☆★#6 ビー玉とちょうちょ結び(下)
「お兄さんってひとり?」
「ひとりだね」
――あの後、家では絶対出ない「瓶入りラムネ」をもらってちゃっかり機嫌をなおした私は、コップに注いだそれをちゅーちゅーストローですいながら、ふいに質問を投げかけた。お兄さんはまだ私のトランクを直している。
「恋人いる?」
「今はいないよ」
「いま?」
「今時分、お化けだって恋をする。昔はね、おれだって駆け落ちまでしたんだぜ」
――「駆け落ち」という言葉の意味は分からなかったけど、気になったことはもう一つある。
「お兄さんお化け?」
「フッ……どうかな?」
今でいう、どや顔だ。
「お兄さんがお化けだったら怖くないよ?」
「本物のお化けに言えるかな、和音ちゃん? まあおれがお化けだったとしても、他のお化けは怖いかもしれないぞ? このお店、お化けみたいなの結構くるから」
「くるの?」
「いっぱいくるよ?」
はい、と直ったトランクを見せられた瞬間、少し不安になる。
「……お化け、来たらどうしよう」
「おれじゃどうしようもないな。追い出せないし。お客さんは大切に扱わなきゃダメだろ?」
お化けをお客さんにしているお店。
「お兄さん、お化けと喧嘩したら強い?」
「……」
お兄さんは少し笑ってごまかしたけど、でもちょっと強いんだ、とはなんとなく思った。じゃないとこんなにおどけて話なんかしないはずだ。
「ねえ和音ちゃん、お化け、嫌い?」
「ちょっと怖い」
「嫌になってきたかな?」
「……うん」
「おうち帰る?」
「……」
私は頷く。
「ひとりで帰れる?」
「……わんわん、いなかったら……」
「よーし、じゃあちょっと待とうか」
キュポキュポと瓶の口を回すお兄さん。――やがて、コロンとてのひらに転がってきたのは、見覚えのある球体だった。
「あっ、ビー玉!」
「……最近のラムネはすごいね、おれの時はこれが欲しくて叩き割ってたんだぜ?」
「ラムネでお化けたたくの?」
「その発想はなかった」
絵本でよくみる、シーツを被ったようなお化け――それをなぐったら、その分だけビー玉が出てくるのを想像した私はケラケラと笑った。お兄さんもつられたように笑うと、おしぼりで丁寧にビー玉を拭いて私の手に乗せる。
「……それだけ笑えるなら平気だね。お土産にどうぞ」
「ありがとう」
「わんわん、もう平気?」
私は頷いた。
「うん」
「お化けは?」
「嫌い」
「ビー玉が好きでお化けが嫌いな和音ちゃん、おーぼーえーたーぞーぉ!」
手をわっと広げておどかしてくるお兄さんに思わず爆笑した。
「わああ、お兄さんお化け!」
「怖くないだろ!」
「怖くない!」
「じゃあ、お化けがいても安心だ! お化けとわんわんにあったらビー玉握りしめて一目散に逃げるんだよ!」
「うん」
ドアの鈴が鳴る。
おもちゃのトランクが一足早く外に出された瞬間、私は口を開いた。
「ねえ」
「何?」
「お兄さん……」
なんとなく今更気づいた。その声、どこかで……
「お名前、なんていうの?」
「……覚えられるかな?」
「おぼえられる!」
私は憤慨した。
「和音、おねえさんだもん!」
「じゃあ一度だけ」
「……おれの名前は」
* * * *
「あれー、トランクのベルト、つかないなあ」
「貸してみろって、あ、本当だ。壊れてんの?」
「そんなはずないと思ったんだけどなあ……えいっ」
「あっ」
……ベルトを極限までのばして作られたちょうちょは、会心の出来栄え。
そう、そこで気づく。これは、夢だ。
――でもいつもの夢とは全然違う。
映像がハッキリしてて……
「……何それ、すっごい目立つ」
「可愛いでしょ」
……それは、聞き覚えのある声だった。
「私、ちょうちょ結びくらいはできるんだからね!」
「今時ちょうちょ結びくらい小学生でもできるだろ」
「えー」
「幼稚園児でもできる」
「むー」
男の人はプッと笑った。
「相変わらずふくれっ面が印象的だな、どこで何しててもそれでバレるんじゃない?」
「そんな変な顔してる?」
「ははっ」
むくれながら。内心、笑いながら。
『私』はくるっと振り返る。
「何してんの」
