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☆#2 配達員の気まぐれランチ


 ……海岸線が見えていた。


 『夜明け前が一番暗い』――確か、イギリスのことわざだっただろうか。


 今は地元民ですら使わないと聞くデコボコ道の旧道を、ワンボックスタイプの白い「配送車」がえっちらおっちら走っていく。


 そんな客観的すぎる風景をなんとなく思い浮かべてしまいつつ、当の運転手は軽く苦笑いした。……まあ、確かに今は「夜明け前」ではあるのだろう! 時間的には!


 だがあれは現状にはさして関係も、そして意味も何もない言葉だった。――だって「困難」には直面していないじゃないか、少なくとも今は!

 「一山超えそうな直前が一番つらい、もしくは大変だ」。

 あれはそういう意味なのだから。


 ドリンクホルダーの中にあるペットボトルが勢いよく跳ねる。ぽちゃっと軽い音を鳴らす。……水。ああ、「飲み水」だ。それを押さえつけつつ、配達員は窓の外を見やった。


 起きがけみたいに白み始めた東の空。

 山から顔を出しそうで、実際にはなかなか出さない太陽の方向を眺めていたその視界は、突如として薄い暗闇に包まれる。


「…………。」


 ……生唾を飲み込んだ。今日もようやくトンネルに入ったのだ。


 なかなか慣れない光景。

 赤い誘導灯がちらちらと遠ざかっていくが、さすがにこんなど田舎までくると対向車もいない。

 ……ああ、脱線さえしなければいい、何せこっちは()()()()()()()()()()()


 ため息をつきながらペットボトルに手を伸ばし、ごくごくと飲み過ぎなくらいに喉を鳴らした彼は、次の瞬間ぶるりと身を震わせた。


 ……ペコリ。

 手の中のペットボトルが音を立てる。

 まるで彼が、この上なく緊張でもしているかのように。


「……ああ、クソ」


 震えた手をワキワキしつつ、彼はようやく素直に悪態をついた。


「未だに思うわけですよ、店主どの……」


 ……ガタガタとまた揺れ始める車体。


「色々分かってて行くのと、分からず行くのじゃ随分違うなぁって……!」


 思えば昔から『トンネル』絡みの怪談なり、都市伝説なりというのは数が多い。原因はどう考えてもこの薄暗闇だ。

 「あの店」だってそうだろう。

 わざわざ日の当たりづらい、“薄暗い路地”が入り口だ。


 ……人間の目というのはほんの少しでも「明るさ」が変わるだけで目がくらむ。

 明るいときのみならず、光の量がちょっと変わるだけで……つまり、ほんのちょっとだけでも情報があやふやになるだけで一瞬の「隙」ができる。


 そうして意識の中に突然ぽっかりとあいた隙に、「見ているチャンネル」がころりと変わる……だから薄暗い場所にはこういう「不思議なところへの入り口」が発生しやすいわけで。


 それも車道で行くとなると……入り口は、絶対にこうなる。

 ――人気のない、ど田舎のトンネル。

 まあ、そういうことだ。


 誘導灯が徐々にフェードアウトしていく。完全な暗闇だ。

 目を凝らせばかろうじて道が見えるくらいの真っ暗闇。真っ暗な中に伸びる、少しだけ白く浮き上がった直線が道だ。……暫くまっすぐ。時折何かとすれ違うが、それに気を割いている余裕はない。


 とっくの昔に死者である彼は、この「暗闇の峠」に慣れている。

 慣れていないものがいるとするなら、どうせ、死んだばかりのヒヨッコくらいなもの。


 それらを誘導するのはまた別の生き物――『死神』と呼ばれる()()()()()()()()()の仕事だった。


 ペコリ。


 水滴が「この世」方面に向かって張り付いたペットボトルが、若干ひしゃげた音を立てた。


「……あ、なんか……トイレ行きたい……」


 ちなみにだが、緊張するとやたら水を飲んだりトイレにこもりたくなったりするのは万国共通らしい。

 配達員は息を吐いた。


 ……お化けにトイレの意味はないのだが。普通出ないし。出たら異常だし。病院勧められるし。……お化けに病院とか、意味分かんないけども。




    *  *  *  *




「へいへいほーぅ!!!」


 「お店」と名のつく仕事場の朝は、意外と早い。特にこういう飲食店の「朝」となるとそれはもう……

 チリンチリン! チリンチリン! チリンチリン!


