11 影を斬る疾風
電信柱を超えるほどの背丈に、丸々と太い胴体──
まるで達磨に手足が生えたような形の巨影が、こちらへゆっくりと近付いて来ていた。
「なっ……なんだよアレ!?」
後退りする汰一に、柴崎は暢気な声で答える。
「霊魂に魔が差したものだよ。此岸への未練が強く、邪念に支配されるとあんな風になる。悪霊化した、って言えばわかりやすいかな?」
「あ、悪霊……」
「そ。このくらい邪気を溜め込んだやつだと此岸に干渉する力も強いから、事故を引き起こしたり、近くにいる人間の情緒を乱したりする」
音はしないものの、ずしん、ずしんと聞こえて来そうな動きで、巨大な悪霊が近付いて来る。
「あいつ、ここ最近この辺りを彷徨っていたから、そろそろ"彩岐蝶梨"にちょっかい出しに来ると思っていたんだ。案の定、キミのにおいにつられてやって来たね」
「におい、って……俺そんなもの発してるのかよ?」
「うん。ほら、『辛気臭い』って言うじゃん?」
「それは雰囲気を表す言葉であって、実際のにおいでは……」
と、汰一が言いかけたところで。
巨大な悪霊──"影の達磨"が、汰一たちの存在に気付いたかのように一瞬動きを止めた。
直後、身体の上の方、頭部と見られる箇所に……
ギョロッとした大きな目玉が一つ、現れた。
光を持たない瞳に、濁った白目。
本能的に畏怖を抱くその眼に、汰一は竹刀を構え、額から汗を流す。
その目玉で見下ろしながら、"影の達磨"が丸太のように太い腕を汰一たちに向けた──その時。
汰一の背後から、疾風が吹き抜けた。
カマイタチだ。細長い身体を矢のように張り詰め、一直線に"達磨"の方へと飛んで行く。
そしてその太い腕に、大きな口で喰らいついた。
噛みちぎった箇所が大きく抉れる。
そのままシュルシュルと巻き付くように、"達磨"の腕を次々に喰っていく。
「す、すごい……」
「こんな大きな相手でも、カマイタチはしっかり処理してくれるよ。少し時間はかかるけどね」
目を見張る汰一に、柴崎が軽い口調で答える。
しかし喰い千切られているにも関わらず、"影の達磨"には怯むような様子すらない。
そして、腕に巻き付いたカマイタチを大きな単眼で見つめると……
突如、その腕をブンッ、と勢い良く振った。
振り落とされたカマイタチは、硬いアスファルトに叩き付けられ……「キュウッ」と、高い悲鳴を上げた。
汰一が思わず駆け寄ろうとするが、
「大丈夫だよ。あれくらいどうってことないから」
と、柴崎に制止される。
汰一が心配げに見つめる中、カマイタチは起き上がり、今度は反対側の腕を喰らい始めた。
しかし、しばらくするとまた同じように叩き落とされ……
その倒れ込んだ頭上に、"影の達磨"が巨大な足を振り上げる。
そして、そのまま。
カマイタチを、容赦なく踏み潰した。
「…………っ!!」
考えるより速く、汰一はカマイタチの元へと駆けていた。
「だから大丈夫だってー。危ないからこっちおいでー」
後ろから柴崎が呼び止めるが、汰一は戻らない。
「こんな小さいヤツが戦っているのに、黙って見てるなんて無理に決まってるだろ!!」
そう叫びながら、いまだカマイタチを踏みつけたままの"達磨"の足に竹刀を何度も打ち込む。
半透明で実態がないような姿をしているくせに、その太い足は強い弾力をもって竹刀を弾き返した。
効いている様子は全くない。それでも汰一は、ありったけの力を込めて竹刀を叩き込む。
「おいデカブツ! この足退けやがれ!!」
"達磨"は巨大な眼を何度か瞬かせてから、のっそりと足を上げた。
その下から、潰されてボロボロになったカマイタチが現れる。
痛々しい姿に言葉を失う汰一だが……背後に黒い影が落ちるのに気付き、振り返る。
