☆★#5 ビー玉とちょうちょ結び(上)
「なぜ、というべきか……」
……いつもの運び込みと、仕入れ点数の確認。
注文品リストを受け取りながら、黒い配達員は呟いた。
「何を考えたら、日によってこんなに変わるんだ?」
店主は少し考えて、口を開く。
「……ああ、仕入れるものが?」
「そう」
そもそもの話、この店に『食材を運び入れている』のは配達員の車だ。
中身を出すのは店主である浩介がやっているし、その方が早いのだが……その配達員だってただ、ピッチャーをカラにしてカレーを食いつぶし、それで終了というわけでもない。
彼の仕事のメインは消滅できないお化け――『消滅時計』所持者のそれぞれの仕事場を繋ぐことにある。
『農場』、『山』、『漁協』、『畜産』と密に連携し、仕入れ作業のようなものも代行するのが日常化していた。
各場所に顔を出しては入り用のものを探し回り、なければ注文だけして後日出直す。あればそのまま持ち帰る。
……だから頻繁に気付く。今日の依頼は変わっているなとか。
この食材は何だ? とか。
そもそも死者にとって――特に時計を持つ者にとってしてみれば、お金などさして重要なものではない。通貨代わりに流通しているのは「消滅までの時間」……この店の砂時計でいうところの砂ひとつまみだ。
要するに何かを成したという「充足感」。「何もせずに消えていく」という恐怖、無念、心残りを埋めてくれる時間をやり取りするからこそ、金銭的には何も絡まない。
……だから生者からは形だけもらう形にしておいて、実は返していたりするわけだが。
そもそもが消えるに消えれない事情がなければ「消滅時計」の所持者になったりはしないわけで、あいにく時間はたっぷりある。
暇というものは持て余してしまえば、毒と変わりない。
大体、意思のあるものにとって「何もしない」というのはひどく苦痛なのだ。だから働く。自身の経験や特技を生かし、定められた物事をこなして、物事の合間の余暇を楽しむ。
店主はゆっくりと言った。
「……何が必要か、事前に分かるからだよ」
「分かる?」
「今日はカニカマが必要だなぁ、とか。小麦粉が大量にいるなぁ、とか」
「もしかして【これ】か?」
すんすん、と鼻を鳴らす音に、店主は苦笑いした。
「匂い? ――ああ、好物当てるときの? 違う違う」
――なんだ。
彼の特異な「技」とは違ったらしい。
配達員は息をつき、注文品リストをぱらりとめくった。
「……なら、どうして分かるんだ、神様とか超能力者みたいに未来が読めるわけでもあるまいし」
「え? 神様って未来読めるの?」
……例えばそう、今日はやたらに山菜が多い。だからまずは明るいうちに『山』の所持者のところに最初に顔を出して、次は消滅まで魚をひたすら釣りまくってる奴らの寄り合いである『漁協』に顔を出さなければいけない。
野菜は……まだ余裕があるから『農場』はパス。配達員は息をつく。
――ああ助かった。あのファーム・イン・ディストピアみたいなババアはどうも苦手だ。
「読めるんじゃないか?」
「見てきたようなこと言うな君……」
配達員の冗談じみたそれに、店主はため息をついて冷蔵庫を見る。
――大きな鋼色の、業務用冷蔵庫。
「……まあ、そうだね……。超能力者ではあるのかもだな、これ」
「何せ他人の好物当てるくらいだ」
「ん? ああ、今の超能力者発言は違う違う」
自分のことではない。そう店主は否定した。
「おれのことじゃないんだ、今のは」
「ん?」
「でもこの間なんか珍しく、『数の子、醤油、お酒、みりん、鰹節』なんて言い出すから、なんかあるんだろうなと思ったら、やっぱり出す羽目になった」
「…………はい?」
意味ありげに笑いながら、店主は言う。
「あれは助かったよ。『数の子の醤油漬け』なんか、客が来てから作ってちゃ絶対間に合わない」
「……今、『言い出した』って……」
「うん、そう。言い出したのさ、数少ない『常連客』が」
「あ? ……えっ、常連なんかいるのかこの店!?」
びっくりしてカウンターの飲み水をひっくり返しかけた。
配達員からすると衝撃だったらしい。
「ええー失敬な。一応いるぞ?」
君もそうだし、と言われた配達員は少し咳き込む。
「いや、物好きな俺はともかくとしてですよあんた!?」
「今自分を物好きって言ったよね君」
