★#19 兵士Aの過剰な殺意(とエスプレッソ) (下)
『……まあその。確かにな、土丸』
一つずつ彼女は言葉を紡いでいく。
『君ほど私はたぶん、素直に感情を出せない。誰に何を、どう訴えたら効率的かが優先で、自分の感情に気づかない鈍感さがあるのが「永原 彩」だよ』
「……」
『祖父祖母に気を取られて――君ほど一つのことに、一生懸命にもなれてないかもしれない。それもきっと、「永原 彩」だよ』
「……」
以前、電話をしたときのことを思い出す。
――「……後悔しないのか」
それを問いかけたのは一年前だったろうか、二年も経った?
ああ、そうかもしれない。
レッスンに来なくなってから暫くして、ふとした拍子に、向こうから電話がかかってきた。当時の俺にとって永原はただの負け犬で――恐らくはそう、【色々と勿体無い】と感じた――実に腹立たしい何かだった。
「お前なんぞに無駄口を叩く暇はない」と切ってやろうかと思ったが、ただのドロップアウトにしてはどうも様子がおかしい。
――『何が?』
――「今、養成所を抜けて」
だからふと、問いかけてしまったんだろう。
……変に声が明るかった。
そのくせあまりに疲れた声だったので、なんだか怒りが引っ込んで――それで、今は祖父母の面倒を見ているらしいと聞いた。
祖父はまだ足が悪いだけですんでいるが、祖母の具合が急激に悪くなっていることも。
――『……後悔?』
――「オーディションだって、最近だと年齢制限がある場合もある。特に女性なら、25歳までとか」
――『そうだね。歌って踊れるアイドル声優は大体そこまで……いやいや土丸』
呆れ返ったような声をして、永原は一拍置いた。
――『……冷静に考えな。私のキャラでそれ売れる?』
――「……売れるかはともかくだ」
――『売れないって思ったな君!?』
――「『あそこで抜けてなかったら』、いつかお前はそう思うかもしれない」
――『ん? あー……「時間を無駄にした」って?』
そう答えながら永原の声は、少し笑う。
俺は呟いた。
――「……まあその、失礼な言い方だったかもしれんが」
――『いいよ、構わない』
――「ただ、俺ならたぶん思う。そう思った」
君は本当、正直だねえ! なんて永原が茶化す。
俺は続けた。おそらくいつもの、浅慮のままに。
――「怖くないのか。まだお前には先がある」
――『そうだね。私には先がある。きっと何十年も』
――「自分の夢を犠牲にして、それでもお前は」
……生きるというのは、往々にしてそういうことだ。
きっと置いて行く人間がいて、置いていかれる人間がいる。
道は一方通行で戻れない。
でも。
――『……私には確かに、時間が沢山あった』
道は、本当にひとつなのか。
そう考えるきっかけにはなったのかもしれない。
――『土丸。確かに私も君も20代だ。先が長くて、あとの大半は後悔だけかもしれない。けどね、逆にいえばの話……この人たちには先がないんだ』
そこで永原のことを呼んでいるのか、誰かの声が入った。
『ちょっと失礼』と数分中座して――『腰が抜けた? 何しようとしたのさ』『分かった、とりあえず布団に帰ろう。ほら、1、2、3……おじいちゃんもダブルでコケてどうすんの。手が足りないから助けないぞ』――暫く遠くで何か言っている声がして。
――『……いやあ、悪いね。うん』
……戻ってきた永原の声は、満たされていた。
誰かに必要とされているからかもしれない。己の居場所をさがして、歩き回って、そしてとうに見つけたとでもいうように。
――『……ホント、あの人たちにどれだけ残りがあるかすら分からない。それにかまけてる暇は、本来ならきっとないんだろうね』
――「……」
――『タイムリミットのあるお仕事は確かにあって、それを早く掴んで成り上がるのが、きっと私たちの正道だ。でもさ、逆にいうなら……先があるからこそだよ、土丸』
――「?」
――『……最初こそ逃避だった』
ぽつりと永原は言う。
――『目の前のことがうまくいかなくて、逃げる算段だった』
――「……」