すると"達磨"が、今度は汰一を踏み潰そうと足を振り上げていて……
「くっ……」
汰一はカマイタチの身体を抱き上げ、転がるように退避する。
間一髪、その直後に"達磨"の足が地面へと振り下ろされた。
カマイタチを抱えたまま距離を取り、汰一は竹刀を構える。
その姿を、"達磨"の禍々しい瞳がゆっくりと追いかける。
「おい柴崎! 黙って見てないでなんとかしろよ!!」
何もせず静観している神にそう叫ぶが、彼は相変わらず緊張感のない面持ちで腕を組み、
「……なーんか、面白いことが起きそうだねぇ」
……と、意味深長なことを言うので。
汰一が再び文句を言おうとした──刹那。
──ふわ……っ。
腕の中のカマイタチから風が起こり、汰一の前髪を揺らした。
驚いて見下ろすと、カマイタチの身体が発光と共にみるみる形を変え……
激しい旋風そのものに変化し、そのまま汰一の持つ竹刀へと取り憑いた。
轟々と音を立て、逆巻く風。
突如として轟風を纏った自身の竹刀を、汰一は唖然と見上げる。
しかしそうしている間にも、"影の達磨"はこちらへ迫っていた。
所々食いちぎられたままの腕を振り上げ、殴りかかろうとしてくる。
「…………っ!」
汰一は姿勢を低くし、振り下ろされる腕の下をくぐる。
そして、"達磨"の間合いへと素早く入り込み……
竹刀を、左後方へと振りかぶる。
……確か、『面抜き胴』って技だったはずだ。
と、たった一年で終わった剣道部での練習を思い出しながら。
"達磨"の胴を左から右へと、横薙ぎに斬りつけた。
瞬間。
──ズバァアッ!!
竹刀から白刃を模したような、鋭利な風が放たれる。
その風は"達磨"の身体を斬り裂くだけでなく、触れた断面を歪な形に抉っていく。
まるで、巨大な獣が荒々しく喰い千切るかのように。
"達磨"の身体は上下真っ二つに分断され……
上半身と下半身に分かれながら、音もなく崩れ落ちた。
「…………やった……のか……?」
無我夢中だった汰一は竹刀を構えたまま、倒れた"達磨"を見つめる。
その後ろから、ぱちぱちという緊張感のない拍手が響く。
「おぉー、すごい。式神を本物の神みたいに扱うなんて」
そう言いながら近付いて来る柴崎を、汰一はジトッとした目で振り返りながら、
「……この人でなしチャラ神が」
と、軽蔑たっぷりに言い放った。
しかし柴崎は、ひょいっと肩を竦めて、
「人じゃないしチャラくないもーん。それよりスゴイよ、汰一クン。まさかこんなものが見られるなんて思いもしなかった。まさに驚天動地」
「お前、本当に神なのか? 踏みつけられている小動物をよく放っておけるな」
「本来式神は"武器"の形に変化して力を発揮するんだけど、その変化は飼い主である神にしか起こせない。このカマイタチの飼い主は今失踪中だから、真の力を全然発揮できていないんだ。それを、人間であるキミがまるで武器みたいに使いこなすなんてね」
「おい、人の話を聞け。この冷血漢」
「とは言え、こいつも一端の式神だから、キミが手を出さずともこれくらいの悪霊ならちゃんと喰えていたんだけどね。傷だってすぐに癒えるし」
その言葉に、汰一が「え?」と聞き返すと……
竹刀を取り巻いていた風が離れ、シュルシュルと二、三回渦巻いてから、元の細長いカマイタチの姿に戻った。
汰一の腕にするりと巻き付くその身体には傷一つなく、美しい毛並みが靡いている。
「よかった、無事だったのか……」
「だから言ったでしょ? 大丈夫だって。仮にも神に認められた聖獣なんだから、あんな低級の霊魂になんか負けないよ」
「でも、後から癒えるってだけで痛いものは痛いんだろ? なら、やっぱり放っておけない」
「ふむ……式神をここまで手懐け、神に等しき御技を発揮するなんて……その優しさが起こした奇跡なのか。それとも」
