キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン/新たな転移者
朝、ベーカリーカグラ
朝の4時30分、気温10度、雲量4のまずまずの晴れ、まあ、まずまずの朝である。
日出の橙色が、静寂と乾燥した空気に包まれた灰色の商店街を暖かく色付ける。
タロウは、軒先の掃除をしようと店の自動ドアから箒とちりとりを持って顔を出し、朝の日差しを全身に受けて伸びをした。
タロウがこの世界に来てから、約1週間が過ぎた。
「のどかな朝だ…」
彼は落ち葉をちりとりに集めながら、ぼんやりと、『ここ』に来て最初の日を回想する。
『機械鎧』安東マキナとの出会い、機怪人との戦闘の後、タロウは闇の中を必死で逃げていた。
青い服を着た人達(後に『ケーサツ』と言う治安を守る組織だと言うことをハルから聞いた)から逃げ回る中、舗装された道の走りやすさに驚いたり、並び立つ『火を使わない行灯』の無機質さに恐怖を覚えたりもした。
逃げ回る内に夜が明けて、ふと見上げた木の上に『仔猫』を見かけた時、タロウは「こっちにも猫はいるんだなあ」と、不思議な感慨に浸ったものだ。
機怪人しかり、この世界の科学水準は、タロウのいた世界とは遠くかけ離れていた。
初めのうちこそスマホに驚き、自動車に恐怖したタロウであるが、この世界に来て1週間経った彼の姿を見よ。
掃除を終えて調理場に入り、エプロン姿に着替えると、彼は早速朝の仕込みに取り掛かる。
小麦粉を計量器で計り、電気ポットから汲んだ湯を足しながら丁寧に捏ねていく。
ドライイーストとバターを入れ、更に捏ね、まとまった生地を、丁寧な手つきで4等分し、綺麗に丸めた。
『鬼人』である彼の、超人的な動体視力と感覚の冴えは、店主である神楽坂ヒビヤの教えを、ほんの数日のうちにモノにする事を可能にしていた。
「パン作りの天才を発掘してしまった」
先日、娘であるハルに向かって真剣な表情でそう語る店主の背後で、タロウは小さくガッツポーズを取った。
と、言うのも、生来中途半端な事が出来ない性格のタロウは、宿を提供してくれた恩に報いるため、寝る間も惜しんでパン作りを練習していたのだ。
タロウは朝に店頭に出す分の最後のパンを型に入れ、オーブンにセットすると、勢いよく蓋を閉め、颯爽とオーブンのスイッチを入れた。
「完璧だな…」
タロウは熱く自画自賛する。
パンの焼ける至福の匂いにしばし陶酔しながら、タロウは戦いの日々に想いを馳せた。
恐ろしい鬼との命の取り合い。当然、暖かい寝床で寝て、規則正しく目を覚ますなど、いつぶりの事だかも思い出せない。
まあ、でも、この世界もまた、単純に平和とは言えないだろうな…
彼の脳裏に浮かぶのは、『機械鎧』安東マキナと、『機怪人』の事だった。
この世界の人々は、先日のような光景が日常茶飯事なのだろうか。
タロウはの目には、『機械帝国』の残党という怪物と『機械鎧』という強力な兵器が、白昼堂々と闘いを繰り広げているこの世界が、とても奇妙なものに見えた。
タロウのいた世界では、当然、人同士の諍いも絶えなかったが、人と『人ならざるモノ』との戦いは常に夜に紛れて行われていた。
偶然、不幸にもその闘いを目にしてしまった一般人は、ショック状態に陥り、最悪で正気を失うような事態になる事もしばしばあった。
しかし、先日『かめられおん』なる機怪人が出た『がっこう』と言う場所では、あいも変わらず日常が繰り広げられていると言う(ハルが言ってた)。
多分、『ここ』の人間は、『慣れ』ているのだろう。
手持ちの板に描いた絵が動き、動物と機械が合体するのだ。これくらいの事はなんて事ない世界なのかもしれない。ならば…
