10 モノクロの境界
柴崎の強制招集により終点まで寝過ごすハメになった汰一は、再びバスに乗り、遅めの帰宅を果たした。
母親から小言を言われたが、「学校に残って勉強していた」と言い訳し、なんとか難を逃れた。
そうして夕飯を食べ、風呂に入り、自室へ戻ると……
汰一は、部屋の隅に立てかけていたあるものを手に取る。
それは中学時代、剣道部だった時に使っていた──否、正確には使うはずだった竹刀だ。
ケースのファスナーを開け取り出したそれは……先端がぼっきりと折れている。
汰一が中学二年になったばかりの頃。
部活見学に来た新入生に良いところを見せようと躍起になった一人の先輩が、練習相手に汰一を指名した。
中三ながらに大人顔負けの体格をした先輩で、大会で何度も優勝している実力の持ち主だった。
もはやサンドバックのような形で、汰一は一方的に打ち込まれ……
尻餅をついた途端に、自分の竹刀を折ってしまった。
そんな汰一を先輩は「情けない」と叱責しつつ、新入生に向けて得意げな顔をして見せた。
あの時のドヤ顔は、今でも汰一の目に焼き付いている。
元々、己の身に降りかかる不運に負けないようにと、心身共に強くなれそうな剣道部に入部したのだが……
先輩のそのドヤ顔を見て、汰一は『強さ』とは何なのかわからなくなってしまった。
確かに、『強い』の対義語は『弱い』だ。
弱者に勝つということは、すなわち強者であるということ。小学生でもわかる方程式だ。
だが……
弱者を打ち負かし、力を誇示することが、『本当の強さ』なのだろうか?
釈然としない気持ちを抱えたまま、汰一は親に頭を下げ小遣いを前借りし、新しい竹刀を買いに出かけた。
そして、その帰り道。
駅のホームに向かう階段で、何者かに突き飛ばされ、転がり落ち……
買ったばかりの竹刀を、また折ってしまったのだ。
しかし、その後に起きた出来事は、汰一にとって特別なものとなった。
『本当の強さ』を知る"きっかけ"があったのだ。
そうして、どこか吹っ切れたような気持ちで、彼は剣道部を辞めた。
その出来事を忘れぬよう、彼は今も折れた竹刀を大切に保管している。
「………………」
数年ぶりに取り出した竹刀を、汰一はそっと撫でる。
先端は折れているが、補強すれば武器として使えないこともない。
柴崎は言っていた。
丑三つ刻、『彩岐道場』の前に、いい相手が現れると。
それは、"カマイタチの力を発揮するのにいい相手"、という意味だろう。
つまりは……
それだけ危険な"厄"が現れる、ということ。
自分が戦う必要などないのかもしれないが、彼女の家にそんなものが迫っているというのに、手ぶらで行くなんて考えられなかった。
だから汰一は、折れた竹刀にガムテープを巻き、できる限りの補強をして──
約束の刻を、静かに待った。
* * * *
蝶梨の自宅である『彩岐道場』の住所は、ネット検索ですぐにヒットした。
汰一の家から自転車で三十分ほどの距離にある場所だ。
午前一時半。
家族が寝静まっていることを確認し、汰一はそっと家を出た。
肩には、竹刀を入れたケースを背負っている。
そのまま、母親が使っているママチャリに跨り……
待ち合わせの地である『彩岐道場』へと向かった。
六月と言えど、夜の空気はまだ少し冷たく感じられた。
満月に薄雲がかかった、朧月夜だ。住宅街には車の通りもほとんどなく、街灯だけがアスファルトを点々と照らしている。
少し前の汰一なら、こんな風に深夜に無断外出などしようものなら、自転車がパンクしたり巡回中の警察官に補導されたりと、不運な理由から速攻で親にバレていただろう。
しかしカマイタチがいるお陰なのか、拍子抜けするくらいスムーズに『彩岐道場』へと辿り着くことができた。
キッ、とブレーキ音を立て、汰一は自転車を停める。
そして……
目の前に佇む巨大な門構えに、息を飲んだ。
年季を感じさせる、重厚な木製の門。
傍らには『彩岐道場』と大きな看板が掲げられている。
その門の左右から敷地を囲う白い土壁がずうっと伸びており、どこまで続いているのか端が見えない程である。
壁の向こう側にはよく手入れされた木々が生い茂り、暗闇の中ぼんやりと見える住居と思しき建物は、瓦屋根だけで如何に立派なのかが見て取れる。
これが、彩岐蝶梨の生家。
なんと荘厳な佇まいなのだろう。
道場とは聞いていたが、想像以上に純和風な豪邸を目の当たりにし、汰一は呆然とする。
これは……下手したら学校の中庭なんかよりずっと立派な庭園があるのではないか?
