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★#4 孫の矜持、おせちの小鉢(下)



「お――じ――い――ちゃ――ぁぁん!?」


 早朝の電話事件があってから数か月。ようやく祖母も落ち着きだして暫く。

 ――その日、私は街中でタッタカタッタカ早足の祖父に向かい、キレ気味に声をかけた。


「一人でさっさか前に行かないの!」

「うーん!?」

「うんじゃない、行動が伴ってない!」

「うーん!」


 ……あれは、聞いちゃあいない。というか聞いちゃあくれやしない!


 彼からしたら「可愛い孫が何やら生意気言っているぞー」ぐらいの認識なのだと見て取れた。私からしたら必死なのに。


 100メートルほど先をタッタカタッタカ歩いていく元気な酔っ払いに、最近急激に体力のなくなってきた祖母のゆっくりした歩み。


 ……ああ、差が開いていく一方! どうしてくれる!


 私は祖父を見失わないように必死だ。――やめてほしい。自分の足の速さくらいどうにかしてほしい。

 そもそも目的地すら教えてもらっていない上、機械音痴の祖父はガラケーすら持っていない。そしてはぐれたら何をすべきかも打ち合わせがない。


 ちくしょうめ。


「ねえ!」

「うーん!?」

「おばあちゃんに合わせるって気はないのか!?」

「うーん!?」

「うーんじゃない、聞いてよじいさん! 頼むからこっち見てものを言ってください!」

「うーん!」

「うーんしか言わねえなこの酔っ払い!?」


 ……そもそもこの祖父。

 外食が昔から死ぬほど好きで、毎日のように祖母を連れてランチに出かけるのが定年後の日常だったと聞いている。……つまり毎日がおデートだ。よくもまあこんな調子で毎日ランチに行くなと思う。


 今日だって祖父がだだをこねた。

 「出かけるぞ!お昼やァ!」なんていきなり居間に飛び込んできて、有無を言わさず祖母に帽子をかぶせたのが発端。


 ……うん、この2人でランチ。今なら全くあり得ない。というか、ものの数秒で目的地を忘れるぐらいには症状の悪化している祖母だ。

 あんな祖父に任せるかと思うと、ものすっごいヒヤヒヤする。絶対途中ではぐれて、どこかに保護されるのがオチだろう。


 で、ちょっと困ったのが……


「なんやァ!」

「……どしたん……」


 祖母の手を引いて、祖父を見失わないように目を凝らし、ピリピリし……とにかくへろっへろになりながら辿り着いたのは、いつものお店のひとつだった。


 ――行きつけのうどん屋さん前。


 目に見えて憤慨する祖父にようやく追いついた私は聞き返す。

 いや、聞き返すまでもない。よく見ると……


「『誠に勝手ながら、私用により本日は閉めさせていただきます』……」

「閉めるなら閉めるて電話せんかいなっ! わしやぞ!」

「いや、誰やねん……」


 祖父はそこまでスーパースターでもないはずだし、影響力などない。無名中の無名だ。少なくとも現代では。


「決まっとろーが、わ・し・や!」

「……強調すな、何サマやっちゅーねん……」


 影響力があるとしても退職した元職場のOB会に出席しては好物のビールやウィスキーを頂戴し「OB最長老・藤崎さん、我が社の生き字引!」なんて社内新聞に載るぐらいが関の山だ。


「というか常連一人一人に電話する蕎麦屋なんて聞いたことないのですが?」

「うどん屋ですわ」

「ああ、うどん屋やったわ」


 半端な方言で冗談を返す。イントネーションが合ってるかどうかはともかく、東京出身でもつられて混ざるは混ざる。……そうね。ここ、関西だもんな。

 関西といえば粉もんの印象。和食のイメージこそあれど、実はご飯よりパン派が多い。――そりゃ蕎麦より小麦だ。うどん中心の名称にはなるか。


「……入らないの?」


 祖母がおっとりと呟いた。


「うん、扉に書いてあるの。おやすみだって」

「あらまあ、どうしましょう」


 最近の祖母は目の前に手紙が貼られていたとしても、うまく手紙の存在自体を認識できないことがある。事態を把握できていなかったらしいポヤポヤした祖母に、私は言葉を返す。


