Guest
その男はかつて純粋な思いで平和な世界を夢見ていた。憎まず、奪わず、争わない、誰もが恐怖を感じることなく幸福に生きられる世界、そんな事を聞いて誰もが最初は"夢想家"だと言った。しかしの力と叡智を目の当たりにした者たちは希望を抱き、次第に信仰者へと変わり果てていく。
彼ならばと、皆からの信頼が厚くなっていく一方で天翁はある時、気付いてしまったのだ。人間というのは生命体として欠陥ばかりだと。
獣のような鋭い牙や爪を持たず、翼もないので鳥のように空も飛べず、呼吸ができなければ魚のように水中を泳ぐこともできない。そもそも空気がなければ死ぬ。剣で斬られて死ぬ。槍で突かれて死ぬ。身体を裂かれて死ぬ。焼けて死ぬ。溺れて死ぬ。凍えて死ぬ。飢えで死ぬ。病で死ぬ。たとえ平和に生きていたとしても老いて死んでいくのだ。
なんなのだこのあまりに不完全な生命は─────と、蔑んでいた男の身にもやがて老いの魔の手が迫り、摩耗していく実感に耐えられなくなった彼がとった決断、それは空気中を漂う魔力に自らの精神を融合させることだった。
かくして人間の肉体を捨て、幻影の"天翁"として永久とも思える年月を経た今、自らの故郷である星を滅ぼそうとしていたが無論、それで終わりではない。
地球を虚無へと還した後、聖域の地盤となっている月ごと太陽系の外へ転移、なにもない宇宙空間にて月を媒介に地球をモデルにした新たな星を生成する。オリジナルよりも小規模ではあるがそこに産まれる生命を天之御中主命ひとりで管理することになるため都合が良く、優れた者には"代行者"として自らの役目を担ってもらうなどのことも彼の設計図には描かれていた。
ただひとつの懸念は生命を照らし導く太陽が存在しないこと、それならばと創ったのが大神殿の上に広がる空を漂う人工衛星、疑似太陽"天照"なのだ。
「あの太陽・・・いや、天照から降りそそぐ光はお前たち人間の"情熱"を媒介にしている。そこでだ長門、我が言う情熱とはどういった感情のことを言っていると思う?」
神殿に降りそそぐ春の陽射しのような暖かい光に照らされ、戦いの疲れからかつい微睡んでしまいそうな千歳に天之御中が問い掛ける。
「情熱・・・達成感とか高揚感・・・じゃないのか?」
苦難に立ち向かい乗り越える度、これ以上はないと言えるほどの感情の昂りを感じていた千歳にとって情熱とはまさにそれのことであった。しかしその答えを聞いた彼はニヤリと笑みを浮かべ、答え合わせをはじめる。
「違うな、まるで見当違いだ。私の言う人間の情熱とは即ち、"憎悪"のことだよ。血が沸き、全身の肉が奮い立つような怒りこそ感情の到達点、伊邪奈美の魂に触れたお前ならそれがわかるだろう?」
「こんな優しい光が憎悪からできてるって言うのか・・・」
「なにも不思議ではないさ、感情とは火種に過ぎない。お前の命を幾度となく救ってきたであろう"呪い"も、そもそも伊邪奈美が自らの憎悪を自らの手で晴らすために掛けたもの。あぁついでに言っておくと初めて我らが会ったあの公園、幼子であったお前に芽生えた異形への憎悪も実によい火種となった。大義である─────」
これまで異形に抱いていた敵意は自分自身と周りの大切な人たちを守るための感情、それを利用されていたと知った千歳の心情に込み上げる怒りさえも火種となってしまう。終幕だと言わんばかりに天之御中が手を天にかざすと不気味な機械音を響かせながら天照の陽光が一際大きい円環を空に描いた。
「その功績を称え、お前に栄冠を授けよう。苦しみなどない、幸福に満ちた世界にて再誕するその時を待て─────」
そして陽光の冠が地上に振り注ごうとしたその時、燦然と煌めく天照が闇に覆われた。突然の事態に天之御中でさえもなにごとかと闇夜に覆われた天を見渡し、どこからともなくやってきた1人の人間がくたびれた様子で声をあげる。
