グリフォンの背中で
そのころ、ハラドから西に向かって凄まじい速さで飛んでいる巨大な影があった。夏の光をその銀色の翼に受け、雲ひとつない空を悠然と泳いでいる。小さな城ほどもあるこの怪鳥は、グリフォンという上半身が鷲で下半身がライオンという怪物。首には大きな革製の鞍をつけ、先頭の小柄な老人が手綱を握っていた。老人の名はエンユウ。クシマと同じ五賢者のうちの一人で灰色のローブをまとっている。その後ろには2人の若い女性が乗っている。
(これは大変なことになった)エンユウは後ろの女性を肩越しにチラリと見ながら思った。青い乗馬服に身を包んだ女性は華奢な肩をすぼめて真剣な表情を浮かべながら、鞍のもち手を掴んでいる。目の覚めるような青地に金糸の凝った刺繍が施してある乗馬服はいかにも王族が身に着ける乗馬服といった趣があった。
「寒くありませんかな、エレナ殿」わずかに後頭部に生えている白髪と口の周りを覆った白いひげをを風になびかせながらエンユウが言った。左のほほから顎にかけて大きな傷がある。
女性は自分が呼ばれているのも気づかず前方をぼんやりと眺めている。ようやく気付いて「エレナは私でしたわね。ごめんなさい」と言った。後ろで束ねた金色の髪が風にそよいでいる。
「すみませんな。しかしすぐにこの名前にも慣れます。今奴らはあなたが宮殿からいなくなって血眼になって探していることでしょう。奴らの仲間には人間と見分けがつかないような輩もいます。奴らがどこにいるかわからない以上、油断は禁物です。不自由でしょうが、しばらくはエレナ殿として振る舞っていただきます」
「ごめんなさい。すぐに慣れるようにします」
「エイレン殿は?」
「ありがとうございます、大丈夫です」エレナの後ろの若い女性が答えた。体つきも年齢もエレナとあまり変わりなかったが、褐色の肌に黒い髪をしている。2人とも緊張しているせいか表情が堅い。
「しかし、見事な乗馬服ですな。兄上のですかな」エンユウがエレナに言った。
「…いえ、男性として育てられていたものですから…」堅い表情のままエレナが言った。
「では、乗馬もたしなまれたのですか」
「ええ、少しだけ」緊張の中にも仄かにはにかんだ表情を浮かべてエレナが言った。
「なに、恥ずかしがることはございますまい。何にせよ、できないよりもできるということはよいことです。特にこれからの旅路には必要になることでしょう」エンユウの言葉が聞こえなかったか、エレナは何も答えなかった。ひと際冷たい風がエンユウのほほを掠めた。これから起こるであろう事を思うと暗澹たる気持ちになった。(この時期にハラドに王女が生まれていたとは…扱いを間違えると取り返しが付かなくなる)
ハラドの国王は「白蓮の儀」が混乱のうちに終わると、すぐに王女を救うための行動に出た。かねてから賢者との評判のあった老人を密かにヨックの森に尋ね、事の顛末を話した。森の賢者は早速エンユウに当て手紙をしたため、王女をハラドの宮殿から連れ出す手はずを整えた。
詳しい事情を説明されないまま、王女はすぐに城を出された。信頼の置ける共をつけ、ヨックの森へと馬を走らせた。そこで王女は侍女のエイレンとともに人外どもの手から逃れるべくグリフォンに乗って五賢者たちがいるサモ公国へと向かっている。
グリフォンはほとんど羽ばたくことなく風に乗って進んでいる。いくつもの山や谷が飛ぶように後方に流れていく。力強い飛翔は広大な土地を狭く感じさせた。あっという間にハラドからラビスを抜け、ストラの大平原にさしかかった。緑の濃淡に彩られた景色が眼下を覆った。どこまでも代わり映えのしない風景が延々と続いている。このまま緑一色の景色が続くと思いきや、突然平原を切り裂くように北から南に果てしなく続いている巨大な亀裂が現れた。亀裂はどこまでも深く、底は見えない。ただ漆黒の闇が広がっている。その幅も驚くほどで、グリフォンの速さで飛んでいても、いつまでも向こう側が見えてこない。
「御覧なされ、この亀裂が三龍の巣です」
「三龍の巣?」
「さよう。大地を北から南まで続いているあの巨大な亀裂は、そのあまりの大きさゆえ、この世に君臨する三匹の龍の巣と言われております」
「三匹の龍の」と言うとエレナは視線を降ろした。見渡す限り黒一色の景色が続いている。小さく体を震わせて、エレナが続けた。「なんだか少し怖いですね」
「確かに。見てるとなんだか吸い込まれそうな感じがしますな。しかし、ハラドから我らが目指すサモ公国に行くにはどうしてもこの亀裂を横切らなくてはなりません。もうしばらくご辛抱ください」