「一応ですね――『怖いお家の跡取り息子』氏。私だって良家のお嬢様なんだよ私?」
……歩いてきた方に、大きく手を振って、バイバイ。
「お世話になりました、ぐらいきちんと言わないとね……私、家出します!」
「いやいやいや。いくらお嬢様だからって明るく宣言しながら駆け落ちする女の子がどこに……!」
手を慌てて下ろそうとする彼は、私のすばしっこさに悪戦苦闘していた。
……うん、思ってたんだよね。『私』。
体が弱くなかったら。すぐに病気するような体質してなかったら。
――もしかして、体を動かす職業とか狙えてたんじゃないかな。
「理由はっ、ピーマンがまずいからです!」
「いや絶対違うでしょ!?」
トタン、とコケた彼は背負っていたリュックを放り出した。
……おたまがぶつかったような音がする。色々入ってるんだろうな。
「あと椎茸が嫌い」
「おれがチンジャオロース作ったら食べるくせに!?」
……ようやく手首をつかむ彼。
「あと、清き男女交際を許してくれないからです!」
「それが本題だ、清いかは知らないけど!」
――退屈な青春映画くらいは清かったんじゃないの、見た感じ。
「ご飯が美味しいって言っても許してくれないからです!」
「絶対それ一点張りだったろ、語彙力皆無か」
「だから家出します!」
「だから! ――もうちょっとコソコソしなさいよ君は。なんで病弱なのにおれといるときだけそんな元気なんだよ!」
「えー分からないかなあ」
『私』は言った。
「となりに君がいるから、元気にしてるの!」
……口を開く。その名前を呼ぶ、『私』。
「私、「浩介」のためにできることって、まだ一つもないんだけど、元気でいるのくらいは、もうちょっとできる気がするんだ!」
「それは……」
苦笑いしながら、少し若い……『お兄さん』は言う。
「すごく、役に立つなあ」
* * * *
「バゥン!!」
「わっ……」
「ギャンギャン!! ギャンギャン!!」
思わず手の中のビー玉を握りしめた。
だって、目が覚めたら大きな犬がいたから。
「……和音ちゃんかな?」
犬を連れていたのは、おまわりさんだった。
私はどうやら、かなり遠くにいたらしい。記憶では最寄りの駅から少し歩いた、メインストリートからちょっとそれただけの路地に入ったはずだ。
それが隣町で発見されたというんだから、やっぱりあのお店はどこかおかしい。
……家ではたっぷり怒られて。それでも美味しくないはずのご飯が待っていて。
でも、口に入れると。
「あれ?」
……美味しい気がした。
お母さんが言う。
「あれれー、怒らないんだ和音、ピーマン嫌いじゃなかった?」
お父さんがビールを飲みながら呑気な調子で呟く。
「なんだよ、嫌いなものをわざわざ出すなんて嫌がらせみたいだな。ピーマンの肉詰めだろ? 残してた朝ご飯はチンジャオロースで」
「何言ってるのよ……」
呆れたようにお母さんは返す。
「好き嫌いしなかったらその分、免疫力とか体が丈夫になるんだから。……別に、好き嫌いが治らなくてもそのまま死にはしないし、私だって苦手なものくらいあるけどね」
「ふぅーん」
興味なさそうにお父さんはいう。お母さんは続けた。
「……こっちは、和音に長いこと元気に過ごしてもらうためにやってんのよ」
……元気。
私はからのお皿を見た。
――元気でいるのくらいは、もうちょっとできる気がするんだ!
『私』が、元気に振舞えたのは。
強がりでも、お腹が痛くて死んでも。それでも頑張ろうとしたのは。
――……君がいるなら何処へだっていける。何処でだって生き続ける。
「……ねえ、おかあさん」
……私は、知っている。夢を見た。
たくさん、たくさん夢を見た。
美味しいご飯を食べると、確かに私は……
「ピーマンおかわり」
「……どうしたのいきなり」
どんなに調子が悪くても、元気に振舞えるようになっていた。
それは。
それは、きっと。
……あの人といると。
心が元気だったからだよね?
* * * *
それから、路地という路地をくまなく探した。
お化けを相手にする大きな砂時計のお店なんて誰も知らなかったし、なんなら話題に出すたびバカにされてムカついた。
……だって見たもん。入ったんだもん。ビー玉もらったもん!
