★#26 こんにちは、ラブラドライトの君(下)
* * * *
図書室から、数メートル。
人の区別がつかなくてもさすがにトイレの場所くらいは分かる。というか、普段は図書室とここの行き来だけで一日が終わる。
――今日は【脚立】の彼がいないな?
そう思っていた一日に。
「……うわー、またやってるー」
あと2限はあるだろう休み時間、バタバタとした足音が聞こえた。
耳元を通過する風圧。トイレに向かおうとしていたぼくは突如、『廊下を走る男子』に追い越された。
そいつは一人で。
黙ったまま、ぼくには一切目もくれず……。
「懲りないよね。女子に人気がない理由、ぜーんぶ■■くんのせいにしてさー?」
ぼくと話したことがあるんだろう、色のハッキリついたカージナルレッドと鶯色の女子が立ち止まったままヒソヒソと小声で話をしている横を、今度はまた別の男子生徒が追い越した。
ぞろぞろと……さっきのとは違って、集団だ。
「ってか、■■くんのお家って行ったことある?」
「あーアレでしょ? 最近CMでやってるやつ。『パズロット5』だっけ」
聞き覚えのあるタイトルに少し足を止めた。
……数少ない、気の合わない家族や兄弟との共通の話題。ウチにもある、テレビゲームのソフトだ。
「そうそう! 『ゲームなんて低俗な趣味ザァマス! そんな暇があるなら勉強して高学歴な女になりなさぁい!』ってうちのママ、目を三角にしていうからさあ、ぜんっぜんやったことないけどねー?」
「へーえ、アンタんところのママ、化石みたいな喋り方すんのね今時……」
思想はともかく本当にシーラカンス属に近い山の手マダムだ。
まあ、たまにいるようだしね。
「でもわかるー。私も興味ないもん、あんな子供騙しというか、人生にあっても無駄なものというか」
お前もか。少しムッとしてしまった。……ゲームを目の敵にする人も多いが、無駄かどうかはプレイしてから決めてほしい。結局普段やってない人間しか言ってない気がする!
大きくため息をついた。
知らないものを、ひとは馬鹿にする。
少なくともぼくからしたら現実よりアニメやゲームの方が分かりやすく特徴的な分、登場人物がまだ覚えやすいので有難い。――もし世界からゲームがなくなるとするなら、ぼくからミステリー文学を取り上げたぐらいのダメージ量だろう。
「だいたい、虚構の世界で成り上がって何が楽しいのよ! 私らそれ現実でやってるんだっつーの」
「だねえ。金とブランド品とアクセ。キラキラの生活は現実しかないっていうかぁ」
「女ってだけで見くびられるっつーか、下に下に見られがちなんだからさあ」
鳶色の子は大きくため息をついた。
「せめて足蹴にできる男は欲しいよね」
「わかるー。将来的にストレスの吐け口は欲しいー」
どうしようもない話をしてるな、この子たち……。
「でもしんどいんだから無駄に頑張りたくない、だからああいう手合いを利用するのが結局いい」
「わかるー。人生っていかに最短距離走るかじゃん」
「目に見えてる『楽な人生ショートカット』みたいなもんだよね、■■くん」
……。もしかして。
「結局トロフィーみたいなもんだし。スペックいい彼氏とか」
「ウンウン。顔面超イイ。兄弟なし、大企業の跡取り息子、一人っ子のお坊ちゃま! そのうち親が死んだら財産全部こっちのもーん!」
「ヤダ性格悪いー! でも全面的に同意―!」
今更だが、誰のことだか分かった。
【脚立の上】の彼だ。
「……気づかなかった……」
ということは、先ほどすれ違った先頭のたった一人。
それは【脚立の上】の彼だったということになる。
――自分でいうのもどうかと思うけど、女子には好かれる。異常に。
【彼】のいっていたのは見た目の良さ。
しかし実際は顔だけではなく、お金と家柄。
彼女たちは結局【彼】自身のことは何一つ知らない。みていない。興味すらないけれど。それでも、『将来的な楽』をするために取り合うのだろう。
「あいつと仲良くして、あわよくば彼女だったり愛人だったり奥さんだったりになるだけで全部横からかっさらえるんだったら、そりゃあこうなるよー」
