Lost
廊下と窓の外から喧騒が聞こえはじめる朝方、目を覚ました千歳が向かいのベッドを見るとすでに千悟の姿はなくRAILには彼からの『お先に!』というメッセージが送られてきていた。小気味の良い骨の音を鳴らしながら身体を伸ばしているところにこの病院の看護婦長を務める千悟の母親、狭間 晶子がやって来て朝の気分を訊ねられ、まだちょっぴり筋肉痛が残っているが軋むような骨の痛みはすっかりなくなったと言って元気な様子を見せる。
「なら、この後すぐ退院で大丈夫そうだね。本当ならこういうのってうちの人とか医者が言うことなんだけど一昨日さ、紫ヶ丘から患者がわんさか搬送されてきて皆その対応に追われてるんだよ。うちの旦那も昨日の夜は帰りが遅くてねぇ・・・」
「・・・大変ですね・・・」
それはまるで結月大社にて聞いた伝承の再現、邪龍の撒き散らした瘴気は現代を生きる人間たちにとっても猛毒なのだとあらためて思い知る。そしてその中には亡くなってしまった人も少なからずはいるのだろうと、どこか後ろめたいような気持ちが表情に表れていた千歳の肩をバシバシと叩きながら晶子がその不安を吹き飛ばすかのようにニカッと笑った。
「退院するんだから、笑顔笑顔!」
「・・・はい、ありがとうございます」
そこへ迎えにやって来た母の楓と一緒に病室を出た千歳は退院手続きを済ませ、母が運転する車に乗り込んだ。帰り道を走る車の窓から見える景色は普段の町となんら変わりなく、かと思いきや紫ヶ丘に近づくにつれて自衛隊やら警官やらが立ち並び物々しい雰囲気を醸し出しており、聞けば正体不明の猛毒ガスが蔓延する紫ヶ丘への道路は全面的に封鎖されているのだとか。
「父さんは・・・もしかして紫ヶ丘?」
「そう、部下の人たちとか自衛隊も一緒にね、ガスマスクがどうとか言ってた気がするわね・・・」
自衛隊および特殊部隊が対応に当たっているらしいが今も尚、ガスマスク無しでは立ち入ることすらできないという惨状の中で戦っている父たちに千歳は敬意を抱き、やがて車は自宅に到着した。玄関の扉を開けてリビングに顔を出した千歳を紅葉と青葉が出迎え、"ただいま"という言葉にまるでタックルのように飛び着いた。その身に覚えのある衝撃に悲鳴を洩らしながら妹たちを庇って床に倒れ、その声を聞いて慌てて駆けつけた母が息子と娘たちに説教をした。
そして安静にするよう言いつけられた千歳は部屋のベッドに寝転んで深いため息をつき、休む間もなく立ち上がると窓をそっと開けて家族に気付かれないよう静かに窓枠を蹴って外に飛び出す。聖域で看取った若葉の最期を姉の日輪と月詠に伝えようと橘家に向かっているのだが、あまりにも非現実的なこの事実をどう話せばよいものか悩むうち彼女の自宅がある場所にたどり着く。しかし目に映ったのは若葉の自宅ではなく、長いあいだ手入れの施されていない雑草と野花が生い茂る空き地であった。
住所を間違えたのかと周囲を見渡してみるがそんなことはなく、思考を巡らせた末に感じた嫌な予感に千歳はスマホで青葉に電話を掛け、家にいるはずの兄からの電話に戸惑う彼女に若葉の事を訊ねてみた。
「あー!若葉ちゃんね─────誰?」
きょとんとした声色で紡がれるその言葉を聞いた瞬間、千歳は心身共に氷のような冷たい感覚に囚われた。
「えっと・・・俺が中学の時に入ってた剣道部の後輩でさ、同じクラスにいるでしょ?」
「それって上泉さんのこと?でもあの子って下の名前、"若葉"じゃなかった気がするなぁ。ちょっと待ってね・・・」
と、青葉が隣にいる紅葉にも聞いてみてくれたがクラスメイトが知らないのに知るわけがないとのこと。妹たちは幼い頃からイタズラ好きではあったが、このような悪趣味なことは絶対にしなかった。それから話は変わってキャプテン・ドラゴンの新作映画の公開日には一緒に観に行こうという妹からの誘いに千歳は快諾する。
「めずらしいね、青葉ちゃんキャプテン・ドラゴン好きだったっけ?」
「えー!?去年も会合の次の日、一緒に観に行ったじゃん!」
それはまぎれもなく自分が若葉と過ごした日の記憶、そしてたったいま直面している不自然な現象にようやく千歳は理解する。長門 結月が起こした奇跡の代償とは彼女自身の命だけではなく、橘 若葉という1人の女の子の存在そのものでもあったのだと。ゆえに彼女がこの世界にいた記録や記憶は抹消され、姉妹同然に親しかった妹たちも若葉のことを知らないのだ。
