円卓の賢者たち
賢者たちは隠れ家のある洞窟の中のひと部屋にポッカリと浮かぶ小さな球体の中にいた。
エレナたちを洞窟の中で光と風が適度に入る比較的過ごしやすい小部屋に案内すると、自分たちはそのまま一番奥に位置する部屋に入って行った。中は完全に人の手が施されており、中央には小さな球体が空中に浮かんでいた。奥に進むと左右上部に小さな台が設えてあり、青白く光る石が置かれていた。石の光は淡くぼんやりとしているが、部屋全体を隈なく照らしていた。石に照らされて、球体は幻想的な色合いで浮かんでいた。
4人の賢者たちは宙に浮かんだ球体に向かって「ほっ」とひと声かけて飛び上がった。ふわりと体が浮かんだかと思うと、そのまま吸い込まれるように球体の中に消えて行った。
中は柔らかいセピア色の光に包まれていた。内部は木の香りが漂い、夏であっても涼やかだった。中には使い古した木製の大きな円卓と賢者たちが座る背もたれがとても高いいすがあるだけだった。いすは角ばったところがすべてなくなり、とけた飴のようになっていた。円卓は大きなゴーレの樹をそのまま輪切りにしたもので、年輪が波のようにうねっていた。重要な事はいつもこの円卓で話し合って決めた。それゆえ、彼らは円卓の五賢者と呼ばれていた。円卓の中央には2枚の葉をかたどった台座があり、その上に巨大な透明な玉が置かれている。玉は絶えず仄白い光を放っていた。
いすにはそれぞれ腰かける賢者が決まっていた。第1の賢者ハリマの席を正面に左隣が第2の賢者エンユウ、その左が第3の賢者アーガ、そして第4の賢者ゾラ、さらに第5の賢者クシマの席となっている。しかし、今日はクシマがいないため、その席にはだれも座っていない。
「これは大変なことじゃぞ」席に着くいなやエンユウが言った。「ヨックの報告は正しかった」ヨックとはハラドの国王が「白蓮の儀」の騒動の後に尋ねた森の賢者だ。
「よりにもよって封印が解かれたこの時期にハラドに王女が生まれていたことが発覚しようとは」エンユウの眉間には深いシワが刻まれている。
「なにゆえ王女が生まれたのを隠し、男として育てておったのか」やせた少し神経質そうな賢者が言った。白髪交じりの薄い頭髪に対して、針金のようなひげを生やし、色あせた茶色のローブを着ている。同様に色あせた茶色の革製のカバンを傍らに置いている。この男は第四の賢者、ゾラ。水の魔法を得意とし、同じく、子供程度の身長しかない。青いというよりくすんだ灰色の顔をしている。
「なんでも人外は先の大戦以来500年現れていないと勘違いをしたらしい。そして、もう二度と現れないと思ったそうじゃ。王家に娘が生まれたことがそれを裏付けていると感じたとも言っておる」エンユウが続けた。「人外が現れるとすぐに我らが対処してきたことが裏目に出たかもしれん」言い終わると小さなため息をついた。
「困ったものです。こうなると奴らは何としてもテュポンを育てようとするのは間違いありません」ぽっちゃりとした小柄な中年の賢者が言った。茶色のローブをまとったこの賢者の名はハリマ。火の魔法を得意とし、第一の賢者を務めている。テュポンの言葉がハリマの口から出た瞬間、エンユウとゾラの体がピクリと動いた。
「…テュポン」怪物の名を口にしながらエンユウは背中に冷たいものを感じた。水晶の淡い光はその横のハリマとゾラの不安気なおへ顔も照らしている。円卓は何とも言えない重い空気に包まれた。
「エンユウはこれまでテュポンを見たことがあるのですか」重い空気を破ってハリマが言った。
「ある…が、もちろん、成体ではない。これまでハラドには王女が生まれていなかったからな」
「ハラドの王女が生まれると何か問題があるのですか」目のクリッとした少し受け口の、人のよさそうな色艶のいい太った中年の賢者が言った。言うなりゾラが氷のような視線を浴びせた。この男は五賢者の一人、アーガ。茶色と灰色が混ざったような、お世辞にもきれいとは言えないよれよれのくすんだ、とびきり小汚いローブをまとっている。
「お主、そんなことも知らずに何でその席に座っておる」あきれた様子のエンユウが言った。
「いや、多分聞いたんでしょうけど、忘れちゃうんですよね」悪びれた様子もなくアーガが言った。