誰が勝ち組なのか。負け組なのか。
……そんなプライドの見せつけあい。見下しあい。
ケタケタと笑うそれを聞き、ぼくはどうしようもない気分のままに頷いた。
当然、その頷きを誰も見ていない。【彼】の性格同様、ぼくは透明だ。
彼が家柄や所持金だけ見られているのと同じく、どちらも持っていないぼくに対しては誰も興味がない。この子たちから話しかけられること。興味を向けられることは何一つない。
「だいたい、同じ男同士で嫉妬とかするだけ超無駄じゃん。■■くん相手に地元八百屋の息子が何イキッてんのって感じ。もやし数円で売ってるような貧乏人相手のクソザコマーケットに誰も興味ないし」
「うん、落ち目落ち目。誰が潰れかけの八百屋継ぎたいのって感じ!」
「親の貧乏人根性、息子にも遺伝するからねえ」
ケラケラと笑う彼女たちの横を通過した。
「まあ、よくよく考えるとさあ。ゲームとかコンピュータとか……えーっと、テーブルゲームっていうの? 全然興味持てないけど、あの見目麗しさなら頑張って付き合えるよねえ」
「そうだねー。雑草相手でも金稼いでるんだったら、金の生る木なわけだし」
「そうそう。性格も大人しいし、言う事なんでも聞いてくれそう。その上豪邸ついてくるんだったらマジ狙い目じゃん。あんだけCM打ってんだからきっと豪華だよ」
……。
ぼくは黙って目的地に入った。当然、ぼくは見知らぬ誰かに言い返すような性格ではない。けれど。
「ウッッッッゼェな!」
――ぴくっ、と思わず肩が跳ねた。
男子トイレの内部に入った瞬間から、威圧感の塊のような声がする。
「逃げんじゃねえよ、被害者面しやがって!」
「あーあー個室に篭っちゃって。俺らが悪いみたいだろうが……なあお前らぁ!」
壁を叩くような音。水が勢いよく流れる音と……。
「ヒャッハッハッハッ」
「いやぁ、悪いんじゃないッスか先輩、男子トイレの個室に追い込んで、ホース垂らすとかマジ無いって!」
……笑い声。
けたたましいそれに、いつもの色は混じっていない。
ぼくは自分でもどんな顔をしていいのか分からないままに……個室より上にしぶきが上がるさまをポカンと見上げた。
――日によってばらばらだけど、機嫌が悪いと15人くらい集めて僕を詰め始める。空き教室かトイレか、日替わりでひとところに追い込んだ後、全員でボコボコにしてくるのさ。
……追い込められて、追い詰められて。それで今日はこの現場なのだろうか。
けれどぼくには確証がない。【脚立の上】の彼がいたところで、きっと一言も喋っていないのだ。
だから分からない。そこに彼がいたところで。そこに、知っている誰かがいたところでピンとは来ない。
「マジ無いって? 無いのはこいつだってんだ」
先輩と言われた側だろうか、一番立場の偉そうな声がした。
「理不尽だろ。何をしようと褒められる、ヨイショされる。――何をしようがチヤホヤされるって、どういう気分なんだろうなあ?」
学校はちいさな鳥籠のようだ。
……そんな言い回しを読んだことがあるのを、ふと思い出した。
クラス内のことが全てである。人間関係というのはどうにも、せまいところに限定されていて――そこだけが「世界」のように感じることがある。
乳児の頃は目に映る親だけが世界だったように。幼児の頃は幼稚園や保育園が世界だったように。
……中学生は、教室のみが世界だと思い込む。
「……恵まれねえやつもいるんだよ。俺みたいにさ。努力してきたやつだってたんまりといる。なのに何もしないで、当然のように恵まれてるさまが気に入らねえ……」
――どうして自分じゃないんだ。
「それを当然だとばかりに享受してるさまが気に入らねえ」
――どうしてこいつばっかり人気者なんだ。
「調子に乗って、周りを見下しているさまが気に入らねえ!! ああ、反吐が出る!」
ハッとした。――ああ。
言っていることが、そっくりだ。
「だから理不尽を正してやるんだ。俺は優しいだろ!?」
――俺どころか全員をどうでもいいと思ってんだろ、知ってんのよ。見下してるんだわ。
マラカイトグリーン。
