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★#3 孫の矜持、おせちの小鉢(上)



「おばあちゃんって、すごいねぇ」


 ……黒豆。昆布巻き、紅白なます。くりきんとん。数の子の醤油漬けに、いくらをのせて紅白になったゆで卵の花。目の前に広がるおせちの絶景。


「……何でもできるもん」


 そう、彼女はいつだって自慢の祖母だった。

 もちろん今でもそうだ。


(あや)ちゃんだってすごいよ。これから何でもできる」

「私には無理だよ……」

「どうして?」

「頭良くないもん」


 少し気の強くて、しゃんとした。そんな祖母の双眸が少し揺れる。


 ――正月、お盆。……母方の家に帰る都度。

 サービス精神旺盛な祖母のもてなしを受け、お腹いっぱい祖母の手料理を食べ。舌鼓を打ち。上等でふかふかな布団に包まれて眠る度……居心地が良すぎるほど良いと同時に、私は母方の家には似合わない、そんな気がすごくしていた。


「ねえ、お母さんが言ってたよ?」

「何を?」

「おばあちゃん子どものとき――教科書を一度読んだだけで全部暗唱できたって」

「……あったねえ、そんなこと」


 教科書じゃなくて教育勅語だけどね。今でも言えるよ?

 ――そう言って舌を出す祖母に、私は呟いた。


「それにお母さん、子どものとき、すっごいびっくりされたって」

「びっくり?」

「『えっ2番なの?』」


 小学校に上がって初めての学年テスト。祖母と同じく成績優秀だった母は、特に何をせずとも総合成績が学年2位だったが……


「『惜しかったね。でもおかしいな、何で1番取れなかったんだろう?』」


 ――その時、母は思ったそうだ。

 「ああ、そうか。このおうちにとって『テスト』というのは、1番で当たり前なんだ」……。

 だから、と小学生のとき……98点を掲げた私に母は言った。

 「100点をとれるのは当たり前だよ」。


「――あのね」


 当たり前のことすらできない私は、祖母に言う。


「私ね、おばあちゃん。……算数と社会のテスト、下から数えた方が早いの」


 成績優秀、スポーツ万能。そんな母と祖母の血を引いているにもかかわらず、私はどんくさかった。……計算が得意というわけでもなければ、暗記が得意なわけでもない。足も遅く、逆上がりもできない。

 ――ピアノや声楽をしていた母いわく歌も音痴で、唯一誇れることといえば図画工作の展覧会に授業で作った置物が出品されたぐらいの話だった。


「……だから、無理だよ」


 ――祖母が優秀だったから大丈夫。母が優秀だったから大丈夫。

 そう言われていかに頑張ろうが、結局図工でしか1位を取ったことがない。そんな孫に、自信を持たせようなんて土台無理な話だ。


「……ねえ、彩ちゃん」


 洗い物をしていた祖母は手招きし、私を呼んだ。


「そんなことないよ? 彩ちゃんは賢い」

「賢くないもん」

「賢い」


 ゆっくり、言い聞かせるように祖母は言う。


「……たとえば私は、日本画を習っていたから綺麗な椿を描けるよ。それも、見たままの赤い椿を。それに色塗りなら昔から大好きだからね、誰にも負けない。線を描くより、色を選ぶ方が私は好き」

「うん」

「でも、彩ちゃんはどうかしら?」


 ……祖母の描く絵はいつも鮮やかで、心にそっと明かりが灯る。

 だから、敵うような気がしないのだ。今だって……いつだって。

 だから「どう?」と聞かれても答えられない。「おばあちゃんと比べたら」「お母さんと比べたら」……そんな、意味のない言葉しか見つからないでいた。


 祖母は笑って続きをいう。


「……あなたは日本画じゃなくて、マンガが好きね、彩ちゃん?」

「好きだけど……」


 ――マンガは読むのも描くのも好きだ。だって、身の回りに誰も描ける人がいなかった。


「私みたいに『見たまま』のものは描けないかもしれないけれど、頭の中にあるものをいくらでも描ける。色塗りはあまりしてるのを見たことないけど」

「へたくそだもん。どうしても塗り残しが出ちゃう」

「もったいない。でも形を捉えるのは得意よね。ほら、お父さんのほうのおじいちゃん! 前に描いてたでしょう」

「随分前の話だよ、幼稚園くらいのとき」

「そうだっけね、でもあの似顔絵見たとき笑っちゃった」


 冗談抜きでそっくりなんだもの、そう言って祖母は暫く笑った。


「ともかくね、私は彩ちゃんを見ていて、すごく勉強になるの」

「おばあちゃんが今更勉強ぉ?」

「そうよ? 彩ちゃんは私の知らないものを知っている。私の見えないものが見えている。……私は確かにお勉強が出来たかもしれない。頭の回転も早いかもしれない。チャッチャカできてたかもね。でも、最初からなんとなくできていたの」


 私に目線を合わせ、祖母は語る。


「最初からある程度できる人はね、『できる人』のことしかわからないの。だから失礼なことを言ってしまうこともあるし、鼻持ちならないと言われてしまうこともある。だからたまには……できない人が羨ましいなと思うこともあるのよ」