――『前に進まない私自身に劣等感をつのらせて。嫌気がさして。本気でやめてしまおうかとも思った。誰かのせいにも出来なかったし、上手い人間に嫉妬すら満足に出来ない、そんな半端者が私だったんだよ』
永原はゆるやかに、流れ落ちるように呟く。
――『正直でも素直でもない劣等生が私だ。それが躓くのは当然のことさ。躓いて、すっ転んで、ふと起き上がった時……目の前のことを置いといて、私は違うものを見てしまった』
――「……」
――『手を、つけてしまった』
本筋ではない何かに。
近道ではない何かに、彼女は手を引かれたのかもしれない。
今から思えばあいつは優しいから、無遠慮に。そして無責任に飛び込んだ。
――『どういえばいいかなあ。……きっと、責任があるんだよ、土丸』
けれど、ただの無責任には終わらない。
それが『永原 彩』という人間なのだと、俺は最初から知っていたのかもしれない。
――『君も知っての通り……私は好んで人と関わるし、君のような「できる人」には憧れるし、そのままズカズカ深入りしてしまうこともある。きっと時には相手の心も傷つけてしまうけれど。何かを壊したことに気づいたら、せめてそれを、できるだけすくえたらいいなと思うんだ』
――「……」
――『君は知らないだろうけどさ。私、壊したんだよ。人を、多分一人』
話は抽象的すぎたのだけれど。
それが、譲れない何かだということだけはなんとなく分かって。
――『今、目の前にあるものを投げ出したら、私は経歴以上に大事なものを失うよ。この意味、分かるかい土丸?』
――「分からん」
――『経験だよ』
俺はその選択を、結局――いいものだとはちっとも思わなかった。
自分に置き換えてみれば、「絶対やらないことだ」とは思った。
俺には確かに目的があった。何にも代え難い将来の夢があった。
夢以外に大切なものはない。お前もそうじゃないのか。
そう怒鳴りつけることだってできた。
でも――きっとそれは、俺が他に何もないからだ。
子供の頃と同じに「将来の夢」を追いかけることしかできない、夢見る子供だからだ。
なんとなく、そう思った。
永原はきっと俺より断然大人びていて、俺より色々と考えていて。
だからこそこういうことが言えるのだと。
――『たぶんさ。結局私は、寄り道する経験を取ったんだよ』
……それでも、「響くもの」はあったのかもしれない。
――『誰にもできない寄り道だ。私にしかできない、そんな素敵な寄り道だ』
その時の言葉を、今でもちゃんと覚えているのはなぜだろう。
今まで知っている誰の言葉より、声より、心の重さより。
それは……何か惹かれる一言だった。
――『たとえ誰かが似たことをしたとして、同じ結果にはちっともならない』
――「……」
――『その寄り道がいつか、私に何かをくれる。そんな気がするんだよ、土丸』
――「……そうか」
――『今、一番手のかかる祖母がね。昔私に言ったんだ。私にしか見えないものがあるはずだって』
負け犬だと最初に思ったそいつは、きっとそうでもない何かだった。
ただ、俺にはないものを持ち合わせ、俺には分からない道をたどって。景色を見て。――それを口で、声でもって高く高く、広く広く。
何か大きなものを、表現していた。
――「……お前が何を思ってそこにいるのかは分からんよ、永原」
その時、俺が口に出したのはたして、『正しい』一言だったのかはわからない。
――「……少なくとも今の俺には、ちっとも分からん」
でもそう。それは今から思えば、『敬意』からくる一言だったに違いない。
ピンとこなくても――分からなくても、それが考え抜いた末の言葉なのは想像がつく。
――『……それで、いいんだろうな。うん、きっとそれでいいんだよ土丸。寄り道した私にしか見えない景色があるように、走り続けた君にしか見えないものがある。君さ、ちゃんと声優のレッスン続けろよ。投げ出すなよ。たとえどんなに苦しくても』
あの日の永原はぽつりと呟いた。
――『……私は私で、寄り道した自分にしか見えないものをつかみに行くよ』
――「……そうか」
『……私は、たぶんね』
あの日とひとつも変わらない、電話越しの女の声。