「……はいはいはいはい!」


 店主がすっとんできて扉を開け放した。


「むやみ矢鱈に鳴らさないの、子供か君は!」

「へいへいほーぅ!! ぷぉーう!」

「何がぷぉーうだ」


 黒づくめの格好をした配達員がドアベルの下で朝っぱらから素っ頓狂な声をあげている様子を見、店主は長々とため息をついた。


「おっ届けものですぅー!?」

「……うん、見ればわかるよそれは……えっと、上がって。もう、死にものぐるいで上がって」

「もー死んどるがな!」

「知らんがな」


 冷たい調子で店主はつっこんだ。そもそも相手は年齢不詳の配達員だ。店主より年上だと紹介されたところで「あっ、そうなんだ」と頷けはする。そんな人間がハイテンションに喋り倒している様は異常だった。


「ヒャッホーウ! たっだいまーんぼーう!! うぇーい!」

「君の家じゃないぞ」


 とは言ってもだ。二十代前半にしか見えない見た目をしたこの店主だって、この店を始めてから結構長いわけで。彼も本来、「見た目が若いまま止まっているだけ」という話である。

 どっちが上かだとか年功序列なんて議論は、正直無駄中の無駄だった。


「なんだと!? 家族(ファミリー)として認識されてない!?」

「誰が家族だよ」

「ふぁみりーれすとらん!!」

「チェーン化してませんが当店」


 ……お化け同士の関係性だとかネットワークなんてそんなもんだ。


「……まあ、今お冷出すから。いつもながら頭を冷やそうぜ君」

「HAHAHAHA、俺の頭はいつだってクールだフッ……!」

「フッじゃないよ」


 黒いワークキャップに黒い作業服。軽作業用の軍手、安全靴。

 黒づくめの格好の「配達員」は、なぜだか毎度毎度がこういう感じだ。来店するときだけやたらとテンションが高い。

 ただ、店にいるとだんだん素に戻るというか……冷静になるらしい。


「はあ、もう……」


 店主はその顔を見上げながら、今更なことを思い返した。目の合ったその顔は表情、顔の作り、輪郭……全てが不思議とまるっきり認識できない。

 『よくわからない』のだ。


「……クールっていうかだね、『見えない』だけだろ。何を訳の分からないドヤ感出してるんだこの人……」


 そう、それが彼、配達員の特徴だった。

 「顔のないお化け」。

 目が合っているのは感覚的にわかるのに、なぜか「見えない」……まるでそこだけ、ぽっかりと存在に穴が空いたように。


「……というか君、どんな死に方したら毎回そんなハイテンションな挨拶とか登場の仕方をする羽目になるんだ、疲れるぞお互い」


 お冷やを飲み干した彼は「タン!」とグラスを置いた。


「……うん、なぜだろうな! ここに来ると猛烈に()()になる!」

「いや本当、何故……?」


 外の車から青果のはいったコンテナを下ろしてきた店主は言う。


「……普通、もっとはしゃぎたくなる場所他にあるでしょ、夢の国とか」

「飽きた」


 目線の方向のみ感覚的に分かるそれが店主の方を向く。店主は噴き出した。


「……えっ、行ったのその頭で?」

「頭だけじゃなく全身認識されなかった」

「タダでアトラクション楽しんだお化けがここに……!?」


 顔のみならず後頭部も認識不可な彼はぶっちゃけ、帽子がなければ頭の場所までハッキリしない有様だ。おかげで彼に対峙する人は目ではなく帽子のツバにアイコンタクトする羽目になる。


「……あと山梨の方の遊園地あるじゃん」

「あるね、お化け屋敷が有名な」

「楽しめなかった」

「だろうよ」


 だってあそこ、本物が出ると噂のお化け屋敷だ。ナチュラルに頭部の不明な本物がハッキリとした本物に遭遇してどうする。

 「あ、ちわっす」みたいな会釈しかすることないだろう。「すっげえスプラッタな霊体してますね」ぐらいしか言うことなかろうになぜ行った。


「……結局のところ」


 配達員は呟いた。


「相性の問題だな」

「何との?」

「他のお化けとの。多分」

「あ、ハイテンションになる原因?」

「せやで」


 ……そう、近頃カウンター席が似合うようになってきた「配達員」はキリッとした調子でいう。

 なんだかんだありつつ彼はここ最近、いつも「一番乗りの客」と化していた。


「……つまりあんたみたいな店主どのがいるからこそ、いっつも訳のわからんテンションになるんだろうよ!」


 くいっ。


「……可愛く小首を傾げていうなよ……男の人に好かれても嬉しくないんだけどね。あと今の、アレの真似?」

「アレって?」

「『せやで!』」

「あ、言うよねあいつ。関西弁だし」

「いやまあ、どう聞いてもエセだけど」


 半年ほど前、この「配達員」をここまで連れてきて


『あ、コレおニューの配達員さんですねん、よろしゅー!』


 ……等とのたまるとふっつーにロケットのごとく()()()()()死神さんの話題に軽く触れつつ、店主はピッチャーを持ち上げた。


 ……いや、飛ぶのである。死神は本当に。

 足が無駄にカッコよく変形してちゅどん! ってな具合に。

 あれはそういう(無駄に子供ウケする)生き物だ。


「で、おかわりいる?」

「……もらう」


 そんな死神とかいう人外はさておきの話。


「……まあ休憩してなよ、おれのほうでやっとくから」

「面目無いでーす」

「かけらも思ってないだろそれ」


 店主はため息をついた。この店に来る「配達員」が代替わりしてからというもの、荷物の積み下ろしはもっぱら店主の仕事に成り下がっている。

 ……そもそもこの配達員、諸事情により朝方の段階で既に疲労困憊なのだ。それを考えるとヤケでハイテンションと化すのも分からなくはない。店主としては最早同情の域だった。