大人たちに訴えても、歩きすぎて疲れて、たまたま寝入ったところで見た夢の話だと結論付けたみたいだった。手の中のビー玉は道端で拾ったと。
違うと言い続けても誰も信じてくれない。だってあんなところにお店はない。ただの民家の路地裏だ。
でも、何回か行くうちに気がついた。
……あの路地の隙間には電灯が立っている。
でもたまに、その電灯の影が……不自然に点滅するときがあった。
電灯の姿が消えでもしない限り、地面に落ちた影が消えることなんてないはず。
それが点滅するなんておかしい、そう思って。
「……えいっ」
影が消えた瞬間に路地に入る練習を繰り返した。
「ダメ、しっぱい」
点滅は時間を問わずランダムにあるけれど、早朝と夕方が一番点滅が多いみたいで……
「――――っ」
すばしっこい私がそれに成功したのは、もうちょっとあと。
……似たような薄暗い路地裏。いつもはない、お店然としたドアベル付きの扉と足拭きマットに目が行った瞬間、私は歓声をあげた。
「いらっしゃいま……!?」
――チリンと音を出し、重い扉を開ける。あの頃、玄関のドアにすら苦戦していた私よりも、ちょっとだけ軽く開けられたそれは歳月を示していた。
本気で驚いたような顔をして固まるお兄さんは、何も変わらない。ああ、あれから……3年も経っていたのに。
私は思わずランドセルをかなぐり捨ててさけんだ。
「浩介さん、みーっけ!」
お兄さんは余計に目を丸くして、口を開く。名前を覚えていたのがそんなに不思議だったんだろうか。
「……ピーマンの嫌いな和音ちゃん?」
「ピーマン克服したっ!」
* * * *
「浩介さんいるー?」
「ほら来たよ、言ってたあの子」
「うっわ珍しい。その真っ黒な人――お客さん?」
それから何度も通い詰めて、気がつけば7年ぐらい。中学も卒業して、高校生になって。ここに来るのもだんだん慣れてきちゃって、気付けば毎日。
「……『お客さん』兼、知り合いの類」
向こうが自己申告したそれ。黒い帽子に、配達屋さんみたいな作業服。
――今日、初めて遭遇した別のお客さんは、確かに「お化け」。
「へえそっか。はじめまして、向井和音でーす。ねー喉乾いたー、なんかタダで出してよー」
女子高生らしくエナメルバッグを背負った私は平静を装っていつも通りに声をかける。だって最初から言ってたじゃん、お化けが出るって。何回見ても顔がよく分からないくらい、なんだってのよ?
「しょうがないなあ」
浩介さんは苦笑いしながら、箒を倒したあたりを越えて厨房に入っていく。
「たかってジュース出すのなんてウチだけなんだからな?」
「はーあーいー!」
「他のお店ではお金払うこと」
「わかってるよそれぐらーいー。……っていうか、たまにはお金払うって言っても要らないっていうじゃん」
「たまにはって」
水のコップを前にしながら突っ込むお客さんをよそに、浩介さんは少し笑う。
「お化け相手だったり人間相手だったりして、金銭的な交流が成り立つと思うの、君……一応一旦はもらうけどフェイクだよ。値段が書いてないと高級店だと思われて退店されるんだよ」
顔の見えないお客さんがぼそりと呟く。
「『気まぐれランチ』がわざわざ750円表示なのは切実な理由だったか……」
「ほら、持ってきてあげたぞ。選びな? オレンジと、ぶどうと、いつもの……」
「あ、勿論ラムネー!」
あれ以降瓶入りラムネをもらうのが癖になってしまった私は手を挙げる。
――瓶。涼しげでいいよね。
「……そんなに気に入ったあれ? まったく和音ちゃんはラムネばっか好きだな」
「じゃあ俺もラムネー」
「……残念ながら君の分は、ないっ」
「あいたっ」
便乗するように手を挙げたお客さんの手をひねると浩介さんは言った。
「無料のラムネは女の子専用だ」
「ぶっ」
ピシャリと跳ね除けられたお客さんの手に、思わず私は噴き出した。
「……ひどい、扱い違くないか、常連だろ両方とも」
「君、水ね」
「あっ、ハイ」
「だーから言ったじゃん浩介さん、ラムネ多めにって」
2度目の時にやたらと浩介さんから頭を下げられたのが、いまだにまるで、昨日のことみたいだ。
曰く、次の日にカレーもらっきょも頼まず「福神漬け」単体を食べて帰った人がいたとかで、たまたま私の言うこと聞いといて助かったらしい。
――まあ、要するに。
『私』は何の役にも立たなかったけど、「私」は彼の役に立てている。
きっと、そういうことなのかもしれない。
「……あれは和音ちゃんが欲を出したのかと思ってやめといたんだ」
「……ラームネー、瓶入りラムネー……」
顔色の分からないお客さんがブーブーと呟く。
浩介さんは呆れたように呟いた。
「なんだよ、やけにラムネに拘るな……」
だってぇー、と顔のわからないお客さんは呟く。
「言われると飲みたくなりませぇーん……?」
「すごいよ浩介さん、あのお客さん、カウンター席に上半身あずけて器用にごろっごろローリングしてるよ……」
