☆#21 君とほうれん草のソテー(下)
「……なんだって?」
「せやからぁ」
配達員のお昼休憩。
zattagotta.KKのテーブルにて――コーヒーの匂いを嗅ぎながら、黒い死神がこともなげに呟く。
「その、『チー助くん』に該当する子。どうみても『名簿』に含まれてませんねん」
死神が持っているのはいやに現代的なタブレットだった。……『死者の名簿』。今まで死神が迎えにいった人々のデータだ。
「生きてる状態で迷い込んできたってことか?」
――何の話だろう。
そうチラチラ見てくるバイトの少女を見つつ、配達員は息を吐いた。
逆にKKの店主は気にもしない様子で自分用のメンチカツを揚げている。……お昼ご飯らしい。美味しそうなパチパチ音だ。
「否、それもちゃいます。そもそも雨に濡れるらしーけど……配達員さんの報告見ると、明らかに肉体やのーて霊体やし。体は濡れてるけど足跡つかんかったんやろ?」
「じゃあ幽体離脱」
配達員はイライラしたように呟いた。――以前遭遇した、青果担当の甥っ子を思い出す。確かあの時は半透明の霊体が意識もないまま迷い込んできていたが……
「幽体離脱は発見が遅れるけどやね、名簿や履歴自体には、関所の通過記録がちゃんと残るんや」
「じゃあ何なんだよ、あの子は?」
タブレットを見ながら、黒い死神は軽く首を傾げた。
「関所を通過した記録もない。この時期にそんな薄着の子供やったら珍しいから、きっと誰か目撃しとるはずやけど――誰もみてない。魂の仕分けの場にもいなかった。ただ」
「ただ?」
「……運搬途中で、『容量』が激減した人が一人おりますねん」
容量。つまり霊体の体重か、密度の問題だ。
ふと配達員は顔をあげる。
『みっちりつまっていた何か』がなくなった。分かれてどこかに消えたのだとすると……
……ああ、自分と同じか?
死神はくびをすくめる。
「……あれ、もしかしたら」
――カラン。
「いらっしゃいませー」
店主がメンチカツの横にキャベツの山を作りながら声を上げた。ドアベルの音は2回。
「おお――すごい。立派なお店だね。ありがとう灰榊さん」
「お役に立ててこんびにえんすー! わっはっはー!」
灰色の死神と来店した男に、思わず二度見した少女が声を上げた。
「わああ!? うッッそぉ、堀之内先生だ!」
「アケビちゃん、知り合い?」
「違いますよ、芸能人です!」
驚いた配達員は顔を上げる。先ほど読み終えたハードカバー本を鞄の上から押さえつけた。堀之内晴真。――あの本の当人。
扉を閉めた手首には、消えそうな火傷のあと――間違いない。表紙にもあの手は写っていた。
家庭内暴力というにも生ぬるい。放置と暴力の狭間で育った子供。
……そこから児童心理学、発達心理学に興味を持ち、同じ境遇の人間を救おうと医大にも通った。
大学で教鞭をとり。クリニックを開設し、テレビ出演もなんのその。ああ、ハイハイ――割と破天荒な人生だ。
「えええ、あの世にまで知られちゃってるの、おれの顔」
ニヤつくそれ。まあ努力家なのは分かったし、鋼のハートなのも理解はした。
配達員はふう、と息を吐く。
本に綴じられていたのは確かに、【出来過ぎ】なくらいのドラマティックだった。人生のどん底から自力で這い上がって、幸せを掴み取るまでの軌跡。
正直化け物だなと配達員は思う。――興味は持つが、恐らく趣味は合わない。何より、妙な違和感があった。
「へいへーい、堀之内せんせーの人気者ぉ!」
ぺちぺちぺち、とそのヒレがふとももを叩く。
「ああはいはい灰榊さん痛いよ、落ち着こうね!?」
「……アケビちゃん」
「あ、ごめんなさい、今お冷お持ちしますね!」
ミーハーと仕事は別にしたほうがいい。バイト少女もそれは分かっているらしく、慌ててガラスコップを用意する。
「こんにちは」
「……こんにちは」