 ……そのときの祖母の表情が、何となくずっと印象に残っている。

 少し寂しそうな。ちょっと痛いような……


「……できないところから、できるようになっていく。その過程を彩ちゃんは知ることができる。あなたは「できない人」のことが理解できて、寄り添ってあげることができる。私のできないことができる。胸を張るべきよ」


 祖母は器用な人だったから、色々な先生の資格を持っていた。

 ――茶道、日本画、刺繍、習字、編み物……他にもあったかもしれない。母方の家は日替わりで様相を変えた。祖母はほとんど毎日必ず何かを教えていたし、そういうときの祖母は優しいおばあちゃんではなく、とても厳しい先生だった。


 でも、そんな一面があったからこそ――あの時の祖母はあんなことを言ったのかもしれない。

 『私にできない人のことはわからない、でもあなたにはわかるでしょう?』と。




    *  *  *  *




 時が経ち、私は母方の家にいた。

 ……育った「本来の家」は、今はもうない。

 父の立ち上げた事業が失敗した為だ。


 ――あの後「唯一の特技」と言えた絵や工作も人に抜かれることが多くなり、評価されなくなっていった。……だから、いつの間にか捨ててしまっていた。

 描いたところで金目になるような価値がつくとは思えず、結局気づけばたまに舞台演劇だったり声劇、朗読劇のリーフレットを飾るぐらいだった。


 頭も未だによくはない。言われたことも返事はするが、理解しているというふりをして、あとでこっそり調べ物をした。

 周りに手を煩わせるわけにはいかない。夜中に必死に頭に叩き込んだ。

 それでも判断のつかないときは後日、仲の良い友人にこっそりとフォローをお願いした。


 その他……運動神経の一つもない。何の取り柄も見つからない。


 体ひとつ、否、「喉一つ」に「口一つ」あればどうにかなるだろうという淡い期待をよせ、絵や漫画の好きだった私は順当にアニメも好きになった。

 気付けば役者を。もっと言えばアニメ声優を志していた。


 役に立つ「誰か」になりたかった。これ以上邪魔な人間のままでいたくなかった。誰の足も引っ張りたくはなかった。

 専門学校にも通った、養成所のスクールにも通った。だというのに芽が出ない。ああ、自分でも分かる。他と比べたら、やっぱり格段に下手くそだ。


 ……紙に書かれた内容を喋ればいい? 喉一つ、口一つあればいい?


 ああとんでもない。

 あれはあれで、大変な職人の世界だ。子供の頃と同じ……いかに気が急いたところで「1番」になんてなれずにいる。


 ――そこから続く父の事業の失敗。

 父は自分だけ負債をかぶるために母と離婚し世帯を分ける――つまり、一家離散だ。最後に「落ちこぼれ」の私がすがるかもしれなかった「頼みの綱」が切れた。


 母は私に問う。


 実家に引き上げるが、ついてくるかと。

 ……それとも、事業の借金で死に体の父とともに父方を頼るか?

 もしくは独立して一人で生きていくか?



「……何にしても環境を変えたい」


 全てにおいて煮詰まっていた私は母にすぐ、こう言った。


「このまま、東京にいたところで……」


 ――夢は叶えられない。

 声優になれない。役者として芽も出ない。大きくなるまで暮らしたこの家も抵当に入ってるわけで、すぐに取り壊される。


「……だったらおばあちゃん家で、暫く暮らしてみるよ」


 ――逃げていた。全部から逃げ出したかった。

 どうあがいても、努力しても。叫んで騒いで泥水すすったところで、私が持っているものなんて結局何もなかったということだ。

 だったら唯一持っているはずの「思い出」を頼って旅に出よう。そう思った。


 ――小学校の頃、あの祖母と語らったあの場所に戻れるならば、今一度戻りたかった。誇れるものが工作一つ。そんな小学生でも上等じゃないか。あるだけマシでしょう。



 そう思っていた。



 ……祖母に再会したとき、嫌な予感がした。


「……あれまあ、春。連絡くれればよかったのに」

「行くよって連絡入れたでしょ」


母が玄関に鞄を下ろして苦笑いした。

祖母が言う。


「そうだっけ〜? 忘れっぽくてね」

「そうそう、秋紀さんと別れたから、暫くでもいいからお世話になりたいって」

「……え?」


 祖母の表情が強張った。昼間から飲んでいたらしい祖父がそこに顔を出す。


「おお、春! 彩ちゃんもようやく来たか、待っとってん!」

「……別れた?」

「そう、別れた」


 母が苦笑いしながらいう。


「言ったよ、お母さん。『だったらうちに来なさい、ドンと構えてれば良いのよ』――」

「いや、聞いてない」

「え?」

「聞いてないんだけど」


 ――祖母は思いっきりブチギレた。


「どうしてそんな大ごとになるまで、私に相談しなかったの!!?」




    *  *  *  *




 ……母の、離婚に至った際の報告も。

 ……今から行くからねという約束事も。


 ――祖母の中では、完全に「なかったこと」になっていた。



 俗にいう『アルツハイマー型認知症』。……「いつもやっている習慣」はまだ覚えていても、「出来事」を忘れてしまう病。


 いつもの習慣――例えば歯ブラシを使って歯を磨く、箸を使って食器を使う。そういう【長期記憶】と「こういうことがあった」というエピソードを司る【短期記憶】では脳のデータの保管場所が違う。