生物から酸素を奪う効力を持つ合成色素の色。防カビ剤や寄生虫、細菌の駆除に使われる色。
今更思う。自分と同じく、他人がそれを言われていて――ようやく気づく。少数派を許せない。特別扱いを、許さない。
希少性を持つ人間を。レアリティの高い人間を、勝手に見上げてしまう。
見下されていると信じ込む。
それはたぶん……君が、あなたが。
「いつもいつも澄ました顔しやがって、どうだよ頭から水浴びてる気分はよぉ。見えてんぞ立派に!」
「ウッヒャッヒャッヒャ! 最近の小型カメラすごない? あ、やべ、映んなくなった!」
「ンッだよ使えねえな!?」
……相手を、見下す癖があるから。
相手もそうなのではないかと、怖くなるんだ。
見下されていないかと気になるから、見下したくなるんだ。
それは負のループだろう。ミステリー小説でもよくある動機だった。
……劣等感と自己肯定感の低さ。
プライドの高さ。
ひとは『狭い世界』だけをみていると、結局優劣をつけたくなる。
優劣をつけて、劣っていると感じたそれを許せなくなる。ああ、なるほど。
――目障りだ。不快だ、消えてほしい。
同時に自分より優れていると思ったものも、許せなくなっていく。結局そうだ。
――目障りだ、不快だ、消えてほしい。
「カメラに防水スプレーかけたのかよお前ちゃんと!」
「そもそも防水のカメラじゃないだろ。意味ねーんじゃね!?」
見下されること。蔑まれること。貶されること。
それが好きな人間はいないだろう。
だからこそそれを「しない」ことを選ぶ人。
相手に先にやられる前に、「する」ことを選ぶ人……。
「おい、つまんねえからモップ上から投げ込んでやろうぜ」
――さまざまだ。
あの先生とは違う。服装が生徒だ。でもそこまでしか分からない。
服装が違う、けれど同じような言葉を使う誰か。――重い何かが打ち付けられるような音。扉を殴りつけるような音。よごれたドアの向こうで、小さく縮こまった身じろぎの音がする。
「おらぁ、もっと怯えろよ! 悲鳴くらいあげろよ!」
「黙ってちゃ分かんねえだろ、エンタメ性ねえなあ!!」
扉の下から勢いよく水が流れ出ている個室の前。目の前には、明らかにごろつきのような5、6人……。
あ、いや、分かんないな。この人数えたっけ……。
「……なに、してるの……?」
声は震えない。存在を覚えていなくて、悪いなあとも思わない。
ぼくに、憤りという感情があるのかは分からない。
たぶんそれを自覚したことが一度もないからだ。
――足を、踏み出す。
顔を覚えていないので、目の前の人は『連続しない事象』だ。色すらつかない。
なら、普段から近づかないヤツだ。
少し近寄り難いだけで、恨まれたり、妬まれたところで明日に引き継がない。
それに、ぼくには友達もいないのだから……
「は?」
ずいっ、と視線がこちらをみた。
「何お前、いきなり」
「うわ、図書室の頭おかしいヤツじゃん、ウッザぁ!」
――どすん!
面倒気に髪が掴まれて、追い払われるように突き飛ばされた。
「あーあー別にいいよ、そいつ人の顔覚えらんねえんだって。職員室でいうんじゃね? 『誰だか知らない人が誰だか知らない人いじめてましたァー』」
「ぷっ」
ふきだす誰かも、目を離した瞬間に見分けがつかない。目の前の人々はぼくにとって一塊で……
「そもそも■■に嫌われてるから話も聞いてもらえてなさそーだしな」
「わかるぅ。よっぽどだよな、俺たち勉強しにきてんのにずっと『岡本マジムカつく』だけ聞いてる時あるわぁ」
「ンフッ、存在が、授業妨害ぃ」
けれど。
「……君。【脚立の上】の君」
【君】。そこに、いるんだろう。
よろけて尻餅をついてたところから、すっくと立ち上がる。
……今更臆すことはない。髪を掴まれたところで、暴力をふるわれたところで。
――ともかく分かるだろ。君も。僕はもうやってらんないから目をつむって我慢するだけ。逃げた方が後を引く。満足するのを待つんだ。
【脚立の上】の彼と同じく……いつものことだ。
――勝てないものにはヘラヘラ笑って赦しをこうくらいが関の山だよ、そうだろ?
