★#13 よぶんのいち(中)
「…………。」
「……なあ、お前」
「…………。」
話しかけてくるそれを放置して。
不要なノイズから耳を塞いで。
……考えてしまう。願ってしまう。
最後に会った朝の記憶。
「いってきます」とそっけなく出て行ったそれが、頭の中で過ぎ去るのを待つ。
そのまま黙り込んで、
2分。3分。5分……。
松市さんの口が開いた。
「……おめえ、本気で大丈夫か?」
「……何がです?」
ひどく落ち着いたそれが、乾いた音が、喉から出たのを確認した。――ああ、大丈夫だ。まだやれる。まだ動ける。何も感じなければいい。
「……いや、まあ、そうさな……」
松市さんはぽりぽりと顎をかきながら、気を取り直したように呟いた。
「……あのミニペンギン、態度はおめえ以上に悪かったんだがよ。一度だけ、長いこと話したことがある」
まだ続けるのか。
思わず押し殺したような声が出た。
……ああ、だから嫌なんだ。
僕はあの子の話をほとんどしない。名前も出来るだけ呼ばないようにしていた。
――だって、苦しくなる。
戻れない過去を幻視する度に。爆発しそうな現状への不満も、押し留めた激情もない……ああ、「その頃」を思い返す度に。
しかし彼は軽い気持ちで語り出す。
まるでこちらを気にも留めない様子で。
怒りが湧く。あの子を、思い出を――ひどく「軽く」見られているようで。
何度願ったら分かる。ああ、何度叩き損じれば通じる。
勢い余ったこちらに殺されたいのか。そんなへらへらした口で語るな。
あの子の陰口を叩くな。
僕にこの世界を見せるな。
あの子のいない、悪口を言っても文句が返ってこない。
ああ――そんな現実の、直視をさせるな。
「……ッ」
そんなもの抱いてもどうしようもない。本当は分かっているのに。
その拳を握った衝動が。ピリピリとした怒りが。殺意が、胸の奥をちりちりと焦がす。
――知っている。意味がない。わかっている。
それが、本当にどうしようもない「八つ当たり」だと。
「……まだ、続けるのかだって?」
存外に柔らかい口調が僕を抉る。
「続けるさ」
ニヤニヤ笑いながら、酒臭いサンタクロースは水を口に含んだ。
「あれは……そうだな。うちのかかあが死んだ通夜だったか」
――結局、耳を傾けてしまう。
だって僕の中のあの子は、もう新しい表情では笑わない。
長いこと見飽きたビデオみたいに、一挙一動、何も変わらない。
……あのときから僕の中の【時間】は、きっと止まったままなのだ。
* * * *
その日、松市さんは廊下で暇そうに携帯をいじっている「あの子」に会ったという。
「おゥ、トイレかボウズ、あいてんぞ!」
「……」
暇そうにするのも無理はない。その日にあった出来事といえば、「あの子」からするとあまり縁のない、母方曽祖母の通夜だった。
ほとんどが寝たきりだ。起きている時ですら認知があやふやな状態で、話したことすらあったかどうか……
「……なーに熱心に見てんだぁ?」
そう、背中を叩きつつ松市さんが上から見下ろせば。
「! ……な、何でもない」
……イヤホンが外れていたのに今更気づいたらしく、バツが悪そうにあの子はスマホの画面を隠した。
「ははあ、何で隠すんだ、見ちゃいけねえもんでも見てんのかね!」
……あの子は面倒くさそうに、チラッと松市さんを見た。
曽祖母はつまり、松市さんの母親だ。
彼女のことを悼みもせず、時間を潰すところを見られた罪悪感だろうか……バツが悪そうに目線を外し、彼は言う。
「……あのさ」
「何だ」
「……笑わない?」
普段あまり喋らない――苦手な方の祖父相手。
「笑わねえよ、中身によるが」
「よるのかよ」
……結局ため息をつき、画面を覆ったちいさな手が外された。
そこに映っていたのはやはり、松市さんでも見覚えのある絵面……
「……なんでえ、ただのテレビ番組じゃねえか」
「……」
「随分集中してみてたんじゃねえの。まあ、怒りゃしねえよ。道理ってもんさ」
松市さんだって、あの子が「ただの付き合い」で来たのは分かっているつもりだった。