柴崎は……
スッと細めた目で、汰一の瞳を覗き込み、
「──キミって、本当にただの人間? 本当に、"刈磨汰一"なの?」
と……
心の奥まで見透かすような、鋭い視線でそう問いかける。
しかし汰一は……それを真っ直ぐ見つめ返し、
「…………どういう意味だよ……?」
怯むことなく、聞き返した。
揺らぐことのないその瞳を、柴崎は暫し見つめてから……
ふっと笑みを浮かべ、引き下がる。
「ま、キミの素性については絶賛調査中だから、その内わかるかな」
「調査中?! 何を勝手に調べてるんだよ!」
「だって、その"厄"ホイホイな体質にしても絶対前世で何かあったと思うんだよねぇ。神とは言え全ての"魂の経歴"をすぐに見られるわけじゃないから、いま上に閲覧申請を出しているところなんだ」
「申請ってなんだよ! 聞けば聞くほど夢が壊れるな、神界のシステム!!」
「とにかく。かなり慮外千万な展開になっちゃったけど、ボクが言いたかったのは、『こんなにデカい相手でもカマイタチがちゃんと処理してくれるし、なんなら……」
……と、言いかけた直後。
斬り捨てたはずの"達磨"の上半身がむくりと起きがり、汰一へ向かって来る。
何が起きたか理解できず、汰一がただ立ち尽くしていると……
「……本当にヤバい時は、神が助けるから』」
柴崎の声と重なるように。
"達磨"の真下から、大量の水が湧き出した。
否、ただの水ではない。これは……
"達磨"よりさらに巨大な、蛇の頭を象った水だ。
その"水の蛇"が鋭い牙を光らせながら、"達磨"の身体を丸ごと飲み込む。
そのまま、倒れていた下半身の方も喰らうと……
大きな水飛沫と共に、地面の中へ潜るように消えていった。
どうやら今のが、柴崎の神としての力らしい。
両腕を袈裟の裾に入れ、どこか得意げな顔をする柴崎に、汰一は……
「……ンなすげー力あんなら全部自分でやれよ!!!!」
と、癪に触るドヤ顔に向けて、思いっきり怒鳴り付けた。
しかし柴崎は、「やれやれ」という表情で首を振り、
「確かにボクはちょー強くてかっこいい神さまだけど、さすがに二つの町を同時に護るのは厳しいんだよねぇ」
「本当に強くてかっこいい神なら人間の手なんか借りないと思うが?!」
「そういう弱みというか、抜け感があった方が逆にモテると思わない?」
「そういうのは抜け感じゃなく怠慢って言うんだよ!!」
息を荒らげ憤怒する汰一に、柴崎は「あはは」と笑う。
「なんにせよ、こうして彩岐蝶梨に迫る魔の手を祓うことができたんだし、結果オーライでしょ?」
「まぁ、それはそうだが……」
「言ったように、普通の霊魂はそれほど厄介じゃない。けど、さっきみたいなデカイ悪霊になると此岸にもちょっと影響が出る。今日、野球のボールが飛んできたのも、近くにでっかい悪霊がいたからなんだよ」
「なっ……」
「もっとも、キミがあの"エンシ"を護らなくてもちゃんとカマイタチが防いでいただろうけどね。キミは気負いせず、ただあの娘の側にさえいればそれでいいよ。もっとカマイタチを信用してほしい」
「それはわかったが、その度にカマイタチがあんな目に遭っているかと思うと、なんかな……」
「こんなのはまだ序の口だよ。ただの霊魂なら境界で処理できるけど、本当にヤバいのは"実体を持って此岸に現れるヤツ"だから」
「実体を持って、現れる……?」
「そ。ただの霊魂は、この"亡者たちの境界"を超えて此岸に行くことはできない。あくまでこの裏世界からちょっかいを出すだけなんだ。だから、生きている人間には火の玉も悪霊も見えないし、触れられない。けどもし、見えるし触れられる状態の妙な敵が現れたら……」
「現れたら……?」
