★#14 よぶんのいち(下)
* * * *
チリン。
彼がもう一度ドアベルを鳴らした際、店主は開口一番、こうのたまった。
「……己を見失ってる人っていうのはね。少し、分かりづらいものなんです。心から記憶を追い出してしまっているから」
「ああ」
どっかりと先程の席に座り直した「お化け」は相槌を打つ。
「……好きなものであったり、大事な記憶だったり。自分ではちゃんと持っているつもりであってもどこかが欠落している」
店主はチャーハンの入っていた皿を洗い流しながら続けた。
「彼は、いなくなった息子が楽しそうに過ごしている記憶は覚えていても、『自分がそれで楽しんだ記憶』がごっそり抜け落ちていたんですよ。……だから本当に、うっすらとしか匂いがしなかったんです」
* * * *
死ぬ間際、松市は一度この店に来た。
「なあ――あんた、なんでも作れるのか?」
「ええ」
――「君、なんでも作れるのか?」
……奇しくもあの時、椿が投げたのと同じ問いかけだった。
「なら悪い、思いついた」
「はい?」
「連れてくるやつがいる」
飛び出そうとする彼を、店主は呼び止めた。
「待って! ――お代は結構ですが、確認させてください、その人は自分を見失っている人ですか?」
お代は結構――そして、図星の一言。
松市は驚いた顔をして振り返る。
「……よくわかったな」
「多いんですよ、そういう人」
店主はケロッとした様子で水を出す。
……「落ち着け」と暗に言われた気分になり、松市はそれを受け取った。
「そうなって、だいたい何年ぐらい?」
「15年だ」
店主は少し息を詰まらせた。
「ふむ……アウトです」
「そうなのか?」
「まだ2年、3年ならなんとか。が、それだともう分からないかもしれません」
一つは必ず、とリーフレットは謳い文句をつけている。
だが――その『必ず』の文言は外れるだろう。
「……なら、聞いてきてやるよ。それでいいだろ?」
松市は苦笑した。
「わかったらまた来るさ」
「これますか?」
店主は訝しげに問う。
――この店は「生者」が狙って来店するのが難しい。どこから迷い込めるか分からないからだ。
店を出た瞬間、道順がうやむやになる。気づくと知った道に出ている……恐らく、この客もそうなるだろう。
――だが。
「……俺ぁ、昔からそうでなあ。死ぬほど諦めが悪い。奔放に見えて、遊び人に見えて、一本筋の通ったものが好きだ」
ニヤリと笑ったそれに、確信した。
ああ、この客は――ぜったいにまた、やってくる。
「……孫とお揃いなんだよ。自分でやりてえと思ったことなら、必死こいてやり遂げてきた。――ああ、死んでも諦めねえ。そういう性格なんだ」
* * * *
「……先に言ってくれて良かった」
皿を拭き、匙を拭き、店主は大きく息を吐く。
「本当にあのままだと、『当てずっぽう』に作る羽目になってましたよ」
「ちゃんとわかったかね、あんな覚えがきで」
苦笑いしながら言う「お化け」に、店主は首をすくめた。
「――勿論。それはもう、完璧なレシピでした」
――「まあ、なんかそのへんのメニューでも見て決めろや。俺の奢りだ。あっ、くそ、座席の下にゴミ落ちてんぞオイ」
座席についた後、「ゴミが落ちている」と渡された紙。
そこにはどこかで鉛筆書きしてきたらしい、『調理工程』のメモが長々と書かれていた。
そして一番最後に余計な一言。
『板書と座学は得意じゃねーんだがな』……。
――上から順に実行していた店主は、思わず厨房で噴き出した。
ちょうど、「座学がどうの」と漏れ聞こえてきている時間だった。
「……いい顔してましたね、彼」
ボロボロに泣きながらチャーハンを手元に引き寄せた、ずぶ濡れの手を思い出す。
……その目に浮かぶ、一瞬の力強さも。
『座学の得意でない孫』とおそろいの祖父に言えば、彼はくつくつと笑った。
「そうだよ、もったいねえだろ? 自慢の……」
……自慢の。
「……ハ、なんつーんだろうな、あれは」
「自慢の家族?」
言葉を探すのを諦めた「お化け」は妥協し、頷いた。
「あれがねえ、ずーっと辛気臭い顔してやがんだ、いい加減、どうにかしたかった」
……なんとなく、死期が近いのは分かっていた。
何か兆候があったわけではないが、終末期の最終段階に入った自覚は、いつの間にかあった。
「この店から飛び出して、あいつの好物を探し始めたのはひと月前だ……もう一度くらい、あの鉄みたいな仏頂面をひん剥いてやりたくてな」
そして今日、椿の実家にふらりと寄った時、ラーメン屋の店主に問いかけた。
「椿の好きなものは何か」と。
目を丸くしながら、椿より素直な性格の彼はもったいぶらずに口を開く。
老朽化した店の看板を見ながら……そこについた、「手のかたち」のような汚れを見ながら……
「……あいつは、『ここのラーメン屋のチャーハンが好きだ』って。それを食っているときだけは目が生き返るって」
幾度も食べたものだろう。
記憶の中の「あの子」に会うために……幾度も。
「自分の息子がちっちゃいときに、何度も食った代物だってよ。スイカの種散らかしてるのを必死に始末しながらな。……ああ、まったく。筋金入りだよ……そこまでくると怒りづれえじゃねえの……」
頼めば必ず食べられる代物ではあっただろう。
だが、ここまでくると関係がない。
最後に、柄でもなくメッセージを伝えたかった。
伝わらなくとも、「これ」しかないように思えた。
――「自分の中身」を思い出せ。
「……彼が気まぐれランチを頼まなかったらどうしていたんです?」
「んなもん、そっち優先したよ」
けろっとして「お化け」は言う。
「自分の意思で選んだもんだ、そんなもんに死にかけ、いや、死にたてのジジイがとやかく言える筋合いなんてねえだろ」
「なるほど」
ラーメン屋から帰ってきた彼は疲れを感じた。
動悸もする。――少し休憩しようと肩を落とした瞬間、うとうとした。
その間、力尽きたのだ。
……息をしなくなった自覚もある。体の芯が冷えたような感じもある。
「げ」と思った彼は慌てて、『動かない肉体』を放り捨てた。
……まだ、諦められない……
「……まだ死ねない、死にたくない。全部筋が通るまで、生きたふりをしていたい、そう思ったんだ」
日差しの下、探し回った。
己の影は見当たらない。暑くもない。
ただ、それでもよかった。……視認されればいい、言葉が通じればいい。
――たとえ自分がもう、『お化け』の仲間でしかなかったとしても。
「……『食えればよかった、その後、動ければよかった』。そんなもん食事じゃねえだろ、心のメンテナンスにもならねえ、ただの延命治療だ」
「ええ」
「あのペンギン野郎、ああ見えて生来、もっと楽天的な性格なんだぜ? それがなんだよ、情けねえ……普通うまいもん食って寝たら、多少なりとも元気になる」
店主は頷く。
「それが、ならなかったんですね」
「……ならなかった。ああ。長いこと、ならなかったんだよ」
15年間。一人で立ち直るのを待ち続けた。
それでも彼は、長らく「立ち直る」ことができなかった。
――どれだけの愛情を注いだらそうなるだろう?