よく知らない親戚の通夜。そりゃあ途中で抜け出したくもなるだろう。
愉快なものの一つでも見て、こっそり笑いたくなるに違いない。
「……違うんだよ」
「違う?」
あの子は口を開いた。
「オレ、将来さ……こういう仕事がしたいんだ」
……画面内ではクイズコーナーで不正解を連発した芸人が、わあわあ言いながら罰ゲームにさらされているところだった。
「……ふむ」
別に、ツッコミを蹴り飛ばして自分だけ助かろうとしている――そんな元アイドルのボケ芸人を目指しているわけでもないだろう。
そう思った松市さんは、あの子に合わせて少し屈む。
「ボウズ、出る方か? 作る方か?」
「ん?」
「こーいう番組を」
……今の僕と同じ疑問がそこにはある。
あの子が憧れたものは――描いた夢は……
「……ああ」
あの子は言う。
「番組、作る方じゃなくて、笑わせる方でもない」
「ほー」
「……ネタの解説する方だ」
あの子が見ていたのは、クイズをまじえた雑学解説系の番組。
たとえば、「読み聞かせでよく使われる桃太郎。きびだんごの語源は何か」とか。「有名な絵画。何を描いたものか」なんていうものを一つずつ、分かりやすい解説をもってトークのネタにしていく。
「……先生側か」
――思い出す。
お互い「仕事」と「学校」から帰ってきたばかりのリビングで。
キンキンに冷えたジュースと一緒に2人並んで……あーでもこーでも、くだらないやり取りをしつつ見ていたそれを。
最初は何人もいた『解説役』は、回が進むにつれ、だんだんと絞り込まれていった。
……彼らは教壇には慣れていても、タレントらしく喋るのには慣れていない。
カメラ慣れしている人間がいない以上、あとは話を纏められる人間、存在感のある人間、楽しい人間、キャラの立つ人間だけがどんどん残されていく……
結局、最後に残った解説役の中で毎回呼ばれている先生は昔話や神話に強い、顔のいい眼鏡の先生一人だけだった。
彼は他の大学教授や予備校の先生とは少し毛色が違う。都内にある中高一貫の私立校で、特殊授業として「昔話」や「神話」を中心に教えている人だったという。
「中学生にも教える」。
……だから、解説が易しかった。
だから、あの子は志望校を決めたのだ。だから、あの日も出かけた。――そして、戻ってこなかった。
……あの番組が好きだったから。
……もっと言えば、あの先生の語り口が好きだったから。
「……別に、この先生みたいにテレビ番組じゃなくたっていいんだけどさ。なんだっていい」
――ふと、話に意識を戻す。
松市さんの覚えている「いなくなる前」――失踪する直前。そんな背丈のちいさな男子高校生は、ガラケーのワンセグを切らないままに口を開いた。
「……オレ、勉強とか正直得意じゃない。順序立てて喋るのも、どっちっていうと苦手な方だ」
松市さんの語るあの子は、まだそこに生きている。『彼ならそう言うかもしれない』。
そう納得できる言葉を語り、けれど、僕の知らない言葉を語る。
「……けどさ、『誰かの話を聞く』のは好きなんだよ」
「ほぉ」
「くだらない目標かもしれない。だけどこの人みたいになりたいんだ」
記憶の中の彼は言う。……こういう番組をきっかけに、興味を覚えたものがたくさんあったのだと。
「綿々と受け継がれてきた、昔の話なり。……自分の、主観的に見てるだけの世界じゃ考えもしなかった別の切り口や視点なり。そういうものにさ、ついつい耳を傾ける……そういう『お話』ができるようになりたい」
……好きなものが沢山あって、やりたいことがいくつもあって。
「『こんな面白いものがあるんだよ』って。……そう、誰かに言える人になりたい」
……漠然とした夢の欠片だった。
まだ具体的な道筋の見えぬ、けれど確かにそこにある、夢の端っこ。
松市さんは口を開く。
「その、資質もねえのにか?」
相変わらず乱暴な言葉だ。不器用な、悪意のない問いかけ。
あの子は薄く笑って頷いた。
「うん」
「……憧れだけでか?」
――力強く、想像のあの子は首を縦に振る。
「……まあ、いいんじゃねえの、お前らしくて」