「なら、俺達の異形も受け入れられるなんて、都合のいい話はねえよなあ…」と、タロウは自嘲気味に呟いた。
この世界でさえ、タロウの事は拒絶した。
彼が救った子供たちの目は、この世界においても、彼が異端の存在である事を物語っていた。
そんなことを考えながら作業を続けていると、何者かが近づいてくる気配を感じた。
顔を上げると、そこにはマキナが腕組みをして立っていた。
「…おはよう」
マキナは「むすっ」とした顔で言う。もっとも、もともと表情の乏しい少女である彼女のこの顔からは、その思考を読み取ることは至難の技なのだ。
「おう、おはよう小娘先輩」
「小娘じゃないわ。『マキナ先輩』と呼びなさいよ」
眉間に皺を寄せてそう言う彼女は、「朝の仕込みを手伝いに来た」と言うなり、ズケズケと厨房に入った。
「何だ、もうあとは並べるだけじゃない」
つまらなそうにそう言うと、オーブンの残り時間をチラリと見て、「後20分…」と呟いた。
「どうだい?仕込みは完璧だろう?」とにやけヅラをするタロウを無視して、マキナはその真横に「どかっ」と腰掛けた。
「えっ何?急に」
タロウは突然の事に狼狽ながら、マキナを見遣る。
「…」
マキナは何も言わずに、あいも変わらず「むすっ」としていた。
気まずい沈黙が流れた。
「チクタク」という時計の音と、オーブンの音だけが響く。
—————『お礼を言いたい!!』
安東マキナにとって、「ありがとう」「どういたしまして」などと言ったやり取りは日常的ではあるが、往々にして彼女は『どういたしまして側』であり、『ありがとう側』にいる事は少なかった。
加えてこの男、何故だかマキナの神経を逆撫でする。
彼の傍若無人な態度も、マキナにその一言を躊躇させる原因の1つであった。
しかし、マキナの目指すヒーロー像は、謙虚で、爽やかで、礼節を欠くことのない人間だった。
マキナは不意に「おほん」と咳払いをしたり、唇をもの言いたげに動かしたりした。
しかしタロウは何も気付かない。それどころか、マキナの奇行に対し、「店長が言ってたな…これが『コミュ障』ってやつか」などと考えていた。
————————
同時刻、都内某所
「は、腹減った…」
平日の朝からげっそりとした顔で歩くその少年の風貌は、どこか現実離れしたものだった。
派手な金髪に色白の肌、麻布のシャツに皮のロングブーツ、何より目を惹くのは、その華奢な痩躯に似合わない、厳ついロングソードだ。
少年の名は『ウィルトゥース・グラディオ』、通称『ウィル』
魔物や精霊がひしめく世界で、『北の魔王』と呼ばれる巨悪を倒し、公国を救ったハーフエルフの勇者だ。
「アクア…チェリィ…早くみんなのもとに帰りたいよ」
少年はそう呟いて空を仰いだ。
ウィルにとって、緑や土の色が少なく、灰色と黒の建物に囲まれたこの景色は、大地や空とウィル自身を切り離し、この世界そのものから拒絶しようとするもののように見えた。
数多くの魔物と闘い、魔王まで倒した彼の次の敵は、孤独と言い知れぬ不安感、そして何より、目の前の空腹だった。
しかも、今度の戦いには、頼れる仲間達もいない。
彼は唸りを上げる胃袋を宥めながら、何か食べ物が落ちたりしていないか、充血気味の目で探した。
そうして歩いているうちに、彼は、何処からか、とても食欲をそそる甘い匂いが漂っていることに気がついた。
———————
ベーカリーカグラ
朝のラッシュも過ぎ去り、客もいないのんびりとした時間を過ごしていたはずのタロウとマキナは、店のある一点を見つめて固まっていた。
「『めんたいフランス』が…浮いている…」
タロウは、視線の先の状況を口に出してみた。
この世界では、こんな事がよくある事なのだろうか?店長に聞いてみようかと思ったが、この時間、ちょうど商店街の会合で席を空けていた。