出入り口近くのカウンターにいた配達員は声をかけられ、挨拶を返す。
おや、と堀之内は配達員の顔を覗き込んだ。――配達員の顔は常にそうなのだ。特徴、印象のまるでない、虚無の頭部。
慣れている配達員は自らの頬を人差し指で叩く。
「……お化けにはこういうヤツもいる。不思議でしょう」
そう言いながら、火傷のあとをみる。――子供の頃は親に代わって炊事と洗濯をしていたという。できなかったら殴られたのだと。勿論できても殴られはした。けれどそこで生活能力はついた。
つまり、なんでもできた。
それを得意げに書いてあるが、そこから100ページ。
大人になってからのエピソードに奇妙な記述が出現した。本文曰く――そう、「炊事洗濯が大の苦手だ」と。
フラッシュバックやトラウマで出来なくなったというのならまだ分かる。
が、できなくなった理由には全く触れられていない。
それが少し奇妙だった。『お察しください』、そう端折ったのかもしれないが。
「ええ、不思議といえば不思議ですけどね。まあ死後の世界がそもそも不思議の塊なので」
――それはそうだろう。心や認識が専門なら、脳に何が起こっているのかを考えるのが普通だ。
配達員は水を飲みながら肩をすくめる。
たとえばこれは夢なのではないかとか。
幻なのではないか、つまり幻覚なのではないか。それから。
「……あなたの声、どこかで」
「……似た声なんてごまんといますよ」
夢ならば、記憶のどこかに眠る声を再現しているのではないかとか。
――カラン。
「おっと、いらっしゃいませ」
「えええお客さんがダブるとか珍しい! こんな間髪入れず!? いらっしゃいまッ……」
普段が閑古鳥の鳴いているKKに、続け様にやってきた来店の知らせ。少女が挨拶をした瞬間、あれ、と配達員はドアの方に振り向いた。
「チー助」
ひくりとすぐ後ろで、「何か」が震えたのが分かった。
「ああ、配達員さん知り合い?」
「ちょっとな」
「……お兄さん、のみもの忘れてたよ」
はいこれ、と水筒代わりのペットボトルが渡されて、配達員は首を捻る。忘れたの自体には気づいていた。が、取りに帰るほどでもないと思って放っておいたのだ。
『よくここが分かったな』と言おうとして気づく。そういえばこの子はちゃんと、KKの秘密に気づいている。場所を知っていたのは資料を見たからだ。
「チー助、こんなの、わざわざ持ってこなくてよかっ……」
――キシッ。
途端、氷を踏むような音が聞こえた気がした。
背筋の裏が凍るような感覚。――堀之内の、視線。
「……?」
後ろで違和感が拡大する。
様子がおかしい。振り向きたくない。
あまりに不穏な感覚に、配達員は本能を無視して首を動かす。
「 」
化け物。そう、堀之内の口が動いたのが分かった。
配達員は首を傾げる。瞬間、その手が動いた。
「っあ」
足もだ。――そう、もつれながら。
堀之内が突然血相を変えたのは、あの子をみて。
慌てふためき逃げ出すそれは、必死の形相だった。扉前にいたチー助を突き飛ばし、我先にと逃げ出す。ひとりで。
「……堀之内さん?」
配達員の問いかけも無視し、そこでよろけて足を踏み外す。……転び、それでもドアに飛びつき、またよろけて。
「おっと」
配達員は突然開かれたドアにぶつかりそうになったバイト少女めがけ、どうにか襟首を掴む。
「わわ待ってえな!? お料理できへんから外食スポット探してるって言ったの誰ぇ!?」
命からがら。ほうぼうのていで逃げ出すさまに、死神がピョンピョコ跳ねて後を追う。
……【外食スポット】、【炊事ができない】。
食事の準備が、できない。
それはまるで――――チー助と、真逆だ。
「チー助」
真逆の料理上手、チー助。その子の腕にある火傷を見る。
この子と逆だ。まるでそう、鏡合わせのように。