……漠然とはしている。だがちゃんと、「できること」が見えている。
彼は、きっとそういう子だったんだろう。
「……オレらしいって何さ?」
「ふふん」
松市さんはくつくつ笑いながら口を開く。
「いかに避けられてようが、虐げられようが。嫌われて仕方がなかろうが。……うちの後継の長男坊だ、大まかな性格くらいは分からぁ」
ほら、と松市さんは言う。
「たとえばおめえの母さんは、俺とばあちゃんで出来てる。……おめえには俺から受け継いだ何かが、きっかり『四分の一』だけ入ってんだ」
あの子は訝しげに呟いた。
「……四分の一」
「……今は分からんだろうがな、ボウズ。それを自覚したら終いだよ。いかに嫌われてようが、貶されてようが……どっかで信じたくなる」
僕はハッとした。
――あの子は恐らく嫌われているのだと。長らくそう思っていた。
母方の家へ挨拶に訪れるのを嫌がるあの子を、妙にニヤニヤしながら見ていた。
陰口を言うあの子に、同等の陰口を母親通して返したこともある。
……彼は「嫌われる」に任せていた。
むしろ雑に、苦手なものとして扱われるのを楽しんでいた。
好かれようなどとは思わなかったのかもしれない。
そういうものは彼にとって、「自分が持っていればいい」だけの感情だったのかもしれない。
――彼は「好き」も「嫌い」も自由だと、あの子にまかせたのだ。
「……なあチビ助、おめえの向こうのじいちゃんは好きなものにはちゃんと猛進する男だ。父さんもそうだろう。だからおめえはきっと、俺みたく諦めが悪くて、椿くんみたく強情だ」
……そんなやつに今更、何が言えるかね。
そうガハガハ笑う松市さんに、半分呆れた顔であの子は言う。
「……もうちょっとさ。しっかりした大人なら、見通しがないとか、あまいとかいわない?」
「ガーッハッハ! 見通しなんてぇのは、甘いくらいでいいんだよ、チビ助!」
あの子がムッと口をつぐんだだろう、それが見えた気がした。
「将来の夢なんてそんなもんだろう! だって甘かろうが苦かろうが、結局踏み出さないと始まらねえ――だからな、やってみてキツかったらやめろ!」
ニヤニヤしながら松市さんのいう、珍しく祖父らしいそれも。ちゃんと見えた気がした。
「――ただな、同時に『やりてえならトコトン続けろ』。人間なんて、幾つになろうが『可能性の塊』だ。最初から何やったっていい。途中で自分勝手にやめたって、やる気さえありゃあ、いくらだって失敗できる!」
何をしようと構わない。
何を嫌おうと、好こうと構わない。
「起き上がるだけのガッツがあればいい……誰が何言おうが、結局はおめえの人生だ」
……あの子は、頷いたらしい。
不思議だ。
僕よりよっぽど彼と、「会話」ができているなと気付く。
松市さんのことを「超苦手」だといっていたあの子が、落ち着いて喋っている。
いかに苦手な人相手だろうが、彼はそうだったのだろうか。
でも――いつから?
ふと気づく。
僕は、頼りなかった頃のあの子しか知らない。
「……なあチビ助。おめえがいう勉強ってのは、座りながらやるもんだろう」
昔は、松市さんから逃げ回っていたあの子。
デカくて怖いから――そして、性格が合わないから。
「『座学が苦手』? 結構だ、必ずしもペンを持つ必要はねえ……おめえがやることは一つだけだ。見て盗むくらい、真似するくらいでいい。ただ盗むっつっても『そのもの』になる必要はない。お前がお前のまま、あのレベルに近づくには――何ができるか。それを、一貫して考えろ」
ただあの子はいつの間にか、僕の知らないところで成長していた。ちゃんと、誰かと会話ができるようになっていた。
「頑張れよ、未来の大先生」
「ちゃかすなよ」
あの子は苦笑いしながら言った。
「結局笑ってるし」
「笑いにも色々あんだろ、チビ助。……なあ、俺が笑った理由、聞きたいか?」
記憶の中のあの子は言う。
「まあね」
「おめえみてえな、な」
――決定的な一言を彼は言う。
「真面目で、健気で、馬鹿正直なやつぁ――孫だ、四分の一だ、それ以前にまったく嫌いじゃないからだ。正反対なものほど、眩しく見えるっていうだろう?」
