ロックンロール・スター/神楽坂家の朝
日曜日、朝
タロウは、神楽坂家の二階の一室、布団を敷いただけのシンプルな四畳半の和室の中で、1人悩んでいた。
「休みをもらってしまった」
——回想——
『黒い機械鎧』の話を聞いた直後、マキナは後の店番をタロウに任せ、ロッカールームに歩いて行ってしまった。
タロウはその姿を不思議がりながらも、日中抜けていた埋め合わせのため、閉店時間(午後9時)までは立っていてやるか、という気持ちであった。
幸いなのか、憂うべき事態なのか、ベーカリーカグラは、夜になると客足がピタリと途絶える。
店主であるヒビヤが帰ってくるまで、誰一人として客は来なかった。
「たっだいまー、マキナちゃん、タロちゃん、土曜日なのに店番ありがとねぇ。いやぁ、懇親会が長引いちゃって…」
閉店間際になった頃、ヒビヤは酒の匂いを漂わせながら、陽気な声で扉を開いた。
タロウは「あ、店長、お疲れ様です」と、いつも通りに店主の帰りを迎え入れつつ、その声の調子がハルにそっくりな事に可笑しさを覚えたものだが、ヒビヤは、負傷したボロボロの姿のままレジに立つタロウを見ると、酒で紅潮した頬をサッと真っ青に染めた。
「あら?あらあらあら?タ、タロちゃん!?どうしちゃったのよその傷はぁ!?」
ヒビヤはお土産の入った袋を乱暴に棚に置くと、あたふたとタロウに近づいた。
タロウは気圧されつつも、「あ、ああ、これ」と、たった今思い出したように全身の傷に触れた。
事実、常人とはかけ離れた回復力を持つタロウは、この程度の傷なら、既に痛みを感じない程度には回復できていた。
「見た目程酷くは無いですよ、ただ、えーと…『万引き犯』を捕まえようとした後…『色々』あって…」
事もなさげにそう言うタロウに、ヒビヤは「いやいやいやいやいやいや」と全身を触り、傷の具合を確かめた。
「万引き犯…!?色々…!?ちょっと、穏やかじゃ無いじゃないのタロちゃ〜ん。タロちゃんはうちの大事な戦力なんだから、無茶しちゃダメだよぅ」
しまった、店長は俺の『力』の事を知らないのだった…
タロウが「ダイジョブですから…まだ閉店まで少しあるし…」と困っていると、ヒビヤは「ダイジョブじゃない!」と、ぴしゃりと言うや否や、入り口の看板をひっくり返して、『closed』に変えた。
「ほら、お店は早めに閉めたから、早く手当しないと!」
ヒビヤはそう言って、タロウを二階の和室へと押し込んだ。
タロウは『なんだか今日は、よく背中を押されるなあ』とぼんやり考えながら、その指示に従い、あれよあれよと手当を受けていた。
驚くべきは、その手際の良さだった。
傷口の洗浄、ガーゼの処置、包帯の巻き方、など、タロウにとっては見慣れない道具を使う事もあったが、それでも、淀みない所作でテキパキと傷の処置をするヒビヤに、タロウは思わず「慣れてますね」と零した。
ヒビヤは寂しげに笑うと、「ちょっと前まではね…」と、懐かしむように語り出した。
「よくこうして、遅くに、ボロボロで帰ってきたマサトくんの手当をしてたもんだよ…マキナちゃんから、彼のことは聞いているよね?…もう、マサトくんが帰ってこなくなって、2年になるかな…」
ヒビヤは、自分の息子の事を語る様な、優しい目つきで遠くを見ていた。
「タロちゃんは、どこかマサトくんに似ているよ…て言っても、いきなり知らない人に似てるって言われても困っちゃうよね…ハハッ、でも、どこか危なっかしくて、ほっとけないんだよね」
「なるほどな」と、タロウは心の中で頷いた。
店長が俺を快く迎え入れてくれた事には、そんな背景があったのかも知れない。
「だからさ」と、ヒビヤは続ける。
「あんまり、危ない事はしない事!取り敢えず、傷が治るまでは仕事休んでてね!痛みは無くても、最低でも明日1日は休んでる事!」
ヒビヤは「ちょきん」と包帯を切り、「これで終わり」と席を立つと、タロウに「わかった?」と念押しした。
そんな話をされた直後では、タロウは「はい」と頷かざるを得なかった。
—————————
さて、少し寝て、傷もすっかり治った。
タロウは腕組みをして考える。
やる事が無い。先週は定休日すらパンの練習に使っていたから、休み中に何をして過ごすかなんて考えてもみなかった。
