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★#25 こんにちは、ラブラドライトの君(上)


 人の顔というのは、()にも(かく)にも全員同じだ。


「……よう岡本。俺だよ俺。■■だ。いい加減中学校の担任の名前くらい、覚えてくれると嬉しいね」


 どれも目があって、耳があって、鼻がある。

 口の形がちがうだとか、目が離れているだとか。

 そんなこと言われても……自分には、見分けがつかない。どうしてもだ。


「はあ。……相変わらず、『他人に一切興味がない』のは結構だがねえ」


 ざらっとした声を耳に受けた瞬間、脳裏がちらりと【色】を出力する。


「授業もろくに受けないで、図書室にいる生徒を真面目に訪ねる優しい先生なんて、結局俺くらいなもんだろぉ。成績だってホラ、ビリ中のビリなんだし――――」


 視界の端がマラカイトグリーンに染まった。

 そこでようやく把握する。いつも話しかけてくる担当の先生だ。

 なんだかほっとして息を吐いた。

 空気が冷たい気がして、けれど白い息は出なかった。


 ……()()()()。対応はいつもと変わらない。


「いわゆる、『保健室登校』だっけ……それはよく聞くけど、図書室登校なんて異例中の異例だ。……ああ、ホント。甘えってヤツだな」


 猫なで声にも近い。

 けれど、どれかといえば敵意や悪意を感じる、ねっとりとした言葉遣い。


「特別扱いなんてされてるだけ有難いと思え。なあ?」

「はい」


 即答した。

 それは理解している。

 ――そう、許されているだけ、有難い。


「愛想もねえ。やる気もねえ。自分から話しかけてくることがありゃ、大人に媚を売る気はあるんだなと思うから可愛いさ」


 ほんの少しのイラつき。

 猫なで声が反転するように、不安定な色を帯び始め……。


「しかし何もない。お前には、そもそも他人と会話する気がない。それでイラつかないって方がどうかしてるだろう?」


 他人からしたら、そう見える――見えるならそれは、客観的には真実だ。

 そう、半ばぼうっとしたように思った。

 他人の会話を耳にしていると、薄々理解はするのだが。どうも大概の人は、見るだけで相手が分かるらしい。顔のパーツの配置で相手を識別している。

 そして名前を記憶できている。


 ……それがぼくには無理だ、できない。


 幼い頃にそう口を開いたとき。家族は「そんなバカな」と爆笑した。唯一、黙ってぼくをみて頷くのは叔父くらいなものだ。なるほどね、と。



  ――そうか。私には理解してやれないよ、その感覚は。



 けれどね、と叔父は幾度も、学校どころか塾どころか……親にも兄妹にも馴染めず一人でアイスティーを飲むぼくに言う。



 ――人が苦労してるのくらいは、分かってやれるひともいるだろう?



 いるのだろうか。いや、そもそもぼくは苦労をしているのだろうか。

 ただひたすらに「当たり前のこと」、「普通のこと」すらできない人間なのではないだろうか。


 それを「苦労」と呼んでいいのかどうかすら分からない。そもそもだ。ぼくのようなものでなく【ごく普通の人】が何かにぶつかることを、「苦労」というのではないだろうか?