『色々なものを気にしすぎて、こだわりすぎて』
「おう」
『でもそれが不思議と狭い範囲内に収まってて――結局見えてないものが、未だにたくさんあるんだ。勿論、「あの頃の自分ならここにくるしかなかった」――それも分かってるし、肯定はしてる』
何を言いたいのか、永原は語り続けた。
『それでもいつか、君に並ぶか追い越すんじゃないかと夢を見ていた。その努力が報われるかはともかく、細かい言葉や背景を読み取りすぎる感性が誰かを救えるとは思った。役にたてると思った』
それを諦めちゃあいないのだけれど、と永原はいう。
『……少し、君から離れてみてわかったよ。私、やっぱ見えてる世界が常にせまいんだ。それがいいことか悪いことかは知らないけれど。ああ、「ミクロに見ている」って言われたこともあるな。誰だったかは忘れたけれど、でもね』
――やっぱほら、君と同じだよ。
そう永原の静かな声はいう。
『……他人に誤解されるのが、常に怖い。それは変わりない』
「……ああ」
『役立たずだって、そこにいても意味はないって。そう思われるんじゃないか。そう思うと気が気じゃない。――だからさあ、土丸。君に以前電話をかけたとき。君がはじめて電話に出た瞬間の声といったら! ……「ああ、なんだ、ちょっぴりイライラしてたな」って思うと、なんだか嬉しかったんだ』
「……」
『私――意味、あったんだって』
なんて察しの良さだ! ……と閉口する。
怒りのままに電話を切ろうとしていたのがバレていたらしい!
『何の相談もせずやめた仲間。それにプリプリ怒るほど、君は私がライバルとして惜しかったらしい。そう思うと、とても満足はした。スッキリしたんだ』
……なら、いいが。
『あの後はたくさん頑張れたと思う。……ねえ土丸。そういうたった一瞬の雰囲気だとか、語調だとか、反応ひとつさ。そうして深く考えすぎるからこそ、君とは真逆に感情を飲み込んでしまう。それも私だ』
……ああ。
「出会った最初から、歯ぎしりするぐらい羨ましいんだがな、永原」
『ん?』
「……お前は、いちいちすごいよ」
視点が違うのだろうなといつも思う。論点が違う。大事にするところが違う。だからこそ、お前は俺とは真逆のものを見る。だからこそ、惜しい。こいつは、俺が自分のことで気づかないことを、全部気づく。
『あー……すごいというか、変わり者っぽい感性だとは思うんだけどね。でも、あまりその業界だと重宝はされない。大事なものは大事にしすぎてはいけないんだ』
「というと?」
永原はいつも通り、へらりと笑った声で言葉をこぼした。
『隠すのに慣れすぎていると、隠すのが当たり前になる』
「そうか?」
『だって、表情は出すのが一番分かりやすいだろ。……程度はあるけど、いいたいことはいったほうがいい』
「そうだろうか」
うん、と永原は言う。
『感情は分かる方がいいんだよ。私には君のイライラは分かったけれど、きっと全員がたった一つの吐息から、いくつも読み取るのが得意なわけじゃない』
「それはそうだが」
『だからさ土丸。あえていうけど、私は君が割と嫌いじゃないんだ』
……変なところを強調したな。
『ライバルで、友達で――こうしてほら、電話だってかけてもらえる仲間だ。でも声優って雇われ仕事だぞ。君だって声で食っていきたい以前に、アルバイトの一つや二つしてるだろ。バイトに置き換えて考えてみたら私の言わんとするところが分かるよ。もちろん誰だって巧い人がほしい』
「ああ」
『慣れない新人が入ってきて、四苦八苦する。その時ワリを食うのはその他全員だ。だからできれば、経験者がほしいもんなんだ』
「……」
『そう、仕事の巧い人間はどんなバイトでだって重宝される。ただ、一緒に働く人間を複数の中から選べるとしたら、それだけにとどまらない』
……なあ土丸、とその真面目な声は言う。
伝える力にあふれた、分岐点から遠い永原の声は。
『仕事のレベルに加えて――君が採用担当なら、誰を、どう選ぶ?』
「……何?」
『同じレベルの人が幾人もいて。どうもどんぐりの背比べなら、どうする?』
……全く同じレベル?