音もなく立ち上がったそれに、彼らは少し興味をそそられたらしい。
見えないトイレの中よりも面白そうな見世物。それがぼくだ。
ああ、見ているといい。普段誰とも口を利かないぼくが――誰と、何をしゃべるのかを。
――がちゃっ。
「えっ?」
ようやく、脳裏に見慣れた色がチラついた。
ぼくだけが知っていたらしい、ここの個室の裏技。
「! 待っ……」
その手を引きずり出せば、【脚立の上】の彼が、個室の中で戸惑った声をあげた。ぐしょぐしょの袖。下げられたままの便座の蓋。
そう、彼が入ったのは真ん中の個室……
「……もういちど、言うけれど」
カチカチと歯がふるえた。手が、表情筋が、ひどくこわばった。
……その場の一塊に。見分けのつかない闇色に。
ぼくはたった一人、色のついた彼の手を掴んで振り返る。
「数少ないぼくのともだちに、なにしてるのってきいてんの……!」
毎日ここと図書室の往復なんだから、壊れかけの鍵に気づいてもしょうがなかった。さらにいうと先生に嫌われているのは本当なので、言ったところでどうしようもなかった。
――ここの鍵はゆるくて、扉を斜め40度くらいの角度で軽く押せば、普通に開く。
「……ああ、やっぱり、君だった……」
確証はない。そのままやってきたぼくは、彼のふるまいにハッキリと色がつくのを感じ取る。
その手をあらためて掴む。
水がはねた音がした。
……未だ顔は思い出せない。名前も。
けれどたった一人、色のついた彼の肩を押す。
「ぼくにとっては、君に名前も、顔もない」
「岡本くん?」
戸惑ったそれを。壊れたカメラを踏み抜きながら……
「……君」
ああ、そう。
夜空の向こう。遠く、宇宙の彼方。
宝石以下の準貴石、オーロラのような発色の『ラブラドライト』に向かって、口を開く。
「こんなところにいる必要……絶対ないだろ!」
扉をぐしゃりと押し抜いて、駆け出した。
* * * *
男子トイレから逃げだした後はやみくもだった。息を切らして全速力。
われにかえって結局、慌てて後ろから追いかけてきている足音を聞く余裕もなく――ひたすら走り続けた。
「……うふっ」
図書室はずっと遠くに遠ざかって、ふと気づけば学校の校門と一緒に消えていく。
「っく、あ、ふ、ははっ……あはははっ!」
駅まで続くメイン通りを走りつつ、最初はあっけにとられていた【脚立の上】の彼が笑い出した。こちらもつられて笑いそうになる。
「岡本くん、何してるの! この後の授業もあるんだぜ、僕ら!」
「ふふっ、ぼくは関係ないや、普段からサボってる!」
手元には鞄もない。履いているのは上靴だ。
「サボるどころかすっごいぞ、傍目からみたら脱走だ、恥っずかしい!」
言葉とは裏腹にカラカラと笑いながら、ぼくらは互いの手を握る。……ほどいても今の時間、制服姿なのはぼくらだけだから見失うことはない。大丈夫だろうけども。
「ああああ! あーあ、楽しかった!」
息の詰まるような酸素不足の場所から解き放たれた開放感と一緒にヒィヒィ言って、街道の真ん中でようやく立ち止まった。……通学路のさなかにある大きな交差点。信号は赤だ。
【脚立の上】の彼は向こう岸の建物を指す。
「そうだ、あそこの喫茶店入ろうよ。残念なことに財布は持ってる。鞄の中に置いとくと盗られるからさ!」
「喫茶店入るの、上靴で?」
「上靴で」
彼が指し示すのはひと気のない、ひっそりとした古民家風の純喫茶だった。
「……実はここ、いつも帰り道に寄るんだ。僕、一度君を連れてきたかったんだよね」
なるほど、言われないと気づかないかもしれない。
【脚立の上】の彼らしい隠れ家だった。
「でも、外で会ったらどうせ僕だってわかんないだろ君。きっと今くらいなもんだ、一緒にカフェ行けたりするのもさ。チャンスだよ!」
そう、ぼくは外で誰かと待ち合わせはできない。
服装が変われば相手をそれと認識できなくなるし、かといって制服の学ランだと他の生徒と見分けがつかないわけだから、たとえば悪意のある誰かに騙されたところで気づきようもないのだ。
……実際、小学校の頃に悪質なそれをやられたこともある。
家に帰って被害を訴えたところで、結局「騙されようもないものだ」と怒られたのだけど。
「あら? いらっしゃい!」
扉を開けば、店内にいたおばさんが口をひらいた。店員さんらしい。
「ボク、学校は?」
「……早めに終わってね、今帰るところ」
促されるままに席に着く。――思えば、友達と喫茶店なんて初めてだ。
「そう。でもあんたにお友達がいてよかったわ……。基本ずぶ濡れだったり、インクまみれだったり恰好が酷いじゃない。いじめられてるんじゃないかと思って」
「ファッションだよ」
「嘘おっしゃい。――あ、いつもの紅茶でいい?」
猫をかぶったように。けれど慣れた様子で頷く【彼】に思わず目を丸くした。
……なるほど。行きつけがあるってこんな感じなんだ。
「あといつもの?」
「うん、ふたつずつ。……ありがとう」
彼と同じく手慣れたようにタオルを渡す様子は、本当に普段から来ているようで。
おばさんは不思議そうな様子でこちらを見た。
「……君もゆっくりしてらっしゃい。この子、誰かを連れてきたの、はじめてだから」
* * * *
その後、色々な話をした。
いつもなら渋いお茶が、ここで飲むと甘くて美味しく感じたのはなぜだろう。
途中、【脚立の上】の彼が頼んだ『いつもの』がやってきた。
「なんか、その場の思いつきをぶちまけたような感じだろ?」
「そうかな」
「あんまり考え事したくないときに食べるんだ、僕」
ぼくはそっと立てかけられたメニューと見比べた。
たぶん、この「カラフルチョコリング」というメニュー名のデザートだろう。
チョコレートがコーティングされたドーナツの真ん中に、ホイップクリームがぎゅっとしぼられていて――上から色とりどりの小さな粒が散りばめられている、不思議な見た目。
「……ケーキじゃなくてドーナツなんだ」
「うん」
ぽりっ、と端に飛んでいる黄色い粒を【彼】がつまみ食いした。音からして結構硬いらしい。
チョコスプレーでもなさそうだけど……砂糖菓子?
