期に及べば脳が使い物にならなくなるだろう。

 恐らく被験者が無事に解放される可能性は皆無に近い。それを知りながら無差別実験を強行した科学者が被験者の身を案ずるのは筋違いというものだ。しかし、もしも被験者が自身の有用性を証明することができたならば。この実験に劇的な進展をもたらすことができたならば。或いは……。




「上からは継続を指示されている。大丈夫でなくとも続けなければならない」

「それは……そうなんですが……」

「大丈夫であってほしいとは思うが、前例が無ければ後手に回るしかない。我々が何をしても茶番にしかならないのだから総ては被験者次第だ。たしか日本ではこう言うのだろう?」


 胡蝶が嵐を起こせるか。それを確認する手段は存在しない。しかし明確に否定する根拠を示すこともできない。

 悪魔の証明とも称される人智を超越した領分。その答えは神のみぞ……。


「釈迦の手の上だ。御釈迦にならないように踊るしかない」


 ……仏のみぞ知る。


 <了>





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