「大丈夫、おばあちゃん? まだ歩ける?」

「……大丈夫よ?」


 ぽややっとした遠くを見ながらの発言に、私は頷いた。言葉半分のようにも聞こえるし、見える。が、いつものことだ。

 ……日頃から見ていたらちゃんと分かる。おばあちゃんはこう見えて、ちゃんと聞こえているし返事もしている。

 ただ頭が働いてないだけだし、あとで覚えてないだけなのだ。


「よし、じゃあ他のお店行こうか!」


 気を取り直してカラ元気の声を上げれば、ご機嫌斜めのじいさまが目を吊り上げた。


「カーッ! 他に何があんねんな!?」

「怒らないのこんなことで。カラスか。……ええと、ドーナツ屋と、カツ丼屋……あとバーガー屋さんかな、この辺は。でもおばあちゃんの好みじゃないなあ」

「……なんでもいいよ、私は……」


 この期に及んで気を遣う……というか元気なつもりで言ってくれる祖母だが、残念ながら今の祖母は「ストレス」に弱い。

 苦手な食べ物を口に運んだり、意に沿わないことを我慢してやってしまうだけで、心の中の「何か」のバランスが崩れるらしく、その夜いきなり過呼吸を起こしてパニック状態に陥り、足腰が立たなくなったり、些細なことでキレてしまったりするわけで。


 ……キレるのはもう慣れてるからいいですけど。私が来た当初は暴言とか多かったわけだし。


 まあキレッキレはともかく、体の不調のほうが気になる。

 これも恐らくはキレるのと同じ原因だろう。自責からくるストレスだ。


 なぜ我慢したのか? なぜこうなったか?


 その経緯がすっぽ抜けてイライラする。すっぽ抜けたことにもなんとなく気付いてしまってイライラする。

 ……だから体調だったり、最終的には体の動き方に出る。

 そうして数時間布団から起きれなくなったりするのだ。そうなると様子を見ている私もそうだが、当人も辛い。


「おばあちゃんだって美味しいもの食べたいでしょ! 大丈夫大丈~夫。他に探すから……」


 ――と、ふと気付いた。

 メインの通りから少し外れた路地のところに、見慣れない看板が見える……


「おじいちゃん、あれは? レストランみたいだよ」

「何の店やッ!!」

「か、噛み付かれたって知らんよっ」


 ……飲食店には間違いないらしい。中を覗き込むと客はいない。お昼時なのに不思議な感じだ。


「この辺、詳しいのはおじいちゃんの方でしょ」

「フン、なんや知らんが入ったるわっ」

「……だからなんで上から目線よおじいちゃん」


 あんたは天上人(てんじょうびと)か。


「いや、ホトケのケンさんや!」

「……誰が言ったんや、そのネーミング」

「行くでぇ」


 にやりと祖父は笑う。


「……ちょっとした、大冒険や!!」


 ……祖父、藤崎ケン、そろそろ米寿。

 たまに不思議と悪ガキに見えるのは気のせいだろうか。





「あ、いらっしゃいませー」


 チリンチリン。

 ちょっと古そうなドアベルの音と一緒に店内に入ると、店員さんは一人だけだった。

 やっぱりというべきか、他にお客さんもいない。何故だろう、お昼時なのにな? ……テーブルは多いのに、不思議なことだ。


「ハイッ、3人でぇ!!」

「お好きな席へどうぞ?」


 若い店員さんがにこりと笑った。もうちょっとおしゃれしたら、ファッション誌でも飾りそうな見た目だ……いや、でもそれっぽい空気がない。

 存在感っていうか、まるで空気みたいだ。少なくともモデルさんみたいな経歴はないだろう。

 そう思いつつ、着席すると――祖父がいきなりインタビュー口調で聞く。


「ここってズバリ、何しよるお店ですの?」

「ああ、家庭料理とか洋食が中心ですが、基本的になんでもやりますよ」

「はあ、さいでっか……で、オススメは?」


 ……そもそもの話、この祖父は元ライターだ。新聞のちょっとした記事だったりコラムだったりを長く担当していたので、フリートークと見せかけて色々なものを聞きかじる癖がある。


「そうですね。気まぐれランチなんかどうです?」

「どこや」

「メニュー外なんですが……ここ」


 リーフレットを指し示す手。


「ワンコインと250円」

「しめて750円か」

「そうですね」


 気まぐれランチ? ちょっと気にはなる。が、それはともかく隣につられて据わった祖母の様子を見る。もしかしたら自分がどこに入ったかいまいち把握できてないのかもしれない、ポヤーっとした祖母。だ、大丈夫かな……