 ぼくは『出会う人間』がなかなかイコールで結ばれない。


 顔を見てもまず「はじめまして」の感覚だ。

 積み重ねのない、『連続しないもの』に声をかける道理も勇気も、ぼくにはなかった。

 「以前こんなエピソードがあったね」なんて笑い話を持ち掛けられても、何も分からないのだ。


 それが申し訳なくて、息が詰まる。


 だって皆、いつも声をかけてくるタイミングが違う。位置も。いつも同じところにいてくれれば同じ人物だとすぐに分かるのに。


「……。なあ、岡本。知ってんだよ俺は。お前の性格は最悪極まりない」


 ため息混じりの先生の言葉。図書室の出入り口。

 逃げることを恐れてか、仁王立ちになったそれ。

 信用も信頼も一切ない。


 ぼくはそもそも逃げはしないのに。だって責められて当たり前のことをぼくはしている。生きているだけで。社会の片隅にいるだけで。


 そう。――つまり、ぼくは最悪なのだ。

 先生の言う通りに。


 本当のことを言われるのなら、別にいい。本音を言われるなら別に、構わない。

 それをぼくは出来うる限り真面目に受け止めなければならない。反省しなければいけない。


 だって不快なものは罵ってもいい。

 排してもいい。

 それが、ぼくの知っている「()()」とやらなのだから。


「俺どころか、全員をどうでもいいと思ってんだろ」


 タバコのにおいを至近距離で感じる。

 ヤニが切れる、という言葉選びがあったのをふと思い出した。……たぶんこの先生、ニコチン中毒。


「知ってんのよ。見下してるんだわ。こんな奴、目に映す価値もない。認識する価値もないってな」

「いいえ」


 その価値は、あると思う。ぼくが異常なだけ。

 だって皆、分かるんだろ?

 ぼくの見て分からない色々が。視界から。


「……」


 金属音がした。

 先生の腕時計が壁にぶつかった音だ。

 手首をつかまれ、壁に押し付けられる。


「……オーケーだ、岡本」


 何がオーケーなのだろう。


「これで俺はお前を罵る理由ができた」

「はい」


 ……暴力をふるう理由ができた。

 ああ、それでオーケーか。

 ぼくは普段読んでいる小説の言い回しを思い出す。

 同意や賛成という意味合いのほかに、承認するとか好調になった、そういう意味があるのだったかしら。――ああ。『ノリノリになった』という意味での?

 なるほど、よかった。罵られるのも傷つけられるのも嫌だけれど、慣れている。


「……『()()()』なんて言ってんじゃねえ」


 普段、この先生に「迷惑をかけている」のはこのぼくだ。相手を不快にした分、奉仕くらいはしなければならないだろう。スッキリした気分になれるのなら、幸いだ。目をギラギラさせて、この先生は口の端を釣り上げた。

 ――ああ、とても楽しそうで、よかった。


「話を最後まで聞かずに否定するな」


 ――『生意気なんだよ、サンドバッグ』。


「そういうところがダメなんだ」


 ――『口答えする自由があるとでも?』


「いいか? お前にどう親切にしたところで暖簾に腕押しだ」


 ――『全部お前のせいにしたほうが楽なんだ』


「誰が好き好んでお前と仲良くするってんだ、こっちも仕事だからへえこらと付き合うがねえ!」


 そんな本音が聞こえる気がするのは、まあ、当たらずも遠からずなのかもしれないけれど。

 どこのクラスに入ってもそうだった。どこの学習塾に行ってもそうだった。

 ぼくは必ずその場の誰かをキレさせる。


 ぼくは――ひとを、おぼえられない。

 声を幾度か聞いてようやく、何を今まで喋ったかの蓄積に辿り着ける。一方的につらつらと喋ってくれている、この■■先生の存在はちょっとだけ有難い。だから、悪い人ではないと必死に思い込む。


 身動きが取れないまま目をつむる。 ――押し付けられた腕が、背中が痛い。

 けれどそれは当然の結果だと思った。ぼくの振る舞いが悪いのだ。それを否定することで目の前のその人がすっきりするというのなら、それでようやくぼくは誰かの役に立つ。


「……またダンマリかよ。会話にすらならねえ。あーあ。全く」


 ぼくに意見を言わせなかったのは、この人だというのに。優越感に浸ったような様子できょろりと視線が動く。


「誰がお前みたいなやつと仲良くするものか。お前は迷惑の上に成り立ってる存在なんだ、自覚しろ」

「それは、しています」


 ――しまった。駄目なパターンだったらしい。

 頬を殴られた。

 そんな感触がしたがいつものことだった。どうも神経を逆撫でしたらしい。2発目を覚悟し目をつむった。こういうものは黙ってやり過ごすのがいい。相手を不快にしたのはぼくなのだから。

 ああ――しかし。


「……。とにかく、ふざけた言動はすぐにやめることだ」


 次の瞬間、扉の音がして、何か違う色が目に入る。

 誰かが図書室を利用しに来たようだ。

 我にかえったように慌てて襟を正し、■■先生はその子に声をかける。

 にこやかに、柔らかく。

 ぼくに対してとは違う様子で。


 ……あの子は、ふざけてないんだろうな。


 ふと思う。

 他の人に失礼な態度も、とらないんだろうな。知らず知らずのうちに。




    *   *   *   *




 幼い頃は幾度も知らない人の後ろをついていったし、人の名前をしつこく言い間違えて怒られた。そのうちトラウマにでもなったのか、今度は顔のみならず――新しく人の名前を覚えられなくなった。