俺は困惑した。
そんなこと、あり得るものなのか?
……だって上には上が、下には下がいるだろう?
『――答えの一つ。気の合いそうな人、という項目がプラスしてのらない?』
「へえ」
なら……よかった。こいつは採用担当の気持ちになれと言ったが、結局、それは選ばれる人間がどうであるかという話だ。
「だとしたら――俺は死ぬほど遠いな。万人から」
……だって俺みたいなダメ人間。
誰からも、気に入られるわけがないじゃないか。
『……うーん』
「……永原?」
『キレてよろしい?』
「キレ……」
『なお答えは聞いてない!! いいか土丸。そろそろ堪忍袋の緒が切れそうだ!』
は?
汚い言葉が突然、捲し立てるように聞こえた。
『くそったれが! ――いい加減しっかりしろ、他人事になるな! 決めつけてんじゃねえんだ!』
――うるせえ。驚きつつ、思わず少し耳から離す。
『だいたい卑屈にもほどがあるだろう!? あったまきた、思考があまい、イチゴショートか! 変な癖がつきすぎだ! おめーは頭に柔軟剤でも詰まってんのか!』
「……」
『土丸。うだうだ言ったが、これは君の話だ!』
「……」
ぱんっ、と机を叩く音がした。
『私が言いたいのは! ――君を雇おうとする人のこと考えろっ、顧客のことを考えない営業マンがどこにいるってんだよ!! 君は、誰かに選ばれたときのことをちゃんと考えたことがあるか!』
「……そんなものこんなプロ未満の人間が考えたところで」
『はー? 捕らぬ狸の皮算用ぉ!?』
……いかん、先に言われてしまった。
思わず咳払いをする。
まったく、どこまで人の心を先読みしてんだこの女!
『ハイ知るかバーカ、想定しろ! 恥ずかしくもなんともない、シミュレートしなくてどうする戯けが!!』
「は?」
『いいか土丸、誰でもいいわけじゃないんだ。お前が選ばれたとき、誰でもない、土丸が欲しいと思われてんだ! なぜか分かるか君!?』
――いや。
マジで何の話だ!?
『仕事仲間を探してるんだぞ! その為に相手を知ろうとするのが人間だろう! 「知ろうとしたことがすぐ分かる人」のほうが、信頼される!』
「……な」
……ポス、と無機質な音が挟まった。
恐らくうちのと同じケトルだろう。カップ麺を作るときによく聞くから分かる。
お湯が沸いた音だ。
『……それを考えると』
途端に、落ち着いたのかもしれない。
永原の声のボリュームが下がった。
『……君みたいに一見ヒネてても素直な人の方がいいんだよ、土丸』
「――……。」
『……私みたいな八方美人のニヤケ面よりな。素直に好きなこと、嫌いなことが分かる人のほうが、人間性がみえてちょうどいいんだよ』
たぶん――これが、まっすぐ正道を歩いてこなかった人間だ。
これが前の永原だったら。自分と同じく目の前のことにいっぱいいっぱいだったら、どういう基準で採用するかまで考えは及ばない。
言われたことを、言われたようにこなすだけで。
そうして「なぜ次のステップに進めないのか」「全部やってきたのに」と焦るばかりで。
『土丸』
永原は言う。
夢追い人を少しだけ休憩した、遠回りをした――ちょっと大人の社会人の目線で。
『……いいから今から、芸能事務所の公式サイトをのぞいてこい。プロフィールに好きなこと、特技、趣味なんて項目があるのはそういうことさ』
…………。
……。
言われたことだけではダメだと、いつも。
そう、いつも思っている。
それがどうして言われたのかをもっと違う視点で考えなければ、分析しなければダメだ。
けれど、具体的に何をしろとまでは思い浮かばない。
「書類審査でプロフィールを書け」。
「オーディションの対面で自己紹介をしろ」。
言われた通りこなしてはきたが……今更。本当に今更気づく。
恥ずかしながら、「それはなぜだ」と自分は考えたことがなかった。