しかしこの『めんたいフランス』、この店のヒット商品の1つで、表面にめんたいマヨネーズを塗ったフランスパンをカリカリに焼き、更に真ん中を切り開いた所にもめんたいマヨネーズを挟んだ、ヒビヤ渾身の作である。
この『ベーカリーカグラ』を訪れる客の殆どがこの『めんたいフランス』を買っていき、店長である神楽坂ヒビヤと、その娘の神楽坂ハルをして、『このパンが我が家を支えている』と言わしめた程の傑作である。
タロウは思った。『家を支えるほどの強いパンであるならば、宙に浮く事くらい、当たり前なのではないか』
そうこう考えているうちに、『めんたいフランス』はふわふわと店のドアを通り抜け、外へと消えて行った。
「はぁー、こりゃまた活きのいいめんたいフランスだよなあ…なるほど、パンってえのは空を飛ぶんだなあ…俺の住んでた場所では見たことない光景だよ」
しばらく呆然としていたマキナが、ゆっくりとタロウの方を振り向いて口を開いた。
「あっ、ああ良かった…私の幻覚じゃあ無かったのね…いい?タロウ…通常、パンというものはね、宙を浮かばないの」
真剣な表情のマキナに、タロウは「あ?」と片眉を吊り上げた。
「でもよ、現に今そっちの方へ飛んでいってるぜ?」
そう言ってタロウは店外を指差す。
『めんたいフランス』は、既に50メートルほど遠くへ行ってしまっていた。
マキナは長い溜息をつく。
「そうね…見て、あの『めんたいフランス』、確実に車道を避けて動いているわ。誰かが操っているのよ」
「つまり?じゃあ、この状況は何なんだよ?」
「うーん…やり口が斬新だけれど、万引き?」
「まん…なに?下ネタ?」
「…あ?」
「いや…ごめん」
「万引きって言うのはね…ええと…ああ、メンドくさい」
マキナはタロウの呑気さに軽い頭痛を覚えながら溜息をついた。そう言えばこの男、言語は通じても、変な所で世間知らずの気があるのだ。
「タロウ、取り敢えず、あれ(めんたいフランス)取り返してきて。あと犯人も捕まえてきて。店番ならやっとくから」
タロウはいまいち話が飲み込めず、「んん?」と首を捻った。
「いいじゃねえの1つぐらい。まだこんなにたくさんあるんだ」
そう言って商品棚を指差すタロウに、マキナはコメカミに青筋を立てながら、レジの方を指差して声を荒げた。
「お会計がまだでしょうが!!万引きは立派な犯罪!いいからとっとと行く!先輩命令!!」
マキナは激しく捲したてると、まだ呑気しているタロウの背をずいずいと押し、あれよあれよと店外に追い出してしまった。
「ラン!タロウ!ラン!!」と、タロウを突き飛ばすと、タロウは「えぇ〜」と、納得のいかない顔で走り出して行った。
「『ええ〜』じゃない!これもお店の為なんだからね!」
マキナが声をかけると、タロウは「ハッ」とした様に、「店の為…!」と復唱した。
タロウはマキナのその言葉を受け、本腰を入れる事を決め、全力で走り出した。
土煙を立てながら高速で走り去る背中を見送り、荒い足取りで店内に戻ったマキナは、ふと、「あ」と、思い出したように1人声をあげた。
結局、この間のお礼、言えなかったなあ
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「キャッチ!…んん…なんだか珍妙な食べ物だなぁ。でも、匂いは美味そうだ」
ウィルは『浮遊魔法』で取り寄せた『めんたいフランス』をキャッチして、鼻を近づけた。
香ばしい匂いに食欲をそそられ、彼は既に自制心を失っていた。
溢れ出るヨダレを気にもせず、彼が大口を開けてめんたいフランスを蹂躙せんとしたその時だった。
「よし、申し訳ないが…いただきまー…」
「お客様少々お待ちください!」
背後から、鋭い声が響いた。