「うーむ」と、唸り声を上げているうちに、「スコンッ」と軽快な音を立てて、部屋の障子が開かれた。
「タロさーん、入るよー」
そこにいたのは神楽坂ハルだ。この神楽坂家の一人娘で、安東マキナの数少ない友達の一人である。
手には食事を載せたお盆を持ち、ただでさえ天然パーマがちな栗色の髪の毛を、寝起き丸出しのセットのままにしていた。
「おはよう、ハル。『入るよ』ってのは、こっちでは扉を開けてから言う風習なんだな」
タロウは冗談交じりにそう言ってニヤリと笑った。
ハルはタロウの元気そうな姿を見て、一瞬だけ安堵の表情を浮かべると、すぐにいつもの調子で、からかうような笑みを浮かべる。
「おはようタロさん。何?見られたら困る事でもしてたの?」
タロウはその言葉を無視して、「おっ、飯を持ってきてくれたのか」と、身体を起こした。
ハルはその姿を見て、慌ててお盆を落としそうになる。
「ええ!?ちょっとタロさん!もう動いて大丈夫なの!?」
タロウは「おう」と快活に笑うと、Tシャツを脱ぎ、その下の包帯を取って見せた。
「ほらな、この通りよ」
タロウの身体には、既に傷一つなく、痣の痕すら残っていなかった。
タロウがぐるぐると腕を回して、全快のアピールをしていると、ハルは「ほほう」と興味深そうに顎に手を当てた。
「さすがタロさん、やっぱり身体能力に加えて、回復力も超人なんだねぇ。タロさんの元いた世界では、みんなそうなの?」
そう言いながらハルは、タロウの腹筋にペタペタと手を触れた。
その手がこそばゆくて、タロウは思わず「うひぃっ」と身をよじった。
「急に触らないでくれよハル、びっくりするだろ!?」
『鬼人』であるタロウは、皮膚の感覚も常人の数倍鋭いのだ。
ハルは驚いた顔で、「ええ?このくらいで?」と言うと、再度、タロウの脇腹をつついた。
「あっひゃあ!くすぐったいんだよ!やめっ…ひぃ、ちょ、やめ、うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
「えいえい」と何度も脇腹をつつくハルに、タロウは為す術も無く崩折れた。
ハルはひとしきりタロウを弄り倒すと、満足したのか、スマホにメモを取り始めた。
「ふむふむ…そうか、五感が鋭いって事は、皮膚の感覚も鋭いんだねえ、くすぐりに弱い…と」
「ひー…ひー…てめえ…俺は病み上がりだぞ」
息も絶え絶えに呟くタロウに、ハルは「元気そうで何より」と屈託無く笑った。
「それにしてもタロさん、マッチョだねぇ…今度ゆっくりスケッチさせてよ。私、漫画も描くんだよね」
「んん?『まんが』?かくってえと…絵を描くのか?へえ、今度見せてくれよ」
タロウが何の気なしにそう言うと、ハルは気まずそうに目をそらす。
「いやっ…私の漫画は…男性にはちょっと…」
「だめなの?」
タロウにとって、奇しくも同居人となったハルは、マキナと比べても大分話しやすい間柄だった。
事実、神楽坂家で厄介になってから数日で、こうして気安く雑談できる間柄になっていた。
ハルは「あっそうだ」と、これ以上の自身の描いた漫画についての追求を逃れるために、強引に話を打ち切ると、タロウの正面に「ちょん」と腰掛けた。
「話があります」
「何だよ急に、改まって」
「あっご飯、冷めちゃう前に食べてね。食べながら聞いていいよ」
「全然改まってねえな」
タロウはそう言いながら、お盆から味噌汁の椀を取って口をつける。
「むむっ」
美味い…この味噌という調味料…『大豆』とかいう豆を発酵させて作ったものらしいが、とんでもない旨味だ。
しかもこの大豆…栄養豊富な上、加工次第で色々なものに化ける。
この味噌汁の中に入っている『とーふ』、『あぶらあげ』の2つとも、大豆から出来ているらしい。
この間食卓に並んだ『もやし』という植物ですら、大豆が元だと言う。
恐ろしい…この大豆さえあれば、シンスも食糧問題に悩まされることはなかったのかもしれない。
「ちょっと、タロさん」
タロウが大豆の力に戦慄していた所、ハルが声をかけてきた。
「食べながらでいいって言ったには言ったけど、味噌汁1つに感じ入り過ぎじゃない?初めて食べるわけじゃないよね?」
タロウは我に帰り、ハルの方を向き直った。