ただの挨拶代わりだ。俺は売れていない、仕事をまず、ちゃんとこなしたことがない。新人声優として土俵にも立てていない養成所生だ。
永原の言う通り――皆上手い人が欲しい。即戦力が欲しい。もっといえば、ほんの少しだって仕事経験のある人間のほうが受かりやすい。
……そう、経歴の方が重要なんだとは知っている。
俺には何もない、だから受かるわけがない。
そうして「受からない理由」を見つけては、一人物陰でホッとした。
養成所に入って何年もしていると、だんだんと俺は上澄みになってくる。
だからオーディションなら幾度も受けていたけれど、今まで、一度たりとも受かったことはなかった。
「受からない理由」を自分で決めつけて――心のどこかで逃げて、安心をした。
子供の頃に見た、聞いた、あの声には絶対になれないし――なってはならない。
だって、俺には追い付けない。
あの理想の声にはいつまで経っても遠くて……俺には、何もない。
ホッとすると同時に、自分を追い詰めれば解決できるのだと、ひたすら易い方に考えた。
理由を一つに絞る。
自分の分かりやすい方に、楽な方に。
自分をひたすらいじめ抜いて――やれ体力作りだ、やれ壊れるまで発声練習だ。あの人はこんな努力をしている。この人はこんなことをしている。
全部やれること、思いつくことは全部やって――それでも頭の中では、誰かが俺を責め立てる。
――足りない。出直してこい。お前には何もない。足りない。君はプロにはなれないのだ。プロとして全然足りないのだ。君には何もないのだ。
そうなると、自己紹介もプロフィールも、ただ自分をよってたかって落とす儀式にしか映らなかった。
キャラクターと声の質が合うのなら、スキルが釣り合うなら――本来は別に、誰でも良いのだ。
――なら、俺など落ちて当然だとホッとした/怒り狂った。
プロフィールの一番下にある経歴の欄は真っ白だ。
書類審査など通るわけがない(だろう)。
対面での自己紹介は、ただ俺が最悪の人間性であることの証明にすぎない。だから書類審査がなくとも通るわけがない(だろう)。
それでいい。そのほうが落ち着く。
それがいい。それで思考停止すればいい。
さあ、あとは実力だ。
もうこれしかないのに、どうしても下手中の下手にしか見えない。
だってもっとこの男の子は可愛くて、もっとこの青年はスカしていて、この老人は深みがあって。なのに全部がダメだ。ダメ中のダメだ。
だって、どうやっても苛立つのだ。
どうやっても、自分に腹が立って仕方がないのだ。
ならきっと自分は頑張りが足りないのだ。
頑張りが足りないなら、それはただのダメ人間だ。
そんなもの、認められないほうがいい。
なのになんで、こんなに怒りが止まらないんだ。
どうして、俺こそ永原みたいにやめないんだ。
「認められないほうがいい人間」なんて、この世に必要ないのに。
『……土丸』
――なのに、永原の言葉で気づく。
向こうはもっと、違うところを見ていたりする。
仕事仲間として、最適か。――共演者はこの組み合わせで、うまくいくか。
『……土丸。きっとまだ、レッスンでの君はしかめっ面だよね』
電話口の永原は言う。
『今からいうことは、いつも以上に中身のない無駄口だ。……普段なら言わないことだから、心して聴くといい』
「何だ」
……苛立ちを抑える。ふるえて、イラつきを抑える。
そうだ――こらえろ。罪のない誰かに当たる前に。
だってこれはそう――俺の問題だ。
『私がいうのも何だけどさ。――自分を追い詰めてはいけないよ、土丸』
「……」
不思議と、ふるえが止まった。
『本当はいつも思ってた。君はすごいやつだ。誰よりも努力家で、誰よりも演技が好きなバカだ。やれることは全部やっていて、あとは自信が全くないだけなんだ』
「……」
ふしゅ。と苛立ちが霧散する。
……それは、なかなかに厳しい言葉だった。
