7 刹那の夢とその目覚め
「──やぁやぁ、汰一クン。お疲れ〜」
その晩。
汰一が自室のベッドに横になった瞬間、彼の意識はあの暗闇空間へと移っていた。
そうなることは予想していた。何故なら……
また、あの"黒い獣"に襲われたのだから。
汰一の目の前では、この空間へ招集した張本人──柴崎が、緊張感のない様子でヒラヒラと手を振っている。
「青池神社までよく逃げてきたね、偉い偉い。おかげで今回も彩岐蝶梨を護ることができ……」
「答えろ」
……と。
汰一は柴崎の言葉を遮り、
「神に憑依された人間を助けるには、どうすればいい?」
鬼気迫る表情で、そう尋ねた。
汰一の中で、忠克に憑依した"堕ちた神"があの"獣"たちを放っていることは確信に変わっていた。
だから、それをどう救えば良いのかを一刻も早く聞き出したかったのだ。
「あの犬みたいな獣を全部倒せばいいのか? それとも、取り憑いた神を引き摺り出す方法があるのかよ? それは俺にもできることなのか? お前みたいな神じゃなきゃできないのか?」
「ちょっと汰一クン、落ち着いて」
「落ち着いてなんかいられるかよ! いいから答えろ! このままじゃ蝶梨だって危ないんだぞ?!」
「わかってるよ。彼女を護る話をするために、キミを呼んだんじゃないか」
興奮気味の汰一を、柴崎は落ち着いた声音で宥める。
そして、
「そんなに気になるのなら、先に教えておいてあげるよ。神に憑依された人間がどうなるのか」
腕を組み、語り始めた。
「結論から言うと……憑依された人間を救う方法はある」
「ほ、本当か?」
「うん。取り憑いている人間を特定し、神さまを引き摺り出せばね。でも、人格が残るか否かは、その時の侵蝕の程度次第かな」
「侵蝕の、程度?」
「一時的に身体を借りるくらいなら問題ないけど……もし神さまがその人間の意識を喰い尽くしてしまっていたら、神さまを身体から出したところでその人間の人格が戻ることはない。所謂、廃人になる」
『廃人』。
その言葉に、汰一は全身の力が抜けるのを感じる。
幼少期からの腐れ縁で、不運体質な自分をずっと見放さずにいてくれた、たった一人の親友。
その忠克が、廃人になるかもしれないなんて……
「……"堕ちた神"は、何のためにそんなことをするんだよ……?」
「言ったでしょ? 犯した罪に対する罰を受けるのが嫌で逃げているんだよ。人間の中に入ってしまえば簡単には見つからないからね」
「……神代町の神は、一体どんな罪を犯して逃げ回っているんだ?」
「まだ容疑をかけている段階ではあったんだけど、彼の場合は……」
はぁ、と。
柴崎は、ため息をつきながら、
「……人間に、恋をしちゃったっぽいんだよねぇ」
……なんて、思いがけない理由を宣うので。
汰一は眉間に皺を寄せ、こう聞き返す。
「…………は?」
「いやいや、神が人間にガチ恋するのは大罪なんだよ? だって、神さまがその気になれば人間なんて誑かし放題だからね。そうすると人間たちの蘭桂騰芳の営みを妨害することになるでしょ? どんなに愛し合っても、神さまとは子作りできないんだから」
「はぁ……」
「人間への恋は、神が神を殺すのと同じくらい重い罪として問われることもあるんだ。場合によっては最も厳しい刑に処される」
「それって……こないだ言ってた、"狩る神"になるってやつか?」
汰一は、先日柴崎から聞かされたことを思い出す。
重罪を犯した神は、神としての性質を失うことがある。
それを"堕ちた神"と呼び、人間を"護る神"ではなく"狩る神"──"禍津日神"に変えられるらしい。
そんな死神のような存在になることを恐れ、刑の執行から逃げようとする神が稀にいる、というのが先日の話だったわけだが……
汰一の問いかけに、しかし柴崎は首を横に振る。
「いいや、それよりもっと厳しい刑があるんだ。ボクたち神の世界で、極刑に当たるのは……」
柴崎は、一度言葉を止め……
汰一の瞳を、真っ直ぐに見つめると、
「──人間への転生だよ」
低い声で、そう言った。
その視線に、汰一は思わず喉を鳴らす。
「……神が、人間になるってことか?」
「そう。記憶も魂もリセットした状態で、人間として生まれ変わる」
「それが最も厳しい刑なのか? 地獄に落ちるとかじゃなく?」
「あはは。キミら人間が考えるような地獄なんて存在しないよ。だって……キミたちがいる此岸こそが、地獄みたいなモンだから」
「え……」
「っと、話が逸れちゃったね。とりあえずまとめると、神代町の神さまは人間に恋をした容疑をかけられ、刑の審議中に逃亡した。人間への恋は重罪で、良くて"禍津日神"化、最悪人間に転生させられるから、必死に逃げ回っている。身を潜めるため、人間に憑依している可能性が高い」
「…………」
「神さまを引き摺り出せば憑依された人間を救うことができるけど、既に人格を食い尽くされていたら手遅れ。これが、キミの質問に対する答えだよ。ここまでオーケー?」
淡々と言う柴崎に、汰一は俯く。
忠克が、廃人になるかもしれない。
そう考えると、怒りと恐怖で身体が震えるが……まだ手遅れだと決まったわけではない。
絶望している暇はない。蝶梨を護るためにも……今、やれることをやらなければ。
「……わかった。それで、俺はこれからどうすればいい?」
覚悟を決めたように顔を上げ、汰一は尋ねる。
柴崎は頷き、その視線を真剣な表情で受け止めると、