「アーガ、これは忘れたでは済まされませんよ」ハリマが眉を吊り上げて言った。「これは世界の存亡にかかわる一大事なのです。人外がこの世の破滅させ、その後に自分たちの世界を作ろうとしているのはご存知ですね」アーガは黙ってうなずいた。
「そのためにまず奴らは黒水晶の封印を解いて、テュポンを孵化させます。黒水晶の封印はその国の王座にいる者だけが解くことができます。そのため、奴らは様々な手段を講じて国王に封印を解かせようとします。封印を解いた後は、ナーズ、ワルフ、ロンゾといった人の憎しみに満ちた魂を吸った吸魂獣を食べさせてテュポンを成長させます。テュポンは最後にハラドの王女を食らって成体になるのです。しかし、これまではハラドに王女が生まれてこなかったため、成体になれなかったのです。今回、封印が解かれ、この世にいくつか存在するテュポンの卵の一つが孵化したこのタイミングでハラドに王女がいることは奴らにとっては千載一遇のチャンスなのです」興奮気味に語るハリマの話にアーガは「はああ、知らなかった」「なんと」と大げさな相槌をうって聞いている。
「そして知ってのとおり、王女の存在は既に奴らの知るところとなっておる」エンユウは頭を右手で抱えた。「白蓮の儀とはなんとも浅はかなことをやってくれたもんじゃ」
「唯一の救いは今こちらに王女がいることです」ハリマが言った。
「ことが起こってすぐにハラドの王が対処したことが良かったんじゃ。奴らもまさかこんなに早く対処してくるとは思わなかったんじゃろう。奴らも今頃は夢中になって王女を探していることじゃろうて」
「そもそもテュポンとはどのような怪物なのですか」ハリマが聞いた。五賢者の中では年長のエンユウとクシマだけが、テュポンを見たことがあった。
「思い出すだに恐ろしい。もう何年になろうか、その昔、ある国で黒水晶の封印が解かれた。封印が解かれ禍々しい気に触れることでテュポンは孵化する。日が経つにつれ、禍々しい気があらゆるところで漂うようになった。人々は次第に憎しみあうようになり、いたるところで争いが起こった。争いは新たな憎しみを生み、憎しみに満ちた魂はテュポンのエサとなった。まさに悪循環じゃった。我らはテュポンの居場所をずっと探しておった。成体になる前のテュポンを倒せれば、禍々しい気はいずれ消えて行く。さすれば、争いもなくなる。しかし、なかなか見つけることはできんかった。ようやくテュポンの居場所を見つけたときにはテュポンは山のように大きくなっていた。あとはハラドの王女を食らうだけだった。しかし、ハラドには王女はおらん。結局テュポンは成体にはなれんかったが、それでも我らは近づくことすらできんかった。その恐ろしい姿は我々の魂を凍りつかせた。しばらくは夢にまで出てきて、うなされていたぐらいじゃ。しかもあれで成体でないとは…」
「結局、テュポンはどうしたんです」アーガが言った。
「死んだよ。ハラドの王女を食らわねば、どのみち成体になることはできんからな。ハラドの王女がいなければもうテュポンが食らうべきエサはない。死を待つしかないんじゃ」エンユウの横でゾラは年季の入ったカバンから分厚い古い本を取り出し、何やら調べ始めた。
「間違っても王女を奴らに渡すわけには行きません」ハリマが言った。アーガはそれを聞いて大きくうなずいている。
「そのとおりじゃ。それはともかく…」エンユウが続けた。「ただでさえ、禍々しい気に触れていれば争いは起こりやすくなる。これ以上争いを起こしてはならん。アーガ、今争っているところはどこじゃ」エンユウが言った。
「お待ちくだされ」アーガはしわくちゃのローブの袖をまくり、巨大な玉に赤ちゃんのような両手をかざした。目を閉じて何やらモゴモゴとつぶやいている。奇妙な抑揚が付いたその物言いは何と言っているのか全く分からなかった。そして玉に向かって上下左右に両手を動かし始めた。まもなく玉の中央に細い細い糸くずのようなものが見えてきた。数本の細い糸は絡まるようにして玉の真ん中に集まり、どんどん縮んでいって、ついには小さな黒い点になった。点はその場で小刻みに震えだしたかと思うと今度は生きているように動きだした。動きながら徐々に大きくなり、丸かった点は少しずつ形を変え始めた。だんだんと凹凸ができて、ぼやけていた輪郭がはっきりとしてきた。それでもアーガはモゴモゴをやめない。すると全体的に白かった玉がうっすらと黒ずんできた。ようやくアーガはモゴモゴをやめた。