彼に配達員が声をかければ、突き飛ばされた当人は困ったように笑う。
「へへ」
「……おいで」
どう考えても頭を打っている。シュ、と線香の煙のようなものが後頭部から出ているのを見て、黒い死神が声をかけた。
「君が、チー助くんやんな?」
「……うん」
「病院、君でも使えんこともないんやで」
ひくり、とチー助は肩を揺らした。
「君みたいな【心の欠片】でも――」
「いい、だいじょうぶ」
人の良さげな笑顔を作り、チー助はすっくとその場で立ち上がる。
……笑い方が似ていたことに気づく。
『炊事や洗濯ができる』。それだけの違い。
見た目の年齢が違う、背景が違う。
……それだけの、違い。
「ぼく、マルちゃんにいいたいこと、あるから」
「……」
「お兄さん、ごめん。ぼく、やりたいこと、あるから……知りたいことも、あるから」
その目尻に浮き出たもの。
ぷっくりふくらむ、涙。――水滴の玉。
そのちいさな背中が走り出した瞬間、配達員はようやく気づいて、その息を止める。
本の内容。
バッサリ学園の後釜。
人気の先生。物腰柔らかな性格。
本に書いてあった――堀之内晴真の経歴。
「……」
食べかけのカレーをカウンターの奥にそっと押し込んで、配達員は席を立った。
「残すなんて珍しいね」
「あとで食うさ」
店主は首をすくめる。
「ならラップしとこうか、食べかけのカレー」
頷く。
配達員の手には、あのハードカバー本。
「できるだけ……すぐ戻るよ」
* * * *
「来るな」
鼓動が音を立てる。
恐ろしかった。非常に、いやに。
息を切らせひた走る。
道なき道、あの世とこの世の狭間。暗闇の中をやみくもに走る。
【不気味】が形を成して、襲いかかってくるような感覚。
「……来るな、来るな、こっちに来るな」
チー助という名前を、嫌というほど知っていた。堀之内は逃げ出す。
過去から、空想から。……そうだ、あの日の。
――「なんであたしが帰ったのにメシできてないわけ?」
――「給食費ぃ? そんなもん要らねえだろ、酒買ってこい、ころすぞ」
――「一丁前に勉強なんてするなってのよ、腹が立つから」
聞こえる、怒号。
……自分の体が跳ねる音。ちぎれる音。
――「あ――ああ、どうせお前、親を見下す気だろ」
――「殴っても殴ってもムカつくな、お前……」
逃げる。トラウマから。
非現実から。
逃げられない、悪夢から。
――「なんで生んだんだろ」
――「男なんてクソッタレだ、あたしを置いてどっかいくんだ。そんなヤツの面倒なんか一々みてられっかよ」
――「ははっ! それとも何か? お前、一生あたしの奴隷になってくれるってわけ? はははは! サイコーだね!」
――――。
……にげ、られ、ない。
「っ、足が、はやい! ……まって、待っ、て……! まってよマルちゃん!」
足音が聞こえる。
――――あれは化け物だ。
そう堀之内は思う。
人生、経歴、目標、生き甲斐――自分が自分であるために、堀之内晴真であるために持つことができるアイデンティティ。それを根こそぎ奪い去ることのできるもの。
【子供の頃の自分自身】が、そこにいた。
今まで色々なものから逃げてきた。
今まで、色々なものを乗り越えてきた。
だが、あれからは逃げられない。唯一の逃げられないもの。
当初は他にもたくさんいた。学校での自分、漢字博士の自分、虫が好きな自分、写真が好きな自分。
それでも、最後まで治療――統合することのできなかった強固な人格がそれだった。
――もしかしたら、自分が主人格だと思い込んでいるだけで、こいつがそうだったのではないか。
いくつもの自分が顔を出さなくなるたびに、その疑念が頭に浮かぶ。
逆に消えてしまうのは、【ここにいる自分】なのではないか。
「おまえはおれに嫉妬して、おれを消しにきた、そうだろう!」
「…………」
疑念をくちにすれば……
