一章十七話 軍師、逃亡を果たす
「……だいぶ走ったな」
「はい、旦那様。丁度、アルスまで道半ばと言うところでしょうか」
息を切らすアキトに、アカネはそう答えた。
師駒であるアカネ達以外は皆、そろそろ息も切れ始めている。
フィンデリアが何時までこの状況を維持できるか。アキトの心配はそれに向けられていた。
もし途中で海が元に戻れば、皆仲良く海の底だからである。
そんなアキトに、追い打ちをかけるようにシスイが報告する。
「む。アキト殿、敵の旗がアルシュタットから見えるぞ」
「もう来たか…… 皆、急げ! 敵はもうアルシュタットまで来ているぞ!!」
アキトのその声に、兵士たちは皆後ろを振り返った。
逃げるには、この道を少しでも早く進むしかない。
そのせいか、皆の足が見る見るうちに速くなっていった。
アキトもそれを追うように走っていく。
しばらく走ると、海底に船の帆柱が突き刺さる様に立っていた。
ただの沈没船の残骸。皆逃げることに必死で、特に興味は示さなかった。
しかし、アキトは帆柱の近くに、何か棒のようなものが刺さっていることに気が付く。
何だこれは、とアキトはその前で立ち止まった。
棒の先には、天使の羽のような彫刻があしらわれている
「アキト様、いかがされました。うん? 杖みたいですね」
リーンもアキトの隣に立ち止まってそう言った。
「みたいだな……」
もしやこれは、とアキトはマヌエル大司教の言葉を思い出す。
前アルシュタート大公であるエリオ。スーレの祖父であるエリオは、アルシュタットとアルスの間の海で命を落としてしまう。
その際に、持っていた師杖。それが、目の前にあるこの杖ではないかと。
「エリオさんのものかもしれない…… スーレに確かめてもらおう」
アキトはそう言って杖を引き抜き、再びアルスへと向かうのであった。
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「ええい!! 人間は一匹もおらぬのか!!」
南魔王軍の先鋒を務める、オークのウドゥルはアルシュタットの市街でそう叫んだ。
「……はあ、はあ。やっと追いついた。ウドゥル殿、何かがおかしい。慎重に進みましょう!」
そうウドゥルを諫めるのは、アルフレッド王子の師駒、パシュバルであった。
「城壁まで入ったのだ。もはや恐れる者など、何もない…… ん、何だ? この忌々しい歌は?」
ウドゥルは言葉の途中で、どこからか響いてくる音楽に気付く。
他の魔物達、パシュバルもそれに気が付いた。
「これは…… 人間の歌う聖歌です。神へ感謝の言葉を捧げているのです」
パシュバルはウドゥルへそう報告した。
パシュバルは人の語を解することができ、アルフレッド王子へ指導したりもしていた。
「ふん。最後は神頼みとは、何とも情けない連中よ。恐らくは件の神殿とやらで祈っているのだろう。者ども、俺に続け!!」
ウドゥルはパシュバルの忠告も聞かず、アルシュタットの坂道を登っていくのであった。
そしてついに、ウドゥル率いる先鋒が、アルシュタットの広場へと到着する。
歌声はウドゥルの読み通り、神殿から流れていた。
忌々しい人間の聖歌に、顔をしかめるウドゥル。
自前の禍々しい斧を腰から取り出すと、一気に神殿へと入った。
「ウドゥル殿! ……うん?」
パシュバルは、ウドゥルが神殿へ入ったのと同時に、一部の魔物がざわついていること気が付いた。
その魔物達の視線は海に向かっている。パシュバルも、何事かと海へよく目を凝らした。
「え?」
パシュバルは思わずそう言った。海が、割れている。自分の眼鏡がおかしいのか、とパシュバルは何度もそれを外したり、付けたりした。だが、海は明らかに割れているままだ。
目の前に光景に、パシュバルは絶句する。
海を割る線は、まっすぐと大きな島の方へと続いていた。