「普段の客層とかはどんな?」

「そうですねえ……」


 自分の奥さんでしょ、ほっとくなよ。

 そう言いたくなるぐらいガンガンと店員さんをせめにいく祖父。ああ、真逆すぎるスタイル。

 あまりに祖母そっちのけな祖父に呆れつつ……私は祖母に話しかけた。


「随分歩かせちゃったね、疲れてない? 大丈夫?」

「……大丈夫よー」

「トイレは?」

「……うん……」

「何食べたいとかある?」

「うん……」


 ああー駄目だ、ぼうっとしている。


「他ァないんか?」

「でしたらビーフシチューとか、オムライスとか」

「あの」


 とりあえず、質問。


「塩分抑えめの、あっさりしたメニューはありますか?」

「和食とかですかね?」


 店員さんはリーフレットをテーブルに戻し、分厚いメニューの中ほどを開いてみせてくれた。


「この辺りならひと通りできますが、どうしますか?」

「……だってさ、おばあちゃん。お昼ご飯決めよう。写真もあるから、ほら、お好きなものをどうぞ」

「……?」

「どれが一番美味しそう?」

「…………」


 祖母は元来なんでも食べる人だったが、最近食の好みが変わってきている。特に脂っこさとしょっぱさを強く感じるようで、「辛い」といって残すことも増えた。


「…………」


 それでなくても食が見る見る細くなっているのが目に分かるのに、その上舌に合わなかったら……ちょっと悲しい。


「で、何食べたい?」

「……なんでもいいよー」


 やっぱり反応がすこぶる悪い。普段入らないお店だから、ちょっと混乱してるのかもしれない。……恐らく今頃は「うどん屋さんが休んでた」の経緯も忘れて、頭がフル回転してるに違いない。「ここはどこ?」と。


 そう、意識的には、「迷子」と同じなのだ。



「なんでもいい? ……わかった。じゃあすみません、タケノコとキノコのかやくご飯一つ」

「ん、はい」

「小盛りでってできますか?」

「できますよ」


 ……残してしまったら申し訳ないし。もし足りなさそうなら私のを少しあげればいい。


「わしはビーフカレーっ!」

「辛さは?」

「中辛!」

「はい、かやくご飯の小盛りと、中辛のビーフカレー。それで……」


 そうだ。私も何か決めないと。

 私は……


「……ああ、まあ」

「何よ」


 何か言いたげに祖父が咳払いする。


「……『お疲れさん』ってことですわ。彩ちゃんの好きなもん頼んだらええがな」

「へ?」

「あ、えー、だから。そ、そのー」


 いきなりもじもじと頭をかきだした祖父に、私はジト目を向けた。

 ところでお風呂は入ってますか? 給湯器の使い方忘れたとか昨日言ってた気がしますけど、フケがついてますよおじいさん。

 使い方忘れるぐらいだからお風呂入るの、もしかして億劫になってない?

 大丈夫、あなたも介護されちゃう?


 ……いや、さすがにもうちょっと頑張りたまえよ?


