崩れゆく世界の中で
「――今度の月妖族討伐の任務が終わったら……一緒に、暮らさないか?」
優しい瞳で告げられたその言葉に、真愛は涙を流して頷いた。
「うん……うんっ」
それは、香章と真愛が交わした最後の約束。
叶えられることのなかった幸せな未来の、僅かな可能性――
××××
この時代、現存する皇女は三名。
最初に迎えられた聖女と称えられた側妃との間に生まれた第一皇女アイリーン、正妃との間に生まれた第二皇女マリーウェザー。
側妃と正妃が亡くなった後、迎え入れた正妃との間に生まれた第三皇女レティシア。
聖女の血を持つ第一皇女であるアイリーンが王国内で消息を絶ち、まだ十五になる成人式どころか七歳の洗礼式も終えていないレティシア。そのため、マリーウェザーは決して失えない姫となった。
その第二皇女の護衛の任に付いていた香章は、煌と共に王からの勅命で月妖族討伐の任を承った。
王の命令は絶対。
皇女アイリーンの行方不明と共に僅かに荒れだした国内と、王宮に漂う不穏な空気の中で告げられたその命令に不審を感じながらも、拒否する理由のない二人は、月妖族討伐へと赴いた。
香章は、真愛に約束を残して。
「どう思う……?」
厳しい表情を浮かべながら問いかけられた言葉に、香章は深く息を吐き出して口を開いた。
「判断に迷う……普通に考えるのならば、月妖族が勢力を伸ばすこと―もしくは国内が荒れているこの隙に、月妖族に王都に接近されたら困る、とういう理由で与えられた任務だろう」
淡々と告げる香章に、煌は怪訝そうに香章を見つめた。
「香章はそう思っているのか……?」
「まさか」
煌の言葉に肩をすくめながら、間髪いれずに答えると、香章は周りの気配を探りながら、困惑気に続けた。
「ただ、それだと『早乙女家』の真愛はともかく、御しやすい煌より妖水を王宮に残した理由が分からない。それに……」
―どぉおん―
香章の言葉を遮るように、巨大な爆音と旋風が二人を襲った。
「香章!」
「あぁ」
月妖族の攻撃だということに気付いた二人は、連れてきていた兵士たちに指示を飛びしながら、掃討戦を始めた。
××××
「煌!」
「っ!!」
香章の怒鳴るような声と同時に、煌は体に熱を感じて息を呑み込んだ。
どくどくと容赦なく流れ始めた血に気付いて、怪我を負ったということを始めて理解して、煌は舌打ちした。
××××
掃討戦を開始してから一月余り、順調に掃討を行っていた王宮兵士の要の一つであった煌が攻撃を受け、全治三ヶ月の怪我を負った。
一時とはいえ意識を飛ばしていた煌の様態を誰かが報告したのか、その直後に命じられた煌の帰還命令を皮切りに、ただ一人司令塔として戦場に残された香章は疲弊し、徐々に追い詰められていった。
そして――
「ちっ!」
口の中に広がる生ぬるい液体を吐き捨てると、背に持っていた刀を抜いた。
「……貴方は、気付いてはいないのね」
寂しそうに微笑みながら告げられる少女の言葉を怪訝に感じながらも、香章は傷だらけの体で少女に対峙した。
「例え何が隠されていようと……王宮仕官である以上、王の命令は絶対。月妖族は殲滅させてもらう」
夥しいほどの血を流しながら、それでも香章は少女に告げて刃を突きつけた。
「そう……貴方は“気付いているのに逃れることが出来ない”のね」
哀しそうに少女が言葉を告げると、少女はゆっくりと目を瞑り、静かな声で最後の言葉を紡いだ。
「大気に充ち満ちる久遠の精よ、我を糧とし、閃光をまといてこの地に最後の審判を下さん」
少女が紡ぐ契約の言葉と共に、辺り一帯は目もくらむほどの閃光に包まれた。
少女は、自らの体を媒介とし、香章と兵士たちを道連れにしながら術を発動させた。
ドクン
その頃、王宮で皇女の警護に当たっていた真愛は、恐ろしいほどの喪失感を感じて、胸元を握り締めた。
「香章……?」
香章の訃報
その出来事が王都にいる真愛たちに知らされたのは、煌が療養の名目で王都に戻されてから一月経った後のことだった。