 そのうち【短期記憶】を司る海馬から、徐々に大脳全体へと委縮が広がっていくのがこの病気の特徴だった。


 そしてもっと特徴的なことに……いざその「介護者」になった家族が、時折いう一言がある。

 「受け入れ難いこと」、「つらいこと」、「いやなこと」。

 そういうものから不思議と優先的に「なかったこと」になる。

 ……そんなことがあるのだ、と。


 まあ、それはそうだろう。納得もできてしまったのが辛かった。これはきっと、祖母にとって「受け入れ難いこと」、「いやなこと」だ。

 だって祖母は長らく信じていた。娘夫婦は仲睦まじく、孫と一緒にいつまでも幸せに暮らすものと。


「……あれ? 彩ちゃんいたの。ああそうか、お正月だっけね、大変! まだお年玉あげてなかったわ」

「――ううん、要らないよ、大丈夫」


 ――普通なら、正月とお盆にしか遊びにこないはずの私が、家にいる。


 それがどれだけストレスだったろう。

 嫌な現実を突きつけられるのが。「幸せだったはずの子が孫を連れて逃げてきた」、それを幾度も忘れて知るのが。


 ――何度も、幾度もショックを受けるのが。


 物忘れが多いとは聞いていた。

 ただきっとそのレベルを、グンと引き上げて……「認知症患者」にグレードアップさせてしまったのは、恐らく私だ。

 すぐに仕事を見つけた母よりも、特に私が顔を合わせることが多かったから。毎日、顔を合わせたから。


 ……たぶん私が、祖母を壊したのだと。

 祖母の心を壊したのだと。


 ――そう思った。



 それからずっと。ああ、ずっと――己を責めつつ、日々を過ごした。

 幾度も、「そんな事情なんか聞いていない」、「人に許可も得ずに押しかけてきた孫なんて他人同然だ」「出ていけ」と罵られ。

 かと思えば幾度もごめんねと謝られ。


「……なんで酷いことを言ったのかわからないの、覚えてないの」


 ……知っている。自分なりに調べた。祖母のことが知りたくて、理解したくて。仮説を立てて、把握した。せめての責任として受け止めた。

 物忘れだけでないのが認知症の症状だ。感情の制御が利かず、いきなりスイッチが入ったように攻撃的になることがある。


 ――推測だがそれは多分、どうしてもついていけないからだ。

 「理解できないこと」が、常に傍にあるからだ。


 周りだけが理解して、自分だけがついていけない歯痒さ。……そんな悔しさも、憤りも、いくら忘れても残滓は残る。

 感情と記憶は引き出しが違う。いくら忘却しても、感情だけはくすぶり続ける。


 ――なぜ。

 ――どうして。


 忘れるたびに憤りを感じる。

 「なぜ覚えていられなかった」。そう、自らに怒りとともに問い続ける。


 「神童だった」、「何をやらせても一番だった」。


 ――そう、彼女の友は口を揃えて我先にと敬う。

 娘は讃える。「母は完璧だ」と。


 ……完璧。


 “そうあれ”と確かに彼女は願われた。

 期待に応えるべく、80年余りを生きてきた。数々の「完璧」を願われたし、それらが当たり前だと自負してきた。

 ――だって、完璧になれるのだから。応えられるのだから。


 それが、恐らく彼女のアイデンティティだった。


 ――「できる」ことは、やらないと!


 記憶力には自信があった。

 理解力には桁外れの自信があった。

 だから、彼女は自身に問う。怒りとともに、遣る瀬無さと共に。


 「なぜ、できなくなった」?


 その怒りと悔しさの経緯も、数分すれば忘れてしまう。

 怒りと悔しさのみが残る。

 自分に向いていた矛先を忘れれば、その感情をぶつける先がなくなってしまう。

 「それ」を感じた形跡だけ残って、経緯も理由も忘れて。ただ、理由の分からないイライラだけが残っていく「つらさ」。


 思考が鈍っても、原因は何となくわかる。ストレスの大元はどう考えても、「本来ならそこにいない」はずの娘で。孫で。


 それは当の孫である私にも分かっていた――それでも途方にくれながらそこに居続けた。

 母と一緒に泣き崩れたこともある。



 ……自分たちが来たからだ、と。



 ――ぽっかりと心に穴が空いた。

 ああ、本当だよ。

 来なければ良かったのかもしれない。


 まだ、暫くはおばあちゃんも平穏な暮らしができただろう。母ならまだいい。娘だろう。帰ってきたところでまだ違和感はない。ただ、孫は違う。


 ――孫だけは、祖母の中では違う。

 今まで別の家で育ってきた、「違う家」の子なのだ。名字も人生観も何一つ違うのだ。

 ……私がいたからこうなった。私なんかがいたからこうなった。祖母を傷つけ苛立たせる原因になった。


 つらい、怖い、明日が怖い。過ぎて行く時間が怖い。

 隣から聞こえる罵声が怖い。それに笑顔で応対する私も怖い。「ごめんね」と、困ったようなニヤつき顔で言える私が怖い。


 いるだけで嫌だ、気分が悪くなる。同じ空気を吸いたくない、お前の声が嫌い。


 祖母がそんなことを言う人ではないのは知っている。

 孫のいる違和感に対する感情が降り積もり、制御ができないからそれを言う。だから笑って呟いた。


「ごめんなさい」


 ――それを、誘発したのは誰?

