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前編

※テレビのニュースで見た内容を参考に作成しております。


 出社したときには店の前にもう長蛇の列が出来ていた。……やれやれだ。店に入り、他の従業員と、束の間の会話を交わす。

「今日も来ているね」

「すごいね。先頭から二番目のお客様、昨日もいらっしゃったお客様だよ。あとあのひと、列に並び直してもう一回買おうとしていたから、気を付けて」

「……はい」

 前日のデータをチェックし、申し送りを開始したらいざ開店。二十人以上は並んでいるだろうか。

「いらっしゃいませー。おはようございまーす。走らず、ゆっくりとご入店くださいー!」

 入り口でスタッフが叫ぶにも関わらず、我先にとセール会場のごとくダッシュする人々も。若いひとというより、熟年やご老人が多い。……やれやれだ。

 念のため、トイレットペーパーを買い求めていると思われるお客様の最後尾にスタッフがついて、「本日の入荷は十九個ですので。おひとり様ひとつずつでお願いしまーす!」

 それでも二つを手に持とうとするお客様がおり、スタッフのひとりが注意をする。「申し訳ありませんお客様。トイレットペーパーはおひとり様一個ずつとさせていただいております……」

「――なにを言っているのですかあなたは!」どうやら、導火線に火が点いてしまったようだ。「うちは、八人家族ですのよ! トイレットペーパー一袋なんかじゃ、とても、足りないでしょう! それともあなた、わたしの家まで配送してくれるっていうの!?」

「いえ、うちは配送は基本的には……」

「ふざけてるの!?」あーあ、とわたしは心のなかでため息を吐く。蹴り飛ばされた。陳列のやり直しだ。「ったくもう、毎朝、この寒い中並ぶ客の身になってみなさいよ! どうせあなたたちのことだから、倉庫にストックがたくさんあるのを隠して、出し惜しみしてるんでしょう!? ふざけるな!」

 顔を真っ赤にしたお客様が唾を飛ばして喚き散らす。対応に十五分かかった。この手のトラブルは日常茶飯事で、お陰で、毎日の業務が進まない。

 ――三店舗回ったのよ! なのに、どこにも売ってないってどういうこと!

 ――エタノールがないと注射が出来ないじゃないの! あなたたちは、わたしを殺すつもり!?

 ――あなたたち揃いも揃ってマスクしているのに、この一ヶ月、ちっともマスクなんか入荷してこないじゃないの! あなたたちが買い占めているんでしょう!?

 わたしたちが着用するマスクは、わたしたちが買い占めているわけではなく、販売用のマスクとは別に、会社から支給されている。この、感染病が大流行のこのご時世に、マスクをせずに接客をすることは自殺行為に等しい。こちらも、命がけなのだ。

 理解頂きたいのは、わたしたち小売業は、決して出し惜しみなどしていない、ということだ。

 単純に需要の数が大きく、問屋に回されるものの、小売店に出される数が追いつかず、……という状態が続いているということだ。震災のときとは違い、工場の生産がストップしているという意味ではない。工場に在庫は十分にある。問屋への発注が追いついていないのだ。

 あと一二週間もすれば落ち着くと思われる。が、それを待てないお客様の多いこと。スタッフは皆、疲弊している。お客様に『いったいいつ入荷するんだ!』と怒鳴りつけられ、足を震わせ、まともに対応出来ず泣いてしまったバイトの子は、――辞めてしまった。この騒動さえなければと思うだけでとても悔しい。

 納品は一日何回も行われるので、そのたびに段ボールを開封し、バックヤードに仕舞い、また陳列棚に日付が古いものを手前に並び替える重労働が待っている。お陰で腰痛はお友達で膝の骨はぼろぼろだ。

とはいえ、シングルマザーのわたしが仕事を辞めるわけにはいかず。また次々と体調を崩す者が続出し――当たり前だこの状況下では――皆、ぎりぎりのところで戦っている。

 どこから噂を聞きつけるのか、マスクやトイレットペーパーの納品があると瞬く間に行列が出来、開店後だと勿論待機列の整理にスタッフが追われる――瞬く間に売れる。このおそろしい事実に眩暈がする。かつて東日本大震災のときに、きちんと行列を作り、食事の配給を待ったという日本人の高潔な精神はどこに消えたのか? この、焦土と化した日本を近代都市に作り替えた先人の叡智はどこに消えた。大部分を職務に邁進する自己を抱えつつも、わたしのどこか一部が突き放した目で眺めている。――ああ虚しいな、と。

 わたしがこの仕事についたきっかけは、夫の浮気に気づいたからであった。娘がおり、生計を立てなければならない。養育費だけで生きていくには厳しいと思った。それに、出来ることなら娘は大学に進学させてやりたい。わたし自身、親の経済事情で、大学への進学を断念させられたが、そのことに対し後悔が残っている――からだ。

 無資格で子持ちの主婦をなかなか雇ってくれる会社など現れなかった。――わたしを採用してくれたこの会社を除いては。

 だから、この会社はわたしにとっての恩人だった。仕事がなければ離婚出来なかったかもしれない。好きなスキンケア用品も買えなかったかもしれない。

 分かっていても――辛い。なにか声をかけられるたび、ああまたマスクのことかエタノールのことか……と正直に足が震えることがある。一見すると平和そうな人間が、般若のような形相に変わり、声を荒げ、ひどいときは商品を蹴り飛ばす。そのことが怖かった。ある意味、この現象は、PTSDに指定されていいのかもしれない。国も会社も、最前線で戦うわたしたちにこのような事態が起きていることを知ってはいれど、明確な対策を打とうとしない。蛇の生殺し状態だ。

 その日、三度目の納品対応を済ませ、中国語と英語で『本日の納品は終了しました』と書かれた紙を貼りだしていると、背後から声がした。

「……顔色悪いけどおねーさん大丈夫?」

 振り替えるとそこには、目鼻立ちの整った、高校生くらいの、制服の男の子が立っていた。


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