「っていうか絶対おかしいだろこの配置……」


 なぜかといえばこのおニュー配達員……『腕力』がないのだ。勿論見た目の体格だってごつくはない。

 どっちかというとなよっとしているのだが、タッパだけはある。


「ファッション誌をかざったことは?」

「勧誘されたことはある」


 そんな会話も時折するほど、パッと見には草食系だがすらっとした手足。体力仕事には向かないと一目でわかるような体つき。

 だからこそ余計に、「何故こんな運送業まがいのことをしているのか」と誰もが頭を抱える程度にはへろへろっと危なっかしく積み下ろしをしていくわけである。


 否、危なっかしいだけならともかくとして、スピードも重要だ。彼が動くより店主の浩介が荷の積み下ろしをした方が早い。もう、断然めちゃくちゃ早い。


 ――つまり今かぷかぷとお冷を飲んだくれ中の彼は、配達員としてはまるで駄目。人材がかみ合っていない。つまり落第レベルに使えない。


「……腹壊すぞ、そんなに水飲んだら」

「安心してくれ、壊す()()がそもそもない」


 結局彼の「配達員」としての仕事は、毎日早朝、「向こう」で採れた食材を配送車で店の前まで運んでくること。

 そして朝以外にも、たまに空いている時間に様子を見にきては、切れてるものがないかさりげなく聞きに来る。……ただそれだけだった。


 店主は内心呆れながら呟く。


「なあ。……その体じゃ、毎度大変だろう?」

「……慣れたよ。人より『軽い』らしいからな、仕方がない」


 配達員と店主の言うところの「お化け」……つまり死者はつまるところ、死神から不要と判断されたゴミクズ同然のデータだ。ほとんどが『魂』を持っていないものしかいない。


 一応例外はあるらしいのだが、それでもこの店主、そして配達員だって恐らくそうだろう。


 『魂』を抜かれた後の残りカス、それがほとんどの死人の在り方だ。


 何がどう必要かはさておき、生き物が生命を持つために必須な機構。その一つがどうも『魂』らしいのだが……命を終えた死者にはもう、全く要らないアイテムに成り下がってしまうらしい。


 更にいえば死者の存在を管理する死神からすると、貴重なことに「リサイクル可能な部位」でもあるようで。


 だから、世間一般で俗にいう『生まれ変わり』というのはリサイクルされた側。

 つまり輪廻転生にのっとって新しく作った生き物に「にゅるっとセットイン、ポチッとな!」された魂のことを指すのだが……だからこそ、逆説的にいえば通常、魂は死んだ直後にペリッと霊体からひっぺがされるのが鉄則中の鉄則だった。


 『魂』、つまり、生き物としての軸や核を失っても……どうしてもこびりついたように忘れることのできない『記憶』。つまりこの上ない心残り、後悔の想念がそのまま心を形作る。それが店主(浩介)のような意思を持った死者になるわけだ。


 だからお化けの持つ霊体の質量、密度は個体差が激しい。しっかり持っているのもいればあやふやなのもいる。


 そのはずだったのだが、この配達員……どうやら「ギリ」だったらしい。


「……普通、おれみたいに長~く消えないだけならともかくとしてだよ君?」

「うん?」

「最初から密度が薄いとか、どんだけですかね」


 どんなお化けでも――特に成人の場合、最初は濃いのが鉄則だ。

 だってどんな生き方をしてようと()()は残る。積み上げてきたもの、頑張ってきたものが多い分、霊体もしっかりと形成される。

 ――気持ちがまだ生きているのと勘違いしているから。


 だから苦もなく重いものは生前同様に持ち上げられるはずなのだ。

 この「配達員」は違うだろう……恐らく持ち上げる力に関しては生前に劣るはずだとはさすがに見てとれた。


「……どれだけ神経すり減らして生きてきたらそんなことになるわけ?」

「さあ?」

「さあって……」


 ……なぜかギリギリ「人の形」を取れるだけの質量しかない。だから体力不足になるし調子も時折崩す。頭部の認識異常も原因はそれかもしれない。だったら早く成仏なり消滅なりすればいいのに、なぜか消えない。


 それがきっとこの男なんだろうな、と店主はさらりと思った。


 ――自分が砂時計型の『消滅時計』を持っているように、配達員もどこかに持っている。やっておきたい仕事なり、後悔や心残りがどこかにある。だから、()()()()()()()のだ。

 配達員は言う。


「うん、まあ。悪くはないさ」

「本当に?」

「本当に」


 ぺきぺきっと音を立てて伸びをした配達員は、キャベツのつまった大箱を台車で厨房に運びいれながらの店主にどこかおどけた調子でいう。


「そ、れ、にッ……このような職種には生まれてこの方ついたことがなかったものでね! いや、意外と楽しい」

「……楽しいのか」


 どう見ても疲れた様子が見えることがある。表情はわからずとも、纏う気配がしょぼくれていたり、息遣いがヒィヒィと音を立てていたりする。毎日の『普段』を知っているからこそ、店主は驚いた。


