Respect
日輪と衝撃の再会を果たした翌日、千歳は紗奈と一緒に彼女の祖父母が住む中部の田舎に向かうため母に見送られながら都内の駅から新幹線に乗った。いつも利用している紫ヶ丘の駅は第二次龍災の影響でとても電車が運行できる状態になく、楓の運転する車でここまで送ってもらったのである。
乗り換えなどの移動も2回目となればスムーズで早朝に家を出た2人が中部の田舎にある椎名家に到着したのは昼を過ぎた頃、インターホンを鳴らして玄関に入ると使用人の芹奈が出迎えにやって来た。
「おかえりなさいませお2人共、長旅お疲れ様でした♪」
「ただいま、芹姉ちゃん」
「こんにちは、またお世話になります─────」
と、千歳の挨拶に他人行儀だと彼女はどこか寂しげな態度を見せた。
「礼儀正しいのはいい事ですけど、私たちにとっては坊ちゃんも家族みたいなものなんですから、もっと親しみのあるセリフを聞きたいですね〜」
「あ〜・・・えぇと、はい・・・た、ただいま?です・・・」
その言葉に芹奈の表情は一転、満足気な笑顔で和室の前に案内しておはぎを作ったからあとで食べに来てねと給仕へ戻り、襖を開けて中に入った2人を咲耶が煙管をふかしながら迎える。そして床の座布団に座った紗奈の"ただいま"という挨拶には安堵の表情で頷き、またうやうやしい挨拶の口上を述べた千歳から祖父母や有間のご隠居、境目町の古茶村長から預かっていた土産の品を受け取ると礼を言って長旅で疲れただろうと紗奈を先に部屋へ行かせた。
いま世間を騒がせている紫ヶ丘で起こった事の顛末を息子の巌から聞いたと、孫娘を救い守ってくれた事にあらためて礼を言いながら床に両手を突いた。しかし次の行動は瞬時に移動してきた千歳に言葉だけで十分だと引き止められ、自身の尊厳をも守ってくれたその敬意に言葉で謝意を伝える。
「千歳、これからも紗奈をよろしく頼むよ」
「はい、もちろんです─────」
それから和室を後にした千歳が部屋に荷物を置いて畳の上に寝そべり、天井を見上げているところに襖が開く。隙間から顔を覗かせた着物姿の葩子が以前と同じ状況にクスッと微笑みを浮かべ、身体を起こした千歳は傍に座った彼女の"おかえりなさいませ"という挨拶にお辞儀を返した。
「はい、またお世話に─────じゃなくて、ただいまです・・・」
「うん、よく言えました。『また間違えたらおはぎは抜き!』って芹奈さんが仰ってましたよ、お嬢様もお待ちですので行きましょうか」
夕飯の支度はある程度できているという使用人の彼女たちはおはぎを食べた後に千歳と紗奈を誘って外へ散策に出掛けた。まだまだ日は高くすれ違う村人と挨拶を交わして"今日も暑いですね"と、他愛もない世間話をしながら村を練り歩く。そんな帰り道、日が暮れていくにつれて山の影に沈んでいく夕日と普段なら喧しく感じる蝉の鳴き声に哀愁を感じ、傍を流れる川のせせらぎには心を癒された。
家に着いた頃には川釣りに行っていた公由も帰宅しており夕飯には焼き魚が食卓に並ぶ。そして明日の朝には山菜を採りに赴くと言って千歳と紗奈を山の散策に誘い2人も一緒に行くことになった。
翌朝、初めて魔獣を目撃したあの山にやって来ていた千歳は籠を背負いながら相変わらず険しい山道を歩く。とはいうものの雪も積もっておらず晴れ続きの天気で当時と比べれば断然歩きやすくはあった、だというのに先頭の公由との距離差が縮まらないどころか前を歩く紗奈にも追いつけない。
(紗奈ちゃん結構体力あるんだな・・・)
などと感心しながら立ち止まってひと息ついている間に前の2人を見失ってしまい、紗奈の名前を叫んでも声は森のざわめきにかき消された。まるで山そのものが意志を持っているかのような、異様な雰囲気に嫌な予感が過ぎった千歳のもとへひとつの人影が駆け寄ってくる。
「紗奈ちゃん!?」