俺はそんなに立派な人間じゃないぞ。
そう言いたいのに、どうも――言葉が出てこなかった。
『だから大丈夫。どんなときだって相手を信用していい。ダメかどうかはゆだねていい。それで結果的に「何だそれ」と言われても、君のせいではなくて運が悪かったのさ』
運だとか、巡り合わせってもんもあるでしょ、と彼女はいう。
ああ、何が無駄口だ。
なにが「中身がない」だ。
それは、俺を黙らせるだけの中身があるだろう。
『だから、君は出していいんだ。何が好きかを出していい。たとえそれが自分をしかめっ面にしているとしても』
「……」
『土丸の声が欲しい。土丸だから欲しい。そういう人間は、絶対にいる』
「……」
思わず――黙り込む。
『聴いてる? ほら、今は外野だから言ってやるんだぞ、土丸。――本当なら、君がメンタルをやんで自爆したって知ったことか』
「ああ」
それはなんとなく、嘘だと思った。
自爆したら自爆したで、こいつは世話を焼くだろう。
……聞いたってなんの足しにもならない愚痴を聞きながら、ゲラゲラ笑って。
それから「どんまいと土丸って似てるよね!」とか、訳のわからないことを言うに違いない。
『君ほど熱を秘めた新人さんは、どれだけいるかな。やりたいことがいっぱいあって、アイデアばっかりで、自分をそれだけ憎く思うほど、目の前の物事に一生懸命取り組める。……その原作に、原稿に、底なしの愛情と優しさが向く人は――どれだけいるかな?』
「……それは」
『いないとは言わないよ。ただちょっと君は、愛が過剰だ。……厄介だけど、それはいつか君のちからになるよ。個性になるし、武器になる。そうだな――カッコいいプロ根性になるんじゃないかなって』
……だからさあ。
そういって、昔は怒るのがへたくそだった永原は息を吐く。
大きく、大きく、息を吸って。
『好きなものは好きでいい、たとえ笑顔になれなくてもね。――だから頑張るよりは、力を抜いて楽しんで。君の隣に立ってない私からはもう、これしか言えないよ』
「……」
『さあ、いってこい、新人さん』
背中を押された気がした。――俺の頭の上で、どこからかやってきた旅客機が空をかち割るのが見えた。
『――君はこれからお仕事だ、そうでしょう』
……よく分かるよな。
俺、一言も言ってないぞ。
『――じゃあな甘ったれ。健闘を祈る!』
コンプライアンスに引っかかるからな。
何に出るとか、本来一個も言えないんだ。
夕方の、何時だったか。
こちらのローカルの、子供向けアニメ。
――はじめてエンディングクレジットにのるかもしれないって、本当は言いたかったのだけれど。
* * * *
――「……お前、よくそんな泥水みたいなの飲めるな」
そう――随分と前。
毎回、毎回。
――「君こそ、枝豆をジュースにしてよく平気だよね」
レッスンの後の反省会で入った喫茶店。
ずんだフロートを頼んだ俺にジト目で言った永原の手には、何があったっけか。
確か、そう……。
* * * *
「エスプレッソお待たせしました」
「は?」
ふと気づくと、知らない店に座っていた。
「気まぐれランチです」
……あー。
そうだった。
確か、あの後すぐに電話が切れて。
それから、ふっと横を見たらこのお店があったのだった。
――「何にしますか?」
――「あー……オススメで……ああ、でも。そうだな。飲み物とか、軽食とか……」
フワフワと、電話をかけたのは確かバイト終わり。
更に永原から言われた言葉で余計に頭がぶん殴られて。
余計少し、頭がパンクして。
変に何だか、泣けてきて。
……まっすぐ、いつもの駅に向かう気分にはなれなかった。
予定通りなら、そう、またあのレッスンスタジオに呼び出されるはずの夕方まで――どこかで、ソワソワしながら暇をつぶす予定でもあった。
――「できますよ、オススメで飲み物、軽食縛り。あなたなら」