「――納得してるのか、自分の仕事に」

「ああ、初めてちゃんとやりがいを感じてるよ」


 手を止めてしまった店主に向かい、配達員は朗々という。


「生まれてこのかた、惰性(だせい)で生きてきたからな。『自分でやりたいことをやる』っていうのがここまで楽しいとは知らなかった」

「……よく分からないけど、流されっぱなしの人生だったのかね」


 店主は頷く。配達員が惰性――つまり「勢いで生きてきた」ようなことを言うのは、初めてのことに近い。レア中のレアだった。


「そうだな、あまりにも自分ってものがなかった、それに疑問を感じることもなかったよ。……死ぬほんの少し前まで、そんな自分の歪さに気づいてさえいなかった。単に自分が無感動な人間なんだとばかり思っていたし、無感動なのが当たり前だと思っていた」


 店主は聞き返す。


「今は違うと?」

「……ああ、違うね」


 配達員はやけに静かな様子で呟いた。


「俺にだって()()()はある。()()()がある。それを気づかせてくれた人間が少し前にいたんだ。だったら、少しでも無感動な人間から脱却したいだろう。その人の教えてくれた心に、感動にむくいて生きていたい。そう思っただけの話だよ」


 ……事情は分からないが、納得いった気がする。

 店主は改めて荷ほどきを再開した。


「死んでるのにかい?」

「ああ、死んでるのにだ」


 ……それが、きっと配達員の消えない理由なんだろう。

 なるほど、生前に心があまり動かなかったなら――育たなかったなら、存在感が薄くもなる。だって魂を剥がしたら記憶しか残らない。だが記憶に厚みを持たせるのは、深みを持たせるのはいつだって『感情』の役目だ。


 無感動な人間だったと彼は言った。


 ……彼は、死ぬ間際に感情を会得したのだろうか。もしくは自覚でもしたのか。だからこそあんな訳の分からないテンションで絡んでくるのが、逆に似合うのだろうか。


「けど疲れるのは事実ですよ俺。死ぬ。体力的に」

「あー」


 そりゃあ、好きでやってようがやり慣れない仕事には変わりがないし、なんなら絶対に合わない仕事なのには変わりがない。


「……前職なんだっけ」

「教師」


 しれっと返された返答は、やはり違和感満載の文言だった。


「私立の中高一貫でな、生徒さん相手にひたすら突っ立ってトークアンドセッション! 時々恋愛相談されたり、進路相談受けたり、児相に通報したり」

「……思ってた以上に面倒見いいな、無感動な先生の割に」


 ちっちっ、と配達員は指を動かした。


「無感動だからこそ躊躇なく動けるともいう。エグいイジメの現場をうっかり目の当たりにしても『ショック受けた!』とか『思考停止』とか一切しないで、冷静にまず加害者を社会的に抹殺する方法に思い至るくらいには」

「……本当に無感動な人間だった君?」


 店主は苦笑いした。

 ……実は結構憤り感じてませんそれ? 自覚症状がないだけで。


「……あのさ、配達員先生?」

「今更先生とか違和感あるからやめてくれます?」

「たとえば君が、おれの通ってた高校の先生だったとしてだよ?」

「ああ、うん」

「多分君みたいな先生、ぜってぇ嫌だったわ」


 気分が学生に戻ったらしくいきなりグシャッと砕ける口調。これには配達員が噴き出す番だった。


「……ああ、そう、ぜってー嫌?」

「いや本当だよ、頭の中で思い描いてみたら恋愛相談とか論外な先生になるわ」

「何故?」

「……はしゃいでないと陰気だし、服装も黒っぽいし」

「これは一応支給された制服だけども!?」


 若干ショックを受けたように黒づくめ配達員は口を開いた……らしい。


「……っていうか陰気とか初めて言われた! こう見えてそこそこ人気はあったんだけどなぁ多分!? 自分は無感動な人間ですよ! なーんて一言も表では言わなかったし、一応ニコニコしてたし!」

「でも辞めたんだろ」

「……辞めざるを得なくありません?」


 あの世に来てまで勉強したがる子なんてほぼいなかろうよ。特に現代っ子。

 そう言い出す配達員に、荷を下ろして運び込み終えた店主はしれっと返す。


「そういうもんかね」

「そういうもんさ」

「で、一応確認するけどご注文は?」

「……あ、ごめんカレーがいい」


 大体この時間から「朝ご飯」を食べだす配達員はいつものメニューを口に出す。


「……いつも同じだな君は。全く」


 はいよ、と苦笑いしながら店主はひっこむ。


「楽しくても毎日へろっへろなのでね。スパイスパワーでこう、スタミナ付きませんかねーと思いまして……まあこうなるともうなんか、淡い期待だけど」

「……死んでるからね。なかなか変わらないよね」


 体格とか、霊体の筋肉量とか。……配達員はお冷の氷を噛みながら言う。


「……ってか、変人なのはお互いさまだろうよ……」

「それを言うなよ君……」


 厨房でゴソゴソやりだした店主が首をすくめた。……そもそも普通なら数日から数ヶ月でフッと消えるのが普通の死人だ。まともに仕事をしなければ逆に暇すぎてストレスがかさむなんて状態は、よっぽど執着が強い人間の証だった。


