★#24 タコボール・ロスト・バゲージ(下)
―――― ―― ― ―
「……ムニャ……。光り方ってのが……違うだけなんすよ……」
『まだ言ってる』
「反射してるのか、燃えてるのか、爆発してんのか、雷なのか。それに正解も不正解もないんす……」
そろそろ朝だろう。津田は時計をチラリと見た。
「オレたちは星です。星が集まって星座になるから、皆それを面白がって指差すんでっす……。アーッ! 待って奥さん、あれゴリラ座よッ!」
『……あんたコーヒーでよく酔っ払えるわね……?』
空が白んできたかと思うと、空を線が通過した。
『……流星とか何気に初めてみたわ。街中しか住んだことないし』
「炎上芸人が空を流れてたらどうします?」
『大気圏で燃え尽きてるから命がないわね、そいつ』
カタン、と満杯のピッチャーが音を立てた。お冷がなくなったのを察した店主が、卓の上の水を補給しにきたらしい。
『あ、ごめんなさい、そろそろ行くので大丈夫』
「……大丈夫ですかね、お連れさん?」
苦笑いした店主が目を向ければ、佐田が眠そうな顔をしたままノンストップで何事か呻いている。眠気覚ましのお喋りが止まらないらしいが、だいぶ支離滅裂だ。
『久々にオールだったせいでしょうね。徹夜が堪えてるみたい。で――あなたは平気?』
この店主も徹夜だったと思うのだが。思えば何の縁もないのに長々と付き合わせてしまった。特に相槌を入れるわけでもなかったが、話はずっと聞いていたに違いない。そんな気がした。
水が切れればピッチャーを持ってくるし、コーヒーのおかわりを時々いえば、ニコリと笑って持ってきてくれる。
「ああ、おれはぜんぜん――そもそも」
へらっと笑って店主はいう。
「……眠ったところで悪夢しかみませんから」
『あらそう』
津田は首をすくめた。
『一時期の私もそんな感じだったけど、人間って案外丈夫にできてるからね』
「そうでしょうか」
『あなたもそのうち、ちゃんと眠れるときがくるわよ』
気まぐれランチとコーヒーのおかわり代。ホテルの宿泊代や、一晩中開いているカラオケ店と比べれば安いものだ。――お札と小銭を卓に出し、津田はスマホを打ち込んだ。
『何があったか知らないけれど、あなたはとってもいいヤツだから。……いつかきっと、素敵なハッピーエンドに辿り着くわ』
ちらりと店主は消滅時計を見上げた。
……店の奥の、大きな砂時計。
「……それは……」
店主の脳裏を過るのは、灯のついていないカウンターだった。カウンターの下、で、事切れている、女性。腹から、押し、出された――……。
「……ハッピーエンドかな、本当に」
回想を、思考を打ち切る。断ち切って、【忘れる】ことにする。
店主は情けなく笑った。
津田もふっと笑う。
『ええ、私が保証してあげる。――タコボール、懐かしかった。ありがとう』
……過去というのは今更、どうにもならないものだ。
とりこぼしたものも多いし、忘れたものも多い。
けれど、忘れ物や失くし物も含めて、未来に繋がっていく。
津田は店主相手にさらりとスマホを見せた。
……子供の頃、自分のことばかり必死になって人を褒めることすら難しかった彼女は、今。
『――あなたも含めて、楽しいお店ね』
ちょっとだけ、誰かを褒めるのが楽しくなっている。
* * * *
薄暗い路地を抜けると、そこはもう明るい駅前だった。東京都西部。モノレールとJRが交差する数少ない駅だ。
『あのお店、結局どこだったっけ?』
2人で後ろを振り返る。見慣れた路地ばかりで、さっきまでの見慣れない路地はどこにもない。
「……さあ……眠いからわかんねえ……寝ていい?」
『絶対ダメ』
警察の世話になる予感しかしない。
そういうのをどこぞの新聞や雑誌に抜かれたらどうするのか……いや別にそこまでおいしいネタでもないだろうが――知名度だけは生半可にあるのだこの男は。
そう頭を抱えつつ。スマホでピシャリと津田が「NO!」を突き付けた、まさにその瞬間。
「おーい!」
「え」
思わず耳を疑って前を向く。
「2人ともどうしたのー、こんな朝早くから!」
手を振り、近づいてきたのは先ほどまで散々噂した彼女だった。
谷川ユキ。セミロングに合皮のジャケット。手元には旅行用のキャリーバッグ。