「ああ、すまん…いやしかしな、ハル、考えた事はないか?この大豆っていうのはさ、食卓に並ばない日は無いだろ?だけど、色々な姿に形を変える事で、俺達を飽きさせない。これは先人達の努力と、この国の食文化の歴史が詰まった…」
「大豆にそこまで思い入れある人、大豆農家以外で初めて見たよ…」
ハルはタロウの語りを遮って、「とにかく」と、強引に話を進めた。
「マキナがさ、昨日から、なんだか元気無いんだよね。タロさん、なんか知ってる?」
タロウはその言葉を聞き、『そうか、あの鉄仮面女にも、落ち込むという事はあるんだな…』と、意外で、しかし得心の行ったような気持ちになった。
「あー、昨日の話だな、多分」
そう言ってタロウは、『黒い機械鎧』についての事をハルに語った。
ハルはその話を黙って聞くと、驚愕と困惑が入り混じった顔で、「ごくり」と生唾を飲み込むと、やっとの思いでタロウに質問した。
「…その…『黒い機械鎧』は、というか、その男は、『機械鎧』に『変身』したの…?」
タロウは念押しのように確認するハルに違和感を覚えながらも、「ああ、そう言っただろ?」と言った。
ハルは、思いつめた表情で数秒考え込むと、ゆっくり顔を上げて言った。
「通常…『機械鎧・システム』は、常人に使えるような代物じゃ無いし、もし、現在、マキナの他に適合者がいたとしても、あんな超技術、誰にも真似できやしないんだ…」
「んん?じゃあ、あの黒い機械鎧は、一体何なんだよ?俺は確かにこの目で見たぜ?」
ハルは、さらに青ざめた顔で、「そこなんだよ」と言った。
「多分、マキナが思い詰めてるのは、『そこ』。…機械鎧を、一から作ることのできる人間は、多分、史上ただ一人…」
————————
ベーカリーカグラ、休憩所
「お兄ちゃん…お兄ちゃんなの…!?」
安東マキナは、パイプ椅子に腰掛け、両手を組んで項垂れていた。
機械鎧を着用でき、尚且つ、一から作成できる人物など、マキナの兄、安東マサトしか思い当たらなかった。
兄が生きているとして、何故、機械帝国との繋がりがある様子なのか…何故、一度も連絡がなかったのか、疑問は尽きない。
マキナが考え込んでいると、休憩所に誰かが入り込んできた。
顔を上げると、タロウが憮然とした表情で、パイプ椅子をもう一つ運んで来たところだった。
「…ここ、女子更衣室なんだけど」
マキナが掠れた声で言う。そう言えば、朝から一言も喋っていなかった。
本来、神楽坂家の家族経営であったこの店は、2年前、マキナがバイトに入り、一人娘も年頃になったと言う事で、ロッカールームを女子専用の更衣室として使う事にしていた。
そんな理由で、ロッカールームには、『女子専用』の表示が付いていなかったのだ。
タロウはマキナの言葉を聞いて、「ガチャガチャ」とパイプ椅子を組み立てる手を止めた。
「えっ…マジで…?」
「まあ、別に、着替えてる訳でも無いからいいんだけどさ…」
気まずい沈黙が流れた。
タロウはそのまま中腰になっているのもなんだと思い、パイプ椅子をマキナの横に置いて腰を下ろした。
すると、開き方が充分ではなかったのか、パイプ椅子は「ガコッ」と大きな音を立てて足を開き、タロウは不意の沈み込みに「んんっ」と声を漏らした。
再び、静寂が訪れる。
マキナが、なんとも間の抜けた沈黙に耐えかね、「ブフッ」と吹き出した。
「…あ、今お前笑ったな?」
「…なんなの!?」
マキナは吹き出したのを取り繕うように声を荒げた。
「いや、ハルがさ、お前の事、心配してたから」
タロウの言葉を聞いて、マキナは昨日からの自分の態度を振り返った。
「うぅ…そうね、ちょっと考え込み過ぎてたかも」
「あんまり、ハルとヒビヤさんには心配かけられねえよな…お互いに」
タロウは、昨日のヒビヤの言葉を思い返しながら言う。
「俺にとっても、お前にとっても、…お人好し親娘だぜ、まったく」
「でも、仕方ないじゃない。その様子じゃ、ハルかヒビヤさんから聞いたんでしょ?お兄ちゃんの事。どうしたって考え込んじゃうわよ…」
マキナは歯噛みする。
何をしていても、考えずにはいられない。死んだと思っていたお兄ちゃんが、恐らくは、…いや、ほぼ確信している。お兄ちゃんは、生きていた。
タロウは「ああ…」と頷くと、不意に立ち上がり、マキナの方を見た。
「だからさ、ちょいと『でぇと』しないか?」
「へ?」