どれだけの「失った時間」を内包したら、自分をすり減らしたら。
ただ、同情はしない。
同情したら、それこそ目の前の男をバカにしたことになる。
だから――その背中を、一度だけ押して、去ろうと思った。
「俺はな、元気じゃないやつに娘を託したくなかった。残った孫の一人だって渡したくなかった。俺は……」
――椿を見つけたあと、同時に、光る道を見つけた。
生きているものには見えないはずの断層。その奥に……あの時の路地があった。
「――そうさ、俺は、昔、頭を下げた青年に」
うちの娘を頼むと託した若造に。
「……あのいなくなったイツキと、同じ目をして欲しかったんだ」
……自分の娘がいなくなったら、と何度も考えた。
いかに不真面目な自分とて、彼と同じことをしただろう。
だからこそ、『自分ならしない』だろうことを真っ先に主張した。……もう少し周りを見ろ、落ち着け、慌てるな、騒ぐな。お前はそこにいるだけでいい。
嫌な顔をした。忘れろと無理難題を言った。悪口を言った。仲も悪くなった。
だけど。
……もう、やせ我慢をして頑張るな。
そう、言いたかった。
「日に日に食わなくなっていくあいつを見た。毎週末必死に駆けずり回るあいつを見た。満足に休まないで働くあいつを見た。生き甲斐を半分失ったまま、通勤するそれを見た。……なあ、分かるか若いの。目の前で弱っていくんだよ。家族が――たとえていうなら、『大事に見守ってきたひな鳥の番』が鳴かなくなっていく」
いなくなったイツキは椿同様、松市に対してぎこちなかった。実際、苦手意識を持たれていたのは間違いない。
――ただ、その妹のあずさは不思議と、こちらに向かって壁を作らなかった。
もしかしたら察しのいい子だから、松市の本心に気づいていたのかもしれない。彼女だって兄のことは覚えている。
……意味なく貶すような人間と、仲良くなるわけがなかった。
「……俺が、あの子を悪し様にいうようになったのは、椿くんを怒らせたかったからさ。あいつ、その時だけスイッチが入ったように元気になりやがる。ああ、奮起してほしかった。なんなら引っ叩かれたって構わなかったぜ。腑抜けになられるよりよっぽどマシだ」
ただ、頑なになった椿には、それが……「あの子」のことを忘れ去った薄情な人間に見えた。
「……たとえ嫌われたっていい、憎まれ口だと思っていい、俺ぁ思ってる。とにかく、気づいて欲しかった。なあ、若いの……」
自嘲気味に松市は言った。
「……ひとり、いなくなったのみならず、だ。……もうひとり、ゆっくり死んでいく様を。あんたなら嘆かず騒がず、直視できるかい?」
「さて、分かりませんね」
苦笑いして店主は言った。
「おれはどちらかといえば『いなくなった』経験しかないので」
「なるほど……まあ、多分……死んでるんだもんな、あんた」
カタリと椅子が音を立てた。
「……なあ」
「何か?」
「また来ていいかい?」
チリン。
ドアベルが音を立て、店主はチラリとそちらを見る――顔を出したのは、松市の「迎え」だ。怖くもない、鎌も持たない。迫力不足の死神の手が、『ぴとっ』と扉のへりをつかんだ。
――店主は首をすくめる。
「どうぞ、お化けには来やすい立地ですよ。……ここはあの世とこの世の狭間ですからね」
「……そうかい」
立ち上がり、気配が消える。――チリン。帰りのベルがもう一度鳴る瞬間、彼は見た。
あの時「要らない」と言ったお代が振り込まれたのを。
店の奥の砂時計のオブジェに溜まる、「感謝」を示す砂。
店主は要らない一言をこぼした。
「……お客さん。おれより先にあなた、随分、彼に感謝してたでしょう?」
――なあ。椿くん。……誰よりも必死に探してくれてありがとう。俺が勝手な夢を見たあいつを、誰よりも見捨てないでくれて、ありがとう。
「……これ以上はおせっかいだな。もう言うのはやめておこう」
『ありがとう』の五文字ほど、忘れがちなものはない。……一方通行の愛なんて、だいたいはきっと、余分なものでしかないのだ。