「これ、どう食べるの?」
「ナイフとフォークでいいんじゃない? 手でも行けないことないけど、食べづらいよ」
ほら、とカトラリーの入ったカゴをさしだして【脚立の上】の彼はいう。
「前にいったろ? 『君の視界は色で溢れてるのか』って」
人が喋ると『色がつく』。
そう彼に打ち明けたとき、確かに言われたような気がした。
――つまり、岡本くんの視界は色で溢れてる?
「僕はあんまり、そういう感覚ないんだけど……こういうカラフルなものを見ると、ふと思うんだよ。こんな感じかなって」
「感覚ないのに?」
「うん、ないのに。興味本位で悪かったね」
――そうか。私には理解してやれないよ、その感覚は。
あの日、おじさんに言われたそれがなんとなく今はわかる。
こうして叔父さんのような外側に立ってみて……相手を知ろうとしても、寄り添おうとしても、理解のできない側に立ってみて。
――けれどね、人が苦労してるのくらいは、分かってやれるひともいるだろう?
……これは、しょうがない。
ぼくは肩をすくめた。
「……興味本位に救われることもあるよ」
「あるかな?」
彼が自信なさげに言うので、頷いてみる。
……ぼくだって興味本位だし、違うのだ。
たとえ何もかもがからまわっていたとして、ぼくのやり方が間違っていたとして。
善意も悪意も届かないほどに鈍くて、誰かの機微には疎かったとしても。
感じ方も感覚も何一つ違うけれど。
けれど一度くらい。見てみたかったのだ。【彼】の見ている世界を。
「……」
彼はうっすらと笑った。心の底から、ほっとしたみたいに。
「……それは。なんというか。……よかった」
【脚立の上】の彼が言った瞬間、ドアベルが鳴った。
「何名様ですか?」
おばさんが問いかけた瞬間、ふっと見慣れた色がつく。
「2名です」
彼はたぶん、これが分からないんだろう。
その感覚が知りたくて、ぼくも素知らぬふりをした。
* * * *
「……そろそろ、お会計お願いします」
すっかりあたりは夕方だ。
【脚立の上】の彼の言葉に「はーい!」とあのおばさんが明るく返事を返す。
と、まさにその時だ。
「……は!?」
「ふふっ、ご一緒にお会計されますか?」
【彼】を追い越してレジ前に立ったのは、くたびれた背広の男性だった。
驚いた様子で立ち止まる【脚立の上】の彼は、聞いたことのないようなトーンで短く声を上げた。
……変な顔してるんだろうな、これ。
「……合計3250円ですね。クレジットで?」
「はい」
「一括払い?」
「ん」
そんな彼に呆れたような背広。……ぶっきらぼうな言い方をしているこの人がたぶん【脚立の上】の彼の身内で――
「すみません、ごちそうさまでした」
自分の分だけでも払おうとしたくせに失敗したらしい、こっちのなよっと感のある方が、ぼくの叔父だ。
「……楽しそうにしやがって」
呆れた様子で背広の人が息を吐く。
「幽霊でも見たような顔をすんじゃねえ。ったく、学校から呼び出しくらって来てみれば行方不明だの、外に出ていくのがガッツリ見えただの……」
居心地悪そうに【脚立の上】の彼が目を逸らしているのを見て、少し笑いそうになる。そういえば、『親ともそんなに仲良くない』って言ってたっけ……?