「言っちゃあ悪いが! この店だぞ?」
生者の世界にある店ならともかく……
そして、死者の世界にある店ならともかく。
「……こーんな辺鄙な立地」
「いや、辺鄙なのは否定しないけども」
店主はため息をつく。
「……お化けから見た場合だろそれは。こんな出入口付近まで来なくても、ちゃんと娯楽はある。こんなところまできてものを食べる義理はないわけだ。でも生きてる人たち、一体どこから迷い込むと思うの。日本全国津々浦々の『よく分からない路地の隙間』だよ?」
それも日当たりの悪い、薄暗い路地だ。トンネル等で昔から怪談が多発するように、薄暗闇は境界が薄くなる。
「東京から来る人もいれば、神戸かな? その辺りから迷い込む人もいる。それこそこの間なんか平泉の人を相手してた2時間後には那覇空港から来たらしい観光客にブタ肉出してたんだぜ」
呆れたように配達員は呟いた。
「……平泉って東北じゃなかったか」
岩手県民と沖縄県民がよく鉢合わせなかったものだ。……現世との繋がり方がおかしいのだろうが、何にしても距離感がおかしい。
「で、その『常連』さん、どうもほぼ毎日熱海から迷い込んで来るようなんだけどね」
「毎日迷い込むとかもう訳がわからなくない? 迷ってないだろ、めがけて来てませんかそれ」
困惑した様子で配達員はリストから目をあげた……らしい。わかりづらいが。
「毎日勝手に厨房まで侵入してきては、冷蔵庫を勝手に開けて口を開くんだ。『ねえ浩介さん、何となくだけど、カニカマが足りなくない?』」
「怖っ」
しかも、名前を覚えられている。
これは結構な異常事態だった。……普段はこの店、死人相手ならともかく生者相手の商売は全くといっていいほど成り立たない。
認識不可な配達員の顔面情報と同じだ。つまりこの店内も、店外も。どこから迷い込んだかさえ……印象がおぼろげにしか残らないらしいのだ。
「ね、不思議だろ?」
「不思議、だな」
配達員の脳裏にふいに死神がよぎった。
死神が以前渡してきた、『ZattaGotta.KK』のデータ。店主の基本情報――周辺情報。
……そこにいる、一人の【重要人物】。
「で、それを言われた数時間後から1日、長くて3日後ぐらいに突然それが役立つんだよ。あっ、あの時言われたのはこれだったのか! と手を打つ羽目になる」
「……本気で未来予知でもしてるんじゃないかその人?」
「分からない」
苦笑いしながら、店主は呟いた。
「……分からないけど、せっかく縁があったんだ。縁が切れておれのことを忘れるまでは……」
ほどけかけていたエプロンの紐をキュッと「ちょうちょ結び」に直しながら、店主はドアベルの方を見た。
「是非とも役立ってもらいたいね!」
「……ちゃっかりしてるな……」
配達員は気が抜けたように肩を落とした。
その後ろには、大きな砂時計のオブジェ。
中に入った本物の砂はピクリとも動かず……硝子容器は鈍く店内を反射している。配達員はふと後ろを見て、指さした。
「……なあ、店主どの。また減ってないか、中の砂」
* * * *
……「私」には、昔から時々、寝ている間に見る夢がある。
全体的にぼんやりとはしてるけど、大まかなストーリーだけは覚えている。
そんな、はっきりしない夢だ。
夢の中の『私』の目線は、だいたい、大人と同じくらい。
周りの女の子の中でもやっぱりちょっと高めみたいで――相手の男の人と、普通に並ぶくらい。
話している内容は、聞こえるときと聞こえないときがあって……
電波の悪いラジオみたいに途切れ途切れ。
相手の顔も寝てるときは判別できてるみたいだけど、起き上がったら覚えてない感じ。
……それでも色々なことが分かる。
よく一緒にいるその男の人は、幼い頃からこっそりと台所で卵焼きを作ってるような、そんな子だったらしい。
勝手にコンロをいじってもお家の人は何も言わない。
だから、呼吸をするようにコンロを使う。
「日頃は自分たちの方がもっと危険なことしてるから、きっと強く出れないんだぜ」。
なんて軽口を言う。
……どんな家庭だったんだろう。
ともかくその人は、小さな頃は隠れてコソコソ何かを作ってた。大きくなったら堂々と。……日によって和食っぽかったり洋食っぽかったり。
本を見ながら。それから――たまに、何も見ないで。
夢の中の『私』はそれを食べたり、作ってる様子を眺めたりするのが大好きだ。