月妖族討伐戦に赴いていた兵士の一人が、重傷の体を引きずりながら戻ってきたのだ。 ――香章の遺体と共に。
「嘘……」
香章に同行し、命だけは助かった兵士の言葉を聞きながら、真愛は呆然とその場に立ちつくした。
「どういう事……はっきり説明なさい!」
聞いたことが理解できていないかのような真愛を気遣わしげに見ながら、自身も信じたくない妖水は、兵士に詰め寄った。
「香章様は……月妖族の魔導師と思しき女性と対峙され、その魔導師の自滅の際、道連れに……」
「月妖族の……魔導師?」
怒鳴りつけながら事実確認のために詰め寄ってくる妖水に気圧されながらも兵士は恐る恐る語った。
『魔導師』
語られた言葉の中に入っていた単語に、妖水が怪訝そうな表情を浮かべた瞬間、真愛は耳を塞いだ。
「嘘! そんなの、絶対信じない!」
「真愛……」
興奮しすぎたためか報告をしていた兵士の胸倉を掴みあげていた妖水は、そのままの状態で真愛に視線を向けた。
「だって! だって帰って来るって……帰って来るって言ったもの! だから絶対、信じない!」
報告された内容は真愛にとって何よりも信じ難い事実。
涙を流せば自身もそれを認めたように感じるからか、真愛は泣き出しそうな表情をしながらも涙は流さず、懸命に頭を横に振り、部屋を飛び出した。
「妖水様……」
すでに半泣き状態で困惑しきっている兵士の言葉に、妖水は掴んでいた服を放し、視線は扉に向けたまま訊いた。
「香章は旧神殿?」
「はい……」
質問に頷いた兵士を横目で見て、妖水は哀しそうな表情を浮かべた。
「理解はしている。覚悟も……私たち仕官の命は、王家のものだから。……でも、覚悟はしていても心は、追いつかないから……特に真愛にとって香章は“最初で最後”の人だから」
その哀しそうな、切なそうな表情は、脆い均衡の中で依存しあいながら生きていた二人を知っているが故に浮かべられる表情。
「妖水様、血が……!」
どこか驚愕したような兵士の声に、妖水は無意識のうちに自分の腕を握る手に力を込めすぎていた事に気がついた。
「大丈夫よ……こんな傷くらい……」
××××
「うそ……うそっ! 信じない」
辛そうに胸元を握り締めながら、それでも涙は零さずに、何かに導かれるように真愛は旧神殿へと向かっていた。
「帰って来るって……帰って来るって、言ったもの……香章……」
王国で古い時代、最も神聖とされていた場所―旧地区の神殿に真愛は足を踏み入れた。
静謐な空気が漂うその場所に、真愛は会いたくて……それでもここにいないことを願っていた香章の姿があった。
「香、章……」
ぱた
その姿を見た瞬間、真愛の瞳からは涙が零れ落ちた。
「ヤダ、嘘……香章……?」
ぱた、ぱた
“魔導師の自爆に巻き込まれて命を落とした”
そう訊いていなければ判らないような、まるで眠っているかのような香章の体に、真愛はすがり付いていた。
「……んむが……任務が終わったら、一緒に暮らそうって言ったのにっ!」
見えている場所には傷一つ付いていなくて、それでも眠っているように見える香章の肌は氷のように冷たく、血が流れていないことを否応ながらに突きつけられた。
「……っく……香章……」
旧神殿に響く、真愛の泣き声。
胸を抉り、貫くかのようなその叫びは静かに神殿内に反響し、どんなに叫んでも真愛の元には香章が還ってこない事を痛切に突きつけられた。
―返して……他には何も、望まないから
誰にもぶつけることの出来ない想いは、泣き声の中に隠される。
「香章……」
求めているのは、ただ一人の声。
けして返ることのない人の名前を囁き、真愛は瞳から涙を流したまま、香章の唇に自らの熱を分け与えるかのように口付けた。
冷たい、口付け。
氷のように冷たい香章の体躯と共に、真愛の心も凍てついた。
その涙は、真愛が流した最後の涙。
その日、王国から香章と共に、真愛の心も失われた。