「うん。汰一クンには、これから……」
「…………」
「彩岐蝶梨と…………お祭りデートをしてほしいんだ」
……なんて。
くそ真面目な口調で、そんなことを言うので。
汰一は、口の端をピクピクと引き攣らせ、言う。
「…………あ゛?」
「いやーん。汰一クンこわーい」
「あのなぁ……こっちは真剣に悩んでんだよ。そういうふざけたノリはやめろ」
「違う違う、ふざけてないよ。次の休みに、ボクのホームである深水神社で夏祭りがあるんだ。そこに来てほしいの」
「だからなんでそうなる」
「ボクってば柴崎町と神代町、両方の平和を護っているでしょ? でもさすがに自分が祀られるお祭りの時には柴崎町へ帰らなきゃいけない。つまり……その日は、神代町を護る神がいなくなる」
「なっ……」
「厳密に言えば、お祭りが催される昼過ぎから夜にかけてだけどね。敵さんがキミたちを狙うには絶好のタイミングでしょ? だからボクの目の届く場所まで来てほしいって言ってんの」
釈然としない顔をする汰一に、柴崎は小さく笑う。
「今日襲ってきたワンちゃんたちの痕跡から、敵さんのことはだいたいわかった。ここから先は、神の領分だ」
「……やっぱり、"堕ちた神"を捕まえるには、人間じゃなく神の力が必要なんだな」
「そうなるね」
「……お前に、任せていいんだな?」
「もちろん。今まで協力してくれてありがとう。あとのことは任せて、キミは普通にお祭りを楽しみに来てよ」
「…………」
「手前味噌だけど、ウチの神社のお祭りはちょー賑やかで盛大なんだよ? 彼女も楽しんでくれると思うし……いい思い出になるよ、きっと」
……という、柴崎の言葉に。
汰一は、そこに込められた意味を悟り、唇を噛み締める。
そして、
「……わかった。蝶梨を、祭りに連れて行くよ」
息を吐きながら、そう答えた。
柴崎は満足げな様子で頷く。
「うんうん。楽しみにしてるよ、二人の浴衣姿」
「おい、誰も浴衣で行くなんて言ってないぞ。勝手に決めるな」
「えぇ〜? そんなこと言って、汰一クンだって見たいでしょ? 彼女の浴衣姿」
ぷくく、と笑う柴崎を、汰一はジロリと睨み付けるが……
悔しいことに、彼の脳が勝手に蝶梨の浴衣姿を想像してしまい……
「…………ぐぅ……っ」
「あはは。汰一クン、顔真っ赤」
「うるせぇ! 用が済んだなら早く帰せよ!!」
「はいはい。お望み通り帰してあげるから、ちゃんと休んでよね。キミ、最近ぜんぜん寝られてないでしょ?」
「う……」
「体調崩してお祭り行けないとか困るからね? 人間は身体を休めないとすぐ弱るんだから、寝る努力をしてよ」
「わ、わかったよ……」
「それじゃ週末、深水神社で待ってるから。よろしくね」
そう言って、手を振る柴崎の姿を最後に──
汰一の意識は、自室のベッドの上へと戻された。
* * * *
「──お祭り?」
翌日の放課後。
花壇の手入れをしながら、汰一は早速蝶梨に祭りの件を持ちかけた。
「あぁ。次の休みに、柴崎町の神社で夏祭りをやるらしいんだ。一緒に行かないか?」
汰一の誘いに、蝶梨は何度も頷いて、
「うん、行く。行きたい。楽しみ」
と、目をキラキラさせながら即答した。
その嬉しそうな顔に、汰一は堪えきれず笑みを溢す。
奇妙な野良犬に二回も襲われ、蝶梨も少なからず不安を抱えているはずだ。
外出することを忌避し、断られるのではと心配していたのだが……
もしかすると彼女は、想像以上に自分を信頼してくれているのかもしれない。
『絶対に蝶梨を護る』と伝えたあの言葉を、真っ直ぐに信じてくれているのかもしれない。
そう考えると、汰一は胸がぎゅっと締め付けられた。
そして……
『いい思い出になるよ、きっと』
……という、柴崎の言葉を思い出す。
汰一がカマイタチを与えられ、蝶梨を護ることになったのは、神代町の地主神がいなくなり神員が一時的に不足したからだ。
その、いなくなった神が……もう間もなく捕まろうとしている。
神界のルールを完全に理解したわけではないが、柴崎の話を聞く限り地主神として復帰するのは難しそうだ。
罪状が固まり、この町を護る神の空席が正式に決まったら、きっと新たな神が就任するのだろう。
そうしたら…… 汰一は、いよいよお役御免となる。
カマイタチを神に返し、ただの不運な男に戻るのだ。
カマイタチがいなければ、汰一は"厄"を呼び寄せるだけの危険な存在に過ぎない。
そんな自分が蝶梨の側にいるべきではないとわかっているし、"エンシ"を護る立場にある神たちが接触を許さないはずだ。
だからこそ、柴崎は『いい思い出になる』などと言ったのだろう。
この夏祭りが…………最後のデートになるかもしれないから。
それでもいいと、汰一は思った。
『ずっと一緒にいよう』と伝えた言葉に嘘はない。一生側にいたいと、今だって心の底から思っている。
だけど……
そんな願望混じりの言葉を口にしながら、この幸せな日々は不運な人生に訪れた刹那の夢なのだと、常に自分に言い聞かせてきた。
だから。
せめて最期は、たくさん笑って過ごしたい。
今、この瞬間の気持ちは嘘ではなかったのだと、彼女の記憶に、自分自身の心に刻みたい。
そして、その思い出を……死ぬまで大切にするのだ。
汰一は、蝶梨の無垢な瞳を見つめ返し、
「……あぁ。俺も、すごく楽しみだ」
そう、穏やかな声で言った。