いつの間にそうなったのかは定かではない。……ただ、小学校かな? 調理室のような場所で最初、勝手に何かを作っているのを発見して、先生に告げ口した。
すぐ大人しくしょっぴかれていく彼に、ちょっとした罪悪感がわきあがった。
それと同時に、残された何かへの興味。その場に残された私は、同じく残されたお皿を手にとった。
先生のところから帰ってきた彼は、「からっぽのお皿」と私を不思議そうに見比べた。
「ごめんね、でも、許可取らないとダメだと思って」
「知ってる」
無断借用された調理室の真ん中で、その少年は「からっぽのお皿」に目をやりながら、やたらと落ち着いた様子で呟いた。
「君はただしいことをやった」
「……」
「で、うまかった?」
……なんだそれ、と思ったのは覚えていて。
でも、そのときちょっとだけ、楽しくなったのは覚えていて。
そのとき最初に食べたものがなんだったのかは、未だにぼんやりしていてわからない。
けれど、食べた後に『私』が言ったのは夢で見た。
「もったいないよ、調理部作ろう、無断よりよっぽどマシだよ」
「その発想はなかった」
きょとんとした様子で言ったその子は、次のように続ける。
「おれにとっては遊びだから。でも、入ってくるやついるかな」
「いなくてもやるの」
笑った『私』の声は、続ける。
「私も入るから」
――改めて、学校側に許可を取った。2人だけの部活を作った。ああだこうだと言いながら色々なことをした。でも、ほとんど私は食べてるだけだったみたい。
小学校を卒業しても、中学校を卒業しても、ほとんど関係性は変わらない。
相手は好きに作って、私は好きに食べる。
それだけの時間が続いた。
――でも実際にいうと、夢から覚めた「今の私」はそこまで食い意地が張っていない。
だって幼稚園に入って暫くするまで好き嫌いも激しかったし、すぐ残した。
その頃のお母さんの料理は……うん、なぜか分からないけど、ぜんぜん美味しく思えなかった。
頑張って作ってるのは見て分かるんだけどね。
……彼の料理は、正直、夢と現実を比較するのも馬鹿らしいほどに美味しかった。
高校を卒業して、家を飛び出した頃にはもう、既に片鱗はあった。
いつの間にかとても売れていた。いろいろな料理を考えて、実際に作ってしまうのがお仕事になったみたいだった。……つまり創作料理人。
それも、結構凄腕の。
――頑張って自分のお店を持つくらいになったそれはきっと、彼の幼い頃からの夢だったし、『私』の夢でもあった。
その『私』は彼と一緒にいたくて、隣にならび立ちたくて、たくさん勉強した。体が弱いみたいで頻繁に寝込んでしまって、結局長続きしなかったけど……それでもなんだかんだで、楽しかった。
――だって、隣にいるだけで楽しかったんだもん。
気分だけでも追いつけそうな気がしたから、頑張れたんだもん。
彼は何がおかしいのか、ある日、また寝込んでいた『私』のところに忍び込んできて、くすくす笑いながら言ったんだ。
「おれと同じことができるようにはならなくていいんだよ」って。
結局『私』は、何もできなかった。
お皿を洗うぐらい、お勘定をたまにどうにかするくらい。
……それでもいいって彼は言ったみたい。
――その『私』はとても楽観的な性格だったし、おっとりとしていたから、結局勉強を一旦やめてしまった。無理して続けて、また倒れこむ羽目になったら困るのは『私』じゃなくて彼だ。
特に悩んだりしない。
……それでもいいって、彼が笑ったから。
でもある日を境にして、日に日に彼の表情は暗くなっていった。
その辺りの事情はよくわからない。砂嵐みたいにたまになる。流れもハッキリしないし、言葉も聞き取れない。
「……それでいいんだ。後悔しても戻ってこない」
まるで思い出したくもないことから時折目を背けるように。
耳をふさいで「なかったこと」にするみたいに。
「……なら進むだけだ。ここから、再スタートだ」
結局……彼はせっかく出したお店を畳んでしまった。
そのことしか分からなかった。
「……まだおれには君がいる」
途切れ途切れに聞こえる声は、一息に言ったものなのか、それともスクラップをかき集めたものなのかさえ分からない。
「……君がいるなら何処へだっていける。何処でだって生き続ける」