「ああ――なんだ」
松市さんとは正反対――妙にナイーブで、豪快さのかけらもない小柄な少年は、思いっきり苦笑いを返した。
「……オレが、『才能もない何か』を目指すのと同じってことだよね、それ」
* * * *
「……だからね、言ってやったんだよ。『俺だって今更、おめえみたいな生意気坊主になりたくて仕方がねえ。だってカッコいいじゃねえのよ』……」
……思い出話をついつい聴いてしまいながら、ズブズブと振り返る。
「きっと『かけ離れてる』から憧れるんだ。椿くん、おめえが過去の幻影を振り切れねえように、遠ざかるから追いかけたくなるんだ。……憧れるっていうのは、そういうことさ」
いくつもあった「あの子」の選択肢。想像できないほど存在する、もしもの世界。
「…………」
「……なんだ、まだ泣きやがる」
それを顧みるのは。空想するのは。あまくて、つらい。
「……松市さん」
「何だ」
「……僕は」
思わず、問いを口にしていた。
「……考えちゃいけないんだろうか」
……辛くとも、苦しくとも、自分だけは。
長らくそう思っていた。あの子を知っているのは――あの子の存在を守っていけるのは、自分だけだと思っていた。
あの子を諦めないということは、忘れないことだと思った。
片時も、頭から締め出さないことだと思った。
だから――吐くほどに、同じ場面が頭の中で繰り返されるようになっていった。
自転車の坂道。
ラーメン屋でのわがまま。
鈍い頭を回転させるたび、長く、癖のようにあの子の未来が頭をよぎる。
見たかったそれが、頭に浮かぶ。
ああ、こだわりすぎだと言われても仕方がない。
いい加減前を見ろ、失ったものに手を伸ばすな。……そう言われても、仕方がない。
ただ――いくら頭から消してしまいたくなっても、すぐに思い直した。
自分の子すら見失った――何も守れなかった、見ていなかった、幸せにあぐらをかいた。
そんな僕の終着点を。
「椿くん。……それは、罪じゃない」
あの瞬間をもう一度。
そう奇跡を願うのは罪なことか?
「叶わない夢」と知りながら、すがり続けるのは……おかしなことか?
松市さんはニッと笑った。
「……いけなくもない。おかしくもない」
予想外な言葉に戸惑った。
「……当たり前のことだよ、ばかやろう」
……否定されてきた。
今までは嫌そうな顔をされてきた。
僕があの子のことばかり口にするたびに、嫌味を言われてきた。
――諦めろ、そう、態度で示されてきた。
「それだけ、おめえさんは幸福だったんだぜ。完璧だったさ……『世界一幸せな家庭』を一度は築いたんだ。一瞬でも、それは輝かしいものだ。誇るべきものだ」
「松市さん……?」
「ああ、だから幾らだって縋り付け、幾らだって浸れ」
“ことり”とどこかで音がした。――何かが落ちるような。
それとも、木が何かにぶつかって――軋むような。
「……ただなあ、危なっかしいんだよ。椿くん。あいつのことしか考えてねえし、受け付けねえ。そういうやつになっちまったんだろうな。……知ってるとも」
ゆっくりとその言葉は続く。何かがおかしい。そんな予感を塗り潰していく。
「おめえはな、クソ真面目だから『あの出来事』を真っ正面から受け止めたんだ。その分、トゲがいっぱい刺さった。抜けねえトゲだよ。おかげでしたいことをすればいいのに、できてねえ」
「……それは……違う……」
僕は言った。
「――僕は、やりたいことをやっている!」
思わず、口を開いていた。――激昂したように、声を荒げていた。
ただいつもと違う。この胸のざわめきはなんだ。
――不快じゃない、だから頑なになる様子もない。むしろ。
「カタチはそうなんだろう。ただ、中身は?」
「……」
……むしろ。
「自分」が、どろりと崩れそうだった。
「……おめえ、うちの梢と一緒になったときの中身はどうした?」
中身……?
「もう、ずっと暫くすっからかんじゃねえかおめえ。やることなすこと、ただそうするだけの機械みてえだ」
…………?