 発声はできる。声に出して読めもする。

 ただし頭に入っていかない。

 人名に限らず、ほとんどはじめてみるようななんらかの事象、定義――いわゆる固有名詞の全般が、頭になかなかインプットされない。


 唯一、気に入って何度も読むようなミステリー小説由来の知識は定着しやすいので、むさぼるように読んだ。『お気に入り』を増やそうと脅迫的に色々と。そういう偏った知識だけはあるものの――結局、それも借り物のような話だろう。自分から欲しくて学んだ、そんな知識ではない。


 ぼくは、ちゃんと思考できているのだろうか。それとも、先生や周囲の言うように……実は誰も彼もを自動的に見下していて、ぼくは嘲笑っていて。

 そうして、嫌がらせをしているのだろうか。


「……ねえ、君」


 いつもひきこもっている図書室で、よく脚立の上にいる生徒が口を開く。彼はここ数年、休憩時間のつどそこで本を読んでいる。


「人の名前を覚えられないって、言ってたっけ?」


 彼はゆっくりとぼくの手の中を指す。

 ぼくが持っているのは「今が旬」とばかりによく見かける、流行りの推理ものだ。


「それなら、『登場人物の名前』も覚えられないんじゃないのかい?」


 ああ、確かに。


「……『楽しめるのか』と?」

「うん、そう」


 軽やかな口調。口数が多いというわけでもなさそうだけれど、どことなく軽薄でおどけた彼。

 『他人の顔も名前も覚えられない』――そう登校初日に片っ端からふれてまわったのをいまだに覚えていたらしい彼は、うっすら笑った声で、静かな調子のままに言葉を続ける。


「本当に誰かの顔を覚えるのと、名前を覚えるの、両方苦手なんだろ。君は」


 僕の名前すら覚えられないのがその証拠さ、とくすくす笑う脚立の上の声は、なぜかぼくの不快さが、失礼さが――なぜだかよっぽど心地よかったようで。

 それはなんだか、他の人のそれよりは丸くて、柔らかい感覚だった。


「ねえ岡本くん。今朝がた、僕。不自然にも名前付きで挨拶したんだぜ?」

「……わざわざ誰かが話しかけてくるなんて珍しい、誰だろうとは思った」

「『おはよう、■■だよ』って言ってんのに、すごく困った顔するからおかしくってさ。ホント、笑ってごめん」


 ……こういうことになるから、親密になる前に伝える義務がある。

 ぼくと会話をしたら不快感をおぼえるであろうことをあらかじめ予告したのが、先ほど言った『登校初日』。けれど――あのときは結構な人に2、3度ダブって告知したようだ。

 おかげで近づいてはならないタイプの変人だと思われたらしく、話しかけてくる人間はこの【脚立の上】の彼以外いなくなった。


 ぼくとしてはその方がいい。きっと、ぼくと友人関係を継続するのは至難の業だろう。どれだけ仲良くなったとしても、そこから離れれば赤の他人だ。

 次の日にブンブン手を振って出会ったところで、きっとぼくからしたら「どちらさま」?