「さすがはアーガ。よくもこううまくいくものです。とてもまねできません」ハリマは両腕を組み、盛んに首を左右に動かして感心しきりだ。
「何かしらとりえというものはあるもんじゃ」ニヤけた笑いを浮かべているアーガを横目にエンユウは冷たく言うと、玉を覗き込んだ。
玉に現れたのは世界の地図だった。広大な大陸から四肢を伸ばすようにいくつかの半島が突き出ている。なかでも北東に海を突き刺すように鋭角上に伸びているヨアル半島は今クシマが懸命に探しているウゴ族の故郷として知られている。南西に白く広がって見えるのは世界最大のオア砂漠で世界の面積の10分の1ほどを占める。砂漠の東側には海のようなイルグ川が横たわっている。
西の大国ラジルの北部に聳えるモーリ山脈は世に数ある山脈の中でもその高さは群をぬいていた。さらにその西側には不自然なほど巨大な円錐状の物体が見えた。母なるユングだ。
地図は全体的に少し黒ずんで見えた。ほかにもよく見ると、いくつか部分的に黒くなっているところがある。その黒くなったところは争いが起こっている場所を示している。
「これは…」エンユウは目を瞠った。地図に一通り目を通すとぽつりとつぶやいた。「…予想以上に進んでおるな」
「これを見る限りだと封印がとかれたのはナミかザビアかルカというところですね」ハリマの言う3国はいずれも世界の最北に位置している。たしかに北部に行くほど黒が濃くなっているようにも見える。
「その辺りが妥当じゃろうな。ところでコロナの村の件はどうなったんじゃ」ストラの北西部に視線を投げながらエンユウが言った。「そんなところまで人外が出ているとは思えん。まだ少々早いじゃろう。どうせ勘違いじゃろうが」
「いや、この状況を見る限りそうとばかりも言えないでしょう。念のためトシとクリスを向かわせました。もう帰ってくるころでしょう。後はシュロムです」
「奴らはまだ兵を引かんのか。鼻っ柱の強い国王にも困ったもんじゃ」エンユウが言った。
「銀百合騎士団。人一倍プライドを持っているだけに厄介です」南西部に位置するシュロムは、世界最強を自認する銀百合騎士団を要する大国で、過去に人外に襲われた際に騎士団を中心としたシュロム軍が敵を撃退したと言われている。その歴史が国の大きな誇りとなっていた。世界で一番強い国と信じているだけに、これまでも円卓の賢者たちとは一線を画し、人外に対してすら独自に解決策を探っていた。また、国王は領土拡大の野心が強く、そのため周りとの紛争が絶えない。今も東の隣国トルカに出兵しては、いらぬ紛争を繰り返していた。「新たな信仰も問題になっていると言うし、困ったものです」
「テュポンがどんどん成長を続けていけば、より多くの憎しみに満ちた魂が必要になる。人外もいつかシュロムを狙ってくるじゃろう」地図上のシュロムにチラリと視線を投げてエンユウが言った。「今はまだ人外は南部には進出していない。それまでに周りとのいざこざをやめさせねば」
「それはそうと、クシマはまた例の武器探しか」エンユウが言った。その口調には少しうんざりした感があった。
「そうです。コーチャの店にウゴ族の武器があるかもしれないという情報がありまして。トロールが現れてからでは遅いと言って」ハリマが答えた。
「ウゴ族、光の民か…。光の民が人外に滅ぼされたのはいつじゃったかの」エンユウがゾラに聞いた。
「載ってはおらん」ゾラが即座に答えた。
「そんなことはあるまい。そんなに昔の話ではないぞ」
「ウゴ族であれば滅んだのは先の大戦の少し後、約五百年前だが」
「なぜ、そんな回りくどい言い方をする。光の民とはウゴ族のことに決まっておろうが」
「そんなことひと言も書いておらん」ゾラはすかさず、さっきまでめくっていた古い書物を取り出した。色あせた背表紙にはうっすらと金文字で「円卓史」と書かれている。
「円卓史」とは、歴代の賢者たちが編纂している数万ページにも及ぶ歴史書で、今までの賢者達の活動が克明に記録されている。四巻からなる円卓史は、巻の二を除き、三巻が現存している。