昼も夜も、お店とは違うところで働いて、誰かに相談して……
でも、げっそりとした顔で戻ってきた。
まるで、こぼれていくようだった。
透明な瓶から、せっせと集めた飴玉が。
積み重ねた時間が、愛情が、てのひらからこぼれ落ちていく。
……家からいろいろなものがなくなっていくのはわかった。2人の思い出の本棚、付き合う時に反対されて、お互い半ば家出同然に地元を出たときのトランク、写真立て。
全部売りに出したんだって、見ている側の「私」が子供でも分かった。
――体調が悪いのか寝てることの多くなった『私』だったけど、それでもまた勉強を始めることにした。
なんでもいい。
もう楽観的ではいられない。
「なんとかしなきゃ」、
「ひとりでぬくぬくなんてしてられない」。
……机に向かった。不安のせいか、毎日眠れなかった。食事も無理やり食べようとするけど、なかなか箸が進まなかった。よくもどした。
ある寒い日、突然お腹が痛くなった。
お腹がひどく痛くて、気が遠くなる。
――そこでいつも、ふっと目が醒める。
* * * *
――で、その日。
目を覚ました瞬間から「私」はたいそう機嫌が悪かったらしい。
ああ、いつものことだった。その夢を見たときは大概ムカムカしておさまりがつかなくなる。
「和音ったら寝起きにまたグズってる!」
今とは違ってその時はまだ4つ5つだったので、私が夢を見るたび、面倒の苦手なお母さんは膨れてしまっていた。「そんなんじゃないもん!」……そう思っていた幼稚園の年中さんはキーッと声をあげた。そう、これが本来の私だ。おっとりでもない、体が弱くもない、努力家でもない。
――夢ではない。
今から10年くらい前の現実世界。
ちいさな「私」だ。
「起きたんだったら食べてよね、お母さん、今から町内会行かなくちゃいけないから!」
「い」
――幼い私は口を横に引っ張る。
「や! ……だっ!」
「……嫌だぁ?」
呆れたようにお母さんは言った。
「ワガママ言わないの、お母さんだって時間がないんだから」
「いーっ!」
舌を出す。全力でムカムカを出したって大丈夫な人。それが私の、家族に対する認識だ。
随分「あまえた」な幼稚園児だったと思う。
――ぽかぽかのお日様。忙しぶった大人の背中。
全てにおいていかれているようで、ムカムカが募る。
「……じゃあもういいから、1人で食べといて。行ってきまーす」
ため息と一緒に、玄関ドアの重い音。
「むきー! 何というドライな親だ!」……幼心にそう思った私は奇声をあげながら枕を扉に投げつける。そうして気の済んだところで、ようやく食卓を覗いた。
「……おかあさーん!」
確かそれはチンジャオロースだった。残り物みたいにちんまりと置かれていたそれが妙に腹が立って。またお腹のムカムカがくすぶり返した。
「ピーマンとしいたけ、きらいっていったーっ!」
玄関ドアの向こうはもう無人だろうに。
「おかーさあーん!」
……聞こえるはずもないのに。
私は頭をがしがしとかき乱す。
ああもういい! ぷいっと私は膨れて踵を返す。台所ではなく、布団横のおもちゃ箱に直行する。
返事をしてくれないお母さんなんて嫌いだ。こんなに叫んだらきっと聞こえたはずなのに!
ブスッとした私はその時、視界の隅にそれをようやく捉えた。お父さんの出張用トランクだ。夢の中で売られていったそれと、印象が重なる。
……ああ、そうだ。
思わずニヤッと笑う私。
――家出してやる!
年中さんの行動力と発想力は甘く見てはいけない。これを見ている皆さんは胸にしかと、この勇姿と無謀感を刻んで欲しい。
……やつら、やるのだ。やりやがるのだ。
特に活発なタチのお子様は。
やると言ったときは結局6割の確率でやらかすし、場合によってはやり遂げる。だって小さかろうが発達中だろうが、普通にちっちゃい人間。
すぐに決行! 勿論お父さんのトランクは大きくて、ひっぱることすらままならなかった。
へへーん。でもいいもん。……確かあれがあったはず。
そう、おもちゃのトランク。親戚のおばちゃんからの貰い物……お菓子の詰め合わせが入ってたやつ。食べたあとはそのまま遊べる優れものだ。
お気に入りのおもちゃとお母さんが買い置きしてるお水を入れて、いざ出発。
初めての家出が年中さんとか、結構早い。ませている。
――もしかしたら私、世界一格好いい女の子かもしれない!