「……自覚ねえのか、馬鹿野郎。ああ、馬鹿野郎。放っておいた俺が馬鹿だったよ」
悔いるような、懺悔するような静かな言葉は、ずっと昔の事実を紡ぐ。
「おめえよお、何度も何度も、心ない言葉を投げつけられただろう……世の中情報社会だ、勿論面と向かってじゃねえ。ただ陰口がお前の目に、心に届いただけだ」
目を細め、息を吐く。できの悪いサンタ体型の老人が、口を開く。
「『まだやってるよ』『飽きたよ』『とっくに死んでんじゃねえの』『自作自演だったりして』『妹がいるらしいじゃないか、お兄ちゃんしか眼中にねえぞ可哀想に』。……あーあー、言ってやれ」
ふと、その表情が目に入った。
「……お前らに、何が分かる。そう言ってやれ……!」
――はじめて理解した。
彼も、“見てきた”のだ。同じものを。同じ中傷を。
それは当時、ニュースサイトに書かれていたものだ。
今現在、SNSのサイトに書かれている、「心ない嫌がらせ」の一部だ。
はじめて、まともにそんな表情を見た。口が震え、目を伏せた表情を。
「……俺だってそうさね。お前の気持ちは、お前にしか分かんねえだろうよ……ただ、想像することは出来る。だって俺たちは、一緒にあの長男坊をかたちづくってきた。高校生に上がるまで。もう少しで、大学生になるまで――!」
――あのチビ助を。あの、頼りない子供を。
「半分と四分の一、俺らであいつを生かしてきたんだろうが!」
「!」
「なあ、足して四分の三だぞ? 自分の血を引いた何かが。自分という生き物から分かたれた、何かが! ずっと大切に育んできた、何かが……納得できねえ形で、姿を消したんだ!」
「……」
彼は叫ぶ。
「それで執着しないやつがどこにいる……いたとして、それは自分の遺したもの、『遺していくもの』の行方に興味がない、そんなやつだけじゃあねえか!」
ここまで彼が感情を露わにするのは初めてだった。
……いつもなら、もっと飄々としている。
いつもなら、もっと気に障ることばかり言う。
いつもなら、もっと気遣いのないことばかり言う。
なのに。
「お前は単に『野次馬』にムキになってるだけだ、改めて自分の意思でちゃんと執着してみろ――食いついて、食らいついて、離さず考え続けてみろってんだよ!」
……そうは、聞こえなかった。
不思議と八つ当たりの悪感情も、湧かないままだった。
「おめえ、俺よりまだ若いんだろうが! まだ時間はたっぷりあって、いくらでももがいてられるんだろうが、やるならトコトンもがけってんだよペンギン野郎!! ――あいつが戻って来なかろうが、『お前の父ちゃんは立派だ』と胸を張れる、そんな生き方をしてみろよ!」
……言い返せない。
「――だっておめえ、イツキにどう生きてほしかったんだ?」
名が、呼ばれた。……あの子の名が、久しぶりに熱を持って聞こえた。
「……何度も考えたんだろう、名前って重要だよ。おめえのあだ名だってそうだ。『つばさ』に一画、余計な『一』がついて『つばき』だって、最初はからかったがな……」
思い出した。初めて松市さんと顔を合わせた時のことを。
「両翼が飛べるように出来てない鳥の名前を付けてからかったがな……!」
――……ほぉ、植苗家の梢お嬢ちゃんに婿入りするのがどんなやつかと思ったら、これまた笑えることに、植物系の名前じゃねえか。気に入らねえな。椿?
――ひらがなにしても飛び損なった鳥みたいな名前じゃねえか格好悪い。わかった、おめえ今からペンギンだ。ペンギン。『飛べねえ鳥』の名前だよ、可愛くていいだろう?
「……『ペンギン』のおめえが空を飛べねえ不器用なら、水の中ぐらい自由に泳いで見せろってんだよ。満足に息継ぎして、呼吸して――明日を生きようと、目をかっぴらけってんだよ!」
――え? 梢の中に赤ん坊が? ……は、ははは、可愛くねえんだろうな……どうせペンギン似だ……
――……まあ、なんだ。めでてえな。子供は、親が元気だと元気に育つんだ。健康に気をつけろ。
「そんなふうに生きろ、かつて息子にそう願ったそれを、手本をだ――親父のおめえが、体現して見せろってんだよ!!」
……ああ、確かに。
はじめは、元気に生きた。生きようと思えた。
初めて自分に出来た、自分の――ちいさい頃の生き写しみたいなそれを、必死に守ってやろうと思ったからだ。
……ただ、元気に生きていてくれたら、それでよかった。
昔によく見たそれみたいに、拗ねて、怒って、素直に感情を吐露する子でいてほしかった。
泣いたっていい、喚いたっていい。誰かを困らせたっていい。
ただ、どうかそのまま――優しくて、意志が強くて、朗らかで。感情豊かで。
自分らしく、元気いっぱいに光を浴びて――名前通りにすくすく育つ。
「長所」を空に向かって伸ばしていく。