 ……相手をガッカリさせてしまう前にふるいにかけるしかない。なのに。


「……登場人物名、確かに覚えられないよ。なんとなく雰囲気で読み進めてる」


 彼は図書室で、待ち構えていたように【脚立の上】にいるのだ。正しくは、いつの間にかそこにいる。

 ぼくが目の前のミステリーに夢中になっている間、中休みのチャイムが鳴った後。

 昼休憩の始まって15分後。

 ああ、割とまちまちだけれど。

 ぼくの言葉に頷いて、ちいさく息の音がかえった。――けれど沈黙も、否定も肯定もない、そんな音だ。


「……面白いね」

「面白い?」

「推理ものっていうのは、大概――犯人候補が何人もいるのが前提だ」


 ぽすん、と本の表紙を閉じる音がした。

 【脚立の上】の彼が一冊読み終えたらしい。


「誰が誰だか分からないで進むんだろ、君の中の探偵は」


 そうだ。いや、それを肯定すると語弊があるか。

 正確には、登場人物名では認識できていないのだが……。


「……【脚立の君】には言ってないことだと、思うんだけれども」

「何を?」


 珍妙なあだ名をものともせず、彼は面白げに問い返す。ぼくは彼の名前を憶えていない。顔の情報もだ。――けれど、片鱗くらいならば少しは分かる。


「ふつう、理解されないことだし。ぼくにとっては当然だから……その、言いふらさなかったんだ」


 黙った視線が脚立の上から降ってきた。

 珍しく、こちらを見ているのが分かる。普段は本に目を落としながら喋る【脚立の上】の彼が――ぼくに、視線のみで続きを促した。


「頭の中で、ほんのすこしの色がつく。……本でもいい。現実でもいい。誰か喋っていると、とつぜん」


 へえ、と彼は薄く笑って視線を外す。

 興味を失ったわけではないとなぜか分かった。

 彼はそもそも本を読みながら会話するという器用なことをしているわけで、視線は手元のそっちがデフォルトだ。


「色?」

「そう、色。様々な」


 登場人物は【色】で判断している。普段からよく読んでいるものはミステリーだったが、そもそもそんなジャンル、人の名前に区別がつかなければ到底、読むことはできないのではないかと今更ながらふと思う。


 ――誰かが作中で喋るとき、目的を持って動くとき。頭の中で、ほんの少しの色がつく。


「ははあ。いわゆる、共感覚ってやつかな? 記憶っていうビデオテープにラベルを貼るんだよ。言葉で覚えられないものを、別の概念でね」


 少し考えあぐねたような沈黙と、勝手な推論。脚立の上で投げっぱなしの足がふらりと揺れた。――彼は足が長い。入学時に買ったらしき制服のズボンの丈が足りておらず、足首の靴下が丸出しになるほどだ。


