眠れる君に捧ぐ
「……嘘」
彼女が『それ』を目にしたのは本当に偶然。
目の前に現れたデータを呆然と見つめながら、庵は、その事実に愕然とした。
「こんな事って……」
一介の仕官が抱え込むには大きすぎるその内容に夢中になっていた庵は、周囲への警戒を怠っていた。
ドク-ン
それでも武官としての感性があるせいか、背後に何者かの気配を察知した瞬間、庵は反射的に振り返っていた。
「誰っ!?」
背後に視線を向けた庵が捕らえたのは、庵でなくても―いや、王国の住人ならば名前だけは確実に知っているはずの人だった。
「そんな……なぜ貴方が……?」
驚愕に満ちた声音にも一切表情を変えず、その人物は庵を視界に捕らえながら携帯していた剣を引き抜いた。
庵の知っているその人ならば決してしない表情、行動。
違和感を覚えた庵は、ここで極秘裏に切り捨てられるわけにもいかず、背に隠しておいた短剣を引き抜き、その人物に向かって投げ飛ばした。
――ドンッ――
一瞬の空白。
王宮内部の外れ、人が訪れることが少ない資料庫の一室でそれは起こった。
××××
「っぅ……」
微かな呻き声を上げて、庵はそれまでゆっくりと進めていた歩を止めた。
ぱたっ
左肩と腹部はどす黒く染まり、応急処置のつもりで巻いた布からも血が滴っていた。
もう助からないことを庵は本能で知っていた。
「大ポカ……」
深く息を吐くと、辺りを見回して目の前の扉をノックした。
「……誰だ?」
武官―王族警護隊長としての気質か、警戒心を剥き出しにして誰何する煌に、庵は苦笑した。
「深双魚、庵……開けて」
いつもなら叩く軽口も、怪我の痛みのせいで気力すら湧かない。
できることなら今すぐにでも闇に意識を委ねてしまいたかったが、そうはできない理由ができてしまった。
常にない庵の様子に何かを感じたのか、煌は慌てて扉を開いた。
「なっ……」
扉が開いたとたんに倒れ込んできた庵に驚いた煌は、その肩が染まっていることに気づき目を瞠った。
「どうでもいいけどさ……部屋の中、入れてくれない?」
驚愕して硬直しかけている煌にあっさりと告げ、庵は煌の手を借りて部屋の中へ入った。
「庵、その傷……」
煌の言葉に庵はうっすらと微笑を浮かべた。
「あ……もう助かんないから、気にしないで」
「ちょっと待て! そんな……」
庵の言葉に驚いて声を上げた煌に、庵は眉を顰めた。
「怒鳴んないで……傷、にひびく。それよりさ……どーも裏になんかあるっぽいんだよね」
主語も何もかもすっ飛ばして突然本題に入った庵に、煌は眉を寄せた。
「詳しいことなんて全っ然わかんないけど、王国にはやっぱり影の部分が存在する……この王国には何かの“封印”があるんだと思う」
呼吸をするのも辛そうに告げられた言葉に、煌は困惑した。
「全部のデータ見る前に見つかっちゃったから詳しくなんてわかんないけど……鍵は多分、姫……目に見えるものだけを信用しないほうが良い」
ポツリと言葉を零すと、庵は辛そうにしながらも立ち上がった。
「庵……?」
「説明、オワリ。感覚の部類は妖水か……恋犁とかの専門だから、直接伝えられたら良かったんだけど、どうにもこうにも煌の部屋に来る体力しか残ってなくてさー……」
そういってフラフラと部屋を出ようとする庵に、煌は驚いて庵を支えた。
「ちょっと待て! どこに行くつもりだ?」
常日頃より幾分か冷静さを欠いている煌に、庵はうっすらと微笑むと体重を預けた。
「いや……ここで死体になってもメイワクかなぁって……それなら歩けるとこまで進もうかと」
いつもは健康的な肌は血の気がないかのように恐ろしく白く、庵が助からないことを如実に物語っていた。
「ここにいていい……どうしてお前はそう」
訳のわからない所で妙な遠慮をするんだ――ポツリと続けられた言葉に庵は微笑むと、煌に支えられながらその場に座った。
××××
「まさか死ぬ時に煌に見取ってもらえるなんて思わなかったから……ちょっと意外。で、結構嬉しかったり……」
だんだんと冷たくなっていく体を、どこか他人事のように捕らえながら、庵は思いついたことから話し始めた。
「意外?」
「そうだよー。仕官訓練受けてたときなんて風邪引いてもお見舞い一つしなかったでしょ……妖水はお姉さん気質だし、香章は何気に苦労性でめんどーみ良いし……王宮仕官になってからは真愛……と合流して……うん、すごく楽しくなったよねー」
そのときを思い出しているのか庵の双眸は閉じられ、血を流しすぎたためか体は急速に冷たくなっていた。
死が、庵を包んでいた。
「あの頃が一番幸せだったかも……あのまま、時間が永遠に止まっちゃえば良かったのに……」
ポツリと呟き、庵はくすくすと微笑を零した。
「でもそれじゃー進歩しないからダメか……」
そこまで言って大きく息を吐き出すと、庵は目を閉じたまま、どこか真剣味を帯びた口調で言った。
「一番最初は私か……先に逝くよ。私達が出逢ったのが必然なら、後世でまた逢えるし。……記憶はあるかどうか別だけど……」
「後、世……?」
戸惑いながらも聞き返した煌に、庵は微笑を向けた。
「今はわかんないだろーけど……あぁ、妖水ならわかってるかも知んないけど。多分、逢えるよ。終わらない……個人的には終わって欲しいけどねぇー。ま、頑張ってみてよ。無理なら……「次」に私も手伝えるし……」
一気にそこまで言い聞かせると、庵は言うべきことは全て言ったとばかりに安堵の息を吐いた。
「なーんか、眠くなってきた……」
「そう……か」
「うんーごめん。おやすみぃ」
寝ぼけたような庵の様子に、そういえば庵は寝ることに関してだけは一切妥協しなかったことを思い出し、煌は苦笑した。
「おやすみ……いい夢を」
煌の言葉に送られて、庵の意識は闇に落ちた。
××××
そっと、まるで眠っているだけの庵の頬に煌は指を伸ばした。『氷のように冷たい』という表現を、庵の骸に触れて初めて実感した気がした。
「庵……」
囁くように零された声と共に、煌の頬を涙が伝った。
××××
時間は止まらない。
そして、緩やかに進んでいく。庵の告げた、次の未来へと……。