などと考えていると。
突然、辺りが暗くなった。
ただでさえ夜の闇に包まれていた景色が、さらに明るさを失う。
……いや、違う。これは……
世界から、"色"がなくなったのだ。
突如としてモノクロになった視界に、しかし汰一は落ち着いて自転車を降り、背中のケースから竹刀を取り出す。
すると、
「あらら。そんなもの持ってきたの?」
という、覚えのありまくる声が聞こえて来る。
振り返ると案の定……そこには、柴崎が立っていた。
あの暗闇空間ではなく、現実の世界で相見えるのはこれが初めてだ。
「こんばんは。いい月夜だね。時間通りに来てくれてありがと」
にこっと微笑を浮かべ言うが、汰一はギロリと睨み返し……
ずいっ、と手を前に差し出して、一言。
「バス代を請求する」
「へ?」
「お前のせいで余計に払うハメになっただろ。二二〇円請求する」
「えー、いいじゃん二二〇円くらい。こっちは神さまの使いである式神を無料で貸してあげてるんだよ?」
「そもそもお前の式神じゃないし、お前がやるべき仕事を肩代わりしてやっているんだから給与をもらいたいくらいなんだが」
「ぶー。汰一クンの守銭奴。銭ゲバ。有財餓鬼」
「誰がウザいガキだ」
「違うよ、金にがめついって意味ー」
「どっちにしろ悪口じゃねーか。まぁいい。請求は後でするとして……」
……と、汰一はあらためて周囲を見回し、
「……ここは、何処なんだ?」
モノクロに変わった世界について、尋ねる。
同じ『彩岐道場』の前ではあるが、先ほどまでの色付きの世界とは明らかに空気が違っていた。
柴崎は、腕を組むように袈裟の裾に手を通しながら、
「キミたちのいる此岸から少しだけズレた世界──"亡者たちの境界"だよ」
そう答えた。
それに、汰一が聞き返そうとするが、
「例えば、ほら。キミの後ろ」
指を差しながら柴崎が言うので。
汰一はくるっと振り返る。と……
目の前を、色のない火の玉のようなものが、ゆらりと通過した。
「…………っ?!」
声にならない悲鳴を上げ、後退りする汰一。
すると、その直後。
──ぶわっ!!
汰一の首から風が巻き起こり、細長い獣が現れた。
"厄"を喰らう式神──カマイタチである。
……って、まじで首に巻き付いていたのかよ!!
そうツッコむより疾く、カマイタチは蛇のように身体をうねらせ飛んで行き……
ばかっ、と大きな口を開けて。
火の玉を、丸飲みした。
ツンとした小さな鼻先からは想像できないサイズの口と、蟒蛇のような捕食の仕方に、汰一は絶句する。
そうしている間にもまた新たな火の玉が現れ、その直後にカマイタチが捕食し、また別の火の玉が出現したかと思えばそれも丸飲みし……
と、間髪入れない入れ食い状態に、汰一はごくっと喉を鳴らし、
「これは…………どういうことだ?」
振り絞るように、柴崎に尋ねた。
その表情に、柴崎は楽しげに笑う。
「これが今日、キミの周りで起こっていたことだよ。この火の玉こそ不運を引き起こす"厄"の姿。死してなお此岸に留まろうと足掻く、亡者の魂だ」
「た、たましい?」
「そ。言ったでしょ? キミの不運は幽霊の八つ当たりが原因だって。その霊魂を式神が喰らうことで、強制的に来世へと送られる。こんな風にカマイタチが動いてくれているから安心してね、ってことをキミに見せたかったんだ」
だから、"この世ならざるものたち"が見える境界へ汰一を招いた、ということらしい。
にしても……本当に、次から次へと火の玉が湧いて出てくる。
これも全て、自分が引き寄せているのだろうか?
柴崎に揶揄された『ホイホイ』という言葉にも、悔しいが頷けてしまう。
こんな頻度で幽霊にちょっかい出されれば、そりゃ不運な目にも遭うわけだ。
いまだ霊魂を喰らい続けるカマイタチを見つめ、汰一は竹刀を握る手に力を込める。
「……この幽霊たちが、お前の言っていた"いい相手"なのか?」
それに、柴崎は首を横に振る。
「もちろん違う。これは軽いデモンストレーションだよ。こういう小さな霊魂は此岸に働きかける力が弱いから、悪さしてもせいぜいひどい寝癖が付くとか、食べかけのアイスを落とすとか、その程度の不運で済む。でも……」
……と、そこで。
柴崎はゆっくりと振り返り……朧月が浮かぶ空を見上げ、
「……あれくらいのサイズになると、怪我とかしちゃうかもね」
その言葉と視線につられるように、汰一も目線を上にやる──と。
月明かりが、黒い靄のようなものに遮られた。
目を凝らすと、そこに現れたのは……
巨大な、異形の影だった。