「つまり。岡本くんの視界は、色で溢れてる?」


 彼の言葉は軽やかだ。

 見下すわけでも排斥するわけでもない。

 ただ、ほんの少しの好奇心だけ。


「……声を、どうにかおぼえるようなものだと、思う」


 ぼくはその好奇心に応えて口を開く。

 そもそもが自分の『見え方』を――感じ方を。

 そんなふうに感心を持たれ、質問されたのは初めてだった。


「『幾度か喋った間柄のひと』が喋れば固有の色がつくし、ふるまいでも分かることがある」

「へえ」


 そう、ふるまいだけでも色がつくこともあるにはあるが――それも時々だ。

 その人物が台詞で。現実世界では口をひらいて喋った段階で、一番ハッキリとした色がつく。

 「この人は赤色だな」というふうに、イメージカラーを認識する。


 そして目の前の彼の色は――――


「……なるほど。人間ってのは本来、そういう強さがあるのかもだ」


 ――――ああ。何色だろう、これは。

 不思議な色を放つ頭の隅。ちろりとオーロラのように揺らめく個体差の色。

 シラー効果というんだっけ。アルカリ長石の一種に出てくる、虹のような構造色。

 なんというか……色々混ざった色彩だった。たとえていうなら暗闇の中の宝石箱。田舎で見上げた星空の、天の川の向こう。


「そう?」


 ぼくの言葉に、彼は頷く。


「ざっくりいうと、だね。……きっと誰に対しても【個体の識別】がうまくいかないんだろ、君の頭の中ってやつは」


 手に持った冊子をさりげなく見せてくる。

 たぶん脳科学の本だ。詳しくないけれど。


「仲間を識別する力がないっていうのは、野生だとあんまり生き残れない。けれど、それをカバーするみたいに違う能力が伸びてる。それが君なんじゃないのかな、と」


 言葉を選ぶのが分かった。――大多数の中でいっとう醜く浮いている、ぼくなんかのためにだ。

 一つ一つ失礼にならない言葉を選んでいるのが分かった。……『失礼な言葉』を、『侮辱的な言葉』を投げかけられるのが通常だと思っていたので、なんだかくすぐったい。

 けれど彼は軽やかに、臆すことなく。


()()()()()んだよ。目が悪い人が、いろいろな音を聞き分けられるようになるみたいに、さ」

「そんなに頑張ってないぞ、ぼくは」

「それが当たり前なのは、君だけだ」


 その声が少しだけ硬さを帯びた。一瞬にして空気が締まる。

 いつもの羽のような軽さはどこへやら。


「僕はむしろ、君を尊敬するよ」


 彼は高いボーイソプラノだ。

 きっと声変わりがまだなんだろう。なのにとても重い音。硬い音。人生経験の出たような枯れた音。

 ……それでも彼の【色】は相変わらず。

 銀河の向こうのような暗闇で、それでも混ざった何かが絶えず光っている。

 意味が分からず首を傾げた。


「……君だけの頑張りっていうのはね。君にしか、当たり前ではないんだ。それと同時に、君の頑張りを理解しているのは君だけなんだよ」


 ふと気づく。

 ……そういえば、■■先生がぼくを殴った瞬間、扉が開いた音がしたような。


「……【君】」


 脚立の上に問いかける。


「何かみた?」

「別に」


 あのとき入ってきた【一つも喋らない無色の生徒】を、ぼくは同一人物だとは気付かなかったのかもしれない。目の前の彼と。




    *   *   *   *




「……えっと、暇なのか?」


 脚立の最上段に今し方腰かけたそれに、思わず口から、『あらぬ軽口』が飛び出てしまった。我ながら珍しい。


「……。はあ」


 【脚立の上】から息が漏れた。


「めんくらったよ。いきなり失礼だなあ」

「授業中以外、最近ずっとそこに人がいるだろ」


 コツっと脚立に足首がぶつかる音がした。……半分むくれた顔で足をバタつかせたんだろう。明らかに見かける回数が増えている。いや、脚立の上にいるから【彼】だと分かるので、そうでない時間を含めたらもっとこの図書室にいるのかもしれない。


「だって君しかいないじゃない、脚立の上に誰かいるって」

「……顔でなく、場所で認識してくれてるからなあ、君……」


 呆れた様子で。

 けれど、少しほっとした様子で彼は言う。


「?」

「一応、岡本くんには分かるかもしれないから言うけれど」


 そもそもの話。ここの図書室はガリ勉の巣窟だった。参考書付近にしか人がいないのだ。なのでライトノベルとか、ミステリー文学とか、ホラーとか……。

 そういうものが多いこの一角に、人は来ない。

 高いところにあるファンタジーも、勿論誰も手に取らない。

 だからこそ、ここに置かれた脚立が動くこともないわけで。その上で本を読むのは一人だけ……。


「まいったことに――すごく嫌なんだよ。この学校」

「…………」

「君のように学習で躓くことはない。コミュニケーションもまあとれる。けれど」


 【脚立の上】の彼は堰を切ったように。


「……悪意がある、というか」

「悪意?」

「ただしくは――クラスメイトが嫌、だね」

「ぼくが一切顔を覚えてない、君の同級生が?」


 【脚立の上】の彼は首をすくめた。


「言っとくけど僕、君と同じクラスだよ?」

「そう」


 共通点があるようで少し嬉しい。

 いや、ぼくにはほぼ認識できないことだし、教室に入ることはほぼないが。だって、不快そうな視線が一点集中するだろう。恐らくは。

 もしくは興味と嘲りか。野生動物が迷い込んできた雰囲気になるのは想像に難くない。


「しかし、解せないな」


 ぼくは【彼】に向かってぼやきながら次の冊子を手に取った。

 ……そもそもぼくは人と喋りながら読書ができるほど器用ではない。ページを捲るのも今はもはや作業に近いわけだが。


 ただ、ぼくにはこれしかないわけだ。


 普通の人々の学び舎。その図書室にいる以上、何かを読んでいるふりをしていなければならないような気がして。ああ。もっといえば。

 それをしていれば――彼と同じ、普通の世界が見えるような気がして。


「そうかい?」

「【君】、まともに人と会話できるだろ」


 ピタリ。

 彼のページを捲る手が止まる。ぼくは続けた。


「……【脚立の上】の君は、きっと相手の顔を忘れない……」


 昔から一日限定で仲良くなることはある。一番初めの日に。けれど、ぼくの場合は続かない。その場からその人がいなくなれば見失うし、【色】も万能ではない。暫く継続して喋らなければ色はつかない上、それでも遠目では分からない。