チー助の足音がぺたりと音を立てて止まった。
知っている。本当は知っている。
――消えるのが、自分でもあいつでもどちらでもいいことを。
「お、おれの全てを、お前なんかのために渡すものか!」
【堀之内という人間】は残るのだ。
どちらが消えても残るはずで、それでもどちらかがいつか、表に出なくなる。
……いなくならねばならない。いなくならねば、一人に【手柄】は統合されない。
――「久しぶり」
――「あんた、羽振りがいいみたいだね。誰かを悪者にしてお金を稼いで、それって楽しい?」
――「ねえちょうだいよ、迷惑料。それでちゃらにしてやるから」
あの日、道で話しかけてきた横っ面を殴り抜いたのは、自分が強くなったからだ。成人男性になり、腕力にものをいえるようになったからだ。
母親だったそれを叩きのめして。蹴り上げて。髪を引っこ抜いて肩を外してやった。――それから病院まで連れて行った。「誰かに殴られたみたいです」、すっとぼけた顔でそう言ってやった。
怯えた表情にスッキリした。
頭のおかしいヤツだと思われたのだろうが……実際自分を【そういうふう】に育てたのは彼女だ。
それは結果だった。テレビの中の人気者、それが人を殴るわけがない。誰よりも痛みを知っている堀之内先生が、他人に恐怖を与えるわけがない。
そう、誰も彼もに思わせて――結局それは、ニュースにすらなりはしなかった。
上り詰めた自分が……一番最後の最後に成し遂げた復讐。
この思い出は宝物だ。この体も、経歴も――何ひとつとして誰にも渡したくはない。たとえその相手が自分であったとしても。今までの経歴、経験、体……それらは全て、自分が積み上げた【努力の結晶】。
「――これは、おれのものだ」
チー助。そう名乗る人格がいるのは知っていた。
……その声はきっと、奪い去りに来たのだ。
絶対に羨むに違いない。
だって誰にも必要とされてこなかった。
「でも、マルちゃ……」
「消えたくない、消されたくない、塗り潰されたくない、飲み込まれたくない!」
幼い頃の堀之内晴真は、自分たちはそう、ただの一度だって――誰にも必要とされなかった。
酒に溺れた母におざなりにされて、他と家庭を持った父に手を離されて。
誰にも手を差し伸べられることなく生きてきた。そんな中で、自分だけが足掻き続けたのだ。
誰かに認められたい。誰かに求められたい。だから自分だけが頑張ってきた。
「……マルちゃん、きいて」
幼い声は子供のそれだ。なのに恐ろしくて仕方がない。なぜならその声は、ビデオデッキで幾度も聞いた自分の声だ。
幼い頃、マルちゃんと呼ばれていた頃の自分の声。
マルちゃんというのは、まだ優しかった頃の母親からの呼び名。
そしてチー助は――幼い頃に離別した父親から呼ばれていた、もうひとつのあだ名。
はるま、の「ま」と「る」を入れ替えた呼び名を考えたのはまだ優しかった頃の母親だった。
けれど、チー助と揶揄って呼んだのは。
「……ああ。みていて合点がいった」
声がする。
どこかで聞いた、そんな声がする。
「堀之内さん……あんた、やっぱりチー助の本体か」
* * * *
堀之内とチー助を前に、配達員はため息を吐く。
――『飲み込まれたくない』。
堀之内晴真の書いた本はそもそも、自伝の一種だった。幼少期に別れた両親。引き取られたのは母親のほうだが、酒浸りの遊び人でほとんど家に帰らなかったという。
食事をふるまうこともほとんどなく、家にあるのは少ない現金のみ。
インスタントを毎食買うとすぐに金が尽きてしまうことを理解していた彼は当初、安売りワゴンの野菜を生で丸齧りして過ごした。傷みかけでも、色が悪くても。少しずつ、少しずつ。
その頃、ときおり外に出れば遭遇する父に「体が小さい」と執拗にからかわれたという。
その時のあだ名が『チー助』なのだとしたら?