 私だ。

 あとで不完全な記憶から、それを思い出すのは誰?

 祖母だ。祖母自身が嘆くのを幾度も見た。聞いた。


 ――だから私は我慢する。我慢したまま、どうすればいいのかおろおろする。


 私は、いるだけで何度、あの人を傷つけたらいい?

 私は――何をして生きれば「空気」になれる?

 そこに「いる」だけで害があるのなら、せめてどこに向かえば無害な存在になれる?


 ああ――帰りたい。何度も思った。でも帰る家なんてどこにもない。体ばかり大きくなって、それでも独立して生きていくだけの勇気がない。

 独立心がない。

 落ちこぼれだからと言い訳を吐いた。いつまでも親に寄生して、夢物語を口から吐き出すだけの遊び人、そう言われたって仕方ない。


 声優志望は、形だけならやめていない。

 所属先の好意でレッスンは休学という形になっている。


 ……いつか東京に帰るのだ。そう思ったって、残してきた父からは家が解体される様子が毎日送られてくる。

 居場所なんてもうない、どこにもない。


 ――ああ。



()()()



 私は呟いた。

 ――アルバイト先の工業団地で。帰り道の幹線道路で。幾度となく、2トントラックを見ながら呟いた。

 役に立たない落ちこぼれに。いるだけで邪魔になる存在に。


「……私のような虫けらが」


 虫以下の生き物が。



「……生きる場所なんて、どこにもないんだよ」



 なんだか泣けてきた。ここは勇気を出してまた上京すべきだとも心が叫んだ。でも、なんだか。

 目の前の問題から逃げだすみたいで――結局、踏み出せなかった。




    *  *  *  *




 そんな生活が続いて半年ほど。朝の6時。まだ寝静まっている祖父母の家に、居候させてもらっている祖父母の家に。

 ……未だに使われている昭和らしい黒電話の、けたたましい音が響いた。


「……はい、藤崎です」


 一番先に起きた私は電話を取った。「藤崎」は祖父母の名字だ。


「ちょっと藤崎さん!? どういうことなんですか一体!」

「は?」

「御宅の出来の悪い娘さんがね!!」


 ヒステリックな女性の声。どう聞いても相手は父方の親類だった。以前から人の話を聞かない性格で、ゴーイングマイウェイ。苦手な人だ。

 猫可愛がりしている父と共に、私にですら幾度も遊びに来いと呼ばれるのだが、中学に上がってすぐの頃から私はストライキしていた。

 ……彼女、父や私には高い猫なで声で話すし高そうなご馳走を振る舞うのだが、母にだけは違う。


  ――「どうせあなたならなんだってタッタカできちゃうでしょ、春さん?」


 そう言って、口元がニヤッと笑うのを見るのが一番嫌だったから。


  ――「掃除だろうが洗い物だろうが、何でも彼女にやってもらったらいいのよ!」


 ……バカにしたように笑い、母をこきつかう。

 色々やらせては、やり方が駄目だとケチをつける。


  ――「私、足が悪いの。ねえ可哀想でしょう?」


 母に対してだけ扱いが全然違うのは、物心つく前からうっすらわかっていた。


  ――「健康的で頭のいい人がやった方がいいのよ、家事なんて。可哀想じゃない人がやった方がいいの」



 それが何かと判断つく前から、違和感だけが降り積もっていた。


  ――「……()()()()()小間使いみたいね、見てて気分がいいわ」


 笑いながらのその発言で「嫌な人だ」と思ったのは小学4年生ぐらいの頃だったし、子どもだから目の前で何を言おうと理解していない、分からないだろうと思われているのも腹が立った。

 ……だってそうじゃなきゃ、そんなこと言わないだろう。


  ――「あれは嫉妬だよ」


 父はそういつかこぼしていた。


  ――「春は何しても手際がいいから。料理も一通りできるし気も利くし、お茶の淹れ方もよく知っている。香代子おばあちゃん……つまり、彩のひいおばあちゃんにもよく褒められてたんだ」


 父に対してはいつだって「優しいおばさん」として振舞っていた。しかし、その父自身はそういうのだ。それくらい、他人に対して配慮しているポーズをしておきながら、ポーズだけで終わっている人だった。

 私にも優しそうな声で接するくせに、母に対しては憎しみを剥き出しにする彼女。私が彼女を嫌うのも当然の帰結だったのだろう。だけど。



「うちに破産通知が来たのよ! 私に払えってことよね!?」


 ……ああ。

 電話口のそれ。

 ようやく事態が飲み込めた。父が破産申請を出したらしい。

 そして恐らくは昔、事業を立ち上げる際、彼女に借金でもしたのだろう。だとしたら通知が行くに決まっている。


 そしてそれはただの通知だ。払えという話ではない、「御宅に縁のある人が社会的弱者になりましたよ」と。それだけの話だ。



「春さんはどこ!? 出しなさいよ御宅の穀潰しの娘を! あの女が秋紀ちゃんをたぶらかしたから……」


「……は?」



 ……たぶらかした?

