職務質問は悪の芽を摘むが、時に水を与える
男の目には、怒りの色が見える。涙を纏い、あと一押ししたら表面張力も決壊しそうだ。
怒りは心を蝕み、感情をコントロールすることを忘れ、今にも叫びだしそうだった。
そんな感情を生んだのは一体何なのか。
遡ればそれは、職務質問だったのだろうか…
1、職務質問の始まり
東京の繁華街は春の夕陽に染まり、ビルの窓は橙色に反射している。都会の雑踏は、老若男女、どこに向かっているのか分からないが黙々と歩いている。どこか無機質な絵のようだ。
そんな中、パトカーから警察官が足早に降りて、20代と思われる男性2人組に声を掛けた。
「こんばんわ。特別警戒中です。ちょっとご協力いただけますか?」
警察官が優しく声を掛ける。繁華街では、よくある光景である。口角の上がった優しい笑顔の警察官。その目の奥は笑っていないように見える。
「な、なんかありました?」
少し驚いたように男性は返答した。
「何、何?俺ら怪しくないですよ」
もう1人の男性は少し笑みを浮かべ返答した。
「いいえ。そういう訳ではないんですよ。最近、危ない物とか持ってる人とかが多いから、こうやって声かけさせてもらってるんですよ。」
口調は柔らかだが、やはり警察官の目は笑っていない。
「今日は、お仕事ですか?」
「今日は休みで、彼と呑みに行くところで…」
「そうですか。申し訳ないですね。呑みに行く所を引き止めてしまって。ちょっと持ち物だけ確認させてもらってもいいですか?」
2人の男は少し怪訝な表情で顔を見合わせた。
警察官の口角は、更に上がり、漆黒の黒目は深く底の見えない穴のように不気味で、2人の男性は寒気を感じた。
日没に近づくにつれて、辺りを影が覆っていく中、職務質問が始まった。
2、青年、石田は臆病ではない
俺は何も怪しい物は持っていない。そう、坦々と持ち物を見せれば5分で開放されるんだから。
石田には、やましい事など何もないのだ。今までもそうやって生きてきて、問題は全く無かった。しかし、問題は隣に立つ友人の村上なのだ。村上とは小学生から一緒に地元で育った。村上は就職で東京に引越したが、今も良く会う親友だ。村上は気さくな男で、少しヤンチャな所もあるが、友人を大切にする男。そう、きっと今回も何事もなく過ぎるに違いない。
石田は、見た目も普通の青年であり、服装もデニムのパンツに、無地のアウター、皮の肩掛け鞄。大学生にも見えなくもない。どこにでも居る普通の若者だ。石田は、職務質問を受けるのは初めての体験だった。その為、緊張していた。その緊張を隠すかのように、不自然な笑みを浮かべていた。
一方、村上は高身長で肩幅広く立派な体躯。地味なパーカーに派手は髪の色、ピアスやリングも目立つ。知人で無ければ近づき難い雰囲気はある。
石田は、きっと村上の見た目で、職務質問されたと思った。石田から見ると、村上は普段通りに見える。焦ってもいない。きっと職務質問などは、よく受けて慣れているのだろう。そんな村上を心強く思い、何があっても村上との友情は揺らぐ事は無い。その前に何事もないと自分に言い聞かせ、心を落ち着かせるのだった。
そう、石田は村上には知られたくない事があるのだ。
「持ち物ですか?僕はこの鞄だけです」鞄の紐を持ちながら、弱々しく言った。声が震えているように感じたのは自分だけか?それとも警察官にも震えて聞こえているのか?焦っている様子を村上に知られてしまうのではないかと、恥ずかしくなった。
村上は、携帯と財布しか持っていないと言う。
「では、ちょっと鞄から良いですかね。開いてもらっていいですか?」
「あ・はい」石田は鞄を開いて見せた。中身は、ペットボトルの飲み物と、タオル、イヤホン、のど飴、ポケットティッシュ等が入っている。
警察官は、鞄の中を覗き込み、おもむろに手を鞄に入れた。
「ご自宅はこの辺ですか?」
警察官が鞄の中を物色しながら尋ねた。
「いえ、千葉です」
「千葉からですか。遠かったでしょう?」
「まぁ、そこそこ…」
「私も千葉県出身なんですよ。外房なんで遠いんですけどね。どちらですか?」