「――人の好物を当てられる特殊技能だろ?」


 配達員が呆れたような色をにじませながら口に出す。


「そんなもん、一体どこで何をどうやったら手に入れられるのかと!」

「ああ……そういえば『気まぐれランチ』でなんも分からず敗北したのは君が初めてだったかな」


 苦笑いしながら店主がいう。


「……懐かしいね。結局君だけだよ、まったく正解がわからないの」


 ……仕入れ作業の代行をしてくれる配達員。その担当が目の前の「おニュー」に交代したときの話だ。どうやら前任は彼が来る少し前に役目を終えて「消滅」したらしく、2日間ぐらい誰も来なかった。


 そこにようやく後任として関西弁死神からズルズル引きずられ挨拶に来たこの「顔の分からない配達員」は、やってきた当初から相当なお喋り。


 ――更には落ち着きなく店内を見回していたので、慣れない場所に緊張しているのだろうと思いたち、声をかけたのだ。


 「何か食べて行かれますか?」と。


 彼は頷きメニューを受け取った。そして案の定気まぐれランチに食いつく。「そんな特技があるなら見てみたい」と。

 だが……


「……あれは笑った」

「……うん、おれもビビったよね」


 店主はおたまで鍋をかき混ぜながら呟く。


「――まさか、あそこまで「何も分からない人間」がいるなんて、想像だにしなかった」

「そりゃあ……話を聞いてるとあれだろ」


 配達員は手ぶりを混ぜながら言う。


「単純な好物を当てるというよりは、『今までの人生で一番印象に残ってる食べ物と飲み物を当てる』。……「あ、あれか?」と思うものは一応あるけども……」

「あるのかよ、味も匂いもない何か……」


 呆れた顔で店主が呟くと、配達員は言った。


「……うっすい心当たりくらいは」


 店主はその答えに思わず天を仰いだ。

 ……まさか、あまりにも味が薄すぎてインパクトのあったスイカとかじゃあるまいな? そうだとしてどういうことだよ、そのインパクト勝負みたいな好物は!

 配達員はくつくつと笑いながら続けた。


「でも確かにそう考えてみるとあんなもの、ノーヒントで当てられてたまるか! 味も素っ気もない!」

「いやあ、すごく気になるんだよね……」


 店主は遠い目をしながら呟く。


「普通さ、もっとこう……色々あるだろ。長いはずの人生で一体何があったらあんな何もないことになるんだよ君」

「さあ、ねえ」

「いくら無感動な人間だからって味も匂いも全く出てこないなんて軽く異常だよ、一瞬ちょっとカルキの匂いがしたぐらいとか!」

「カルキねえ……」


 配達員の呟きにハッと今更思いついた店主はしゃもじを持ちつつ口を開いた。


「……まさかとは思うけど」

「はいはい」

「いくらなんでもだぞ? ……『水道水』とか……」

「え?」


 ――ちょっと笑った配達員の声がした。

 店主はそのリアクションに、駄目押すようにちいさく呟く。


「……ないだろ?」

「……ほう」


 表情の見えない配達員はゆっくりと呟く。


「ここまで考えておきながら、その答えが出る?」


 『ふぁいなるあんさー?』――そう聞かれたようなプレッシャー。

 ……あと、やっぱニッコニコな気がした。


「……違うよなぁ」

「フッフッフ」

「まさかなぁ」

「んー……フッ……?」


 配達員はアメリカンな対応で首をすくめる。……ああそうだろう。そういう反応するよね君! だって人生で一番印象に残る食べ物か飲み物だぞ? 何の変哲もない水なわけがないじゃないか!


「ああっ、絶ッ対にない!」

「はいはい」

「もっと他にあるはずだ。それが分からないのが悔しい……!」

「いやいや、そこまで悔しがらなくても。頑張りましたよ? 今すっごい頑張ったのは見て取れたよ? テスト用紙にでっかいハナマルあげたいくらいには頑張ったよ? カルキだよね? ……カルキ臭で、水だよね?」


 雑な賞賛を受けた店主はムキになったように声をあげた。


「いーや絶対違うはずだ。水だけは絶対にないっ! これだけは言える!」

「絶対にないのか……」

「ああないね、ないはずだ!」


 イライラしたように店主は福神漬けの入ったパックを開封した。


「何も味の入ってない『水』が気まぐれランチな人間が実在したら、それこそどっかの天然記念物だろう!」

「……ニホンカモシカ的なアレが頭に浮かんだんだが、ねえそれどこの天然記念物? まさかあの世の? ちょっとカッコよくない? 水……うん、結構好きかもしれないぞ俺は!」