 そもそも父と母はお見合い結婚だ。そしてそのお見合いの縁を結びつけたのは、このおばさん自身のお知り合いだったはずだが?


「あの女が全て悪いの! 会社なんて立ち上げるように言ったのはあいつでしょ!」


 そこまで嫌いだったか、私の母親を。

 そして呆れてモノが言えない。……思えば彼女も相当の歳だったなと私は思い返した。物忘れが激しいようだと言い返したいのを、そっと我慢した。

 父が事業を立ち上げた際。私は当時小学生に上がったばかりだったが、きちんと覚えている。



 ――「何売りたいかとか、決まってるの?」


 ――「勿論。まだデザイン段階だけどカタログもあるよ、見る?」


 ――「さすが秋紀ちゃん……しっかりしてはるわぁ、いいじゃない! 男たるもの、会社の1つや2つ、ドンと構えちゃった方がいいのよ!」



 そんなやりとりをする2人の後ろで、黙々と洗い物をする母の姿。「これ片付けといて」と皿だけ目の前にいくつも並べられ、そして皿洗いが終われば洗濯物を並べられ、営業スマイルで応対する母の姿を。


 ……そもそも、母は「あなたに経営なんて出来るの?」と父に懐疑的だったが、彼女がゴーサインを出した。

 それだけは間違いがない。

 多分だが。恐らくだが――責任なんて、ない。



「あんな嫌味な女と秋紀ちゃんがひっつくから色々とおかしくなったの! バタフライエフェクトっていうでしょ、些細なことが不幸を呼ぶのよ!! だからこんなことになったんでしょう!」


 ……それこそ発想が飛躍している。ちょうちょみたいにすっとんでいる。バタフライエフェクトの提唱者に謝るといい。私は言葉を飲み込んだ。


「どう責任とるつもり! 全部あなたの娘が犯した罪よ!」


 ……さすがにだが。

 自分の中で何かが冷えた。

 ――氷のように冷えた何かが、カチン、と音を立てた。


 ……相手はどうも、私を祖母だと勘違いしているらしい。

 ほう。ほうほうほうほうほう!?

 つまりは? ――この中身のない? ――不快な? ――人を責めるだけの言葉を?

 ――他でもない。あの心優しい。だがしかし今は心の脆い。

 いっぱいいっぱいの。

 自分の記憶もおぼつかない。感情の制御もおぼつかない。

 日々を生きるのに必死の。


 心の、弱り切った祖母に、言おうとした……



「だいたい合わないと思ってたのよ! あんな疫病神みたいな女!」


 おう。

 ……言え。言いたきゃ言え。


 それだけあなたの株は下がっていく。


 ……別に。母とこの人に何があったかなんて知らない。

 嫉妬だろうがどうでもいい。

 うちの母親がどういう生き物だか、この人に理解されなかろうが、何だって。


 ああ、何だって構わない。


 ただ。



「違います」

「その声はお母さんの方じゃないわね!?」


 ――えっ、ようやく気づいたの?


「春さんでしょ!」


 ……アホなのだろうか? ――勿論違いますよ、その名前は母のもの。

 私の名前は彩。


「あなたのせいでね」

「まず!」


 ……私は大きく息を吸い込んだ。


「『永原秋紀さん』が『藤崎春さん』と結婚したことと、破産受任通知は関係ありませんし、藤崎家はこの件に関係ありません!」


 ……叫ぶように突っ返す。

 ああうるっせえ。祖母の次は母と間違えられてるがそんなことはどうでもいい。私は知っている。私と母以上に仲の良い、1組の親子を。面と向かって大事だとは言わないが、幼い頃から一度受話器を取ると長電話がすごかった母と祖母を。


 ――すぐ横の部屋で寝ている、祖母の前で。

 祖母の大事な、宝物を。

 母をバカにされるのだけは、絶対に許さない。


 ああ――ゆるしてたまるものか!



「……苦情は秋紀さんの方にお願いします」

「通じないのよ!」


 そりゃ通じなかろう、朝方だもの!!

 寝とるわ普通! バカか!! アホなのか!?


「大体何よこのクソ女! 他人事みたいに!」

「他人事ですよ」


 ――この家にとっては。


 内心疲れ果てながら私は言った。……本当に私の声が分からないらしい。まあそうだよな、私が逃げたんだ。何年も合わなかった。


「だいたいあんたみたいに氷みたいな、悪魔みたいな女が」

「聞いて」

「私よりでかい顔して」

「聞いてください」

「だいたい昔から、あなたの全てが気に入らないのよ!」



 ……ああ。



 ――「永原はいつだってそうだな、喜怒哀楽が薄すぎる」



 以前、言われたことを思い出した。

 あれは演技のレッスン中……幾度も言われたんだったか。


 “味付けが、薄すぎる”。



 ――「……すみません」



 ……確かに、私はいつだって怒れない。上に上がれない、這い上がれない。

 その理由の一つがこれだった。“感情表現が薄い”。



 ――「特に『怒』が駄目だ。普段声に出して怒らないだろ、お前」


 ――「……すみません」


 ――「すみませんじゃないんだよ、他のことを言ったらどうだ」



 高校で演技の道を志した頃のダメ出しが。

 養成所でのお叱りが。専門学校での諦めが、頭の中で響き渡る。


 そう……怒らないのではなく、怒れない。だって私は。



「……聞いてください……」



 いつだって、怒る前に逃げてきた。……色々なものに、向き合うのを。

 見るのを。触れるのを。



「……聞いてくださいって、言ってんだ……」

「――――――」


 聴くに耐えない、まともに列挙すらできない。

 そんな罵詈雑言が耳を裂く。鼓膜を破る勢いで叩きつけられている。


 もういい、ああ。――()()()()()()()()