「私は千葉市です。稲毛あたりなんでそんなに遠くはないんですよ」
「このポーチの中も見て良いですかね?」
石田の全身に電気が走ったように震えた。鞄の底に入れたポーチだけは、どうしても見られたくない。
「え・そのポーチは…ちょっと事情があって…」
警察官は、ポーチを摘み、顔を上げて漆黒の眼で石田を見た。
「見られちゃいけない物でも入ってるんですか?」
「いや、見られちゃいけないというか、その、あまり人に見せたくないというか…プライベートな物というか…」
警察官の漆黒の眼が更に黒く深く石田を覗き込んだ。
「見せてもらわないと、危ないものかもしれないから確認しないと」
「いや、でもこんな街中でプライベートを見せたくないというか…」
焦りの表情の石田。春の夕方はまだ寒いのだが、額には汗を滲ませた。
その表情を見た村上が真剣な表情で
「何?何かやばいの持ってるの?」
「いや、そうじゃないけど、ちょっと見られたくないっていうか…」
不穏な空気を感じてか、職責のためか、パトカーに居たもう1人の巨体の警察官も近づいて来た。石田には、その警察官の全身が禍々しく、黒々としたオーラに覆われているように見えた。石田の足は小さく震えていた。
「どうしたの?」巨体の警察官が尋ねた。
「こちらの男性がポーチの中は見せたくないって言うんですよ」
巨体警察官は石田を見下ろした。石田は小さく震え巨体警察官の顔を横目でチラっと見た。恐ろしい。まるで金剛力士像に睨まれている感じがした。しかし、実際は普通の朗らかな表情の中年である。警察官から感じる圧力と恐怖から、逃れたいという心情が石田の脳をフル回転させ結論を出した。一つ大きく深呼吸すると、身体の震えは収まり、表情も大日如来像のように穏やかになった。石田は顔を上げた。
「わかりました。ポーチを開けていいですよ」
「…おい。石田。大丈夫か?なんか遠く見てない?」
村上が石田の肩に軽く手を乗せ揺すった。
「ああ。大丈夫さ。俺は何も、やましい物は持ってないし」
石田は村上の方を顔を向けて穏やかに微笑んだ。
「あ…そう。悟り開いたみたいな顔してるけど…」
「大丈夫さ。何も問題ない」
警察官は漆黒の眼を大きく開き、口角を更に上げていた。
「じゃ、開けますよ。一緒に確認してくださいね」
ポーチのチャックに警察官の手が掛かりジリジリと音を上げて開かれていく。警察官2人と村上は固唾を呑んだ。中には、何やら布のような物が入っている。警察官は首を傾げる。布のような物を摘み上げると、それはレースが綺麗に並んだスカイブルーの女性物の下着だった。
職務質問など日常茶飯事だと言わんばかりに、繁華街の人の流れは止まる事はなく流れていった。
3、警察官、菅原は夢見がち
警察官になる。そして警察密着ドキュメントに出てキャッチーなタイトルをつけてもらうのが子供の頃からの夢だ。
漆黒の黒目を持つ菅原少年は夢と希望に輝いていた。そして、警察官になったのだ。彼の夢は、まだ叶っていない。警察密着ドキュメント、そしてキャッチーなタイトル。その夢に手が届く地位は得た。どんなタイトルがいいか、よく妄想する。刑事になって「悪を見通す漆黒の眼 菅原デカ」とか。しかし、今は自動車警ら隊に属しているので「悪者は見逃さないホークアイ菅原」などがいいかな、などと日々妄想しているのだ。
そして、本日、巨漢の先輩警察官、太田の運転で共に街に警らに出たのだ。太田はベテランで何人もの悪人を逮捕してきた。菅原はそんな太田から多くを学ぶべく繁華街を警らしていた。
「菅原は警察密着ドキュメント出たいんでしょ?」
「はい。子供の頃からの夢なんですよ」
「じゃ、今日は菅原に任せてみようかな。ちょっと怪しそうなの居たら行ってみようか」
「了解です!」
菅原は色めき立ち、漆黒の眼は一段と黒く深くなった。
菅原は勤務2年目の若い警察官。勿論、何度も逮捕現場には立ち会っている。しかし、いつもは先輩が誰に職務質問をするかを決めていたが、初めて自分で決める事が許されたのが嬉しかったのだ。
街中に目を凝らす菅原。しかし、意気込んだ気合が空回りしているのか、なかなか見つからない。