ふざけて誰かに呼ばれた名が、そのままあだ名になったに違いない。
「……チー助だとか、マルちゃんだとか」
昔、どこかで聞いたことがある。幼い頃に複数のあだ名をつけられた人間は時々、別の人格を心に宿すという。特に子供の頃に何かトラウマがあった人間だと尚更。
……つまり、チー助は。
「解離性同一症……」
配達員は口を開く。
そう、チー助はただの子供ではない。
傷つき、へしおられ――それでも生きてきた。
多重人格者が抱えて生きてきた、子供の人格。
「消えろ」
「……マルちゃ……」
「お前が、お前が消えろ!」
捲し立てるように堀之内は叫ぶ。
「おれの過去も栄光も、金も家族も」
「……」
「おれのものだ! お前になんか、渡すものか!」
自分ならば、許せない。
そう、マルちゃんと呼ばれていたかつての堀之内は吼える。
――自分と同じ生き物が、一人で幸せになるなんて。
「お前には何もない! おれのものだ!」
「マルちゃん、ぼくね」
ニコニコと笑って。チー助はいう。
「マルちゃんの人生とろうとか、思ってないんだ。マルちゃんがちっちゃいころね、ぼくを必要としたから――うれ」
「嘘だ、羨ましいんだろう!」
途中で遮られる言葉。
……今の最後まで聞かれなかった言葉は、どこへいくのだろう。配達員は思わず口を開く。
「聞……」
聞け、さえぎるな。
それを言いたくて――しかし、チー助の目がこちらを向く。
――止められたことに気づいた。
「……それで、いいのか」
強さのない、優しいまなざしだった。
やんわりとした拒絶の意思。
それでもそこには感謝があった。
――「お兄さん、おもってたより優しい人?」
今にもそんなことを言いそうなそれを見て。
針の進んだ懐中時計――自分の『消滅時計』を横目でみて。思わず大きな息をつく。
(――厚かましいな、君は)
ゆるぎないそれは、まっすぐと目をそらした。
それは当然のように。
……きっと、『さようなら』の合図だった。
(……チー助、君は、俺の素性を見たか?)
配達員は拳を固め、耳を澄ました。
答えはきっと返らない。問いかけてすらいない。ただ、すがるように息を吐く。
(君の暮らした俺の部屋。たくさん置いてあったものを見たら、君は俺の秘密に気づくだろう。俺をどう思った? ――本当に、『優しい人』だと思ったか?)
堀之内は喚く。
「おれは有名になった、金もたくさんもらった、人に愛されて、チヤホヤされて、それは、おれが一人で成し遂げた!」
「……」
「おれのものだ、おれの名誉だ、おれの権利だ、お前はもう黒歴史なんだ」
「……」
「惨めな頃の、思い出したくもない過去なんだ!」
それはそうかもしれない。
――配達員は少し目を上げる。最後の、チー助の戦いを見るために。
「ねえ、マルちゃん」
配達員は口を挟まない。
ニコニコと笑ったまま、その子は口をひらく。
虐げられても涙ひとつこぼさない、荒んだ環境にいたところで笑みを忘れない。
そんな気丈な男の子は、初めてそこで本音を口に出した。
「……ぼくのこと、きらいだった?」
……配達員は口を結ぶ。
あの堀之内は震えていた。
怖いのだろうとは、なんとなく想像できる。配達員自身、昔からそういう生き物だ。経験上恐怖には敏感だし、何より活字が手元にある。
この男は確かに、精神科医ではあるのかもしれない。児童心理のスペシャリストではあるのかもしれない。しかしそれは――彼自身の振り返りをみるに、全部自分のためだった。
『自力』で自分を治すため。
母は殴るだけ。父はからかうだけ。
誰も『あの日の少年』を助けてくれなかったからこそ――堀之内は自力に固執した。
けれど、彼は自分をうまく治せなかった。当たり前だ、外科医が自分の体にメスを入れるようなものだろう。
そういう展開の医療漫画ならある。が、あくまでそれはフィクションだ。
要するに、彼は――自分に刃物を向けられなかった。自分が自分でなくなるのが怖いのだ。
「……嫌いだよ」
こともなげに彼はいう。
配達員の前で、その子を罵倒する。
人の個性の欠片。人格の破片。ヒトという生き物の――本性の一端を。
「おれは努力してきた」
――そうだろう。
「もう誰からも暴力をふるわれないように。誉められるように。憧れるように。羨まれるように」
――【堀之内晴真】が頑張ったから、その子は生まれた。
「お前はなんだ」
――お前の欠片だ。
「塗りつぶすように空白がある。気づけば時間が経っていて、お前がいた形跡がある」
――お前が生み出し、育て、抽出してきたものだ。
「抑うつ反応だと理解はする。けれど、お前のせいでおれは自分の人生を自分だけのものと考えることができない」
――当然だ、それは、お前が切り離したもの。