「――聞け、っつってんだぁっ――――!!」



 ――止まらない。これが怒るということだ。

 止まらない。これがカッカしているということだ。胸が熱い。喉が熱い。心の底から――相手が憎い。



「なああんたいったん黙りなさいよ!!? 耳垢詰まってるんですかあなたは!!? 自分の言いたいことだけまくし立てる、それが人との会話ですか!!」

「――!?」


 罵詈雑言が止まる。収まる。――ああ今更遅いんだよ。


「あんたが手に持ってんのはなんなんだ、そのマイクの向こうには血の通った人の耳があるんだよ、あんたが持ってる受話器は、誰かの耳に、心に、言葉を届けるためにあるんだ!」


「……」


「あんたが口から出してるその音は! 言葉は! 人を殴るためにあるんじゃない――伝えるためにあるんだ、恥を知れッ――!!」



 ……普段、どれだけの扱いをされてきたんだ私の母は!?



  ――「最初からある程度できる人はね、できる人のことしかわからないの」



 祖母の言葉を思い出した。

 ――それはきっとね、おばあちゃん。「できない人」も同じだよ。

 私だってわからない。このおばさんと同じでわかるはずがないもの。


 器用なお母さんが、そしておばあちゃんが、どんな苦労をしてきたか。


 出来るからって、押し付けられていい理由にはならない。断ったからって、ケチだと憤慨していい理由にはならない。


 ――いくら天才だって、体は1つだもの。時間は有限だもの。

 やりたいことだってあるもの。

 夢も希望もちゃんとある、私たちと同じ生き物だもの。


 皿洗い? 洗濯物? 掃除?


 わざわざやらせて嗤うのか。()()()()を、小間使いだと。

 ああ――そんなものに割く時間なんて。

 そんな悪意に割く数分なんて。

 あっていいわけがない。あってたまるか。私が言われた側なら怒り心頭だ。

 それぐらいアホだってわかる。


 私にだってわかるのに……!



  ――「失礼なことを言ってしまうこともあるし、鼻持ちならないと言われてしまうこともある」



 できる人のことしか分からないから、失礼なことを言う?

 ああ、それこそ逆もあるさ。……私だって、このおばさん同様、嫌味を言いたくなることもある。

 それこそたまには嫉妬することもあるよ。

 おばあちゃんたちの気持ちなんて、本当はわからないかもしれない。いや、多分一生わからないだろう。


 ――私たちには「見えているもの」は同じでも、「見ている世界」は違うはずだから。

 ……見えてる輪郭は同じでも、彩りは。光の色は。


 ……でも、これぐらいなら知っている。「なんとなくできる人」だって生きているのは。()()()()()()()()()()()()のは。



「な、何よ……いきなり叫んで。きもちわるい……」

「……落ち着きましたか?」


 ――内心苦笑する。せせら笑う。ブーメランだ。まず私が落ち着いていない。相手が気持ち悪いのだってお互い様だ。


「まず一つめ、私は春じゃありません」

「じゃあ誰よアンタ!?」

「よく考えて当ててください」


 ――考えろ。


「さあ、誰だと思いますか?」


 ……せめて考えろ。自分がどれだけ考えなしだったか。

 あれだけ猫なで声で、可愛がってる「つもり」だった親類の娘を。その正体を当てろ。「春さん」がいるなら、そこにいてもおかしくはないだろう。


「本当にわかりませんか?」

「誰よ……誰なのよぉ……」


 怯えた半泣きの声が聞こえた。ああ、そういえばホラーとか苦手だったっけこの人……わからないもの、正体不明なもの……あああー。あっははははは!

 思わず笑ってしまいそうだ。

 ――ああ、今なら感情表現のレッスンで1等賞を取れる。


 ……そりゃあ怖いよなあ。

 父方のひいおばあちゃんが亡くなったときですら、「お化けになって出られたら嫌だ」ってギャン泣きして、線香の番も何もせずに帰ったもんなあこの人!