「いや、あのね!」


 店主はため息をつき、少し大きな声を上げた。


「……無理に好きにならなくていいから水!」

「ほら、お冷とかおかわりしまくってるし今、6杯目」


 あといつの間に6杯も飲んでいるのか。ピッチャーが空になりそうだ。

 あ、いや、違う。


「……ちょっと待って」

「何か?」

「そのピッチャー、一応コップ10杯分なんだけど?」


 配達員は懐を探る――ペコッと古ぼけたボトルがカウンター上に置かれた。ケチなタチなのか本当に使い込んでいる。


「……『気まぐれランチ』が水な記念に、水筒がわりのペットボトルにお持ち帰りしようと思って」

「いや、誰もランチが水と確定させてないんだけどな?」


 既に中身の入ったそれを指しながら配達員は陽気に呟く。


「今日の気まぐれランチ、水道水!」

「――言わないで、やめて。絶対違うからそれ」

「フヒッ」

「……だから笑うな意味ありげに。というか、わざわざピッチャーから取っていくとかなんなんだ!」


 料理人のくせに水には全くこだわらないタチの店主が言い放つ。


「ピッチャーに入ってるから上等に見えるだけで、実質ただの水道水だからな本当に!?」

「あ、うん、水道水をテイクアウトで。あとスマイルをゼロ円で」

「いや今更注文風に言わないでくれる?」


 イラっとしながら店主は言った。


「たかが水道水なんかテイクアウトしてどうするんだよ、水だぞ水」

「……まあ、こっちだってご飯ものが欲しいのに、今回の予想にのっとって店長の聡明なご判断で水単体出されたら泣くしかありませんし?」

「…………。」

「だから大人しく最初からカレー食べてるんだよ店主どの。分からないみたいだから。カレーは割と最初に食べてから好きなの確定だから」

「すごい腹立つなあ、その言い方……」


 皿にご飯と福神漬けをスタンバイさせた彼はため息をつく。

 『気まぐれランチ』はうっすらカルキの匂いだった割に、彼の好物はすりおろし人参を入れた甘口カレーだ。実は彼がくる直前からずっと煮込んで放置していた。大体の場合はポンポンと会話が弾むのでその間にちょうどよく火が通る。


 ……しかし、空も白んだばかりの時間にカレーとは。


「と言っても……あれか」


 店主は諦めたように呟いた。


「君には時間感覚がないのか」

「その言葉そっくりお返しするよ、店主どの」


 注文のカレーライスを差し出せば、配達員は意地の悪い顔をした「らしい」様子で言い返してきた。

 ……というか今のところ、彼のやらかすこと全てに言っている気もするのだが。店主は常連一の問題児に頭を抱えた。

 いったい生前どんな変わった生き方をしたらそういう羽目になるんだ。


 ――顔つきも謎。

 『気まぐれランチ』も分からない。現れるや否やテンションがおかしい。


「……まあ、時間なんて関係なくなるよな」

「そーだな」


 頷くようにワークキャップが揺れる。


「寝る必要ないし」

「ないない」

「おれみたいな特殊なことやってるとサイクルできちゃうけど、普通はそうじゃないもんな。好き勝手寝られるし、好き勝手起きていられる」

「……生きてる人間には『時間』があるが、そうでないものには『時間』はない。……あるのは消滅までの『間』のみだー、だったっけ?」

「まあね」


 店主は時計を見た。……その腕には料理人らしくウォッチはない。だが、店のレジ前には時計がある。巨大な掛け時計だ。

 短針と長針、秒針は今の時刻の5時7分を指しているが、それ以外にも時間を示すものがそこにはある。……文字盤の後ろに飾りのように鎮座する、「砂時計」。


「……で、調子は」


 その時計を見ながら、配達員は口を開く。


「まあ、だいぶいいテンポだよ、今のところはね」

「そうかい」


 配達員は笑った息の音を立てて赤いルーにスプーンを突き立てた。店主はそれを見ながらぼつりと呟く。


「ようやく、また溜まってきたのかな。……おれの、消滅時計は」


 福神漬けの咀嚼音。たまに手を伸ばされる、お冷。


「そりゃあ、こっちも砂集めには貢献してますからねー、毎日」

「助かるよ。たまにごそっと減るからね」

「それはあんたがたまに酔っ払いの相手をするのが悪いんだろう。見て酔っ払いだったら口八丁で追い出しちまえ」


 口の中に広がるトロトロしたおろしニンジンの優しい甘みと、ジワジワ効いてくるスパイスの香り。……硬い声質だった配達員のそれが、思わず少し和らぐ。


 少し口角が上がった証だった。


「……それ君だったらできそうだけどね。きっとすごい手慣れてるだろ。口は回るし、とてつもなく怪しいからなんか変なスキルありそうだし」

「……変なスキルはともかく、好きで怪しいわけじゃないんだけども?」


 苦笑いしながら配達員はもごもごと言った。……消滅時計はありていにいえば、時間ではなく「気持ち」を量るものだ。

 嬉しいだの、楽しいだの、それから感謝とか。些細ではあるがポジティブな気持ちをその場の誰かが持つほどに、時計の砂は増えていく。


 ……ただし店主1人で対処できないトラブルが発生した場合でのみ、その砂を『大量消費』することで事態の収拾は容易に図れたのだが。


 暴れる酔っ払いを強制的に取り抑えて退店させたり、店内で殴り合いの喧嘩が起これば割って入ったり。……ああ、一度強盗が入ったこともあったが銃を突きつけられたところで店主はけろっとしていた。だって既に死んでいる。