今なら分かる。……チー助の体が傷だらけだった理由も。ボロボロだった理由も。だるだるのシャツしか着ていなかった理由も。料理や掃除が得意だった理由も、配達員のことを理解しようとした――合わせようとした。その優しい振る舞いも。
「人から暴力を振るわれてもニコニコしているような人間を、おれは気持ち悪いと思った」
全て――彼が生きるため、その体に身につけて、捨ててきたもの。
「自分だとは思いたくない」
黒歴史のように、切り離して忘れてきた。
その捨て去ってきた記憶が心を持った。意思を持った。言葉を持った。
「お前はいつの頃からか解離して、好き勝手にふるまいはじめた。掃除、洗濯、料理、風呂。頼んでもいないのに現れて、全部こなして去っていく。お前のせいでおれは何も身につかない。全てを忘れてしまった」
やり方がわからない。そういう感覚だろうか。
「全部できるようにならないと、完璧にならないと誰にも認めてもらえない。なのに――身の回りのことだけが身につかない」
それは――お前が目を背けたから。
「お前は、おれの活動領域を狭めていく。おれの人生を乗っ取っていく」
つらいから、苦しいから――都合よく忘れて、そうして前へ進んできたから。
それでしか、生きられなかったから。
「……よかった。ありがとう。マルちゃん。正直にいってくれて」
チー助は、それを聞く為に現れた。
「――――ぼくは、いらなかった」
君の人生に、いらなかった。
……きっと最後にそういって。
――ザッ、と突風が持っていく。
砂粒のような光を、暗闇の遠くへ。
「……なんだったんだ」
堀之内は口を開く。『堀之内晴真の主人格』は結局、そこに膝をついた。
……恐怖は、ただの杞憂だった。
「おれをよびとめて――何がしたかったんだ、あれは」
チー助のいた場所には何もない。瞬きの間に、風と砂が持ち去った。
「……持ってってくれたんだろ。あんたの要らない感情だったり、記憶だったりを」
配達員は吐き捨てるように呟く。その目はチー助のいた場所を見つめていた。
「……分かったようにいうじゃないか」
「分かってんだよ」
配達員は呟いた。
「……俺はな、あの子と暫く仲良しだったんだ」
* * * *
――結局。あれは、どうするべきだったのだろう。
「って、絶ッッッ対おかしいですよ! そーいう展開!」
バイト少女はぶーたれる。ここで働いている最中、堀之内に迷惑をこうむったのはチー助だけでなくこのバイト少女もだ。猫のごとく首根っこを引っ掴んだ感触を思い出しつつ、配達員は珍しく紅茶を飲みながら呟いた。
「……おかしくはないさ。忘れなきゃ前に進めないって人間は、君が思ってるよりたくさんいる」
あれから数日――不思議と気は晴れない。
それほど長い間チー助と行動を共にしたわけではないのだが。
それでもふと、彼のことを思い出す。
ほうれん草の香りとか、ベーコンと目玉焼きの香ばしさだとか。口数が多い方ではなかったが、こちらを見つめるあの視線とか。
調子の狂った配達員は、休み明けに初めてはしゃぐことなく来店した。
――「店主どの、『気まぐれランチ』を頼めるか?」
カレー以外のものを頼む配達員。
店主は訝しげな顔をした後、鼻を少し鳴らして驚いたように振り返った。
――「それからダージリンティーを頼む。このクソアンニュイな気分を、普段と真逆の何かで上書きしたい」
お冷の気分ではないらしいと合点がいった店主はまず飲み物を用意した。
結局手元にあるのはミルクと砂糖だ。
「――だとしてもです!」
噛み付くようにいう少女に、配達員は少し意外そうに首をすくめた。
「忘れなければ進めない、そういうことがあったとしても! それは、自分自身に対してあまりに身勝手で――ありがとうって気持ちがどこにもなくって!」
少女はむくれたように口を尖らせる。
配達員の話だと、その子は見た目よりも長い時間、必死になって堀之内を支えてきたのだ。
たとえ嫌われていたとして。子供の姿をした自分が、本体から剥がれ落ちただけの欠片だったとして。
誰よりも長く堀之内を見てきて、悪い大人から、逆境から――彼を正しく守ってきた。
「それだと――私が、悲しいです」
「……君ってやつは……」
苦笑いしたような音を立て、配達員は口を滑らせる。
「まあ、その、何だ――思ってたより優しい人なのか?」
「私を何だと思ってんですか!?」
チー助というものは、『存在を守るための生き物』だった。――彼がわらって全てを受け止めたから、主人格が大きく育った。
彼はマルちゃんを一個人としてあたたかく見守り、大人になるまで育ててきた。なのに彼はその大人から、蔑まれたのだ。
配達員は『つめこむように』ほうれん草を口に運んだ。
……蔑まれて、憎まれて。
……それで、何が残る。……何が、はじまる?