 ……この人、ただの親類じゃない。

 大叔母さんだ。父の叔母。私から見て、ひいおばあちゃんの娘。

 つまりこの人は、分からないものは親であれ怖いのだ。


 ――ああ、そういえばあれだ。

 ひいおばあちゃんも晩年は「認知症」だった。

 祖母と同じに。一緒に住んでたこの大叔母さん、私相手と全く同じに「相手が何を言っても分からない」と決めつけて、ひどい暴言を吐いていたのだった。


 ――そのくせ。

 「嫌なことをてんこもりに言ったから喪主にはなりたくない、とり憑かれる」。

 「いっぱいいじめたから呪い殺される」。

 そう、怯えながら法事に参加してたんだった……


 ……ふふふ。

 まあ、そうだね、所詮。「お化け」と同じだよ、私なんて。

 ああ。



「……ふ、ふふふ」



 ……「正体不明の何か」だ。


 ――誰の役にも立たず、毒にも薬にもならない。いてもいなくても一緒。むしろ害悪。誰かを不快にするだけの生き物。


 ――ねえ、大叔母さん。

 「彩」という子どもは、あなたにとって――()でしたか?

 子どもは一般的に「可愛がるもの」だから、餌を与えていただけですよね?

 話を理解する頭もないと馬鹿にしていたのなら、道端で出会った見知らぬ犬以下の扱いでしたよね?


 ――あれだけ相手の名前も聞かずにまくしたてて。相手がわからない。

 どうしてですか? なぜ衝動のままに悪口が言えるんですか?

 子どもはずっと子どもだと思ってましたか? ボケたババアはすぐ忘れると思ってたんですか?

 私のように他人が理解できないなら、「理解できるようになってみよう」とは一度も思わなかったんですか?

 諦めるだけならともかく、どうしてそこまで相手を見下せるんですか?


 ――相手を理解しようと思う頭もなかったから。そうでしょう?


 ねえ。

 これはそのとっかかりだよ。さあ、当ててごらん。

 電話線を隔てて、受話器を隔てて。


 ――あなたの目の前にいる「お化け」の名前を。



「…………。」

「分かりませんか」

「…………。」

「本当に、分かりませんか。……ここまであなたの言葉をほとんど黙って聞いてきた、汚いその言葉をずっと黙って聞いてきた、私の名前」

「誰よ……怖いのよ……勘弁してよ……」



 ――あーあ。

 なんだそれ。泣いてやんの。


 あーあ。

 なんだそれ。「泣けばいい」と思ってやんの。


 ――あまったれんな。自分のことを理解してほしいなら、相手を理解しようという姿勢を持つべきだ。たとえ、何も分からなくても。たとえ、バカだと罵られようとも。そして。


 誰にも「理解」を、されなかろうとも。



「……彩です」

「え?」



 ――駄目だこの人。本当に善意で待ってあげたのにな。



「私、彩です」

「……彩、ちゃん……?」



 ここで、私に気づいてくれれば。謝ってくれれば。まだ一考の余地はあった。

 私はあなたを見下さずに済んだのに。

 ――ああ、でも、スッとした。

 今更ながら、理解できないと改めて思い至った。


 私には、どう頑張ってもあなたを許せませんでした。

 そう言えるだけの理由ができた。



「彩ちゃん?」

「はい、ご無沙汰してます」



 ――ちゃん、なんてつけるな。今更だ。

 私はあなたとそこまで近しくはない。興味もない。私は、祖母と母を馬鹿にするあなたを許さない。

 だって、自分の体の半分を踏みつけられたような気持ちになるからだ。

 目の前の子どものそんな気持ちを――あなたは、「汲み取ろう」としたことがありましたか?



「母と『秋紀さん』は、5月の末に協議離婚しました」

「嘘よ」

「現実受け入れてください。っていうか本当に聞いてなかったんですか?」


 私は鼻で笑った。


「あとで文句出るから言っとけって言ったのにあのクソボンボン? ハッ……ご愁傷さまです。なら適当に文句でも言っといてください。あとのことは全て『秋紀さん』のお仕事です。クレームはそちらにどうぞ。あなたのおかげで私の本性があなたの娘にバレました。そう幾らでもお申し付けください」