 ただ他に客がいたので、どうにか砲身をへしおるぐらいはしたのだが。


 ともかく人に貰った気持ちの結晶である「砂」を使うと、そういう有り得ない動きができるらしい。料理以外にはまったく取り柄のないはずのこの店主が。

 だがそれはあくまで非常手段。バンバカ使っていればキリがないし、砂がなくなったらもう使えない。

 つまり、店主は今のまま、砂を集め続けるしかないわけだ。


 そうしてあの砂時計型の硝子が砂でいっぱいになった時……この店主はめでたく「消滅」することができる。


 そう、あれは文字通り、時間だ。

砂が増えたらその分増えるのではない。

 ……()()()()()()()を示すもの。


 配達員はもごもごと嚥下した。ニンジンの影響でかなり赤いルーにはまだ繊維質が残っているせいもあり、ご飯とよく絡む。


「難しいな、さじ加減」

「カレーの?」

「違う、砂の使い方」

「それ君が悩む話か?」

「……()()()()んだろう、あんたは」


 配達員は呟いた。


 ……本来であれば既に死んだ人間。表舞台から退場しているはずのそれ。

 それが「ある心残り」で実体をもって、ここにとどまり仕事をこなしている。


 客を喜ばせ、笑顔にさせる。その感情エネルギーを集めれば、彼はようやく満足できる。……安らかに死ねる、否、消滅できる。お疲れさまでしたと、タイムカードを切れる……


「……ごちそうさまでした」

「またどうぞ」


 配達員は少し息を吐き、被りっ放しだったワークキャップのツバを深く戻した。


「うん……また明日」


 ……別に、何を思うでもない。

 消滅したらそこで終わりだが、消えたくないなんて今更願ったところで、いつか消える運命に変わりはない。


 だからいつか配達員も腹は括る。そしてこの店主はもう括れている。それだけの話だ。


 ――チリリン。


「ありがとうございましたー」


 配達員が退店したのを確認した店主は、半ば機械じみた動きで空になったピッチャーに水を補充すると、暇そうに窓の外を見た。いつもの路地の光景。走り去るワンボックスカー……。


「……生きがい、ねえ」


 ぽつりと呟く。



  ――「……違うね。俺にだって流す涙はある。動く心がある。それを気づかせてくれた人間が少し前にいたんだ。だったら、少しでも無感動な人間から脱却したいだろう」



 あの配達員の言葉がどこか心の底に引っかかった気がして、彼は暫く目を閉じた。



  ――「その人の教えてくれた心に、感動にむくいて生きていたい。そう思っただけの話だよ」


  ――「死んでるのにかい?」


  ――「ああ、死んでるのにだ」



 チリン。ハッとする。扉にかかった鈴の音――特有の重み。気配。

 ()()()が違う。

 これは生きている客だ。そうパッと見で判断しながら、店主は声かけした。


「……いらっしゃいませ!」




    *  *  *  *




 ……トンネルを抜けた。

 テイクアウトした『気まぐれランチ』を見つつ、朝日に照らされた配達員は若干残念そうに口を開く。


「……惜しかったなあ、店主どの」


 あれは配達員が「配達員」になる前……それも「夜明け前」の話だ。




    *  *  *  *




 死にたてホヤホヤのその魂+記憶は、「あの世」から寄る辺もなく見るも無残に突っ返された。普通でいうところの臨死体験だ。……つまるところ、今現在でも認識している「容量不足」のせいだった。質量・密度が足りなさすぎて何かの間違いだと見なされたらしい。


 “どう考えてもあれは死んだのだが?”