突然暗い鳴き声のような音が聞こえた。エレナが短い悲鳴を上げた。それは普段耳にするような音ではなかった。一筋の光も届かない漆黒の世界の奥底から聞こえてくる低い低い音。それは残響を伴いうねるように響いている。いつ途切れるともわからない太く低い音は大地に穿たれた亀裂の闇に棲む巨大な怪物の咆哮を思わせた。尾を引いて続くその音はどこまでも暗くさびしく響いた。
エンユウはエレナが目をきつく閉じているのに気付いた。下に広がる闇を絶対に視界に入れないという強い意思が感じられる。長い長い咆哮が終わった時、ようやく目を開けた。その様子を見てエンユウが言った。「どうかされましたか」
「…今のは」エレナが言った。
「龍の鳴き声と呼ばれていますが、おそらく風のいたずらでしょう。怖がるには及びません」エンユウが答えた。「三龍の巣は話だけです。本当に三龍が棲んでいるわけではござらん。つまらん話をしてしまいましたな。お忘れください」
「いえ、そんなこと。でもあの声を聞くと何か胸が圧迫されるようで」エレナが言った。
その後も巨大な亀裂は不気味な音を幾度か上げた。そのたびにエレナは小さな悲鳴を上げ、奈落の闇から目をそらせた。その度にエイレンは後ろから声をかけ、緊張を和らげようとしている。(やれやれ、余計なことをいうものじゃなかったわい。怖い思いはこれから嫌というほどしなければならないというのに。気の毒なことをした)エンユウは肩越しに後ろの様子を気にしながら思った。
しばらくしてようやく亀裂を渡り切った。眼下にはこんもりとした林や草原が広がっている。少し先には湖面が午後の光を受けてキラキラと光っているのが見える。だれも口にしなかったが、エレナがほっと胸をなでおろしているのがエンユウにはよくわかった。
柔らかい風が頬をなでる中、かすかな獣の匂いが鼻をかすめた。グリフォンに乗ってもう数時間が経とうとしているが、2人の表情は硬いままだ。(わけもわからないまま、巨大な怪物に乗せられ、大空を飛んでいる。おまけにあんなに気味の悪いところを飛ばされたんじゃ、不安になって当然じゃ)
「あの…まだしばらくかかるのですか」エレナが遠慮がちに言った。
「決して近い場所ではござらんが、ドラコならひとっ飛びです」そう言うと、右手で鞍をポンポンと2回叩いた。銀色の怪鳥はそれに答えるように2回大きく羽ばたいた。
2人にとってももちろん空の旅は初めてだった。ただでさえ緊張しているものを暗闇の中からの不気味な音でさらに緊張は高まった。それでも三龍の巣を越えてしばらくするとようやく景色を楽しむ余裕が出てきた。オモチャのような家屋がひしめき合った村々や遠くに見える緑の山々、色鮮やかな湖はだんだんと2人の興味を引くようになった。2人は下に広がる景色を見ながら、時折小さな笑みを漏らすようにもなった。エンユウはその様子を肩越しに見てほっと胸をなでおろしている。しかし、それもほんのわずかな間だった。2人の視線ははるか前方に釘付けになっている。
かなたに聳えるモーリ山脈。西の大国ラジル北部のモーリ山脈は世に数ある山脈の中でもその高さは群をぬき、雲を下に従え、山々の頂上には常に真っ白な雪を湛えていた。峻険な山々はその荘厳な山容で他を圧倒していた。しかし、2人の視線はそのはるか上を漂っていた。モーリの山々を見下ろすような位置にかすかに見える巨大な影があった。
「あれが、母なる山ユングなのですね」エレナが言った。
「さよう、あれがユング山です。すべての命の源です」かなたに聳える巨大な山影にまっすぐに目を向けながらエンユウが言った。
ユング山。母なる山。天突き山。神住む山。ユングの偉大さを称える呼び名は多い。イル川、シワン川、イルグ川をはじめとするユング山に端を発するいくつもの川は滋養に満ちた水を大地にもたらし、ありとあらゆる命を育んだ。まさに命の源と呼べる存在だった。また、ユングはその大きさゆえ、はるか彼方の国々からでも見ることができた。そのため、世界中のありとあらゆる国々の人々から畏敬の念を持って見られた。
「空から見ると大きさも格別でしょう。母なるユング山はいかがですか」エンユウは笑いながら2人のほうを振り返るようにして言った。しかし、エレナは答えることなくただ大きな瞳を開いたままただ茫然と前方を見ている。
「どうかなさいましたかな」あまりの大きさに驚いているのをわかっていながら、2人の表情を楽しむようにエンユウが聞いた。
「…すごい」エレナが言った。エイレンも同じように目を丸くしている。