「『じゃあ仕方ない、少し探して帰ろうか』と岡本さんと相談して、だ」
ちらりと背広の人はぼくの叔父を見た。
「とりあえず車で来てるおれが駅まで車回そうとしたら、道中の喫茶店にお前らが入ってるのが車道から見えてすぐバレるわ、逆に何も探されてないのが丸わかりになって半笑いになるわ」
そりゃあそうだ。車道から見えるなら歩道からでも見えるはず。先生に少しでも探す気があれば連れ戻されたとは思う。
…………。
絶対なさそうだけど。
「詰めが甘いっつーか悪さに慣れてないっつーか」
「やだなあ■■さん」
叔父さんがククッと笑った。
「悪さに慣れてたら、困るでしょ?」
「……? あー、普通はね。こっちは若い頃に悪かった分、慌てもしませんよ。むしろ文句なさ過ぎて不安って言いますか……」
悪さに慣れていない。それは言えている。
はしゃぎすぎたというのもあるのだろうけど、ぼくも彼も普段こんなことはしないので、今までの経験もくそもない。
「あの……怒らないんですか?」
呆れたように【脚立の上】の彼は口を開いた。
「アホか。おれ自身がそもそも中高で荒れてたタイプだってんだよ、お前と違ってね。……だから、まあ……とやかく言えるもんじゃねえだろう」
叔父さんが『なるほど』と呟く。
「おおらかですね、うちもそうありたいもんですが、なかなか」
「……岡本さんは真似しちゃダメですよ。どうせ優等生か何かでしょ?」
「いえ、劣等生でした。私はね」
ぼくの叔父と会話する自分の親をみつつ――ムスッと【彼】は口を閉ざす。
どう返したらいいのか分からないのかもしれない。……そもそも、人とはぐれて途中で帰ることが多かったぼくはうっすら理解できるものの。誰かが探しにくるとか想定すらしていなかったようだし、向こうの彼は。
「【君】、本当に脱走したことないんだな」
通常、いなくなった側は『探されること』を求めるという。他人からの愛情に飢えるからこそ、『誰か追ってこないか』『引き留めてこないか』と試そうとするものだ。
――そう確か以前、推理小説の探偵が力説していた。所詮聞きかじりの知識だ。
けれど【彼】はまるで違う。
『自分など、いなくても構わない』。そう、必死に思い込んでいるかのような。
「……えっ、岡本くん、もしかしてあったりする……?」
「何が?」
「脱走癖」
「……えっと……結果的にはそうなったことが、何度か?」
「ああ」
【脚立の上】の彼はようやく合点がいったようで。
「ぼくは、人の見分けがつかないものだから」
「……引率者の顔が分かんないのか」
「そういうこと」
「まあまあ」
叔父さんが苦笑いした。
「無事だったんですからヨシとしましょう」
「帰るぞ。――ああ。そうだ」
つん、とした声が背広の人から聞こえた。
「……言い忘れてたが、岡本 彗くん」
ぼくは誰かの名前を覚えられない。
他人のそれを聞いたところで、すぐに右から左だ。
「はい?」
けれど――フルネームがぼくの耳を叩く。唯一漢字変換のできる、意識をすべらない音の羅列。ぼく自身の名前はどうにか思い起こせるし、頭にスコンと入ってくる。
つんけんした印象の声が、少し柔らかく笑った。
「ありがとう」
ぼくは【彼】の父親らしき――背広の人をふっと見た。
その言葉が何に対してだかは分からない。
ぼくがやったことは結局、衝動的なものだ。
彼を憐れんだのでもなく、彼の境遇に悲しんだわけでもない。勇気づけようとしたのでも、誰かの役に立とうとした結果でもない。
ただ。きっと、嫌だった。
ぼくのことを努力家だと言った彼が、自由だと言った彼が。
名前も顔も分からない人々に悪く言われていたり、虐げられていたり。
それが妙にムカついて、我慢ならなかっただけ。
未だ濡れている【彼】の制服の肩にのせられた手をみて――ぼくはやっと、無意識に握っていた手を離した。
「ぼく、なにもしてません」
「その『何もしない』が、欲しかったんだろうさ」
【脚立の上】の彼は息を吐く。
そして、少し迷った顔をしながら――つっけんどんに肩にのっかる父親の手をはらった。
「……なぜ、あなたが分かったようにいうんです?」
すると背広のお父さんはくすっと笑って。
「悪かった」
「……知りもしないくせに」
【彼】にしては珍しい憎まれ口だった。
それでも意外なように思わなかったのは……。
「結構、普段は意地悪なんだな、君」
「……媚を売る必要もないからね、こんなひと」
たぶん【彼】は内弁慶だからだ。
素がそれだったんだろう。似合いすぎていた。
「車で送りましょうか」
「いいえ、■■さん。……甥っ子と、少し寄り道しようかと思いますので」
【彼】の父親は薄々、気づいていたのかもしれない。
家までのバスを逃したときの送り迎えは全部父親なのだと【彼】は言っていた。
だから結局、見ているはずだ。
――ジュースかけられたり脱がされたり、体育のあと戻ってきたらシャツ刻まれてたのもあったな。
あれはいつか、【脚立の上】の彼自身がおどけながら言っていたことだけれど。
通常、それだけやられれば『どうしたのか』も聞きたくなる。
彼がいじめを受けていたこと、あの学校で浮いていること。相談や報告をしたところで動かない教員。担任の責任感のなさ。
勝手に仲間だと判断されたぼく以外、誰にもその問題を打ち明けないであろう強情さ、孤独さ、いじっぱり感は、なんとなく分かった気がした。
【彼】はたぶん、そういう人だ。
――人が苦労してるのくらいは、分かってやれるひともいるだろう?
