王女の部屋で
それより少し前のこと、ハラドの王宮ではちょっとした騒動が起こっていた。
王女の部屋では侍女セシルが身代わりとなって王女のベッドに横になっていた。その脇には兄のアルベルト王子が付き添っている。王子は密かに用意しておいた王女の髪の毛をセシルの左手の小指に巻くと懐から小さな白い紙包みを出して中から豆粒ほどの小さな木の実を取り出した。
白蓮の儀の後、王女を救うための手段は迅速に行われた。森の賢者からの忠告ですべての手はずは必要最少限の信用できる者だけの間で行われた。そのため、賢者からの手紙も王子自らが受け取った。手紙のほかには小さな木の実を4つ預かった。
「これでしばらくキャサリンの姿になれるということだ。すまないが、これを飲んでくれないか」声を潜めて王子が言った。
「わかりました」セシルは恐る恐る木の実を受け取った。王子から事情を話されたとき、身代わりを自ら引き受けたが、やはり得体のしれない木の実を飲み込むのは怖かった。しかし王女はとてもよくしてくれた。というより、実の姉妹のように接してくれた。
男として育てられていたため、チャールズ王子が本当は女であると知っていたのは密かに身の回りの世話をする侍女など、ごくごくわずかな人間だけだった。
王女はほぼ同世代のセシルの話をよく好んで聞きたがった。王女の佇まいはおかしがたいものがあったが、セシルの話を聞いているときの王女は10代の少女そのものだった。その嬉しそうな顔を見ていると、話している方までが幸せな気分になったものだ。王女も少しだけ年上のセシルに対しては実の姉のように接してきた。身分の違いがあるのでセシルは自重していたが、それでも実の妹のように見えたことは一度や二度じゃなかった。
王女を怪物なんかに渡せない。飲まなくてはならない。そう思っても指が小刻みに震えている。セシルは息を静かに吐いた。覚悟を決めて、木の実を口に入れるとコクンと飲み込んだ。
すぐに身体に異変を感じた。体全体がポカポカ温かくなったと思ったら、体中に生温かい体液がぐるぐる廻っているのを感じた。頭の中がグラグラして意識を正常に保てなくなった。体を起こしているのか、寝ているのかすらわからない。スーッと意識が遠くなってきた。このままでは意識を失ってしまうと思った。薄れていく意識の中でなんとかとどまっていなくてはと懸命に抵抗を試みた。何度も意識がなくなりそうになったものの、数分後、意識の切れ端がかろうじてこちら側に引っかかっていた。随分と長い時間がたった気がした。少しずつ意識が元に戻ってきた。すべての出来事は分厚い膜の外側で起こっているように感じられた。
全身に汗をかいていた。揺れているような感覚が残っている。何か自分の体ではないような気がした。ようやく落ち着きを取り戻し、ふと王子の方に目を向けると、まるで幽霊でも見るような目でこちらを見ている。
「どうか、なさったのですか」思わず声をかけた。こんな王子を見るのは初めてだった。「どうかも何も…」王子は言葉を詰まらせた。そしてそばにあった手鏡をだまってセシルに渡した。
(?…)よくわからないまま、セシルは渡されるままに手鏡を見た。「えっ」鏡を見て思わず声を上げた。そこには見慣れたいつもの顔はなくキャサリン王女が映っていた。「まさか、これほどとは…まるで、キャサリン本人だ…」王子はようやく口を開いた。
(…王女さま…)王女の姿になるとは聞いていたが、半ば信じられなかった。ここまで似ているとは。というより王女そのものだった。王子の驚きようがそのことを的確に示している。
王子は何かを思い出したかのように、あわてて話を始めた。「正直、初めはうまくいくかどうかわからなかった。しかし、これなら絶対に見破られはしない。数時間はこの状態が続くらしい。君には本当に申し訳ないことだと思っている。怖いだろうがもうしばらくキャサリンのふりをしていてくれ」話が終わるとそそくさと王女の部屋から出て行った。
満月がきれいな夜だった。白い月が部屋の中に細長い窓の形の影をくっきりと落としている。セシルが木の実を飲み込み、王女に変身してから、もうじき6時間がたとうとしていた。
セシルにとって本当に長い時間だった。眠れてしまえばどれだけ楽だったかしれない。でも、緊張と底知れない恐怖からまったく眠ることができなかった。眠ることもできず、起きることも許されずというのはつらいことだった。音がするたび、生きた心地がしなかった。
じきに夜が明ける。王女は今頃どこに逃げているのだろうか。セシルはようやく、王女に思いを巡らせることができるようになった。そのとき…。