「もしかして、人間はあの割れたところを進んでいる? おい、港の方へいくつか部隊を送れ!!」
パシュバルは島にはいくつかの旗、建物が在ることに気が付き、いくつかの兵を向かわせた。
とすれば、この神殿にいるであろう人間は囮。
パシュバルは罠だと気づき、すぐに神殿へ入った。
神殿の中には、燭台の前に立つ神官と、椅子へ座り聖歌を歌う老人達がいた。
マヌエル大司教とリベルト。そしてこの場に残ることを決めたアルシュタットの老人達である。
明らかに逃げ遅れたか、見捨てられた人々。パシュバルは彼らが囮であることを確信した。
ウドゥルはそんなことにも気が付かず、人間が理解できるはずもない言葉を、延々と神官へ浴びせている。ウドゥルの手下は、神殿をくまなく探しているようだ。
マヌエル大司教はにっこりと、ウドゥルたちへこう言った。
「南魔王軍の方々。我々はあなた方を歓迎いたします。共に神のために祈りましょう!」
当然、ウドゥル達魔物には、マヌエル大司教の言葉が分からない。
「ウドゥル殿! こ奴らは囮! 敵は海の向こうです! 今すぐ外へ来てください! 敵が海を割ったのです!」
「海を割ったあ?! お前、やっぱり馬鹿だろ?!」
ウドゥルはパシュバルの言葉を、そう言って嘲笑った。
「ウドゥルの頭! この神殿、金なんてこれっぽっちもないですぜ!!」
「よく探せ! 隠し扉か何かあるはずだ! いや…… 待て、直接この爺に問い正してみる!! おい、糞爺!!」
ウドゥルはマヌエルの胸元を掴むと、分かるはずのない言葉で騒ぎ始める。
「この野郎!! お宝の場所を教えろ!!」
「貪欲な目…… スーレ様達に、あなたのような者を近づけるわけにはいかぬな」
マヌエル大司教は、落ち着いた表情でウドゥルへ喋る。当然、互いに言葉は分からない。
だが、パシュバルはマヌエル大司教の言葉が分かった。
「ウドゥル殿!! 私が訳します! だから手荒な真似は! っ?!」
パシュバルは、マヌエル大司教の顔が変に穏やかなのを見て、自分の予知能力を発動した。
その予知能力では、五秒後に神殿の屋根が崩れると分かった。
「ウドゥル殿!! すぐにここから!!」
パシュバルはすぐに叫ぶ。だが、ウドゥルたちは勿論、パシュバルですら外へは到底間に合わなかった。
神殿の屋根が崩れると、ウドゥルは叫び声を上げることもなく重い岩の下敷きとなった。
もちろん、南魔王軍の魔物だけでなく、人間たちもである。
パシュバルは必死に身をかがめたものの、すぐに自分の体に岩が落ちたことへ気が付いた。
広場にいた南魔王軍の魔物達は、突如神殿が崩れたことに狼狽える。
そこにパシュバルが港へ放った魔物がこう言った。
「人間だ! 人間が海の底を逃げているぞ!!」
魔物達は、自分たちが騙されたことを悟った。崩れた神殿の瓦礫から、大将が出てこないと分かると、オークの一体がこう叫んだ。
「ウドゥルの頭の仇を討て!!」
魔物達は大挙して、割れた海へと向かって行った。
「……ま、待て。罠だ」
崩れた神殿から、パシュバルの声が響いた。
パシュバルは満身創痍になりながらも、神殿の瓦礫から必死に抜けようとする。
「誰か!! 僕をここから出してくれ!!」
そう叫ぶも、部下は皆割れた海へと向かってしまった。自分の救助等はどうでも良く、このままでは部下が危ない、とパシュバルは這うように瓦礫をかき分ける。
やっとの思いで瓦礫から抜けたパシュバル。だが、その体からすでに大量の出血が。
とりあえず止血しようと、外傷を癒す回復魔法をパシュバルはかけるが、魔力の低いパシュバルではどうにもならなかった。
このままではアルフレッド王子に、あの世で合わせる顔がない。
パシュバルがそう思った時、一人の老人が声を掛けてきた。
「そこの方…… まだ生きておられるのかな?」
その声の主は、マヌエル大司教であった。衣服はボロボロ。体からは、パシュバルほどではないが血が流れている。