「…………。」

「現在私達は藤崎家にお世話になっています。……秋紀さんとはそれ以降、一切連絡は取っていません」



 ――嘘だ。連絡は取っている。


 悪い言い方をしたのも、縁を切ったと思わせるためと……あと、少しの皮肉だ。だって本当に「文句出るから言っとけ」とは言ったのだ。

 聞き入れられなかったようだけど。


 というか多分、電話したくなかったのだろうけど。



  ――「おじいちゃんと大叔母さんって親交あったよね? もし何か言われたらどうするの?」



 そう、家を出る直前に聞いた。

 すると、「こんこんと説明したところで耳に入る人じゃないから」。

 そう苦笑いしながら……



  ――「秋紀さんとは無関係ですって言っとけ」



 そう言ったのだ。あの『クソボンボン』氏。



「……私は今、藤崎家の人間ですが」


 すらすらと嘘が出た。本当はただの居候だ……いや、違う……居候であれ、私はこの家で生きている。


 ああ、生きているんだ。


 そう、今更ながら自覚した。――この人に怒れるほどに。この人に対して三下り半がムンズと突きつけられる気持ちになるほどに。

 ――私は、誰になんと言われようと「藤崎の家」で生きている。


 だから、この赤の他人に。自分と似て非なる、私以上の「落ちこぼれ」に。

 私の『家族』を傷つけられるのは許せなかった。



「……『秋紀さん』の連絡先、他人の貴女に、お教えしましょうか?」

「……お願いします」

「かしこまりました」



 ……こいつに牙をむけるのは。こいつを追い返せるのは。

 私しか、もう、いないのだ。

 祖父は年々アル中がひどくなり四六時中酔っ払ってるし、母は遅くまで仕事で忙しく、今起きているのは私だけ。

 母が起きていたとしてもこんな胸糞悪い電話、取らせるわけにはいかない。


 ……祖母を守れるのは。この家を守れるのは。


 私しかいない。

 この家で一番若い、一番頼りない。

 ――そんな私しか、残っていない。


 いくら状況を理解できない祖母に罵られても、叩かれても、泣かれても。

 私は……祖母の孫だ。

 ――大切に愛された、「あなたにしかできないことがある」とあの時諭された。


 ……出来の悪い、孫なのだ。



「……もう、かけてこないでくださいね」


 声はすらすらと出た。震えもしなかった。

 相手と一生会うまいと誓った。ああ、法事にすら呼ばれてやるものか。


 ……確かに行くたびに「彩ちゃんはきっとこういうのが好きなはず!」と、その辺でよく見るカップアイスはもらったさ。


 ――値段にゲンナリするくらい高いおせちも食べさせてもらったけれど、おばあちゃんの手作りお重の方がよっぽど美味しかった。それでも黙ってお腹いっぱいになるまで食べた。それでも食べさせようとするのだ。「あなたのために」と言いながら。


 「もう要りません、お腹いっぱいです、入りません」。

 そう断っても「何万もしたのに!」と怒りながら、なんかよくわからないもの食べさせられまくったこともあったけれど、本当なら色々言いたかった。


 ――大体、最終的には仏間で寝たふりしてたろう。あれは「会話したくないから眠ってたんだ」と、いつか誰かに指摘されるといい。


 私は、指摘すらしたくない。


 あなたが私同様に、自分の中身に自信がなくて。

 容姿も私と大差なくて。……だから、自分の実力に見切りをつけたのだと。


 愛が欲しいからお金をかけて、「こんなに尽くしたのに」と分かりやすい、数値化された金額の提示をして。

 押し売りをして。それで誰かに尽くした気でいたのだと。


 ……わかってる。

 わかってるからこそ、きっと腹がたつんだ。

 あれは私の、いつか至るかもしれなかった未来だから。

 卑屈をこじらせた末に「ああなるかもしれなかった」……その、可能性だったのだから。



「……おはよう」

「おはよう」



 ――受話器の前で思考と格闘していれば、ふすまが開いた。


「彩ちゃんがいる。お正月だっけ?」

「お正月じゃないけどいるよ」

「お電話出てくれたのね。何のお話だったの?」


 電話の隣の部屋で寝ていた祖母。耳も最近遠くなってきているが、さすがに起きてしまったらしい。私は笑顔を作った。


「ああ、ちょっとね。大叔母さんから、お父さんに対する苦情」

「あらまあ」

「でもね、ちゃんと言ったから!」


 ――大丈夫。大丈夫だよ、おばあちゃん。


「『藤崎のお家は関係ないのでお電話はしてこないでください!』って。だってお父さんのミスだもの、ここのお家、関係ないでしょ?」


 安心してほしい。「怒ったらおっかない」、そんなおばあちゃんの代わりにちゃんと怒っといたから。

 ……大丈夫だ。心配いらないから、もう少し眠ってて良いんだよ。

 まだまだ外は薄暗いでしょう?


「……そうねえ、関係ないのにね」


 寝ぼけた表情の祖母は少し考えるように宙を見て、ぽそっと呟いた。


「彩ちゃんと春、お父さんと別れちゃって、こっちきたんだもの」

「うん」


 ――たまに、おばあちゃんは覚えてくれていることがあった。向き合おうとしてくれている、そう思うときがある。

 ……それでいい。それだけでも、私は申し訳ない気分になる。


「……そうだね。もう関係ないよ」


 関係ない。だから、言えたのだ。

 ――同時に祖母と母と関係がある。だから、言えたのだ。


 確かに私は、おばさん同様――天才を僻む側だった。


 思えば母から満足に勉強を教えてもらえたことがない。

 母にとって勉強は「教科書を読めば理屈をすぐに理解できるもの」で、特に算数や数学は方程式すら教わらなくとも「求め方」が直感的に考えつくもの。

 2桁の計算ですら間違える私のことがそもそもよく理解できないようで、未だに私のミスを「やる気がないから真面目にやらないだけ」と片付けてしまう。

 「やりたくないことは絶対真面目に取り組まない、そんなロックな娘だ」。そう思いこんでいる節があり、正直頭が痛い。


 母が私を理解できないように、私は母の「直感的に解き方が分かる感覚」が分からない。祖母の「1位が普通」の感覚もピンとこない。

 ……ただ、そうしてたとえ出来の悪い私が祖母を理解できなかったとしても、母を理解できなかったとしても。


 ――私は、私のできることだけ頑張る。

 頑張って生きていく。


 祖母と同じように、母と同じように。

 ただ、「できる範囲」が2人より狭いだけだ。


 私の中では少なくとも、祖母も母も――きっとあの大叔母よりはずっと同じ生き物だった。

 少しは理解できそうな気がする。そんなものだった。

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