「見つからないって事は、街は平和か。または悪人を見逃しているってことだな。」
太田の言葉がプレッシャーになったのか、奥歯を噛み締めた。そんな中、パトカーを見て少し歩調を変えたように見えた男がいた。
「太田先輩。あの男はどうですか?」
「ちょっと動き変だった気もするかな?行ってみる?悪人じゃなくてもいいんだから行ってみようか」
「了解しました!」
菅原は自ら主導した職務質問対象者に興奮し、将来の夢に一歩近づく気がしていた。その感情は口角を引き上げ、黒目は更に、更に黒く深くなるのだった。
自分の悪人を見分ける目は正しいと、自分に言い聞かせ鼓舞し、ドアを開けて、対象者に近づき声を掛けた。対象者が、何か危ない薬とか、怪しいクレジットカードとかを持っている事を期待して。自分の手で逮捕して夢に近づく為に。
しかし、何故か男の持ち物からは、パンディが出てきた。これは犯罪なのかな?漆黒の眼をパチパチと瞬かせた。
4、青年 石田、覚醒
「これ、女性物だよね?どうしたのこれ?」
菅原は石田の顔を見て、首を傾げながら問うた。
「ええ、そうです。私のです」
石田は冷静に回答した。その顔は微笑に満ちていた。
「え・石田…お前…何、何言ってんの?」
村上は眼球が飛び出る位、大きく目を開き驚愕した。
菅原は太田の顔をチラッと見て、太田は小さく頷いた。いつも通り職務質問を続行せよとのアイコンタクトだ。窃盗の可能性があるからだ。
「でも女性物だよ。ストッキングも入ってるけど、どこかから盗んできたんじゃないの?」
「なにをおっしゃるウサギさん。私の私物と言ってるじゃありませんか」
「いや、でもこれ着けるの?」
「もちろんですとも。何か問題がありますか?」
「それは、そういった人も居るかもしれないけど。私物って言われても…」
石田は微笑み、頷き、全てを悟った仏のように穏やかに話し始める。
「都知事も言ってますが、多様性を認め合う時代ですよ。ジェンダーレスですよ。どんな下着を履こうが、他人に批判される事はあってはならないんですよ」
菅原は悩んだ。確かに石田の言うとおり時代は変化している。自分が、ずいぶんと時代遅れなのではないかと。間違った対応をしているのではないかと疑問に思った。菅原は漆黒の黒目で先輩の太田を見た。太田は軽く頷くだけだった。菅原は怒られた時の飼い犬みたいに寂しそうな表情をした。あんなに上がっていた口角も下がりきっていた。
「盗んだものじゃないって証拠があれば問題ないんですが…」
「そうでしょう。そうでしょう。わかっていますよ。では、少々お待ちください」
石田はアウターを脱ぎ、下のネルシャツのボタンを外していった。村上と警察官2人はただ眺めている。半分程、ボタンを取ると両手でネルシャツの胸元を掴むと観音開きに開いた。
「お・おおおい!」
村上が声を上げた。警察官2人も目を剥いた。石田の肌蹴た胸元にはブラジャーが装着してあった。
「わかっている。わかっているよ。変だってことはね。でもそういう時代じゃないんだよ。村上も一度つけてみたらわかるはずだ。結構しっくり来るんだよ」
「お・おお。そうか。俺は着けないけど、お前の意見は尊重するよ」
石田は警察官に向かって、さあ、見るがいいと言わんばかりに胸元をみせた。
「これで、その女性用下着は私のものと理解してもらえたでしょう」
菅原と太田は、再度顔を見ながらアイコンタクトをする。太田は、まだまだ続けろと言っているようだ。菅原は太田からのプレッシャーと、意外な展開に焦り始めていた。額には、うっすらと汗が滲んでいた。タダならぬ雰囲気に、気がついた人流は時折、足を止めて職務質問の様子を伺っている。それが菅原には更なるプレッシャーとなった。
「し、しかし、ポーチに入っていたのはパンディとストッキングですよ。ブラジャーじゃなくて…」
「わかりました。」
石田は間髪入れずに返答し、ジーンズのチャックを開け勢い良くジーンズを膝まで下ろした。そこには、女性用のパンディとストッキングをガーターベルトで止めた姿だった。石田は風を受けた帆のように胸を張り堂々としていた。野次馬からは「お~」と歓声が上がった。