「場所が変わっても服装が変わっても、明日も明後日も友達だ。交友が続く」


 暫く考えあぐねたように――しかし、戸惑うように。

 ようやくページを捲る音が再開した。


「……そうかな。名前を知らない、顔をおぼえられないってのはある意味幸運だ」


 【脚立の上】の彼が口を開く。


「……勿論。いまのは誤解を招くような言い方なので釘をさしておくと、ばかにはしていないさ。見下したりも、からかったりもしていない」

「…………」

「皆そうであったらな、と。僕は思うんだ。君といると気が楽だから、時々ね」


 羨ましげな言い方だった。

 ぼくも少し固まった後、黙って手元のページをめくる。――勿論【彼】の真似をしたのだけれど、それも見透かされているような。お見通しみたいな肌感覚だ。

 ほんの少しだけ向こうが笑う。


「だって君、【    】の噂とか耳に入らないだろ?」


 長めの響きが漢字にもひらがなにも変換されずに脳を通過する。

 ……今のはたぶん、人名。


「万が一耳に入ったとして、僕と同一人物だとはピンとこない。だからだよ。変な感情をはさまない」

「……悪い噂でも流されてるのか?」


 思わず手に持った本を閉じた。手の中の犯人捜しは正直、とっくの昔に断念している。

 それ以前にぼくの周囲が大事件だ。トラブルまみれだったらしい。


「話の流れで理解してくれると嬉しいかな。ええ、勿論」

「何したの、【君】は?」


 こちらの問いに、さらりと向こうはいう。


「あー、とくに何も?」


 その軽い言い方は逆に深読みさせる間合いだ。

 苦笑いしたような、おどけたような。

 どこかそう。たとえば【彼】のことを――自分自身を、小馬鹿にするような。


「ただ、そうだね。好ましいらしいんだ」

「好ましい?」

「異性からみると、結構カッコいいんだよ。僕は」


 予想外の言葉に暫く固まった。


「……自分でいうのもどうかと思うけど、女子には好かれる。異常に」

「……そんな、軽薄な調子で……?」


 別にいいだろ、とすねたように鼻を鳴らした彼はそっぽを向いた。

 けれど半分くらい冗談らしい。口元を上げながら話を続ける。


「まあ……だから、その。同性には妬まれる」

「……分からない感覚なんだが」

「分からなくていい。そんな上っ面」


 『知らないからこそ気楽なんだ』。

 そんなことを言いながら【脚立の上】の彼は少し体勢を変えた。


「クラスで一番人気の女の子とか、よくいるじゃないか?」

「いる、みたいだね?」

「そういうの、片っ端から()()()()()()らしいんだよ、僕」


 手をピストルの形にしつつ、さらりというそれ。

 ぼくはほぼ入ったことのない教室を無理やり思い浮かべた。……たくさんの女の子に言い寄られる【脚立の上】の彼……。


「……あー」


 正直人間関係が大体消滅するせいで、恋愛沙汰どころかまともな友情モノですら本物をよく知らないのだが――ええと、この人もしかして。


「君、アニメとかでよくみる――主人公が嫉妬する、いけすかないやつ?」

「だろうね?」


 そんなつもりもなさそうに、ぺろっと彼は舌を出す。


「特に僕からは何もしてないのに、変な意識をさせるらしい。距離感かな。遠目にしているつもりなんだけど、逆に追いかけさせてしまうのかもだ。まあ大体の子がそう。……うん、きっとそういう扱いをする。けど個人的にはどの子にしろ、興味はないよ」


 『タイプの子』がいないようだ。


「そういう願望がないわけではないけれど、どちらかというと放っておいてほしい。できることなら勉強とかに集中したいし――なんて本音を言っていれば、途端にそう。妬まれる」


 どうやら本当にモテるらしい。


「劣等感で衝動的に行動するのは正直分からなくもないんだ。そういうのは僕にもあるからね」

「…………」


 ぼくは思わずそちらのほうを見た。覚えられない視覚情報を注視する。

 ……本当に?