幾度となく思い出すのは叔父さんの呟きだ。
他人のことは分からない。分かってやれるなんて思わない。けれど。
「ねえ、彗」
「なに?」
「息子くん見つけたとき。……横に彗がいて、ほっとした顔してたよ、■■さん」
……あの背広のお父さんは、きっとちいさな違和感と憤りの断片から、必ず「何か」を拾い上げることができる人だったし。
そこから――きっとぼくの役割をうっすら理解したんだろうな。
そう、今では思うこともある。
* * * *
喫茶店での出来事から数ヶ月もすると、彼はまた少し雰囲気が変わった。
また何かがあったのか、それともぼくと喫茶店に飛び込んだあの脱走事件がそうさせたのか。
ともかく当初の柔らかい雰囲気は少しずつ落ち着いた物腰に変わったし、理不尽には毅然と言い返すようになった。
中学生なんてきっとそんなものだろう。思春期でも反抗期でも何でもいいのだけれど……きっとほんの少しで、色々と変わったりするものだ。
敵はもっと増えて、傷だらけのことも増えて――けれど、【彼】の目は前よりも爛々と輝いていた。
力強く。あの、夜空の向こうと同じ色に。
「……3月もそろそろ終わりだね」
脚立の下に本を持って寄りかかれば、上から落ち着いた声が降ってきた。
「岡本くん。外部進学するんだって?」
ぼくは顔をあげた。――外部進学。放っておくと大学までエスカレーター式にグングンのぼっていくタイプらしいこの学校は、もともとが偏差値の高い大学にぶら下がるようにできた高等部と中等部だ。
そもそものぼくの悪癖や特性を『しっかりした学校に入れれば理屈もなしに治る』と考えたぼくの親。当然、ぼくの学力が合致しているわけもない。
入れたことが不思議なほどだ。
なら、ここから出た方が何かと都合が良い。
けれどぼく以外のここの生徒は、必ず学歴に惹かれて残ろうとする。放っておけば有名大の経歴が軽く手に入るはずの中等部から、外に出る人間は珍しかった。
「……それ、誰からきいたの」
「名前言っても分かんないだろ。ホラ、えっと。カーネリアンレッドの先生」
ぼくに合わせた色名での呼称に噴き出す。
ああ、なるほど――飛ばされた担任の次の人。
「前の■■先生、いなくなったのって僕のせいらしいけど――詳細知らないんだよね。何したんだろう」
「それは【君】のお父さんも怒るだろ。ぼくらが脱走したときだって我関せずどころか保身ばっかりだったんだ、あのマラカイトグリーン。……伝え聞くところによるとね」
「へえ」
【脚立の上】の彼はさらりと言った。
「あれ、そこまで僕のために怒る人でもない気がするけどね?」
「君、父親に対しては冷たいよね」
「わざとだよ」
彼は少しとげとげしく。けれどどこか苦笑いしたように。
明らかな素の表情を表に出した。
「僕はいけすかない悪役だからね。……こういう甘え方しか、できないのさ」
「……ああ、うん。そうかもね」
強がりな【脚立の上】の彼に言葉を返す。ざっくりと、彼を真似して軽薄に。
記憶に残るそれがたぶん、一番最後のやりとりだ。
* * * * * *
* * * * *
……そんなことを思い出す、金曜日の午後だったりするわけだけども。
「じゃあその、脱走事件起こした時のドーナツなんですか? これ?」
【マルーン色の彼女】がしげしげとぼくの前の皿を見る。
……普段は来ないような町での人探し。「ちょっと一休みしようか」と入ったお店で見かけた気まぐれランチ。「好きなもの」が出てくると書かれたそれを注文すると、あの日と同じ紅茶とドーナツのセットが出てきた。
甘みの少ないビターチョコに、ふわふわのホイップ。
表面がさっくりしたドーナツ生地に、砂糖菓子。
それから渋みの少ないミルクティー。
……あの日に入った喫茶店は、さすがにもう存在しない。
どう数えても32年は経つのだから、あのおばさんだって生きているかどうかだ。
あの中学から外に出て、とにかく通信制の高校に進学した以後。
