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後編

 マスクをしていても分かる。彼の顔が美しいだろうことが。

 それに。一回りも年下と思われる男の子に『大丈夫?』なんて心配される現象は、四十路を迎えたわたしには、いまのいままで、無縁だと思っていた。

「ああええと……ありがとう」敬語を使うのはかえって失礼に思われた。「きみは? トイレットペーパー買いに来たの? 残念だね、今日はもう売り切れで……」

「やーおれは牛乳買いに来ただけ。受験生てのに母親にパシリ扱いだよ……」

 俯くそのさまは思いのほか可愛らしくて、思わず笑ってしまった。

 すると、「おねーさん笑うなよ」と照れたように彼が言う。「まあ、でも、よかった。おねーさんさっきまで、この世の終わりみたいな顔してたからさ」

「実際この世の終わりみたいなものだよね」立ち上がりわたしは、「元旦那、咳が酷いらしいんだけど、保健所に検査キットが不足していて、だからコロナなのか検査も出来ないんだって。ひとりでゲホゲホ言っていて、会社にも出社出来ないから、帰りに寄ってこうと思って」

「あなた……自分のことは平気なの?」

「マスクしてくし手洗いうがいしっかりしてけばまあ、なんとかなるんじゃない? それよりも、大学受験? だよね。頑張ってください。応援してます」

 頭を下げて、彼の横を通り過ぎると、彼が、

「おねーさんも、いろいろと大変だろうけど、……頑張って」


 それから一ヶ月あまりが経過した。

 娘は無事、小学校二年生に進級し、学校側は、二ヶ月もの間母親に弁当を作らせるという、夏休みばりの苦行を強いてくる。仕方ないんだけど。まあ、娘が元気でいることがなによりだ。

 元夫は、一週間ほどで回復した。おそらく、コロナではなかったのだと思う。

 日本経済は、かなりのダメージを受けたと聞く。興業が次々と中止に追い込まれ、飲食業や宿泊業に打撃を与え、経済的損失は東日本大震災のとき以上と聞く。

 それでも、わたしたちは、――生きている。

 生きていかなければならない。

 トイレットペーパーなどの欠品は二週間ほどで回復したものの、マスクの補充がなかなか入らないのは相変わらずで。電車に乗ると、くしゃみや咳を連発するひとに、他人が冷ややかな視線を浴びせている。ドラッグストアの欠品事情を知るこちらとしては、他人事ではない。とはいえ、娘を連れて乗る親としては、そうしたひとには近づかぬようにし、自己の安全を確保している。

 トイレットペーパーなど紙製品の補充が落ち着きを取り戻すに連れ、ひとびとの態度は軟化した。

 時々、怒鳴られた記憶を思い出し、足がすくむことがある。

 そんなときは胸の前でそっと手を合わせ、

『おねーさんも、いろいろと大変だろうけど、……頑張って』

 あの彼の励ましを蘇らせる。

 悪意にもさらされる苦しい仕事だけれど、そう悪いことばかりではない。怒鳴りつける客はごく一部で、かなりのお客様が、欠品やレジの遅れについて、こちらが申し訳なさそうにしていると『いえいえとんでもない。お疲れ様』とこちらを気遣う発言をしてくれる。

 ある程度の日常を取り戻し、いよいよ東京オリンピックのことなどを政府が本格的に着手しだした頃、生理用品の補充をしていると、男の影が目に入った。へえ珍しいな、なーんて思うと、

「……あ」

「あっ」

 忘れはしない。『あの男の子』だった。服装は流行りのワッフル素材のトップスにチノパンツ。トレンドをほどよく押さえているという印象だ。髪の毛先はワックスで遊ばせているのだろう。サイヤ人みたいにつんつんだ。

「その節はどうも……」よほど受験勉強が忙しかったのか、あれ以来彼が姿を見せることはなかった。「ところで、実家に帰ったら妹に頼まれたんだけど。羽根つき。羽なし。……てどう違うの?」

 わたしは静かに答えた。「羽根つきのほうが固定されるので動いても漏れが少ないですよ。どちらでもよいという指示でしたら、羽根つきのほうをお勧めします。羽根つきのほうがやや単価が高く、こちらだと24枚入りですが。羽なしが36枚」

「あ。じゃあ、こっちにするわ」ためらうこともなく、わたしの勧めた商品を手に取る彼。すこし、前よりも背丈が伸びただろうか。美しい少年のなかに芽吹く、精悍な男の魅力をそこに見た。

「ありがとう。おねーさん。じゃあ、また……」

「ありがとうございました」

 颯爽と歩き去る彼を見送る。その背中に、

(ありがとうございました……)

 深く、頭を、下げる。

 こんなに辛いことがこの世にあっていいのか。と打ちのめされることがこれからもあることだろう。

 抗えない、人生の波に流されることも。

 それでも、自分を強く持つこと。流されるながら流されるなりに、しっかり、自分の生きる意味を見出すこと。それが、『生きること』なのだろう。『教えてくれた』彼には、感謝だ。

 レジへ向かうとちょうど彼が店を出たところで、ガラスの向こうに見える彼は、妹さんらしき制服姿の女の子の頭を、ぽんぽんと撫でていた。わたしに気づくとちょっと、笑った。初めて見る笑ったその顔が思いのほかスイートで。生きる楽しみが増えてしまった。

(さぁーて。仕事仕事……!)

 入り口を見れば、彼らが過ぎ去ったあとに、店の前に置いた立札を凝視するご老人がひとり。――やれやれ近頃はクレーマーなのかそうでないのか、一目見て分かるようになってしまった。立札は、『マスク欠品』と張り出したもの。わたしは迷いもなく外に出た。ご老人の前に立ち、

「なにか、――お探しですか?」

 やれやれドラッグストア店員はつらいよ。


 ―完―

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