喉を鳴らし尋ねる汰一を……
柴崎も、真剣な眼差しで見つめ返し、
「その時は…………今やったみたいに、キミがカマイタチと協力して倒すしかないかもね☆」
きゃぴ☆ とウインクし、舌を出すので。
汰一は脊椎反射的に、その頭に竹刀を振り下ろした。
「痛ぁ! ちょっと! 仮にもボク神さまだよ?! この罰当たり!!」
「うるせぇ。てへぺろ顔すんな。腹立つ」
「ひどっ。カマイタチにはあんなに優しいのになんでボクにはそんな感じなの?!」
「ムカつくからだよ」
「ストレートな悪口!!」
竹刀を喰らった頭を摩りながら、柴崎は拗ねたように口を尖らせる。
「もう、冗談に決まってんじゃん。実体持ったヤバいヤツが現れたら、さすがにボクが助けるから」
そう言って、柴崎は袈裟の胸元に手を入れ何かを取り出すと、それを「はい」と汰一に差し出した。
「……これは?」
「ボクの神社で売ってる御守りだよ。ピンチの時はこれを握ってボクを呼んで? 買ったらバス代より高いんだからね」
汰一は半信半疑な顔でそれを受け取る。
世界がモノクロなため色はわからないが、桜の刺繍が施された可愛らしい御守りだった。
しかし……
表面に書かれた文字に、汰一はさらに顔を顰める。
「…………なんで『安産祈願』なんだよ」
「えへ。余ってたから☆」
って、売れ残りを押し付けただけかよ!
と、ツッコむ気力すらも失せる。
本当に呼んだら来てくれるんだろうな……? と疑念を抱きつつ御守りを眺めると、裏面に神社の名前が書いてあった。
「…………ふかみず、じんじゃ……?」
「深水神社だよ。知らないの? 柴崎町にある結構立派な神社なんだけど」
「知らん」
「えーん、汰一クンが冷たい」
わざとらしい泣き真似をした後、柴崎は一歩下がり、
「……とにかく。キミは引き続き彩岐蝶梨の側にいてくれればそれでいいから。夜や学校がない日はボクが見守るし、何かあれば助けるからね」
そう言って、身体から白い光を放ち始める。
汰一は、渡された御守りをぎゅっと握って、
「もう行くのか?」
「うん。他にも行くところがあるから。ボクってば本当に忙しいんだよ?」
「わかったから、彩岐が危ない目に遭うようなことだけはないようにしてくれ」
「もちろん。それはボクたちに神とって、最も忌避すべきことだからね。それじゃあ、付き合ってくれてありがと。今後ともよろしく〜」
ひらひらと手を振り、笑みを浮かべながら。
柴崎は、光と共に消えた。
──その直後、汰一の視界に色が戻る。
腕に巻き付いていたはずのカマイタチは見えなくなったが……
手のひらの中には、朱色の『安産祈願守り』が残っていた。
スマホで時刻を確認すると、午前三時。
急いで帰れば、三時間は休めるか。
汰一は、朧月を見上げ……
"亡者たちの境界"で見た、この世ならざる者たちを思い出す。
あれが、長年頭を悩ませていた不運の元凶……
それを根絶する方法を見出せたのはいいが、今この瞬間もカマイタチが戦ってくれているかもしれないと考えると、やはり心が傷んだ。
……いや、これは自分のためだけじゃない。
彩岐を護ることにも繋がるんだ。
だから……
彼女を護るためならば、他にどんな犠牲を払おうとも利用しなければ。
汰一は竹刀をケースにしまい、自転車に跨る。
そして最後にもう一度、『彩岐道場』を振り返る。
彼女は今頃、眠っているだろう。
その安らかな眠りを護れたと思うと、自分が眠れないことなど気にならなかった。
また明日、あの花壇で会えるといいな……
……と、考えたところで。
思い出す。
「…………彩岐の『癖』のこと、柴崎に聞くの忘れてた……」
あの妙に艶っぽい反応が記憶に蘇り、困ったように息を吐いてから。
汰一は自宅を目指し、ペダルを漕ぎ始めた。