「い、いつもありがとう、感謝してるわ……」

「…………」

「なんや?」

「……あの。槍でも……降るのでは?」

「なっ!?」


 あまりに祖父らしくない言葉を聞いた私は、祖母よろしく頭の中から今の一言を消し去ることに決めた。


「……なぁにをーぉ!?」

「いーっつも私の言ってることとか絶対聞かないのが悪い。私にだって聞かない権利はある」

「な、何でや……」


 ……嘘だ。暫く覚えとく。嬉しいは嬉しい。

 いつも振り回されるのは私だから、何も言わないけど。

 というかなぜそんなにもショックを受けた顔をするのだろう。自業自得でしかないのに。


「じゃあ、じいさんは置いといてご飯決めよ……」

「そんなせっしょーな……」


 はいはい、だまらっしゃい。普段が褒められた言動をしない人が悪いよ。信用度ゼロよ。


「えーっと、じゃあ、私はさっき店員さんの言ってた……」

「さっき言ってたってことはオムライス? それともシチュー?」


 ゆっくりした祖母の返答やら祖父の壮大なボケに散々待たされたはずなのに、明るくおどけた様子の店員さんに若干ホッとして、私は顔をあげた。

 優しい顔の店員さんはリーフレットを指し示す。


「それともこれ?」

「あ――そう、それで」


 『好きなものを当てることができます。店長の得意技!』そんな手書きの文字を見ながら、私はぽつりと言った。


「……気まぐれランチ、一つ」


 ……若干、照れた心地になりながら。




    *  *  *  *




「……おじいちゃん、そこのラックに新聞があるみたいだよ」

「おお」


 チョイチョイ、と手を出す祖父。


「……自分で取りなさいよ、一番ラックに近いの自分でしょう」

「ん!」


 やはり手を出す祖父。……やれやれ。


「……お疲れさん、って言ったの、誰だったかなー」


 この中で一番元気いっぱいなのはきっと祖父だ。違いない。何せ元々がアウトドア系の水泳大好き少年だ。新聞にコラムを書き始める前も、実をいうと元々はスポーツ欄の配属だったらしい。


 対して私は運動音痴の、勉強音痴。


 ……うん、祖母にも祖父にも似ていない。

 母には来たんだけどな、両方の才能。走れば速いし泳いでも速い。

 座学は何やらせてもピカイチで数学大好き。


 全てをケロっとこなしてしまって――だからこそ、いつまで机にかじりついても教科書の意味すらうまく噛み砕けない私が、いつまでも母には分からなくて。

 勉強を教えてほしいと言っても「私は教わらなくても分かったけど?」と言われ。そして、返ってくる答案用紙に言われる一言。


 「やる気がないだけ」。


 あー……図工と国語だけそこそこできる、落ちこぼれかぁ……。



「……ちょっとトイレ行ってくる」


 ……うん、頭が痛くなってきた。いつもの癖だ。考えるのが苦手なくせに、考えても仕方のないことばかりを考えてしまう。

 「理解してほしい」なんて思わない。

 私もそうだった分、他の人なんてどうせ、理解できないものなんだ。


 ただ、理解できるかはともかくとして。理解されないのは慣れてるとして。

 ……その、私の()()()()()()()()をいつか理解してみたいと思うのは、また別だと思うけれど。


「あの」

「なんでしょう」

「今更なんですが、ちょっと追加注文いいですか?」


 本当にトイレに行くつもりではあったんだけれど、近くに厨房が見えて目があったので、声をかけた。


「どうぞ」

「ビーフカレーの方、味を濃いめって……お願いできますか? 駄目ならいいんですが……」


 そう、年々味が濃いものが駄目になってきている祖母とは逆に、祖父は何故か味の濃いものにしか反応しなくなってきている。

 店員の彼は目をぱちくりとさせて……少し考え、頷く。


「できますよ」

「じゃあ、かやくご飯は」

「ああ、薄めですよね? 勿論。少し時間はかかるかもしれませんが」


 味覚の老化現象というのは不思議だ。なにせあの祖父が「醤油の海に沈める」、もしくは「ウスターソースでダークマターを生成する」のどちらかしかしない横で、祖母が「味が濃い」「辛い」と箸を置いたりしている。


「……お願いします」


 だが、出来の悪い私と違ってあの2人はきっと優秀な少年少女だったはずだし、青年だったはずだし、往年だったはずだ。

 何をやらせても半端な私と違って、きっと「誰かの役」には立っていたんだ。

 ……あんなに頑張ってるんだから、ちょっとくらい、わがまま言わせてほしい。


「……お手数をおかけして、申し訳ないです」

「いえ」


 勿論、どれだけ面倒くさいことを言ったかは分かっている。カレーの味を足せはともかくとして、かやくご飯……関東風に言えば五目の炊き込みご飯だが、味を薄めろだなんて簡単に言えることじゃない。


「……『美味しいご飯を食べてもらいたい』」

「え?」

「これは」


 店員さんはさらりとした表情で振り向く。


「あなたも同じでしょう?」

「……」

「どうです?」

「……はい」


 店員さんは少し笑う。


「……炊飯器じゃなくて鍋を使えば、お米なんてすぐに炊けます。大丈夫。あなたは、いつもよりちょっと力を抜いて過ごせばいい」

「力を抜いて?」


 ……言っている意味が、よく分からなかった。


「そう、あなたの見ている景色はきっと、人よりちょっと鮮やかだから、目が疲れちゃうんですね」

「……どういう?」

「青はもっと青く見える。緑はもっと緑に見える。そういうことです。ミクロ視点。細かいところによく気付いて、その分歩みがゆっくりになる」

「…………。」

「……ゴールが、遠く見える」


 分からないながら、推測してみようとする。理解してみようとする。分からないものがあるのは嫌だった。せめて、「考えてみたけど分からなかった」と言えるだけは理解したかった。