ゾラは、円卓史を常に傍らに置いて、ありとあらゆる場面でこれまでの戦いの記録や人外の者たちの生態、弱点などを調べ上げ、実戦に生かす円卓史の専門家である。その膨大な量にも関わらず、現存している三巻については、何がどのあたりに書いているかだいだい頭の中に入っている。どこに見たい情報があるか見当がつけば、それだけ早く目的のページにたどり着ける。とっさのときにいち早く目的の情報を見つけることこそが大切なことだった。
「下らぬことを言うな。光の民がウゴ族であることになんの疑問がある」
「載っていないものは載っていないとしか言えんな」にべもなくゾラが言った。円卓史をつかさどる者として、ゾラはこういうところは絶対に譲らない。「無論、巻の二のことはわからんがな」
「わかったわかった、で、首尾はどうだったんじゃ」
「クシマからは何も…」ハリマが答えた。「ただ、これまでひと振りの剣すら見つかっていないことを考えれば、これ以上武器探しは難しいかもしれません」
黒水晶の封印が解けると力の弱い者から順にこの世に現れる。後になって現れる怪物たちは堅い堅い皮膚を持っているため、普通の武器では歯が立たない。
「あれはどうじゃ」
「あれ?」
「あれはなんと言うたか…ほれ、シトンの…なんだ」エンユウは目を閉じて眉間に右手の人差し指を当てて何かを思い出そうとしているがなかなか出てこない。
「ビュリンですか」ハリマが言った。
「そうじゃった。それを借りてはどうじゃ。まだ、トロールなどには試しておるまい」
「たしかに。シトンの国が版図をあそこまで広げたのはビュリンがあったからでしょう。しかし、あれは昔、あなたがそれを借りるべくシトンに行ったのではありませんか」
「取り付く島もないとはああいうことを言うんじゃ。皆揃って反対しおって。特に声を大にして反対しおった若造の顔はそれから何日も忘れられんかったわい。でも今では以前ほど厳しくないらしいし、なんとかなるじゃろう」
「だめだ」ゾラが即座に否定した。
「なぜじゃ。ウゴ族の武器を探すより余程現実的であろうが」
「あれは国外には持ち出せん」
「そんなことはあるまい。昔は確かにそんなことも言われたが、マガタの市場でも売っていたのをゴシマが見たと言っておったが」
「私もそれは聞いたことがあります。しかし国外へ持ち出せるのは混ぜ物をしているらしいのです」ハリマが言った。
ハリマの話を聞いて、エンユウはだまってしまった。沈んだ空気の中でアーガだけが3人のやり取りに感心した様子で聞き入っている。
「やはり、手組の武器を探すしかないのか」左手でほおづえをつき、白く光る水晶をぼんやりと見ながらエンユウがつぶやいた。
「…かもしれません」ハリマが力なく答えた。
「五百年たっておる、まず見つからんだろうな」エンユウの言葉にハリマはただうなずいた。重い沈黙が流れた。ゾラが円卓史をめくる音だけが規則的に聞こえる。
「どうにかならんのか」エンユウがゾラに言った。ゾラは構わずにページをめくり続けている。
「円卓史をつかさどる者として何かないのか」さらに言うとゾラはジロリとエンユウを見て「どうにもならん。一刻も早くジュレスに行くだけだ」と言った。
「ページをめくるばかりが能ではあるまい」
「何を興奮している。騒いだところでどうなるものでもあるまい」一瞬手を止めて乾いた視線を送るとまたページをめくり始めた。
「もしかすると」ハリマが口を挟んだ。「たしか、あの国の王は何年か前に変わったとか…」
「あの国とはどこじゃ」
「シトンです」
「シトン?それがどうした」右の眉を上げてエンユウが言った。
「新たな王は、賢帝ということを聞いたことがあります」エンユウはだからどうしたと言う顔をしている。
「新王は争いを好まず、それゆえ、王が変わってから戦を行っておりません」
「ほう」
「うわさが本当であれば一度話に行ってみる価値はあります。もしかしたら、協力いただけるかもしれません」
「人外を倒さねば、いつまでも戦はなくならん。そのためなら、ビュリン製の武器を借りられるかもしれん。いずれにしてもウゴ族の武器探しよりは増しじゃ。平和を望む王ならば貸してくれるかもしれんな」
「クシマでも倒せないのですか」アーガが突然口を挟んできた。