そんなウキウキ気分で玄関を飛び出した。
ドアは重いけど、ちょっと踏ん張れば開けられる。……もう、なんでこうまでして重く作るんだろう、みんなの入り口なのに。
……鍵は確か、お父さんが酔っ払って帰ってきて、鍵を「お仕事のところ」に忘れちゃったときに言ってた気がする。
――「こういう時のためにポストの中に隠してあるんだぜ」と。
……ポストにも鍵はかかってるけど、この番号も知ってる。
お父さん、出張で大阪行ったときによく買って帰ってくるもん。
――551。
あ、あいた。
「も――! ぶたまんのことしか考えてないんだからあの人ぉ」
私の住んでる街は観光地だ。お昼過ぎ。明らかに外は人がいっぱい。
――時々蹴っ飛ばされそうになる。大人ってば本当に何も見てない!
石畳のでこぼこした通りで、トランクがなんどもつっかかる。
ああ、余計にかんしゃくが爆発しそうだ。何もかもがムカついた。
……こんな町、大っ嫌い。いいもん、どうせ出て行ってやるもん!
人混みの中をかき分けて、どうにか引っ張るおもちゃのトランク。
――ギャン!!
「あっ」
嫌な音がして、振り返った。
……犬だ。お店の前に繋がれていたそれが、口の端をつりあげる。
足か何かを踏んじゃったみたい。
「ギャオォン!!」
「どうしたチビ?」
なーにがちびなものか!
……怒り心頭で叫ぶそれは、威圧感のせいか私より大きく見えた。店舗の中から犬の名前らしいそれを呼ぶ声は、歯をむき出しにして吼えたてるそれにかきけされて。
「バウゥッ!!」
――暫しフリーズしていた私はようやく、犬の吠える声に追い立てられて逃げ出した。トランクの車輪が外れる音がしたけど、構っていられなかった。
* * * *
「お嬢さん、1人?」
……路地まで逃げ込んで、どこかのお店に逃げ込んだのは覚えてる。そこで、優しい声のお兄さんに声をかけられたのも。
「わんわん……」
気づくと泣いてしまっていた。鼻水まで垂れている有様だった。
「わんわん?」
「わんわん……」
「うーん……わんわん、追っかけられた?」
首を振る。
「……吠えられた」
頷く。――ぷっと噴き出す音。
「そっか、わんわんに吠えられたんだ」
「お外、わんわん、いや……」
泣きながらいったせいで、言葉が巧く出てこない。
「嫌かー」
そこでお兄さんはトランクが壊れてるのに気付いたらしい。「ちょっと待ってて」と引っ込んで接着剤のようなものを持ってきた。辛うじて繋がっている車輪とトランクをつなぎ始める。
「お名前いえる?」
「和音」
「……和音ちゃんはおめかしして大荷物で、どこに行ってたのかな?」
「家出するの!」
「……家出?」
暫くして落ち着いた私は朗々と語った。ピーマンが嫌いなこと。椎茸が嫌いなのにおかずに入れてあったこと。……お母さんが町内会に出かけたこと。その隙に家出してやろうと思ったこと。
「…………。」
「お兄さん?」
「……ふふっ」
「なに?」
――お兄さんはくつくつと笑いながら言った。
「……なーんか、どっかで見た気がするなぁ、その理由……」
「えええ、ぱくってないもん、私だけのオリジナルだもん!」
合点がいったような、苦笑いするような。微笑ましいものでも見るような。
「その家出は1人でだったの?」
「1人」
「仲のいい子は?」
「ゆうちゃんのおうち遠い」
「ゆうちゃんは女の子、男の子?」
「女の子」
お兄さんはへえ、と頷いた。
「……好きな男の子とかいないの」
「いない」
私はふと目についたものの前にトコトコ駆けていった。……大きな砂時計。でも、なんだか砂が全然足りないような気がしたのは覚えている。
「ゆうちゃんは置いていってよかったの?」
「寂しいけど、家出ってそういうもんじゃないの?」
「シビアだ……」
「こんせきをのこさないようにできるだけ遠くに逃げて、かつ通報されないようにするんだよ」
「リアル家出!!!」
なぜか衝撃を受けたようにお兄さんは言葉を発した。
――最近の女の子怖すぎない!? と呻くお兄さんは、少し頭を抱えながら言った。