 ああ、いつものことだ、きっと……私がバカだから分からない。


「…………。」

「……うん。多分、すごく尊敬してるんだなと思っただけですよ。傍目にはどこにでもいる、ごく普通の老人に見えるあの2人を」


 店員さんは鍋に火をつけながら言った。


「だから細かい好みまで把握してるし、そこまで気を遣う。不満げにしても強く言わないで、立てようとする」



  ――彩ちゃんは私の知らないものを知っている。私の見えないものが見えている。



「……あなたはきっと、人とは違う視点を持っている。縮尺をもうちょっとミクロに見ている、細かいところに目が行く人なんだなと思って」


 なんとなく、祖母の言った言葉を思い出した。いつかのそれ。

 褒められているのは、なんとなくわかる。

 でも、私は呟いた。


「……考えすぎでは?」

「そうでしょうね?」


 クスッと笑ってその、不思議な店員さんは言った。


「でも、そこまで考えてしまうのがおれなんですよ。ところで……あなたは?」

「……え?」

()()()は」


 トイレの扉に手をかけていた私は、そのときふっと振り向いた。


「――あなたから見て、どんな人ですか?」

「…………」

「忘れていや、しませんか? ――笑うこと。怒ること。泣くこと」


 ――喜怒哀楽。


「素直に、表に出すことを……ずっと忘れていませんでしたか?」



  ――「普段声に出して怒らないだろ、お前」


 いつか聞いたそれが、耳の奥で響いた。




    *  *  *  *




「おまたせしました。ビーフカレーと、かやくご飯の少なめ……それから」


 コトン、とおぼんが私の前に置かれた。


「気まぐれランチ、おせち風の小鉢セットです」


 ……びっくりした。


「ほお……」


 祖父が目をパチクリとさせる。


「えらい手間数ですな、難儀しましたやろ?」

「ふふっ」


 店員さんは少し悪戯っぽく笑う。まるでズルをした男の子みたいに。


「……意外とそうでもないんですよ?」


 私はお盆の上に目を戻す。

 ……黒豆。昆布巻き、紅白なます。くりきんとん。数の子の醤油漬けに、いくらをのせた、ゆで卵。

 それは――少しだけ、盛り付けは違っていたけれど。

 飾り切りの仕方も違っていたけれど。


 昔に見た、あの光景だった。



「……なんでこの季節におせち?」


 思わず呟く。――いや、確かに好物だ。藤崎家に来るたびにせがんだ、あの『手作りおせち』。


「……お正月だものね、彩ちゃん」


 季節感をなくしてだいぶ経つ、今日の日付も気温も忘れてしまう祖母が、次の瞬間、正しい言葉を吐く。


「……おせちのお重、好きよね」

「……あ……」


 ――覚えててくれた。


「あのね」


 祖母が口を開く。


「ちいさいとき、あなたが……あんなに目を輝かせて作るところを見ていたから」


 ……忘れていた。長いこと、忘れていた。


「食べるときもあんなに嬉しそうにして。……だから、たとえ準備に手間暇がかかっても全然、苦じゃなかったのよ」


 ……祖母は、ずっとそういう人だった。


「私にはもう、あんな笑顔は作れないから」


 幼い頃に見た、ある光景を思い出した。

 ……市内をめぐるバスに乗っている、小学生の私。それに何かを言って笑わせた祖母は、その直後……どさくさに紛れて前の席。見知らぬお母さんに背負われていた赤ちゃんを、コミカルな表情ひとつで笑わせた。

 ――バスを降りる直前、赤ちゃんはニコニコしながらバイバイしていた。



「……私はね、子供の笑顔を見るのが好きなの。未来のいっぱいある……これから色々なことを経験する、素敵な赤ちゃんの記憶に。笑ったこと、楽しかったことがいっぱい残りますようにって」