「わかりました!もう結構です。ジーンズ上げてください」
「石田。もういいよ。ズボン上げよう」
菅原は観念した。太田も腕組して下を向いている。村上も焦っていたが野次馬から石田が見えないように自分の身体で隠した。
「疑ってしまって申し訳ありません。私が不勉強のせいでご迷惑おかけしました。」
菅原の目には本当の謝罪の意思が見えた。しかし、菅原は一つ疑問を持った。なぜ、既に女性用下着を装着しているのに、更に鞄に入れているのか?質問してもいいものだろうか。
「いいんですよ。私のような人もいると知ってもらえる良い機会でした。」
石田は依然として仏のような顔をしている。菅原は、こんな仏のような人は居ないと、思い切って疑問をぶつけた。
「後学の為に、一つご質問してもよろしいですか?」
「はい。どうぞ」
「何故、既に装着しているのに、鞄に入れて持ち歩いていたのですか?」
「それはですね、もし泊まりになった時にブラは良いけど、パンツは変えたいじゃないですか。男性用下着でもそうでしょ?」
「な、なるほど。勉強になりました」
菅原は否応無く納得した。菅原の漆黒の黒目、以前のように恐々とはしていなかった。
「俺はお前の趣向を批判しないよ。地元の友達にも今日の事は黙っておくし」
「村上、お前は本当にいい奴だな。」
石田は改めて村上との友情を認識した。
その10分後、村上は財布に入れた大麻が見つかりあっさり逮捕された。職務質問が始まる前の、あの余裕は何だったのか。純粋無垢の少年だった村上を変えた東京は本当に恐ろしい所だと認識したのである。
5、光と闇の紙一重
石田は幼少の時から、ブリーフ派だ。10歳頃に小学校でトランクスが流行ったが、石田は決してトランクスを履かなかった。一物の収まりが悪いからだ。高校の頃、ビキニブリーフにしてからは密着感が更に上がり、下着には満足していた。高校卒業後、就職してから自分で使える金が増えたことにより、更に上を求め様々な下着を試した、一時期は褌を愛用していたが、手間が掛かる事で新たな下着を求めた。
ある日、ネットで女性用下着を愛用している女装癖の男性が、男性用下着にはない密着感を求めると、自ずと女性用下着に行き着くという持論を展開していた。石田は少し恥ずかしかったが、ネット注文で女性用下着を購入した。恐る恐る女性用下着を着用した石田は、えも知らぬ衝撃を受けた。セットで買ったブラジャーも誂えたかのように、しっくりきた。その後は女性用下着を愛用するようになったのだ。
あの職務質問の後、野次馬が撮ったであろう写真がネットで流出した。「東京に光臨した変態」やら「警官vs変態」など言いたい放題だ。石田は怒った。しかし、場所は東京だし、夜で顔も認識できない位の写真だったので地元の友人等には、女性用下着を愛用している事はばれていない。
その後、村上が釈放された。その日のうちに地元に、石田の女性用下着愛用の噂は広まった。
村上よ。お前しかいないんだよ。この噂を広げれるのは。石田は村上に電話した。
「お前言ったろう?」
「え・何?」
「下着の事」
「え、1人にしか言ってないよ」
「言ってるじゃねえか!」
「内緒にしといてって言っておいたんだけどなぁ」
「言わないって言ったじゃん」
「ごめん。テヘペロ」
「おまえゆるさん!」
石田は背骨が折れるんじゃないかと思う位、仰け反り、怒り、悔しさ、様々な感情をもって涙が溢れていた。この感情を何処に持っていけば良いのか解らず心は少しづつダークサイドに近づくのだった。
しかし、石田と村上の友情は死ぬまで無くなることはないだろう。たぶん…
後日、石田は海岸で、海を眺めていた。下着問題が地元で広まり、何故か石田の職場の飲食店にも広まったのだ。石田は今後どうしようか、あの日のようにカミングアウトしてしまうか。それとも地元を捨てて北に逃げるか。そもそも俗世を捨てて出家しようか等と悩んでいた。心は荒み、世の中の全てが嫌になっていた。
そんな事を悶々と悩んでいると、やがて陽は暮れて東京湾を橙色に染めていく。忘れることのない、あの日、繁華街のビルを橙色にそめたように。
END