『……どうしたのはこっちの台詞なんだけど? あなた、昨日クアラルンプールにいたんじゃなかったっけ?』
「そうそう、同窓会来なかった理由、彼氏とマレーシア行くからだったろ?」
佐田が聞けば、「へへへ」と谷川はバツが悪そうに目を逸らしつつ――スッとスマホの写真を見せる。
「実は今の彼氏、シンガポール人なんだけどさ」
『いや初耳なんだけど』
高そうな時計をしたアジア人が谷川と一緒にハートマークを作っていた。背景は明らかに熱帯のジャングルだ。
『いや、何これどこ……?』
「アフリカ」
『知らない間にどこいってんのあんた??』
事務所側がまるで想定しないところにホイホイ出現しないでもらいたい。
「なんかさ、マレーシア経由してシンガポールのお家にお呼ばれしたら、ビックリしたよー……あそこ宗教によっては一夫多妻制オッケーなんだよね!」
『は?』
もう話についていくのがやっとだ。
「第二夫人と全く気が合わなくて別れてきたんだ! 相手がウェルカムならいいんだけどずっとアレだとめんどくさいし!」
『いいんだ……第二夫人……。いや一回話を整理させて。何、どこであったのシンガポール人……しかも一夫多妻のハーレム属性……』
津田は目を覆った。
……誰とでも仲良くなるのはこいつの特権だ。それは知っている。
「あっ、一応報告なんだけど、どんなめんどくさい第二夫人だったかっていうと、なんかツンツンしてた頃の津田さんそっくりだった! ――完璧主義の高慢ちき、人生勝ち負けで判断するつまんねー女!」
『要らない情報ね!?』
いちいちそんな報告をしないでもらいたい。なんなら海外旅行いくときとかだけなら別にいい。それはきちんと報告をもらいたい。回すオーディションだのお仕事だの、それベースに考えるので。
「まあ、逆にいうとそういう人って、目指すところがちゃんと見えてて負けず嫌い、影ながら頑張る努力家なんだよねー、人に被害が出なければ!」
『それ褒めてる……?』
「第二夫人褒めてる」
佐田は思わず苦笑いした。
「……んなこったろーと思った……」
「何よー、いい歳こいて独身なのは秀ちゃんも同じでしょ?」
『いや、谷川さんみたいに死ぬほど出会って死ぬほど別れないわよ佐田くん、結構手堅いし』
「手、堅、い……?」
なんで谷川は外国語を聞き取れなかった日本人みたいな顔をしているのだろうか。
「……いや、オレ結構軽いよ部長。なんというか、ノリが」
「遊園地とか水族館とか誘ったらホイホイくるから、結構流されやすいよ秀ちゃん。だいたいデート止まりだけど」
『……聞くんじゃなかったわ。「だいたい」が怖いっての……』
と、次の瞬間。
――テロレロリン、テロレロリン♬
「あのー……朝の5時前に仕事の電話くることある?」
佐田の携帯が鳴り始めた。しかも発信者名はいつもの取引先――つまり、雇い主だ。
『あるわよ。実際にそれがそうなんでしょ』
「早く取りなよシャッチョさん。タイムイズマネーだから」
「オレのほうが立場上なんだけど、2人とも何その言い草?」
ピッ。
「……おはようございます、ドリームポッド所属の佐田秀彦です」
「朝早くから申し訳ありません、【テレビそうと】の近藤です!」
「ああ近藤さん、先週はどうも」
何度か番組ナレーションで使ってもらってからの付き合いだ。そもそも佐田自身は声優とかナレーション方面のほうが知名度はあるので、そういうコネクションの方が多い。
「まことに申し訳ない話なのですが」
「どうしました?」
「実は今からドラマの撮影なんですが、一人来れなくなってしまって……40代半ばぐらいの、でもどれかっていうと綺麗めの……でもめちゃくちゃ元気なお姉さんとか、今から来れる方でいらっしゃらないかなあと思いまして」
佐田は津田と目を見合わせた。津田は音漏れを聞き、黙ってスケジュール帳を出す。
「……近藤さん。今ちょうど目の前にね。クアラルンプールから帰ってきたばかりの、クソ元気な40代おばちゃんがいてね」
「ちょっとー!?」
「スタイル抜群のー、魔性の女なんですよぅ?」
谷川が目を剥いた。
「ご期待に添えるか分かりませんが、どこまでデリバリーしましょう? 横浜? ――あああ小田原! 分かりました! 向かわせます!」
「えええええ」