「何の話じゃ」エンユウが言った。
「いや、さっき言ってたトローリは」
「トローリじゃなくトロールじゃ」エンユウが冷ややかに言った。
「いや、倒せないことはありません。しかし、トロール程度ならばともかく、それ以上の怪物が出てくれば、そのすべてをクシマというわけにはいきません。当然我らも戦います。しかし、すべてを魔法でと言うわけにもいきません。特に今回はハラドの王女が一緒です。いつでも我らがそばにいられるわけではありません。そのためには、どうしても圧倒的な破壊力を持った武器が必要です」ハリマが言った。
「で、ジュレスへはいつ出発するか」エンユウが言った。
「ジュレス?何しに行くんです」アーガが言った。途端にゾラが円卓史をバタンと閉じた。
「お主は円卓史を読んだことがないのか」エンユウがあきれ顔で言った。
「あるわけなかろう」ゾラが片眉を吊り上げた。
「いいか。ハラドに王女が生まれた場合、ただ一つだけ王女をテュポンのエサとして無効にする手立てがあると言われておる。それはジュレスにあるウルズの泉の水を自らの手で飲むことじゃ。このおびただしい光に満ち溢れた国の泉の水を飲むことだけが王女を救う道じゃ。これはハラドの国にも伝えられておる」
「いや、それはどうでしょう」ハリマが異を唱えた。
「何を言っておる。ウルズの泉のことはハラドに伝えてあることは円卓史にも載っておるではないか」
「考えてみてください。私たちですら、そのことを知る術はもはや円卓史しか残されておりません。しかも、その円卓史ですら完全な形では残ってはいない。いにしえの教えとして細々と伝わっていたかもしれませんが、これだけの長い時間の中ではどこかで途切れていても不思議はないかもしれません」ハリマが言った。円卓史のくだりでゾラの体がピクリと動いた。巻の二がなくなってしまったという事実はゾラにとっては我慢のならないことなのだ。
「ふむ、例のまじないがかけられてから数千年か…確かに短い時間ではないのう」
「いずれにしても、初めてのことです。ジュレスへの道のりは長い。なるべく早く出発しましょう」ハリマが続けた。「では、いつ出立しましょう」
「シトンにも寄らねばならぬし、早いほうがいいとは思うが…。しかしできれば、その前にウガリのおばば殿のところに行って、ゴゾの実を分けてもらいたいんじゃが…」エンユウは少し言いにくそうにしている。ウガリとは、クシマやエンユウよりもずっと歳をとった老婆で、賢者たちとはもう長い付き合いになる。
「ゴゾの実?どういうわけですか」ハリマが左の眉を吊り上げた。
「いや、ハラドから王女の相談があった時に返す手紙と一緒にゴゾの実を4つばかりつけてやったんじゃ。王女を逃がすために時間稼ぎが必要だったからの」ゴゾの実とは別名”変身の実”と呼ばれる小さな小さな木の実のこと。変身したい相手の髪の毛を左手小指に巻きつけ、この実を飲むと半日近くその相手に変身できるという不思議な実のことで、とても貴重なものだった。
「ちょっと待て…」ゾラが何か言いたげにエンユウを見た。ハリマも同じような視線をエンユウに送った。「お主、今いくつと申した」ゾラが言った。
「いや、まあその…4つじゃが」
「4つ?」ゾラとハリマが同時に素頓狂な声をあげた。
「万が一と言うこともある。予備を持たせた。必要不可欠な措置じゃ」エンユウは半ば自分に言い聞かすように言った。
「これは随分と気前のいい」ハリマが言った。
「このくらいは当然じゃ。この大事なときに木の実一つをケチってなんとする」
「当然?あの実ひとつなるのにどれだけかかると思っているのです。二千年ですよ」
「承知の上じゃ、王女が向こうの手に落ちるより余程ましであろうが」
「いくら何でも4つは多すぎです。それじゃあ、おばば殿に嫌味を言われてもしょうがないでしょう。まだあの件でも怒っておられるでしょうし」
「それに、今年は“豊穣の年”だ」ゾラが言った。
「もう、100年ですか、おばば殿も大変です。頭が下がります」ハリマが言った。