そんな子でいてほしかった。
「……人間ってのは不思議なもんでな、子が離れて生きてようが、挙句の果てに死んでようが、無意識に同性の親を真似しちまうらしい。……ああ、それを、おめえときたら」
松市さんはため息をつきながら言った。
「『飯の味も分からねえ』、『飯を選ぶ意思さえねえ』、『腹が減ってるかすら分からねえ』。『感情表現まで乏しい』。『すぐにプリプリと怒りやがる』」
……ああ、なんだ。
渇いた笑いが口から漏れる。
――それをあの子に真似されるというのなら、正反対じゃないか。
「生きてる自覚のねえ『ちっちゃなペンギン』なんて願い下げだよ、俺ぁ。「ちゃんと生きる」――そんなこともできねえで、あいつの留守を守るつもりか。あいつが育った家を。思い出を守るつもりだってのか。この間抜け親」
……何かが、胸をこみあげていくのが分かった。
分からないなりに何か、懐かしいものに触れたような気がした。
「意地を張るなってのは、そういうことだ。……それで、ようやく『ペンギン』を卒業できるんじゃねえの」
そう松市さんが言ったとき。
「えー……はい、気まぐれランチのチャーハンとメンマです。あと、デザートにスイカを!」
ハッとして、店主の顔を見た。彼はしれっとした顔で言う。
「息子さんが小さい頃、一緒に食べていたものですよね?」
……ふわ、とあの頃の熱気が頬に当たった。
――「じいちゃんメンマー!」
――「メンマ食いたい? はいはい荷物置くから待ってろ、勝手につまみ食いするんじゃないぞ」
記憶の中の声が、聞こえる。暑い夏の湿気も、セミの鳴き声も。
――「あっ、父さんチャーハン頼むのずりぃ、オレも食う!」
――「おいおい」
ハッとした。
――「イツキ、最近周りの真似ばっかりだな、おまえ……」
それは、かつての自分の返答だった。
――「父さんが食べてたら全部うまそうにみえんじゃん!」
――「なんだよそれ。どうせ全部なんて食えないんだ、チャーハン半分あげるから、メンマ半分よこしなさい」
――「ええー……やだー!」
――「やだーじゃないよ、メンマうまそうに食うんだもん。こっちだって真似したくなるだろ」
……親子は。
無意識に、真似をしあうもの。
――「はいはい、メンマごときで喧嘩するな。足りなくなるならスイカもつけとくか、二人とも。……ちなみにだな、椿」
――「何だよ親父」
――「……お前も真似ばっかりだったぞ、昔は」
どうしよう。
ようやく気付いた。
いかに、自分が――腹が減って仕方がなかったのか。
「……なあ」
そういえば自分が何かを食べようという気になったのは、いつだって――あいつが、何かを食べている時だけだった。
「……食ってるのか、イツキ」
お前は、今も。
どこかで。
「……ちゃんと、食ってるのか……!」
嗚咽がもれた。鳴り止まなかった。悔し涙でなく、何かが溢れ出て止まらなかった。心のフィルターを濾すまでもないそれが、ただ。
滝のように手を、指を、テーブルを濡らしていった。
* * * *
「……ご馳走さまでした」
「いや」
店を出る。あの路地がどこだったか分からなくなるほど歩いてきて、立ち止まった。――見覚えのある改札口。「あの子」の消えた町の隣駅。
隣のゆらゆらした人影に声をかければ、やけに大人しくなった松市さんはぼそりと言った。
「……不安になっただけだ」
「え?」
「時間ってのは、止まんねえだろう?」
思わず目をこする。ゆらゆらはおさまった。……ハッキリとした松市さんの姿はそこにある。
さっき一瞬揺らめいたのは、きっと「かげろう」のようなものだ。
きっと道路に、先ほどまでの暑さが残っていたから。
「……俺ぁ、確かに褒められたジジイじゃなかったかもしれねえな。好き勝手生きてきたことは認める。ただ、いくら好き勝手してようと、結局後悔はするわけだ」
「……ええ」
苦笑いしながら、出来損ないのサンタクロースは口を開く。
「……あの時、おめえそっくりのチビ助に夢を見た。くだらねえ夢だ。何でもいい、成功して幸せになれと願った」
――スマートフォンが音を立てた。
「あいつの、要らない四分の一。余分な一だ。真面目なあの子には余計な荷物だったかもな……だが、おめえにも同じことを思うぜ、生意気坊主だった椿くん。確かにお前はもう若くない。ただ、俺より若いんだ」
『あの人、最近風邪気味だったでしょ、様子見に行くよ』。
数刻前に見たことをすっかり忘れていた、既読マークのつく一通。次の「未読」を開いた瞬間、僕はハッとした。
「……あの、松市さん、貴方……」
「――ああ、好きにやれ。俺ほどじゃなくていい」
顔を上げる。
目の前に、サンタクロースはいなかった。
「……貴方、今、家で倒れてるって……」