ぼけた視界の向こう。
注文をとりにきたお兄さんが、何か意味深に笑って。
――「……苦いのと甘いの、どっちがいいですか、飲み物」
――「なんですかそれ……まあいいや」
きっと頭は永原の変なエールで頭がいっぱいだったに違いない。
――「……は、ははは……頭回んないや。お兄さん、俺、今日はちょっと夢心地なんですよ」
――「へえ」
いきなりキレだす永原以上の不審人物に成り下がっている自覚はあったが――注文をとりにきたお兄さんは気にしないようだ。頷く。
――「よくある話ですね」
――「ありますか?」
――「ありますね。おれも昔はあったかもしれない」
苦笑いする店員のお兄さんに、ほとんど頭が空っぽなまま、注文を飛ばす。
――「とりあえず、どっちがなんだか分かんないけど。目がさめそうなほうで」
――「……。分かりました」
……ああ、くそ。
本気であの女、バカなんだろうか。
そう思いながら目を閉じた。
……吐き気がする。胃がムカついて仕方がない。
なあ永原。お前はどうしてそうなんだ。
どうしてお前はこんなダメ人間に――いや。いや、言うまい。
飲み込んで、ぐるぐるして、それでも。
やつが言ったんだ、ゆだねろと。
ダメじゃないと背を叩かれた。割と好きだと笑い飛ばされた。それをさすがにこんなすぐ、否定はしたくない。
こんなちっぽけなプライドで。こんな、しっちゃかめっちゃかなまま。
ああ、メンタルは弱いさ。逃げ癖もあるさ。それでも。
大丈夫、自分の中で『ダメ中のダメ』であったとして。
本当にダメかは神のみぞ知る。それでいい。
「……ああ、そっか」
目を開けて――ふと、目の前のリーフレットに目が向く。
そこには『オススメ』と、堂々としたふきだしがついていた。
「オススメは、気まぐれランチ……」
「そう、今更気づきましたか?」
いたずらっぽく、そのお兄さんはリーフレットを指した。
『お客様の好きそうなお料理を、ひとつは必ず、当てることができます』……。
「それは、きっとあなたが何度も嗅いだ匂いだ。飲んだわけではなさそうですが」
「……今日は察しのいい人間によく当たるな……」
ボケーっとしていた自分も悪い。
まあ、今日はさすがに、フワついた気持ちになるのも仕方がないのだけれど。
「まあ、ええ……そうですね。食わず嫌い、いや、飲まず嫌いで」
「でも」
お兄さんはニコリと笑う。
「その匂いは、きっと嫌いじゃなかったでしょう?」
「……」
まあ、そうかもしれない。
思い出の香りというには少し、綺麗さが足りないのだけど。
「お砂糖とミルク、置いときますね。あとこれだけっていうのもなんだから、勿論サンドイッチとか」
「すみません」
……覚えのある匂い。確かに目はさめそうだ。
幼い頃から喫茶店といえばジュースのイメージだし、お茶とかコーヒーには縁がなかったせいであいつには毎回『えー! 今時コーヒーも紅茶も飲んだことないやつの方が珍しいだろ。この子供舌ー!』とからかわれたが。
この際、背伸びをしてみるのも悪くない。
「……うっわ」
くそ、やっぱり噂通り苦かった。
とりあえず一口飲んで砂糖を入れて。それから。
「よし」
――意識がようやくはっきりする。
ここからだ。ざらっとカバンの底をひっくり返して――筆記用具と台本の、あの色のついた表紙を広げる。
下読みだ。時間的に余裕があって助かった。
汚してはいけないから、サンドイッチがくる頃には一旦しまうのだろうが。
それでも、俺にはもう一刻の猶予もない。
今できることはちゃんとやろう。
あいつの言う通り、頑張るよりも楽しむために。
ぺらりとめくった先のキャスト表。
「兵士A」の横に書かれた、自分の名前。
――収録はそう、今日の夕方。
「……行くぞ、永原」
ダメでもいい。
一足先に――お前より先に。できるだけ、前へ。