「ハラドからでもユングの山はご覧いただけるでしょう」エンユウが言った。
「でもこんなに大きいだなんて…正直怖いくらいです」エレナが言った。言葉は発しているが、視線はユング山に釘付けになっている。
「怖い?」そう言うとエンユウは改めてユング山に視線を投げた。ユング山はほかの山に比べて大きさが違いすぎた。峻険な山々が連なるモーリ山脈ですら、ユングのすそ野の一部分をわずかに隠しているに過ぎない。世界の西の端にあるのでぼんやりとしているが、あまりに大きすぎて、何かこちらに向かって倒れてくるような圧迫感があった。「なるほど…あの大きさは確かに圧倒されるものがありますな」
「私どもの国からもユングの山は見ることができますが、こんなにも大きく見えることはございません」エイレンが補足するように言った。
「なるほど…、ここからの眺めも立派なものですが、ラジルなどから見るとそれはもう圧倒されます。天突き山の由来がわかるような気がします」エンユウが言った。銀色の怪鳥はさらにスピードを増して西に西にと向かって行った。
まだ、夕方には早かったが、巨大なユングの肩に早くも日が落ちようとしている。グリフォンはストラの大平原を越え、サモ公国の北部に位置するキトナ山脈の上空を飛んでいた。ここに五賢者たちが隠れ家にしている洞窟があった。銀色の怪物はハラドからサモに及ぶ気の遠くなるような距離をほんの数時間で飛び切った。
岩の剥き出しになった山々を所々濃い緑が覆っている。緑色の谷あいを茶色い川がくねくねと流れている。エンユウは少しずつ高度を落として、注意深く眼下の景色を見ている。そして左手に小さな滝が見えてきたのを機にエンユウが言った。
「ようやく着きましたぞ。これから降下します、着くまでの間は目を閉じていた方がいいでしょう。少し揺れますぞ。しっかり捕まっていなされ」エンユウは上空でグリフォンを旋回させると峻険な山に向かって、高度を落としていった。そして覆いかぶさるように茂った木々の細い隙間を縫うようにすり抜けて行った。その間、エレナたちは言われたとおり、ぎゅっと目を瞑っていた。すり抜ける瞬間、枝木が激しく揺れた。同時に強い風がエレナたちの顔を叩いた。
グリフォンは時折微妙に方向を変えながら下降を続けた。そのたびにスピードが増減する。2人は鞍の持ち手に捕まりながら、体が大きく前後するのを必死に耐えた。
すぐに緑の道を抜け、中腹に開けた草地が現れた。徐々に地面が近づいて来る。翼をはためかせ徐々にスピードを落としていく。強烈な風圧に周りの木々がしなる。そして着地の直前、グリフォンは数回羽ばたいて大きな羽にたっぷりと空気をはらませ、草地の中央にふわっと着地した。
「お疲れ様でしたな」エンユウが振り向いて話しかけたが、最後の急降下が効いたのか、2人とも少し青い顔をして返事の代わりに軽く会釈を返した。「申し訳なかったですな、この草地への入口辺りはあまりスピードを落として突入するとかえって危険な目にあいますからな」言い訳をするようにエンユウが言った。
グリフォンはゆっくりと草地の真ん中あたりまで歩いて行った。エレナは巨大な体に揺られながら不安気な視線をあちこちに漂わせている。エレナの落ち着かない様子を背後に感じてエンユウはこれから起こるであろうさまざまなことを想像した。今日の出来事がそうだったように2人にとって思いもよらないことの連続だろう。これから2人を待ち受けている危険に遭遇したとき、2人は無事に乗り切れるだろうか。そもそもハラドに王女が生まれたことでエンユウですら想像しきれないことが起こるはずだ。とにかくこの少女をなんとしても人外に渡してはならない。エンユウは改めて思った。
銀色の怪物は静かに立ち止るとそっと体を伏せ、エンユウたちが楽に降りられるように首を低くした。エンユウは鞍の脇に取り付けてある梯子をエレナとエイレンの座部の間に立て掛けた。2人はこの大きな怪物がとてもよくしつけられていることに目を丸くしながら、慎重に梯子を降り始めた。「ドラコの羽は刃物と同じ。お気を付けなされ」エンユウはそう言うと、老人には似つかわしくない身軽さでヒョイと鞍から飛び降りた。エレナとエイレンは地面に降り立つや、そそくさと怪物から離れて行った。
「ありがとよ、ドラコ」エンユウがグリフォンの前脚をポンポンと叩くと、ドラコと呼ばれたグリフォンは力強く地面を蹴って再び空高く舞い上がった。夕日を背中でキラキラと反射させながら、あっという間に見えなくなった。