「……気まぐれランチを作ってくれっていきなり言われるもんだから驚いたよ。その上普段のカルキ臭から変わってるときたもんだ」
「明日には戻ってるさ」
口いっぱいにバターの香りを感じて――つらつらと思い出す。チー助の消滅後、堀之内晴真はその場に気の抜けたように座って立ち上がることができなかった。
迎えにきた死神に黙って引き渡すまで、座り込みは続いた。
あの日、古書店の横にいた男の子と……とても似たような座り込み方だった。
* * * *
「配達員さん、元気あらへんなあ」
「……そう、見えるだろうな」
退店後、声をかけられた。横目で見れば黒い死神だ。配達員の担当である彼 or 彼女は表情を変えもせず、口を開く。
「チー助くんの話やんな?」
「というより」
配達員は口角を少し上げた。
「あっちの話だ」
「ああ――主人格の方」
配達員が怒っていることに気づいた死神はウンウン頷いた。
「彼、チー助くんがいたから、動けとったんやね」
ワンボックスカーの鍵を出しつつ、歩を進める。
息を吐く配達員の横――ぬいぐるみに近い見た目の死神は、ゆるい表情でピョンピョコ跳ねながらついてきた。
「一つの体に複数の意識が宿る。そーいうのって、人が思うほど【珍しいこと】ではないんよ」
「だろうな」
「でも見た目がいくら複数に見えても、根っこは繋がっとって――実はひとつなんやで」
配達員は目を逸らした。
「配達員さんについとるよーな【Cランク】。あれ、お化けの人たちが『体』と認識している精神性の部分が満足に動ける状態か、それをウチらが勝手に分類する健康ランクなんや」
「知ってる」
「健康なところ。体力、タフネスさをきっとチー助くんはつかさどっていて」
ふと、思い出した。
出会った当初――思いっきり雨に濡れていた、あの体を。
「そこが先にのーなってしもたら……そらぁ動けなくもなる」
「そうだな」
チー助がいなくなった瞬間から、ずっと座り込んでいた堀之内は――まるで、気力すらも削げ落ちたような顔をしていた。
あれでは堀之内自身も遠からず、消滅してしまうだろう。
後悔どころか、心残りどころか。
もう何も己自身から見出せない様子なのが分かった。根本として大事なものが、抜け落ちた。
「今の彼は『馬鹿みたいに注意が必要』――つまるところBランクや。でも彼には分からんねん。自分の体が何を失ったのか、分かれへんねん」
うまく走れない、力仕事ができない。
そんな配達員よりも重度の『不健康なお化け』。それがBランクだ。それはもう動いている場合ではない。
……その場に座り込むくらいしかできないのだ。
「欠けてもーてるんや。大事な記憶っちゅーもんが……自分が、自分自身に助けられた記憶が、ないんよ」
「……なあ」
配達員は顔を上げる。ワンボックスカーのてっぺんの方……正しくは、以前彼のいた『病院』の方向に向かって。
「もしかして、俺が」
突風が吹き、呟いた言葉がかき消される。
それでも死神に言葉は聞こえたらしい。
黒い死神は面倒臭げに配達員の顔を覗き込んだ。
「……だとして、あんたみたいな貧弱タフネス、要らんやろな」
「……」
配達員は少し、忍び笑いをした。
「……まあ、そうだろうな」