「……してやられましたよ。あなた方は囮を。いや、見捨てられたのですか?」
パシュバルは、人間の言葉でそう返した。
「見捨てられてなどおりませぬ。我々の意志でここに残ったのです」
「ふ…… そうですか。人間はもっと冷たい生き物だと思っていたので」
「確かに人間には冷たい者もおるようだ。しかし、そうでない者もおる。魔物にもそういう者がいるようにな」
「……分かったようなことを。ところで僕を殺さなくても良いのですか? 仕留めそこなったのに」
「殺したくなどなかった。あなたも、あのオーク達も」
「馬鹿な。我々はアルシュタートの人間を数多殺してきたのに…… え?」
パシュバルは、自分の体が温かくなることに気が付く。
「何を?!」
「私の体力はあなたにあげましょう」
マヌエル大司教は、自分の体力をパシュバルへ供給し始めた。
「な、何故?」
「私だけ生き延びたとなれば、他の者が納得しない。それに、あなたを助ければ少しでもアルシュタットの方たちのためになる」
「何を馬鹿な?! あなたの仲間を再び殺すようになるだけだ」
「いいえ。あなたはお優しい。きっとスーレ様やアキト殿と会えば、考えが変わるはずだ」
「有り得ない!!」
パシュバルはそう叫ぶが、マヌエル大司教はばたりと倒れてしまった。
すぐに倒れたマヌエル大司教の肩を揺らすパシュバル。
「神官殿! あなたの名前は?」
「私はマヌエル…… エリオ様の師駒……」
「マヌエル殿…… かたじけない。でも、僕じゃ何にも……」
「エリオ様…… 今お近くに……」
マヌエル大司教はそう言って息を引き取った。その体は次第に透明となって、黄金色の師駒石を残した。
「……僕だって平和が好きだ。でも、戦争を仕掛けてきたのは人間なんだぞ」
パシュバルはマヌエル大司教の残した師駒石を握りしめ、港へ向かった。
兵たちを止めるためである。
だが、すでにケンタウロスやヘルハウンドといった足の速い魔物は、すでにアキト達へもう少しで追いつくというところまで来ていた。
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「逃げろ!! もう少しでアルスだ!!」
アキトは皆に向かってそう言った。目と鼻の先に見える一ノ島。
だが後ろには、ものすごい速度で追い上げてくる魔物達の姿が。
もう駄目か、アキトがそう思った時であった。
大きな岩が魔物達へと投げ入れられる。潰されたのは数体のヘルバウンドだが、皆、それを避けるように進むので時間が稼げた。
「ベンケーか!!」
アキトは、一ノ島に立つゴーレムを見てそう言った。
続いて、一ノ島から矢が放たれる。矢は魔物達へ次々と射かけられた。
矢を射かけたのは、アカネとシスイが訓練した兵。皆、それなりに魔物へ矢を当てられている。
そうしている間に、アキト達は一ノ島へ着いた。
「アキト殿!」
「アキト!!」
セプティムスとスーレが、アキトへ向かってこう言った。マンドレイクのハナも一緒だ。
そして少し離れた砂浜で、海へ足をつけながら両手を挙げているフィンデリアが。
「フィンデリア!! 皆、渡り終えた!! もう大丈夫だ!」
アキトはフィンデリアへそう叫んだ。
フィンデリアはアキトへ振り返り、一度頷くと両手を降ろす。
すると、割れた海は見る見るうちに、元の形へと戻っていく。
海にのまれる魔物達。よく見ると足の速い魔物の後ろに、オークや他の魔物も続いていたようだ。
浮かんでくる魔物は少数。今回の戦争に向け、鎧を身に着け始めたことが、あだとなってしまった。
海面にいくつかの渦が出来たと思うと、それは魔物達を海の底へと引き込んでいった。
しばらくして渦が消えると、海は何ごともなかったかのように元の平穏な姿へと戻る。
南魔王軍は、誰もが思ってもいなかった損害を出すのであった。