「うん……」

「あなたも同じね、彩ちゃん。大人の笑顔が好きだから、ずっと描き続けたのよね」


 そうだ。最初はきっと、そうだった……


「絵を、描かなくなっても……口で表現し続けたのよね」


 ……絵が、誰の期待も越えられなくなった頃。「もっと上手いやつたくさんいるし」と切り捨てられることが多くなった頃。


 国語の授業で、人に言われたことがある。

 「音読、綺麗に読むね」、「声優さんか、アナウンサーさんみたいだね」。

 ……安易な話だと思う。それを聞いて天狗になったのだ。


 絵がなくてもいい。

 また、誰かを笑わせられる。役に立てる。ただ、そう思ったのだ。



「――好きなものを追うことはいいことよ。彩ちゃん」


 祖母は言った。


「若いあなたにしかできないことが、まだまだちゃんとあるんだから」


 ……いつも、背中を押してくれたのは誰だっただろう。電話口で朗読の練習を聞いてくれたのは。声のことは分からないけど、と言いながら耳を澄ましてくれたのは。


「……私にはもうできないことが、あなたには全て、まだできるから」




 あの後、この家に来て。

 ……日に日に、『出来ること』の少なくなっていく祖母を見た。


 ……時計を見て、「あっ、こんな時間」と立ち上がらなくなるそれを。


 ……あれだけ似合っていたエプロンもしなくなり、楽しそうに握っていた雪平鍋も触らなくなって……台所にも立たなくなるそれを。


 ……彼女が、アナログ時計を読めなくなったのはいつだったろう。外の明るさに気づかなくなったのは、いつだったろう。


 そういえば、の話だ。


 夜中に部屋の扉が開いた音がして、そうっと追いかけて行ったら不思議そうな顔で言われたことがある。



  ――「彩ちゃん、お昼なのに誰も起きてこないのね」



 ……びっくりしたが、時計の文字盤は確かに3時だ。



  ――「おやつの時間なのに、残念ね」



 ……ああ、合っているといえば合っている。お昼の3時だと思ってしまったのか。そう思って口を開いた。



  ――「おばあちゃん、さっきまでぐっすり寝てたから、寝ぼけちゃったかな? 夜中の3時だよ」


  ――「あら……」


  ――「外、まだ真っ暗だよ。見てみようか」



 ……「何言ってるの、お昼だよ!」

 そんな言い方をしたら、傷ついてしまうのを知っている。あとで溜め込んで、ストレスになるのを知っている。

 私に対してそれをぶつけるのはまだいい。怒鳴られるのは慣れている。

 ……でも、それで一番自己嫌悪に陥るのは。耳の遠くなり、大きくなった独り言で「なんであんなことを」そう呟くのは――


 祖母、自身だ。



  ――「……そうなの?」


  ――「うん、大丈夫。戻ろう」



 ちゃんと、バカにした言い方にならないように現状を説明する。きちんと納得してもらって、初めて私は彼女の手を引っ張れる。



  ――「……ねえ、おばあちゃん」


  ――「なあに?」


  ――「最近、足元おぼつかないから階段大丈夫かなって心配しちゃった」


  ――「そう?」


  ――「うん、心配しちゃう。だから次は私も呼んでよ。一緒に夜更かししよう。秘密の時間に2人でおやつを食べよう」


  ――「……はははっ、そうね! いいアイデア!」



 ……祖母だって、必死に今、出来ることをこなしている。できてないことに気がついたら慌てている。

 「前は完璧だったのに!」そう焦りながら。

 ……そう、夜中のあれが多分、明確に時計を読んでいた最後の記憶。

 ああ、ちゃんと見ていた。お昼でなく夜中の3時ではあったけれど。


 彼女なりに何かをしようとして、衝動のまま寝室を出て行ったのだ。




「あのね」


 目の前の祖母は言う。今の、現在の祖母は、口を開く。


「彩ちゃんが人を好きなのはいいことよ。いいことなんだけど……なんていうかなあ……」


 私の前に置かれたおせちの小鉢を見ながら、久々にハッキリした口調の祖母は言った。


「……好きなもの以外を、全部捨てちゃ駄目」


 祖母は、分かっていたのだろうか?