 そう首をひねりながら――帰り道の最中にふらふらと迷い込んだのが「あの店」だった。

 時間感覚がなくなるほど歩き通して、迷いに迷った先で差し出された、水道水を詰めただけのペットボトル。


 ……そりゃあ、『めちゃくちゃ美味い』はずだ。


 美味しいと思えた。

 嬉しかった。元気をもらえた。

 ――あの真っ直ぐな暗いトンネルの中、前に進んで行く勇気も。


 その店の主は静かに聞いてきた。

 ――その目を見ながら、覗き込みながら。懐かしいものを見るように。



  ――「……そういや……君、名前は?」


  ――「……名乗らなきゃいけませんか?」



 そう問い返せばその目は笑った。



  ――「それもそうだ。でもなんとなく、知り合いの子そっくりでね」



 ……覚えている。確かに彼は……





  ――「……■■です」


  ――「■■くん」





 名を教えれば、「くん」とつけたのだ。まるで顔見知りの幼子を呼ぶように。

 こっちだって成人してからだいぶ経つというのに、長らく「くん付け」などされたことがなかったというのに。今から思えばその扱いは違和感が欠片もなかった。



  ――「……これも何かの縁だ、持ってけよ」


  ――「確かに今まで歩き通しで、飲み水は嬉しいんだが……これは飲んでも?」



 “死後の世界のものを飲み食いすると帰ってこられない”。


 それは古今東西、よくある話だ。

 おとぎ話にもよくありがちな決まり事を知っていた、『死んでもいないし生きてもいない』中途半端なその男は、次の瞬間――やけに嬉しそうな店主に褒められた。



  ――「ほー、よく知ってるな、そんな決まり事!」


  ――「!」


  ――「……だけど言ったろう、お化けもお化けでないのも、両方来るって。両方飲んで大丈夫なのは向こうの水だ」



 ……そりゃあ、そういうことにもなるな。

 そう、今の配達員は思う。


 昔に()()()()()()()()


 その『記憶』はこちらにはなかった。もう忘却の彼方だ。店主しかもっていない、配達員の幼い頃のそれ。……うっすらとした記憶さえもない。


 だから彼は「ちゃんと」死んでから知った。――仕事を紹介された際に、ある名簿を見て。自分と彼とを結んだ『不可思議な縁』を。


 死神というのはずるい生き物だ。


 だってそれを見たら。あの店主が幼い頃の自分に会っていたから「今の自分」がある。そしてもう一度あの臨死体験で会ったから、「今のカタチ」がある。


 それを今更知ったら、引き返せないだろう……。



「……運送業、とかどーですのん?」

「は? なんでそうなる」

「ああ、モチ、ただの運送業じゃナイナイ……」


 死神はニヤリと笑った。


「――■■さん。アンタはんにしか運べない気持ちを、しかるべき時刻、しかるべきタイミング。そこで浩介さんに伝えてもらう」


 ――死神の手の中のそれを見て、思わず口を開く。


「……正体を言わず。『その子があなたを知っている』とも言わず」


 死神の持つ名簿と睨めっこしながら、顔を隠す前の■■は聞き返した。


「――ひたすら待つのか。彼が自分の意味を手放して、消滅する瞬間まで」

「そーいうお仕事ですねん。――できまっしゃろ?」



 そう、死んでから――自分が暫く消滅できない燃えカスだと知ってから。


 自分でうまく名乗れない、いや、名乗れるわけもないほど昔の「生前」に、向こうは自分のことを知っていたのだと。

 ――そんな彼が、偶然あのとき疲労困憊の自分と出会い、ボトルに入った「水」を渡したのだと。


 それを知って複雑な気がしなかったわけではない。

 ただ、それでも。



「……やってみようか」

「前向きなお返事いただけまして、どーも」



 水をもらったあの時に感動したのは事実だ。

 自分の中の何かが噛み合ったのは。その水一杯で「生きる意味」を知ったのは。


 なんの変哲も無い水道水。


 その水のうまさに、驚いた。……これほどまでに自分は「有り難さ」を感じられるのか。ドライだった、何もなかったはずの自分が。


 深く、深くそう思った。


 それが、運命的だと言わずしてなんと言おう。

 感謝を覚えた。それにむくいたいと思った。

 ……そんな言い方をするとどうも“ラブロマンス”に聞こえてくるのはどうかと思うが、残念ながら恋愛感情なんてものはない。そもそもお互いノーマルで、今はただの友人関係だ。


 ただただ、奇妙な縁があったのは事実だった。


 向こうは残念ながらそんな「たかが水」な出来事、微塵も覚えてないらしいのだが、構わない。


 ――ああ、俺は、覚えているさ。


 あの店に行くたび、あの時に水を渡してくれた恩人相手にお礼も言えずにいる。照れてテンションがおかしくなる程度にはあの店を知っているし、あの「店主」が……浩介がどういう人物かも知っていた。


 そんな物思いにふけるのもそこそこに――ハンドルを握り直し、現在の「配達員」は苦笑する。



「……水だけは絶対にない、だって?」


 ……とんでもない。

 どんなことにだろうと「例外」は付き物だ。


「いたんですがね、店主どの。目の前に『天然記念物』」



 今日も彼は車を駆る。

 非力な腕で、また少し疲れたようにハンドルをきる。



 死後の世界での仕事は、死人にとっての暇潰しに過ぎない。

 ただその暇潰しも――ライフワークといえばライフワークだ。彼は今日もペットボトルを手に取るたびに思い出す。


 ――己の、本来の仕事を。




「……一、『zattagotta.(あの店)KK』の店主を毎日見守り続ける……二、その時が来たら、ある一言を伝える」


 ウインカーを出しながら、配達員は諳んじた。


「そうだな。そのときの自分はどう言うだろう」


 帽子を少しだけ浮かせて、暫く考え込んだそれ――彼の口元が少しだけ動くのが()()()()()


「……あなたのおかげで――」


 ふいに、恥ずかしくなって窓を開けた。かき消える硬い声。

 配達員は帽子を深くかぶり直した。


「…………。」


 ――運転席に「日」が当たる。

 もうとっくの昔に夜は明けていて、透き通った青空が見えていた。

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