「あ゛ぁ〜・・・やっと着いた。ちょっと広すぎるんですけどここ!」
「ん・・・?」
背後からの聞き覚えのある声にまさかと思いながら振り返った千歳の視界には妹分の若葉が映り、このだだっ広い灰色の大地に愚痴を言いながら彼女はピースサインを添えた満面の笑みを見せる。
「来ちゃった♡」
「なっ─────」
いろいろ言いたいことはあれどこの状況でも変わらない彼女の態度にもはや感心すら覚え、護衛しようとする千歳を若葉が逆に後ろへかばいながら天之御中と対峙した。
「身の程を弁えろ、かつての伊邪奈美の器よ。この大神殿は星霊でもないお前のようなただの人間が来るべき場所ではないのだ。即刻に立ち去るがよい・・・」
「おや、かつての友の顔すら忘れてしまいましたか?継陽─────」
"継陽"─────若葉がその名を口にした途端、天之御中は無意識に後ずさり明らかに動揺していた。
「なぜ、その名を・・・永き摩耗の果て、我が同志でさえも忘れてしまっていたその名をなぜ知っている・・・?いや─────待て。かつての友だと?まさか貴様は─────!?」
「えぇ、久しぶりですね。二代目、いえ─────有間 継陽─────!」
かつて双璧の跡を継ぎ、有間家の二代目当主となった者、若葉は目の前にいる天之御中をその名で呼んだ。すると彼の穏やかな余裕に満ち溢れた表情は一変、鬼のような険しい形相で手を前にかざして空に巨大な黒い球体を生成する。先ほど千歳に向けたものよりも遥かに強力な重力、その場から逃げ出そうとする千歳をガッシリと抱き寄せた若葉は白緑の影で龍の形を造り、龍の腕は重力の玉をとっ掴んで天へ投げ飛ばした。
咄嗟のことでよろめいて顔が若葉の胸部にうずまる体勢となってしまい、離れようとしても『動かないで』と彼女はいっそう強く抱き締めてくる。不意に鼻腔をくすぐる香りに千歳は幼い頃に母親に抱きしめてもらった時のことを思い出した。そんな2人を屠るつもりで放った一撃を防がれ、天之御中は驚くどころかまるで当然だと言わんばかりに笑みを浮かべる。
「阿修羅か─────龍脈も、その眼も・・・まだまだ健在のようだな、長門 結月─────」
龍を象る龍脈と星のような眼光に彼もある者の名を呼び、ニヤリと微笑みを返す若葉の顔を千歳は唖然とした様子で見上げ、円環を描く星の紋様が浮かぶ両眼を見詰めながらおそるおそる彼女に訊ねた。
「長門ってことは・・・」
「えぇ、御先祖様です。アナタから見て私は・・・いえ、やめておきましょう。曾が何個付くのか数えるのも面倒なので、それよりも・・・」
ここでようやく腕を離し、千歳は抱擁から解放される。どういうわけか頬を紅く染めている彼の身体を魔眼で見渡し、ん〜?と不思議そうに首を傾げた。
「アナタ、なんで龍脈が枯渇しかけてるんですか?」
「え、いや・・・ちょっとしんどい戦いが続いてまして・・・」
この聖域内に漂う高濃度な龍脈のおかげである程度は回復したがそれでも万全には程遠い、千歳の状態を見抜いた若葉、もとい結月は曾が何個付くかもわからない孫にひとつ知恵を授ける。
「お臍の辺りに意識を集中させながら深呼吸をして空気を身体に浸透させるんです。寒い日とかも深呼吸しながら身体の感覚を冷たい空気と同じにしたりするでしょ?」
「・・・いやわかんないよ─────あ、じゃなくて、わかりませんよ・・・」
外見や雰囲気も普段の若葉と変わりなく、どう接すればいいかわからず戸惑いながらも彼女の言葉通り深呼吸を繰り返すうち千歳は体内に龍脈が供給されていくのを感じる。
「じゃ、千歳の龍脈が回復するまでの間、彼は私が引き受けましょう」
長門と有間、因縁を生んだ二代目の2人が永年の時を経て再会を果たし、宿敵である互いに不気味な笑顔を向けた。
「継陽く〜ん!あーそびーましょ〜♪」
「いいだろう、この神殿に無断で足を踏み入れ、新たな神たる我に挑むその傲慢、我自らの手で断罪してくれるわ─────長門!」