「たぶん小学校もまだでしょ、和音ちゃん」
「幼稚園もやめたけどね」
「それは無断で退園したの?」
「だって幼稚園やめるって電話かけたら」
「うん」
「……死んじゃう」
なぜそう言ったのかは私も覚えていない。でもそういうルールだったのだ、子供のときの私の世界は。
だって先生は怖い。金切り声で怒られたら、私の負けだ。
お先真っ暗。全部終わり。
「……意外とすぐ死ぬからね人間」
「だから電話しなかった」
「そっか」
謎理論でもとりあえず納得したらしいお兄さんは、接着剤を少しずつ出しながら頷いた。
「で、これが直ったら家出は再開?」
「……でもわんわん怖い」
「休憩したら?」
「その方がいいかも」
と、そのとき、何かに気づいたようにお兄さんの手が止まった。
「……これ、鞄のベルトのつもり?」
そう、よくトランクキャリーについてるベルトを真似てお気に入りのリボンを巻きつけたのだ。
「うん、ぜーんぶやったの! ちょうちょ結びもできるんだよ!」
「それはすごいね」
「どうしたの?」
「…………。」
ちょっとだけ、変な感じがした。
「……和音ちゃん」
「なあに」
「スタンプって知ってるかな」
「しってる」
先生がよく連絡帳にくれるやつだ。
「今日は前回りができました」とか、さんかくとびができましたとか。
「……もしおれたちの見てる人間が、紙に押された『結果』にすぎないとして」
ぽつりとお兄さんは呟く。
「スタンプの型自体は、前に押した『結果』のことを……どう思うのかな」
「……?」
「いや、何でもない」
少し笑って、お兄さんは言う。
「その、分からないだろ、なんでもない」
変なお兄さん。
暫く黙り込んでしまって、風の音がする。
遠くの方で鳥の声も。
「ねー」
退屈した私は言う。
「……お店の中探検していい?」
「いいけどー、そうだなあ」
お兄さんは一度トランクを床に置くと、立てかけてあった長箒を厨房の前に転がす。ちょうど目隠しになっていた、暖簾の下くらい。
「この線から先は、奥に入らないこと」
「なんで?」
お兄さんはおどけた感じに説明した。
「壁をドーン! ってやったらグサーって包丁が落ちてくるかも!」
「やらないよー」
「本当に? 死んじゃうぜ?」
想像してみる。死ぬ。死、死……
ふっとあの夢を思い出した。夢の終わり。
……お腹……。
「やだ」
「やでしょ?」
「……死ぬのはやだ」
――きっとお腹痛くなるんだろうな、と思った。
あれはなんでだったんだろう?
包丁が落ちてくるというなら、頭とか、よくて手だとか、足だとか。そういう想像をするはずなのに。
「だったらやめときなよ、いいことないから。痛いぞー」
「痛いのやだ」
それでも私は暖簾の外からも見える大きい銀色の塊を指差す。
「……じゃあ、ここだけみてもいい?」
「冷蔵庫なんか気になるの?」
「これ、冷蔵庫?」
「何だと思ったの?」
うちにある家庭用よりもよっぽど大きい、キラキラ光る扉だった。今から考えたらよくある業務用冷蔵庫だ。
「……秘密の扉」
「秘密の扉はないなあ。うち、忍者屋敷じゃないし」
箒の柄からはみ出さないように首を伸ばす私に苦笑いして、お兄さんが背中を押した。
「ちょっとだけ中入っていいよ」の合図だ。
「何入ってるの?」
箒の場所から足を踏み出せば、「悪いことしちゃった!」という感覚がぞぞぞっと背筋を走る。
……一度決めたルールは視覚でハッキリ見えると、ちょっと怖いものだ。特にあれだけ脅された後だし。
「……あけてあげるから見てみな」
ザッ、と低い音。
漏れるひんやりした空気。でも、パッと見た瞬間……思った。
「……赤いのが足りない」
「赤いの?」
「あのね」
――深く考えたわけじゃない。
でも、口からひとりでに、「次の言葉」が出る感覚だった。
「カレー屋さんでよくみるやつ!」
「福神漬けかー、ここにはないかもなー。……さあ、おしまい。線から出た出た」
「本当だよー、赤いのが足りないのー」
「はいはい」
……箒の線から外に出る。
一歩一歩遠ざかったら、緊張感が薄れていった。
* * * *