「おにぃ、外にいるなら早く帰ってきた方がいいよ?お母さん昼ご飯の準備してるから・・・」
「え?あ、あぁ・・・うん、わかった。ありがとう・・・」
通話が終わり、目の前の空き地を呆然と眺めながら自分だけが若葉を覚えているという残酷な現実と先祖たちから託された思いが心にのしかかる。深いため息が洩れ、思いに耽ける暇もなく早く家に帰らねばとその場を後にした千歳は自宅の前でふと紗奈に会いたいという衝動に駆られ、不躾かなとは思いながらも椎名家のインターホンを鳴らした。
「千歳、くん・・・?」
「っ・・・紗奈ちゃん・・・」
開いた扉から覗く彼女の顔には目元にクマができていて千歳はほんの一瞬、言葉を詰まらせた。その一方で紗奈も千歳のなにやら浮かない表情を見て思わず笑みが零れてしまう。
「私たち、2人とも元気ないね・・・」
「・・・うん、なんかいきなり来てごめん・・・」
「ううん、私も会いたかったし全然大丈夫。でも眠れてなくてクマができちゃってるの恥ずかしいな、前の千歳くんみたいで懐かしいけど・・・」
去年の夏にアメリカで龍脈の修行をする以前は目元にクマがあったなと思い出し、つられて笑う千歳に紗奈が"よかった"と呟くとふらっと倒れる。名前を叫びながら咄嗟に彼女の身体を支えた千歳は安堵のため息をつき、玄関からの物音を聞きつけて紗奈の父親である巌が慌てた様子でやってきた。
「あぁ、千歳くんか・・・すまないけど紗奈を部屋までお願いできるかな?」
「わかりました、じゃあちょっとお邪魔します・・・」
まだ筋肉痛が残っている身体に鞭を打って紗奈を抱きかかえ、階段を上った千歳は彼女を部屋のベッドに寝かせた。そして静かに部屋を出て階段を降り、巌がいるリビングへ顔を出す。
「すまないね、退院したばかりだったというのに・・・」
「いえ、全然大丈夫です」
「そうか・・・ちょっと話をしたいんだが、コーヒーは好きだったっけ?」
そう言って巌はテーブルの向かいに千歳を座らせ、どこかかしこまった態度を見て気楽にしてくれと苦笑いを浮かべながらカフェオレの注がれたマグカップを前に置く。そして話の内容というのは娘を救ってくれたお礼を言いたいとのことだった。
「まだ娘が妻のお腹の中にいた頃、厄災の子だと言われていたことは知っているか?」
「っ・・・いえ、はじめて聞きました」
一瞬、戸惑いながらも知らない素振りを見せる千歳に巌が当時の状況を語るが伊邪那岐から見せられていた真実と合致しており、此度の騒動において娘を救ってくれた千歳たちの活躍に感謝をすると共に友を頼ってこの土地に残った選択が正しかったのだと確信したと言ってテーブルに両手を着いた彼は深々と頭を下げる。
「え、おじさんなにを─────」
「キミが娘に抱いている想いは俺たち夫婦も認めている。だからこそ頼みたい、これからも末永く娘をよろしく頼む・・・!」
娘の幸せを願う父親としての切実な願いに驚き、戸惑いながらも答えはとっくに心の中にある。千歳は同じようにテーブルに両手を着き、深々とお辞儀をしてその答えを言葉にして伝えた。
「俺は必ず、紗奈ちゃんと添い遂げます─────!」
「・・・ありがとう」
そこへ息子が外に出ていることに気付いた母からの電話が掛かってきて千歳は電話越しに何度も頭を下げて謝りながらすぐに帰ると言って通話を切った。引き留めてしまったことを申し訳なく思った巌が隣の自宅まで送ろうかと提案するが、お気にせずとリビングを出たところに目を覚ました紗奈と出くわす。
「あ、千歳くん・・・ごめんね、私おとといからあんまり眠れてなくて・・・」
「謝らないで、ゆっくり寝てまた元気になったら2人で遊びに出掛けよう?もうなにも紗奈ちゃんが不安を感じることはないんだ・・・」
その言葉の意味を理解してなのか嬉しそうに頷く紗奈に"じゃあまた"と、千歳が玄関の扉を開いて椎名家を出る。部屋まで抱きかかえていた際にそれとなく魔眼で視てみたがもはやあの禍々しい気配はなく天力を身体に宿した普通の女の子となった彼女を守るため自分になにができるのかと自問してみても明確な答えは浮かばず、今はとにかく母にどう謝るべきかを考えながら自宅の扉に手を掛けた。