ぼくはあの喫茶店に足しげく通った。
【脚立の上】の彼に会えるのでは、という一心だ。
いや、会えるというと語弊はあるか……声をかけてもらったところで、【色】が発動するとは限らない。そもそも後から気づいたが、普段出会うのと別の場所で会うと、脳裏に色がちらつく率がかなり低下する。それでなくとも毎度じゃないのに、少し不便だった。
当然、もし声をかけられたとしてもイコールではなかなか結べないわけで……。
でも話しかけてくれなくても構わないから、まあぼくの存在くらいは見かけておいてほしかった。……だって寂しいのだ。あれから友達はさすがに少し増えたけど、それでもぼくにとってあの図書室での会話や、男子トイレからの脱走劇。喫茶店での出来事は宝の山だった。
あの色褪せた毎日は――ぼくの頭の隅に残る、たった一つの聖域だったのだから。
なのでひとつ、自己主張をしてみたくなる。
ここにいるよ。存在してるよ。それを言いたくて――けれど、そのお店はもうなくなって。
手元に残ったものというと、やっぱりうっすらとした「思い出」の欠片だけ。
「……考えれば考えるほど難儀ですねえ、彗さんのそれ」
「自分でもそう思うよ。ぼくにつきあってくれる仕事仲間がいるってだけでも、正直どうかと」
「えっ、自分で言うんです?」
マルーン色の探偵助手は苦笑い気味に小首をかしげた。ぼくは軽薄な【彼】の真似をしつつおどけて返す。
「そもそも、人の見分けがつかな過ぎて日常生活すら困難な探偵って、一体なんなんだと思うわけでね」
「わたしが来る前までどうしてたんですか……」
「どうしても無理ってときは漆黒の彼に手伝ってもらってて」
「■■刑事一々呼んでたんです!? 日常生活で!?」
うん、本当に我ながらどうかと思う。
そう思いつつ、ガリっと砂糖菓子を食べた。……おいしい。口の中で紅茶にとけて甘い。
「だってあのひとぼくに恩があるから……っていうか売ってるから……」
「警察官に大安売りしないでください恩を! というか頼むから殺人事件とかに首を突っ込まないでくださいよ。探偵は大人しく浮気調査と迷い猫探しすべきです。小説の読みすぎですよ!」
「向こうから協力要請してくるんだから仕方ないでしょ、監視カメラ越しとかだと発動しやすいんだよ色のヤツ。画角が固定されてるせいもあると思うけど」
そんなことを二人でドーナツをフォークでつつきながら言っていると……
「おや? いらっしゃい、珍しいねこんな時間に」
「……存外、早めに終わってね」
低い声と、ドアベルの音がした。
店主だろう若い男性がたしなめる。
「……お客さんをガン見するなよ」
「そっち見ても意味ないだろ。チョコリング見てるんだ」
「ああ、見た目可愛いよね。気になる?」
見慣れない黒い制服。どこかの業者の配達員だろう。
その視線がこちらを向いたのが分かったので、ぼくは会釈をした。
配達員はじっとこちらを見る。
「……やあ。勿論」
「待って、同じもの作るから」
ぼくの背後の席に長い足を投げ出すように座る、黒い配達員。
ああ、どうも彼は常連らしいな。そう思いつつ、紅茶を飲みほした。
「彗さん、なんか笑ってます?」
「いや、特に何も?」
――――こんにちは。そう、その色を見間違えていなければ。
ラブラドライトの君。
「やる気が出てきた。もう一回やろうか」
「人探しを?」
ドアベルの音が鳴る。食べ終えたぼくはカウンターに小銭をおきつつ、彼女と共に仕事に戻った。
「そう、誰だかぼくも分かってない犯人探しを」
「ちょっとは分かってくださいよ」
後ろを振り返る。
あの懐かしい色を、もう一度だけまた見返そうとして――けれど。
「……うん」
「どうかしました?」
「いつも通りさ」
あの店は、どこにもなかった。
「……しょうがない。人を見失うのは、ぼくの得意技だからね?」
――また会えるだろ。
きっとどこか、ヘンな場所で。