ギィー。扉のきしむ音と共に誰かが入ってきた。反射的にセシルの体がこわばる。コツ…、コツ…、コツ…。冷たい足音がだんだんと近づいてくる。足音はベッドの脇でピタッと止まった。心臓の音が聞こえてきそうなほど、激しい鼓動を打っている。
「王女さま、御気分はいかがですか」セシルもよく知っているケイトの声だ。なんだか拍子抜けした。と同時にほっとした。あんなことがあってまだ間もない。考えてみれば非常事態の中、侍女が見回りに来てもなんら不思議はなかった。ケイトはそのまま、ベッドの脇まで来た。セシルは起き上って、すべてを話してしまいたい衝動に駆られた。しかし、このことは固く口止めされている。でも、ケイトなら話してもいいんじゃないか。やさしいケイトが一緒にいろいろ考えてくれるような気がした。気付かれないようにそっと薄目を開けてケイトの方を見た。はっとした。ケイトも自分の方を見ている。冷ややかな目でまるで何かの品定めでもするかのように上から下まで視線を動かしている。薄暗くてはっきりとは見えなかったが、直感で思った。(…ケイトじゃない)
(…気が付かれたかもしれない)ケイトの視線にまともにぶつかったとき、体が一瞬動いた気がする。もし、偽物とわかったら殺されるかもしれない。
そのとき、急に体が浮いたような感覚がした。身体が熱くなってきた。(…この感じは…)木の実を飲んだ時と同じ感覚が襲ってきた。頭がくらくらする。意識が遠くなってきた。(…変身がとける…こんなときに…)セシルは何とか意識を保っていようと右手の親指の爪を人差し指にグイッと食い込ませた。しかし、身体が言うことをきかなくなり、すぐにそれも出来なくなった。かすかな抵抗も空しく、すうっと意識がなくなった。
どのぐらい経ったことだろう。セシルは朦朧としたまま、ゆっくりと目を開けた。蛇のように表情のない顔がすぐ目の前でセシルの顔を覗きこんでいる。知らない男の顔だ。ケイトの服をまとった男は目を大きく見開きながら、さらに顔を近づけて言った。「お前、何者だ…。王女はどうした」セシルは力の限り叫んだ。
扉が突然開き、王子がハラドの兵を引き連れ、王女の部屋に入ってきた。男は素早く窓に向かって走り出した。と同時に何本もの矢が男めがけて飛んで行った。一本の矢が男の右肩に刺さった。男はそのまま走っていくと、迷うことなく体ごと窓ガラスにぶつかっていった。窓ガラスを突き破って男は外へ逃げて行った。兵士がすぐに後を追った。
「大丈夫か」アルベルト王子がセシルに声をかけた。セシルは胸を押さえたまま、うずくまっていた。
「大丈夫です。助けていただきありがとうございます」セシルが顔を上げた。うっすらとした光の元でもわかるほど、その顔は真っ青だった。唇も微かに震えている。
「怖い思いをさせてすまなかった」セシルの様子が落ち着くまで少し時間をおいてから再び王子が口を開いた。「もし、わかれば教えてほしい。なぜ、奴はあのような女の衣服を着ていたのだ」
「…王女様の侍女を務めさせていただいているケイトに化けていたのでございます」思い出すだけでも、気が変になりそうだったが、気力を振り絞ってセシルが答えた。
「化けていた?」
「はい、声はそっくりでございました。はっきりと見ることはできなかったのですが、おそらくは見た目も。まるで私が昨日いただいた木の実を飲んだときのように」
「奴も木の実を飲んだのであろうか」
「それはわかりません。この部屋に入るときにはすでに化けていたのだと思います」
「たしかに、この部屋に入るときには女性そのものだった」
「ただ…」
「ただ?」
「雰囲気がケイトとは全く違ってございました。何かを調べ上げるかのようにじいっと私を見つめていました」
「調べ上げるように?」
「は、はい、まるで品定めでもするかのように上から下まで…」セシルは全身に隈なく浴びた氷のような視線を思い出して身震いした。
「そうか、もしかしたら、他の者がキャサリンに化けて、キャサリンを逃がそうとしていたのも考えていなかったわけではないのかもしれんな」壊された窓からのゆるやかな風が王子の薄絹のような髪をなでた。セシルはその様子を見るでもなく視線を王子に預けたまま、おずおずと尋ねた。「あの……私は少しはお役にたてたのでございましょうか」
「ありがとう。十分だ。後はキャサリンが一刻も早く賢者様のもとへつくことを願うのみだ」王子はそれだけ言うと、兵士たちの後を追って部屋を出て行った。