100年に一度訪れる“豊穣の年”。“豊穣の年”を迎えると母なるユングには見違えるように緑が生い茂る。その葉はいずれ落ちて、大地を豊かにする。ユングの山に端を発する河川は滋養にあふれた水を大地や海にもたらす。花は競い合うように咲き誇り、たわわに実った実や葉は多くの動物たちの糧となった。動物の糞尿や躯は新たな命の糧となり、壮大な命の循環が起こる。その結果、大地も空も海もありとあらゆる命であふれかえる。こうして世界は豊かな実りの季節を迎えるのだ。
「そうでした、今年は待ちに待った“豊穣の年”ですな」アーガがあごの下の脂肪をなでながら、嬉しそうに言った。豊穣の年には、平年とは比べ物にならないほどの豊かな実りが期待できた。食いしん坊のアーガにとって、待ちに待った一年だ。
「また、食い物か、お主は少しやせたらどうじゃ。何じゃそのあごは。首がないではないか」エンユウが言ったが、アーガは全く気にする様子もなく、食べ物のことを考えているのか、ニコニコしている。
「とすると少し時を置いた方がいいでしょう。豊穣の年となるとおばば殿も忙しいでしょう」ハリマが言った。
「いや、だからこそこの時期がいいんじゃ。お主は知らんかもしれんが、ああ見えておばば殿もいたずら好きだからな。知らない者が見てビックリするのを喜んでいるのだ。案外機嫌も治るかもしれんて」エンユウが言った。
「じゃあ、私がトトを連れて行きましょうか」アーガが言った。
「あなたはやめるべきです。あの件の張本人じゃありませんか」ハリマが言った。
「あの件と言えば、盗んだ男の衣服が見つかったと聞いておったが」エンユウが言った。
「ええ、確かシワン川でしたか、でも「時のしずく」が見つかったわけではないですから」
「そうか…」ぽつりとつぶやいた。少しの間を置いて、円卓史を険しい表情でめくっているゾラの顔をチラチラと見たのち、独り言のように続けた。「できれば、ゾラ、お主に行ってもらうといいんじゃが」
「断る」即座にゾラが言った。取りつく島もない。
「仕方がない。私が行きましょう」いつになく真顔でアーガが答えた。無理に繕ったようなその顔を見てハリマはますます不安を募らせた。
「私はやめたほうがいいと思います。それとも行きたい理由でもあるのですか」
「おばば殿の木の実だな」ゾラがぼそりと言った。
「まさか、そんなことはあるまい」エンユウがアーガをチラリと見て言った。アーガはエンユウの視線に気づくとそそくさと目をそらした。(…図星か…)エンユウは頭を抱えた。
「もしおばば殿が怒ってしまったら、ゴゾの実どころの話ではありますまい。それでもいいのですか」ハリマの言葉には少しとげがあった。
「いや、それは困るが…まあアーガでなんとかなるじゃろう」左手でポリポリとあごの傷を掻きながらエンユウが言った。まだ怒っているかもしれないおばば殿に嫌味を言われると思うと自分が行くのは気の進まないエンユウとしてはこの際アーガでも認めないわけには行かなかった。
「…確認させてください。おばば殿のところへはアーガが行っていただくことで本当によろしいのですね」ハリマに詰め寄られて、エンユウは思わず視線をそらした。
「結構です」エンユウの代わりに真顔のままのアーガが答えた。脂ぎった顔が柔らかい光に照らせれてテカテカ光っている。丸々と太った子供のような顔に無理に真面目さを装ったその表情を見るにつけ、ハリマの不安は募る一方だった。
「まあ、よろしく頼む。それにしても、いくらなんでもその格好はひどいのう。おばば殿はああ見えてきれい好きじゃ。前にワシのローブをやったではないか。あれはどうしたんじゃ」エンユウが言った。
「ローブならクシマにももらいましたが、なんか面倒で」アーガはニヘラと笑った。笑うとアゴの下でプルルンと脂が動く。
「面倒だろうがなんだろうが、着替えて行くのだぞ」エンユウが言うとアーガは表情を厳しくして「もちろん」と言った。
「では、アーガは早速トトとおばば殿のところへお願いします。今後人外との戦いでは必ずゴゾの実は必要になります。必ずゴゾの実をもらってください。エンユウとゾラも各自準備に取りかかってください。これまでにない事態です。封印が解かれた時期にハラドに王女が生まれたということで、たった一つの過ちがどのような事態を引き起こすかわかりません。遺漏のないようにお願いいたします」ハリマの言葉をしおに賢者たちは円卓を離れていった。