 ……私が自分を責めたこと。私が、祖母を壊したと。もう戻らない時計の針を進めてしまったと。だから殺した。自分を殺して、殺して、殺して、先に進み続けた。


()()()()()も、全部あなたの一部なんだから……」


 ……この家に来る前だってそうだ。

 私は「自分が嫌い」だった。だんだん誰も笑ってくれなくなる。絵が上手い、声が綺麗、読み方がいい。そうして楽しんでくれた誰も彼もが、私のそれを「これくらい出来て普通だ」と思うようになっていく。


 ……「今まで散々やってきたんだから、それくらい出来るのは当たり前」

 ……「もっと巧い人は巧いよ」


 自分なりに頑張っても、加速していく、増強していく、そんな人の「期待」に追いつけない。喜ばせたいのに、笑ってほしいのに。ガッカリされる。そんなものかと言われる。段々飽きていく。もういいよと言われる。


 ……そんな顔をさせたくて今までやってきたんじゃない。私が悪いんだ。皆の期待についていけない私が。


 どこにいっても、出来の悪い、私が……



「……あなたが嫌いな、あなた自身も」


「……うん」


「あなたが好きなものがたくさんある、この()()()の一部なんだから。それを忘れちゃ駄目よ」



 ……祖母のように、母のように。

 人の期待を超え続けられない、私が。


「…………。」


 ああ、そうだ。

 おばあちゃんは、こういうときだって私の予想を超えてくる。


「……あのさ、おばあちゃん?」


 カラカラに乾いた口が、少し笑う。そうして、ひとりでに言葉を紡いだ。


「――だって私、悪いやつだよ?」


 涙がポロリとこぼれた。


「……私がいたからだ。そこに、ちゃんと生きてたのが悪いんだ」


 命に罪はないと思う。私以外は。

 無知に罪はないと思う。私以外は。

 ――他人は許せても自分は許せない。


 「普通はもっとできるのに」と言われ続けた。その『普通』が母にとっての普通だと。もっと言えば、『祖母を見てきた母』にとっての普通なのだと知ってもなお……私には、それが眩しく見えた。


 私がいくらやっても『普通』には敵わない。


 他の人ならもっとできた、私なんかがいるから、誰かの邪魔になる。うまくいかないんだ。

 ……そう思うことが、多すぎた。


 私のような落ちこぼれでなく、もし、誰か違う人間がこの人の孫だったら。

 私みたいなやつに、人生を邪魔されなかったら。



「許せないんだよ。情けないんだよ。甘ったれた孫でごめん。――私がいたから、おばあちゃんを壊したんだよ。私なんか帰ってきたから、こんなことになったんだよ。どのくちで、どのツラ下げて藤崎のお家に居ればいいんだろう。そう思いながら、今まで生きてきたんだよ」



 ……ようやく言えた。口に出して、謝れた。



「……ごめんなさい」


 悔しかった。何度だって口にしたかった。


 ……どこでだってそうだ。半端にそこにいるくらいなら、いなければ良かった。周囲に期待されるくらいなら、期待なんてさせなければ良かった。だったらガッカリなんてさせずにすんだんだ。

 絵だって、それから声優だって、演技だって、なんだってそうだ。

 行き詰まりを感じるくらいならいっそ、全てをやめてしまえばよかったんだ。


 逃避を理由にこんなところに来ずにすんだんだ。東京に残って負け犬らしく過ごせば良かった。老後の幻想を、平穏な日々を。……私がここに来ることでぶち壊してしまわなければ、あるいは。



「……あのね、彩ちゃん」


 祖母が何を思ったか、私に言う……


「……私、春には言えないことも、あるのよ」

「お母さんには言えないこと?」


 ゆっくりと、少しずつ。


「……ええ、彩ちゃんにだから言えるの。彩ちゃんにしか、言えないことなの」

「うん」


 何が言いたいのだろう。私にでも聞けることだろうか。私なんかが聞いていいものなんだろうか。

 ――私は、わからないながら耳をすました。


「……私、春がいてくれてよかったわ。愛想のない子だけど、大切な娘よ」


 そうだね。お母さんは、きっと自慢の娘だね。きっと、きっと。

 私と、違って……


「でもね」

「うん」


 祖母の声は少しだけ、明るく――


「……彩ちゃんがいてくれて良かったわ、だって今は、ほんとうに幸せだもの」


「え……」


 ――笑った。花が咲くように。彼女の描いた絵のように、彩りを持って。



「……あなたはね、あなた自身がなんと言おうと、大事な孫よ」






    *  *  *  *




「ごちそうさまでした」

「ごっそーさんでしたぁー」

「またどうぞー」


 ……目が、しばしばした。まだ涙は乾かない。お店が離れていくにつれて、立地がおぼろげになっていく。どこにあったんだったか、記憶が定かでなくなっていく。でもそれでもいい。暫くはもう、他のことなんてどうだっていい。