『ハイいってらっしゃい、送ってくから』
とん、と津田は肩を押す。
『――他ならぬ谷川さんの活躍だもの。大丈夫よ。テレビ放送後にコケおろしてあげるわ』
「待ってえ!? せめてシャワーとかあびさせて! 飛行機ムシムシしてた!」
『向こうで頼みなさい。あるか分かんないけどシャワー』
ここから小田原だと一度西へ向かったほうがいいだろうか。
ルートを考えつつ、徹夜明けとは思えないほどに津田は高揚する自分に気づく。
――生きている。
『ねえ、谷川さん。私に勝てるんでしょう?』
――役者ではない。俳優でもない。
けれど私は、生きている。
舞台の隅で。業界の端っこで。生きている。
* * * *
5年前のあの日。
橋の上から、聞こえた言葉がある。
声の限りに叩きつけるそれを、津田の耳はまだ覚えている。
……たぶんそれは、うつくしかったのだ。
「――生きろ!!」
それは、演技でも何でもない。一人の女の綺麗な呪詛。
「生きろ、あんたは――あんたは強いんだから!! 全てを犠牲にしてでも先に進もうとしたひとなんだから!」
彼女は気づいていた。
高校時代から知っていたのだ。
……津田の孤独に気づいていたから、手を伸ばした。
「自分が生きるために、必要とされるためにその勇気を使いなさい……! じゃなきゃあたしが、元くんが、秀ちゃんが、あんたの踏み台になった全てが、むくわれない!」
ちぎれそうな自分の手が、橋の上に届く。
「生き続けろ。全力で前に漕ぎ続けろ。オールを落としても、風が吹かなくても。まっすぐ進んだら、必ずどこかへ辿り着く!」
手を握るそれは、橋の上でも地面の上でも離れなかった。
一息でいったそれは、確かに心の底を貫く。中心を刺し、えぐり。削り取る。
「だから、生きろ。生き続けろ!!」
まくしたてるようなそれを、今でも覚えている。
「――あたしは、昔からあなたの演技が好きだから!」
だからこの子は、【高校最後の文化祭】まで嫌がらせを耐えたのだ。
そう、津田は今頃気づいてしまった。
心の限界まで、体の限界まで。痛くてもつらくても――自分の彼氏が扉を蹴破り転がり込んでくるまで、歯を食いしばったのだ。
相手が妬ましかったのは同じだ。
嫉妬したのも同じだ。
相手の持ち味が――魅力が。欲しかったのは、同じだ。
「負けず嫌いなその音が、苛立ち紛れのその声が、攻撃性が! ――――あたしには一つも出せやしない!」
他人への憧れというのはこうも単純で、子供っぽくて。ないものねだりで。
「あなたにしか、できない表現方法があるの。あなたにしかできない役柄が、きっとたくさんあったの!」
谷川ユキだけが、津田美潮だけの「何か」を知っていたのだ。
彼女の母親を見ていたわけではなく。
強がりと高慢を蔑んでいた、そんなわけではなく。
……その中にある味を知っていて、だから演劇部に残り続けた。
「だからあたし、あなたがもう一度【舞台】に上がるのを待ってるんだっ!!」
そんな日は、どこにも来ない。
けれど津田は覚えている。
――人生という舞台上。幾年経っても、あの日の谷川の言葉を眺めている。
言葉は、人の心を変えるもの。
動かして、歪めて、へし折って。
弱さを見せたり、強さを見せたり。綺麗だったり汚かったり。まあ、色々するのだけど。
『……自分でも、いつか、ああいう風にやってみたい……』
ないものねだりだと気づいてでも。
――それでも先に、前に。
一歩ずつでも進ませるもの。
『――私だって、そう思ってもいいのよね』
読まれない文章がスマホから消された瞬間、キャスターの音が横に追いついた。
佐田の姿はない。スマホの方に『ギブアップ』とひとこと書かれた文字が表示されたので、寝に帰ったのだろう。
事後報告だが構わなかった。路上で眠られるよりはマシだ。
……駅のホームには数えるほどしか人がおらず、空気は冷たい。
『……それで、谷川さん』
先程まで『休ませろバカ』『せめて着替える』『年上のお姉さんを労われ』とぶーぶー憤慨していた彼女の方に、苦笑いを向けて津田は言い放つ。
『覚悟は決まった?』
「……やってやろーじゃん」
ヤケクソじみた女の声がふと、あの日の音を纏う。
――そうして目の前に、まだ客の少ない乗換電車がやってきた。