「千歳くん!よかった〜おいてっちゃったかと思った・・・」
互いに安堵するも束の間、突如として周囲を濃い霧に覆われ、その中から巨大な黒い鹿が姿を現した。鹿の中でも世界最大種と言われているヘラジカ、テレビの映像でしか見た事はないが目の前にいるそれは明らかにその倍以上の大きさがあった。もしやと思い千歳が魔眼で見てみると体内に魔力が蠢いており、この森に漂流した異形が変異した魔獣なのだと認識する。
「ひっ─────!」
危うく悲鳴をあげるところであった紗奈の口を咄嗟に右手の掌で塞ぎ、"しーっ"と言いたげな口元に左手の人差し指を添える。コクコクと頷く彼女に傍を離れないように言って後ろへかばい、龍脈で秋水を錬成するが不思議な事に黒鹿の魔獣はこちらを睨んだまま動く気配がない。
見る者を圧倒するその巨躯とそれに見合った膨大な魔力、魔獣たちの領域であるこの山において1人ならばともかく紗奈を守りながらでは無事に切り抜けられる自信はなく、その上はぐれてしまった公由も捜索しなければならない。久方ぶりに訪れたこの危機、刀を抜いて臨戦態勢に入った千歳を見るや魔獣がビクッと身体を跳ねさせた。
「─────ん?」
全身を小刻みに震わせており、断じて武者震いといえるものではなかった。圧倒的な存在感を放つその風貌からは想像もつかない恐怖や絶望、なによりも凄まじい"生"への執念に塗れた眼差し、そして早鐘を打つような心臓の鼓動音に以前、公由から言われた言葉を思い出した千歳が刀を鞘に納め、構えも解いて"逃げろ"と眼差しで訴えかけると尚も魔獣は警戒しながら徐々にゆっくりと離れて最後にけたたましい鳴き声を辺りへ響かせて森の奥へと去って行った。
去り際の鳴き声には驚かされたが木霊の止む頃にはあれだけ喧しく感じていた森のざわめきも穏やかになり、晴れていく霧の中から騒ぎを聞きつけた公由が銃を手に大声で自分たちを呼びながら慌てて駆け付けてくる。
「紗奈!坊!無事か!?」
「はい、大丈夫です」
「怖かったぁ〜・・・」
2人の無事に安堵しながら怯えてしまっている紗奈に励ましの言葉を掛けた公由ははぐれている間になにがあったのかを千歳に訊ねた。するとここに巨大な黒い鹿の魔獣が現れ、それはこちらへなんの危害を加えることもなく森の奥へと去っていったと伝えられる。
「なるほど、そいつぁこの山のヌシだな。俺も遭遇した事はあるが・・・坊、お前さんなんで魔獣を逃がした?」
「それは・・・」
対峙した最中、あの魔獣からは異形の邪悪な気配を感じられず、むしろ純粋でどこか高貴な存在のように思えた。自然に生きる者の生命は自然に還るべきである。しかしそれは理屈での話、イザナミと継陽、星神との戦いを経て"生命"というものを考えるようになった千歳の心境に芽生えた感情はとてもシンプルなものだった。
「『なにも殺すことはないんじゃないか』って、そう思ったんです。自分でもよくわからないですけど・・・」
「・・・そうか、どういう経緯でお前さんの心境が変わったのかは俺にゃわからねぇ、けど忘れんな?それが自然への"敬意"っちゅうもんだからよ」
"敬意"─────その言葉を呟きながらあの魔獣に対して抱いていた感情の正体を知った千歳が"はい"と頷く。それからの山道は先程までとは比べものにならないほどに歩きやすく、遭遇した獣たちに遠くからではあるが鳴き声を掛けられる。山菜採りを手伝う中でよく熟れた果実も狩ることができ、この山から歓迎されてるのだと公由に言われた。
そして日が暮れはじめた頃、椎名家の屋敷へと帰宅するため山菜とキノコ、果実が入った背負い籠2つと腰籠をトラックの荷台に載せて3人は山を離れていった。道中、助手席で眠っている紗奈越しに窓から外を眺めていた千歳に公由が運転しながらなにか悩み事はないかと訊ね、なにやら言い淀む様子に年の功がある自分にいつでも相談しろと笑った。