「彩ちゃんそれなあに?」

「……さっきのお店、美味しかったからレシピをもらったの」

「あら、いつの間に。ちゃっかりさんね」


 私は頷いた。……手の中にあるメモは、宝物に思えた。家に帰れば祖母は疲れて寝てしまうだろう。勿論そうでなくたって今の祖母にあのおせちの作り方を教わるのは、かなり難しいことだった。


 ……何せ調子にもよるが、大抵は2分前のことですら忘却の彼方なのだ。順序だてて細かい工程を説明するなんて、よっぽど調子が良くないと難しい。


 “今、自分が何をやっているのか分からなくなって、結局やめてしまう”。

 そんな様子だろう流れは目に見えている。


 と、そんなことに意識を割いている時間もなくなったようで……



「……コラ! どこ見て歩いてんだジジイ!」


 ハッとした。

 ……自転車のブレーキ音!


「なんやとぉ!? ここは歩行者優先やぞ! あんたの方がジジイやろーが!」


 気がつけば、自転車に轢かれそうになっていた祖父のキレている姿が見えた。


「なんや、逆ギレか? シバいたろか? あぁん?」


 怪我がないから良かったが、私からすると泡を吹く寸前だ。すると……私のすぐ横から。


「――こら」

「えっ」


 どすの聞いた声がした。


「ケンさんッ!!」

「はいぃっ!」


 ビクッ!

 ……少し前まで尻に敷かれっぱなしだったらしい祖父の肩が、リンゴ一個分、ぴょんと跳ねた。私は横からいきなり飛んだ「叱りつけるような声」に思わず驚く。ついでに思い出した。


 ……ああ、そういえばこの、チャランポランな祖父……元々は。


「な、なんやババア……その気迫は……」

「うふふっ」


 ……元々は、『気の強いお嬢様』だった祖母にべた惚れして、猛アタックを繰り返したんだったか……

 不敵に、凛と笑って一時的な復活を遂げた祖母がハッキリと言い放つ。


「――ババアです! うちの主人が大っ変、失礼しました!」

「……」

「ケンさん帰るよっ!」

「はいー!!」


 ……まるで悪役の三下だ。慌てて引き上げる祖父はやけに素直。さっき私が声を荒げ続けたのはなんだったのか。そして。



「…………?」



 ……あっけにとられた、それに思う。

 ごめんね、自転車のおじいさん。否、ババア呼ばわりしてくれたジジイ殿。


 たまに「昔の調子」が戻ってくるとさ――結局、スーパーウーマンなんですよ、うちの祖母。



「傘をふり回さないの、みっともない」

「はいっ」

「赤信号ですよ」

「はいっ」


 私が何か口に出すより、よっぽど言うことをよく聞く祖父。いつもの聞かん坊の、素直に言うことを聞く姿に思わず、ほうっと胸をなでおろした。


 ……ああ。

 まだまだ、祖母には敵わない。


 スマイル、頭がすごくハッキリした覚醒状態……上機嫌の祖母は振り返って私に告げる。



「……彩ちゃん、帰ろ!」



 ……認知症には、波がある。

 直近のことから次々に忘れていくせいで連続性の取れない思考が、突如普通に「まとまる」。

 突然何かがスイッチになって、時折彼女は「昔の祖母」に立ち返る。……まるで不思議なタイムマシンが起動したみたいに。


 今までのボーっとしたそれが、まるで幻のようにシャンとして……目の前でイキイキと、とびきりのスマイルを見せてくれる。


 その笑顔が、家に帰れば終わる儚い何かだとしても。一時的に調子が戻った、そんなことだとしても。


 私は……



「……うん」



 ……暫くの間でいい。

 そんな笑顔を見るために、日々を生きてみようと思った。





 いつか私は、また東京に戻るかもしれない。休学状態のそれを、復帰するかもしれない。

 煮詰まったそれを、またリベンジしたくなるかもしれない。

 ……それでも今は、ここにいよう。

 ここにいる間はもう、自分を「落ちこぼれ」なんて、言わないでおこう。


 私は2人と帰りのバスを待ちながら、そう思った。


 笑顔の祖母と手をつないだ。祖父もニヤニヤと笑っていた。

 3人でころころ笑いながら、バス停の向こう側……いつかの帰り道と同じ塗装の、あの2トントラックが走り去るのを見た。


 ……大丈夫。


 宙ぶらりんだっていい。トラック前で泣いたりなんて、もうしない。


 ……私はもう、どこでだって生きていけるんだ。

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