「僕に楽しい繋がりはない。横にも縦にも、気楽なのは君とのやりとりくらいだ。親とだってそこまで仲良くないさ」


 なるほど。


「そういう点で、僕は【持たざる者】だろう。ただ、共感できるからといって納得はしない。『あいつは調子にのっている』『チヤホヤされるからと周りを見下している』」


 ちらりとマラカイトグリーンを思いだした。――ただ、そこにいるわけはない。先生がどこにいようと、声を発しない限り分からない。声を発していたって分からないかもしれない。ぼくの脳裏に浮かべる色は少し不安定で、どこでも万能なわけではないから。


「そう、『誰かが灸を据えてやらないと』……そう妙な使命感に駆られながら、結局そのうち後輩先輩が廊下に大集合だ。呼び出される。無視していれば、問答無用で教室からつまみだされる」


 ならず者のグループが【彼】を暴力的に教室から連れ出すさまを想像した。

 ……体格のいい中学生だと、きっと大人とそう変わらない。


「日によってばらばらだけど、機嫌が悪いと15人くらい集めて僕を詰め始める。――空き教室かトイレか、日替わりでひとところに追い込んだ後、全員でボコボコにしてくるのさ」

「……川魚の追い込み漁みたいだなあ」


 ひどいというのは簡単だ。

 典型的なリンチだし、暴力だろう。

 けれどまず、先生によく詰められているぼくに対して、そういうことは一切言わない。

 そんな彼に――『同情する』というのも、何か、違う気がして。


「美味しいお魚だったらよかったね、僕」


 そんなことをボヤきつつ、【脚立の上】の彼は続けた。


「それで僕にたとえば、目に見える傷がつくとするだろ?」

「ああ、うん」

「したら、今度は発端をつくった異性――僕に一方的に憧れてる女子の方が怒りで噴き上がる。『私たちの所有物に何してくれてるんだ、責任をとれ』。そう目も当てられない大喧嘩が始まる」

「【脚立の上】の君がいつ、誰の所有物になったって?」

「なった覚えはないね」


 ふきだすように笑って彼はいう。


「君と同じだ。――縛られることはないさ、自由だよ。誰が何を言ったところで」


 ……自由。


「そこに囚われるのは僕の問題だ」


 ぼくは、そうか。……【脚立の上】の彼に、自由な人だと思われているのか。

 そう思うとなんだか、気が楽になった気がした。

 ……ぼくが人の顔を覚えられないのは、名前を覚えることができないのは、『自由』である為なのだと、そう背中を軽く押してもらえたような。


 そういうやつがいていいのだと。――誰彼構わず嫌われるのが当然だと思い込んでいるぼくに「それは違うよね」と言われたような。


「まあ――そうして悪循環だ。僕と同性のヤツらからしたら、極度にチヤホヤされてるのが我慢ならないわけだからね。気に入らない。他人の羨望を、憧れを一心に受けているそれが羨ましい。なぜ自分がそこにいなかったのか。それを考えるだけムシャクシャする」

「うん」

「ともかく分かるだろ。君も。――僕は岡本くんと、ほとんど同じことしてんだから」


 【脚立の上】の彼はキュッと自分の手首を掴んだ。……ぼくがやられた『それ』を指す。そんなジェスチャーだとなんとなく理解する。

 ぼくが受ける担任の先生からの暴力と、彼が受ける、クラスメイトからのそれ。


「僕はもうやってらんないから目をつむって我慢するだけ。逃げた方が後を引く。満足するのを待つんだ」

「…………。」

「雑巾投げつけてきたりジュースかけられたり脱がされたり、体育のあと戻ってきたらシャツ刻まれてたのもあったな。けれど、反応すれば反応するほど逆効果だ」

「ぼくがいうのも、なんだけれど。……助けてもらえばいいだろ、先生に」

「ああ、君をブン殴るやつに?」


 くすっと笑って【彼】はいう。――初めて本物の笑顔を見た気がした。


「ははっ、ないない、見て見ぬふりさ。むしろあれは隠蔽してるぜ? 臭いものには蓋をする性分なんだ、この学校」


 顔を認識できなくても、笑っていること自体は分かる。

 けれど【彼】の笑顔は武装の一種だ。苦笑いも、穏やかに笑った軽薄な声も。

 鎧とか、盾みたいなもので……きっと、本気で笑うことは少ないんだろう。


「ほら、僕、見た目にはおとなしい部類だから――男子の中だと腕っぷしも強くないし。女の子から見ると絡みやすい」


 【脚立の上】の彼は少しずつ普段通りに戻っていつも通り、『穏やかに笑った声』で話を締めた。


「……勝てないものにはヘラヘラ笑って赦しをこうくらいが関の山だよ、そうだろ?」


 そう、だろうか。


「僕ら、そういう臆病者なんだぜ。……一生さ」


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