スタート・ミー・アップ/プロローグ
「ああ…とうとうここまでか…」
その男は、暗い森の中、擦り切れた足袋から露わになった素足を摩りながら、1人呟く。
雑に結った髪は乱れ、全身泥塗れの汗塗れだった。
遠くからは煙の臭い。恐らく、森に火を放たれたのだろう。
ここ数ヶ月、何も食べていない。食事の暇も無く襲って来る刺客を躱しながら、良くぞここまで逃げ切ったものだ、と、『彼』は内心、満足感にも似た諦めを湛えていた。
『彼』はつい数ヶ月前まで、人々を恐ろしい『鬼』から救った英雄『だった』。
しかし、民衆が鬼の次に恐れたのは、それを打ち倒すほどの力を持った男であり、その事にいち早く気が付いたのは、皮肉にも、『彼』の右腕とも言える、腹心の参謀だった。
火の手は瞬く間に森全体に広がり、彼の逃げ道は完全に塞がれるに至った。
『彼』は、生き物の様にうねり燃え盛る炎の奥を見据える様に、ある一点を睨みながら、その先にいるであろうある人物に語りかける。
「酷えモンじゃあねぇか、ええ?喜重郎さんよぉ…命を預けあった仲だってのに、そんなに民衆の目線が怖えかよ?」
『彼』はそこで、自分の声がガラガラに掠れている事に気づいた。
もう立ち上がる力はおろか、大声を出す事もできない。
目線の先の炎に、押しのけられる様に隙間が空き、痩身で背の高く、鋭い顔つきをした、袴姿の男が姿を現した。
「クク…もうそんな建前を使う必要もないでしょう。『鬼』亡き後、この国は誰の手に渡る?当然、鬼を倒した私達が治める事になります。その時に、貴方の様なシンボルがいてはね、邪魔になるんですよ」
喜重郎と呼ばれた男は、眼鏡の位置を直しながらそう言うと、ニヤリと笑った。
『彼』は、その言葉を聞くと、長い溜息を吐いて、静かに眼を瞑った。
親友の裏切りは、『彼』に、生への執着を捨てさせるに至る程の衝撃を与えていた。
「なあ、俺は、喜重郎…お前の事、信じてたよ。最初から、こうなる運命だったのか?猿も、ハチも、共に闘った日々なんて、何とも思ってなかったんだな」
猿、ハチとは、『彼』が喜重郎と共に集めた仲間だ。長い旅の中、ぶつかり合いながらも、共に助け合い、苦楽を共にした友だと、『彼』は思っていた。
「何で、こんな風になっちまったんだろうな」
『彼』は、うわごとの様に呟いた。
喜重郎は、冷酷に刀を引き抜き構えると、『彼』の疑問に、平坦に答えた。
「知れた事、最初から、絆など無かったのですよ」
喜重郎は、最後通告の様にそう言い渡すと、眼を閉じて、今迫り来る死を受け入れんする『彼』の首に、冷たい刃を振り下ろした。
………ここまでが、『彼』の回想である。
目が醒めると、黒くて硬い地面の上に倒れ伏していた。
『彼』は慌てて起き上がると、目の前に広がる世界を見て、愕然とした。
地面は灰色と黒の岩盤に覆われ、辺りには巨大な柱がいくつも聳え立ち、極め付けに道行く人々は、見慣れない形の、見た事もない素材の着物を着て、更に、誰一人として髷を結っていないどころか、金や赤い色の鮮やかな頭をしているものすらいた。
一度に迫り来る大量の情報に眩暈を覚えながら、『彼』は、自分が生きていることを確かめるために、頰をつねる。
鋭い痛みが、ここは極楽でも地獄でもない事を教えてくれた。
「…あー…やっぱり、俺、生きてるんだ…」
『彼』は、キョロキョロと辺りを見渡し、自分の置かれている状況の把握に努めた。
『彼』の目に映るのは、いわゆる『都会の街並み』。アスファルトに覆われ、ビルが立ち並ぶ有り触れた光景なのだが、『彼』の知っている世界は、田畑に覆われ、瓦屋根が立ち並ぶ世界のみなのだ。
死の直前に見た幻覚…にしては、リアリティがありすぎる…ここは、外国?いや、そもそもあの一瞬でどうやって海外にまで移動できる?
ボロボロになった衣服や、腰の刀を失っている事から、さっきのやり取りからさほど時間が経ってない事を読み取れた。
敵の攻撃?だとすると鬼の残党か?それとも喜重郎の手の者か?瞬間移動の能力とは戦った事があるが、だとすれば近くに敵が…?
グルグルと思考しているうちに、誰かが、背後から『彼』を押し退けた。
すかさず振り向き、半身になって構えた『彼』の目に飛び込んできたのは、髷も結わずに、髪を左右に分けた奇抜な髪型の、6尺はあろうかという大男だった。
「人混みの中で立ち止まるんじゃ無いよ君ぃ。コスプレの撮影なら、イベントとかでやりなさい」
その大男は、苛立ちを隠そうともせずに『彼』を叱責した。
『彼』は相手に敵意がない事を察すると、「すまんな」と、道を開けた。
大男は舌打ちをすると、ズカズカと『彼』の脇をすり抜けていく。
コスプレ?撮影?何の話だ?あいつ、何をそんなにイラついてんだ?と、不思議に思っていたところ、『彼』は、周囲を大勢の人に囲まれていることに気がついた。
人々は口々にひそひそ声で呟き、無機質な目玉のついた四角い板をこちらに向けて、何やら好奇の目で『彼』を観察した。
「お、オイ!何だよ!?見世物じゃねえぞ!やめろ!何だその板!?怖っ!やめろ!無言で近づくんじゃねえ!」
『彼』がいくら叫ぼうとも、人々は彼と目も合わせようともせずに、手にした板の表面をなぞり続けた。
その内『彼』は居たたまれなくなり、人混みを掻き分けてその場から逃走した。
がむしゃらに走り続け、人の少ない建物の裏に落ち着くと、『彼』は頭を抱えた。
ここがどんな世界で、自分が何故ここにいるのかは解らない。しかし、自分がこの世界にとって、どうしようもなく異物で、此処にすら、自分の居場所がないという事実は、深く理解できてしまった。
「まあ、もうどうでもいいや…」
彼はうわごとの様に呟く。
せっかくあんなクソッタレな終わりから抜け出せたんだ。こっちでは、俺を知る人間も居なさそうだし、気ままにシンプルに、好きな様に生きてみよう。
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「物語の始まりはいつも突然だ」と言うが、彼の物語の場合は、最悪の終わりから始まった。
バッドエンドを迎えた男は、行く当ても無く夜道を1人歩き出す。
青白い光を放つ、背の高い行灯の様なものが、無機質に彼の行く末を照らした。