「駄々っ子か君。サイダーならあるけど?」
あの夢にどういう意味があるのかは深く考えないことにした。未だに時々見ている気もするけど、最近はすぐに中身がぼやけて忘れてしまう。それでも何度も見た夢だ。大まかにぐらいなら、ストーリーだけはやっぱり覚えていて。
「……瓶とペットじゃ味違わない?」
「あ、わかるー」
いぇーい、と手をかざせば、ちゃんとハイタッチが返ってきた。
……意外とノリがいいお化けだ。
「聞いてたよりは今風の陽キャだな和音氏」
「そういうお客さんは意外とチャラい生き方してると見た」
「いやほぼ死んでんだけど」
ローリングお化けが苦笑いした音を出す。
「サイダーもラムネも中身は同じ砂糖水の炭酸だっての……あーもう、ゴロゴロするなわかったから……適当に書き足せよ、今朝渡した注文票」
「じゃあ明日の朝までにどうにかするさ。……えー、ラムネ50本?」
「2本だよ。どんだけ飲む気?」
呆れたように浩介さんが突っ込む。
「……ただでラムネが飲める常連がいるなら、俺もそれくらい飲むべきだと思って」
「べきとか何。普通の女の子をライバル視してどうすんだこの人は……住む世界が違うんだよ住む世界が」
「なーにをー」
顔面がよく分からないお客さんは言う。
「俺だって半分くらいは生きてますよ?」
「嘘こけ」
「本当だもん?」
浩介さんがシラっとした顔で対応した。
「ぶりっ子的に言うなよ」
「……半殺しみたいな目にあってここに来てるもん?」
私はいう。
「『半殺しを放置されたら全面的に死んだ』の間違いではなく?」
「あ、分かった。このお客さん。死ぬ時に顔面を重点的に破壊されたお化けだ」
「それはあるかもしれない!!」
浩介さんが意外と納得。
……仲良しっぽいけど、どうも相手の死因は知らないらしい。
「フッ……どうかな?」
「……はぐらかし方が浩介さんに若干似てて腹立つんだけどこの人」
「マジで!?」
「何で嬉しそうなんだよ、おれと似てて」
……さて。
ラムネを飲み干した私は立ち上がった。
「冷蔵庫見ていい?」
そろそろ、仕事をするとしよう。
――『私』にはできない、「私」にしかできないことを。
「いいよ」
もしも、生まれ変わりというものがあるのだとしたら。
私の夢はそういうことだろう。
でも同時に「私」は、『私』になれないのは事実だ。逆も然り。浩介さんにあれだけ大事にされていた女の子がいた。その女の子の記憶がきっと『私』の記憶で、「私」の見ていた夢。
ここにいる私は、その記録を少しだけ持ってる。それだけの話。
「大根とー、たくあん! 足りなくない?」
「そう? じゃあ買い足しとくよ。配達員大先生ー」
「だーからその先生呼びだよ。そろそろやめてくださいな……で、大根とたくあん1本ずつでいいの?」
「うん、メモしといて。はい紙ナプキン」
ぽん、と手に乗せられるペンと紙。お化けはブーたれた。
「……だんだんおつかいしてるように思えてきたな……」
「事実だろ。これがおつかい番組だとして、こんな可愛くない絵面ないけど」
「……ウン十年前ならあるいは」
「ないない」
配達員と呼ばれたお客さんがため息をついた。
「どこ行くの?」
「こんな筆記しづらいメモ用紙があるか。注文票取りに行く。あと電話! 早めに用意してもらえたらラッキーでしょ?」
「ああ、なるほどね。頼むよ」
配達員は手を振りながら扉の向こうへ消えた。
「……あの人が冷蔵庫の中補充してんの?」
「そう、和音ちゃんが言った言葉をおれが彼に伝えて、彼が色々話をつけてくれる」
その声は、昔から変わらない。
「野菜は誰かが作ってて、魚は誰かが釣ってて、お肉は誰かが育てて、捕まえて。それをかき集めて彼は戻ってくる、おれは提供する、君はラムネを飲む。丸みたいになってるだろ?」
「うん」
その背丈も、昔から変わらない。もうそろそろ追いつきそうだ。
「ねえ、浩介さん」
「うん?」
「「私」がいて、助かってる?」
浩介さんは首をすくめて呟いた。
「……助かってるよ、すごくね」
……もし。もしだ。
私は最近、眠るたびにあの時の言葉を思い出す。
――「もしおれたちの見てる人間が、紙に押された『結果』にすぎないとして」
私たちの見てる人間が、紙に押された『結果』にすぎないとして。
……『スタンプの型自体は、前に押した「結果」のことを覚えているのか』。
――「いや、何でもない。……分からないだろ、なんでもない」
あの時、なんの話かさっぱりだったけど――今なら少し、わかる気がする。
「浩介さん」
「どうかした?」
私は口を開いた。
「――きっとね。覚えてることもあると思うし、忘れてることもあると思う」
まるで――夢の中の、おぼろげな記憶みたいに。
「和音ちゃん?」
……何の話だか?
そんなものは思い出してもらわなくてもいい。
きょとんとしたそれに、私は笑って――あの時の浩介さんみたいに言い返した。
「……分からないでしょ。なんでもないよ!」




