命の水
バラキが目を覚ましてから数日が経った。いつものようにクシマは朝の散歩をしていた。村を包むように漂っていた禍々しい気はようやく感じられなくなった。
「相変わらず、いい風が来るのう」クシマは歩きながら両腕を伸ばした。厳しい暑さをはらむ前の穏やかな風が心地よく頬を撫でた。草のかすかな匂いが鼻をくすぐった。
村の西から南にかけて畑の前をとおり過ぎて、左手に家屋を見ながら東に向かって歩いて行った。右手にはこんもりとした林が見える。
(そろそろ引き揚げなくては行かんな。バラキの傷もある程度癒えたことだし…。ハリマもいるとはいえ、エレナ殿たちのことも心配じゃ。早くゴーレの木が芽吹いてくれれば…)考え事をしながら歩いていると後ろから子供が声をかけてきた。振り向くとリルが立っていた。手には小さな桶と柄杓を持っている。
「どうした、こんな早くに」
「ちょっと、クシマ様に用があって」
「リルがいないとまたお父さんたちが心配するぞ」
「平気だよ。もうトロールも現れないし。クシマ様がやっつけてくれたじゃない」リルは目をキラキラさせながら話した。こういう目をしたときのリルをクシマは前にも見た気がした。
「で、用とは何かな」
「いいことを教えてあげる。前に言ったのを覚えてない?」リルはあれ以来、毎日のように遊びにやってきていた。そのたびに何か話したそうにしているのをクシマも感じていた。
「それは楽しみじゃな」
「本当?」
「本当じゃとも」リルの目を見ながらクシマはニッコリと微笑んだ。
「これなんだ」リルはズボンのポケットから小さな種を取り出した。
「なんじゃ、それは」
「いや、ただのラクト柿の種だよ」
「それがいいものなのか?」
「まあ、見てて」そういうと足元に指で小さな穴をあけるとその中に種を植えた。
「これからが秘密さ」そう言うと小さな水桶から種を植えたあたりに柄杓で水を注いだ。見たところ、普通の水の様に見える。
「何をしたんじゃ」
「見てて、もう少し」リルは本当にうれしそうな顔をしている。しかたなくそのまましばらく眺めていた。でも、何も起こる様子はない。でもリルは相変わらずニコニコしている。クシマはその様子を楽しそうに眺めている。「すごいことが起きるよ~。クシマ様だって見たことないよ、絶対」リルは植えた場所にこれでもかと顔を近づけて、これから起こることを今か今かと待ち受けている。5分たった。まだ何も起こらない。
「おっかしいな」リルが植えた場所を叩きながら言った。
「何も起こらんのう」リルと同じように顔を近づけながらクシマが言った。
「もうちょっと待って…もうちょっとなんだよ、きっと」
「それじゃ、楽しみに待たせてもらうとしよう」クシマは銀色のヒゲをなでながら言った。
「きっとクシマ様も見たことないと思うよ」リルはさっきと同じことを繰り返し言った。それでもクシマは「それは面白そうじゃな」と、さも初めて聞くかのように答えた。
2人は種の周りにしゃがんでじっと待った。リルは時折チラチラとクシマの様子を気にしながら、やきもきしている。でも、結局何も起こらないまま10分が経った。「なんでだろう」リルはしきりに首をかしげている。
「何が起こるのかわからんが、そういう時もあるさ」クシマはガックリと肩を落としているリルの肩をポンと叩いた。
「クシマ様、じゃあこっちを見てよ、すぐだから」リルは再び小さな種を取り出した。さっきの種よりひと回り小さい。
「見てもいいが…」リルが何をしようとしているのかわからなかったが、また失敗しては可哀そうだとクシマは思った。
「お願い、これだけ。すぐだから。お願いだよ」
「わかった、じゃあ見せてもらうとしよう」クシマはリルがあまりに熱心なのでその小さな種だけは見ることにした。
「今度こそ大丈夫だよ」リルは再び指で小さな穴を開けた。そして種を親指と人さし指でつまむと、額に当てて祈るような仕草をした。それから穴に種を植え、同じように水をかけた。すると今度はすぐに芽が出た。芽は見る間に大人の背丈ほどに成長し、小さな実がいくつかなったかと思うと、あっという間にしおれて、そのまま土に戻ってしまった。ほんの数秒の出来事だった。
「ありゃりゃ?」
「何じゃ、今のは…」さしものクシマも言葉を失っている。これまで円卓の賢者として、いろいろなことを見てきたクシマだが、初めて見る出来事だった。そして種を植えた場所の土をつまんでは指の中でほろほろと崩してみた。(…どういうことじゃ)
「ひょっとして…」クシマが言った。「この桶の水はこの間言っていた、ため池の水じゃな」
「さすがクシマ様。大正解」リルはもう大喜びだ。でもクシマは難しい顔をして黙り込んでいる。
「クシマ様、どうしたの?」
「リル。これは村の重大な秘密ではないのか」
「そうだけど…クシマ様には教えたかったんだ」
「だからと言って、村の秘密をほかの人に教えたりしてはいかん」
「いいんだよ。クシマ様だもの。クシマ様にまで、秘密にするっていうのが間違ってるんだ。村の恩人なのに…」少しふてくされたようにほっぺたを膨らました。
ふとクシマはリルの背後から近づいている人影に気づいた。クシマが後ろを見ていることに気づいたのか、リルはクシマの視線を追うように振り返った。
「父さん!」リルは大声を上げた。リルの父親ムサシだった。
「リ、リル…」ムサシは肩で息をしている。リルはクシマの後ろに隠れたが、クシマの方が背が低いため、隠れきれていない。
「お、お前何をしている」ムサシが言った。顔色は真っ青だ。
「な、何をって、クシマ様に『命の水』のことを教えていたんだ」ムサシの顔色を伺いながら、恐る恐る言った。
「教えていたじゃない。それがどういうことかわかってるのか」ムサシが語気を強めた。
「わしもいけなかったのじゃ。リルが水を持ってきた段階で、何をしようとしているのか気付くべきじゃった」
「いや、それは無理からぬこと。クシマ様にはまったく責任はございません」
「父さんだって、クシマ様に秘密にしておくのはおかしいって母さんに言ってたじゃない」目に溜まった涙は今にもあふれそうだ。
「…あれを聞いていたのか」ムサシはリルの足元に視線を落とした。心当たりがあるのか、少し時間をおいて言葉を継いだ。「個人的にはそう思っても、村で決めたことは守らなければならない。個人の考えだけで簡単に打ち明けていい内容じゃないんだ」
「ムサシ、もういい」家屋の陰から声がした。驚いて後ろを振りむくと家屋を背にスオウが立っていた。
「村長、どうして」
「お主、1階へ降りるとき、階段を踏み外したろう。あんな大きな音を立てられて、目を覚まさん方がどうかしている」
「村長、申し訳ございません。実は…」
「話は聞いておったよ。確かにリルの言う通りかもしれん。クシマ様にまで秘密にすることではない。クシマ様は村の恩人じゃ」ムサシの話をスオウがさえぎった。
「いや、それには及びません。村には村の事情もございましょう」クシマが言った。
「いいのです。『命の水』は確かに村の宝。『命の水』があったからこそ、村は貧困から脱け出せた。だから、あの水のことは村以外の誰にも言わなかった。しかし、このことは、そもそも恩人であるクシマ様たちにまで隠しておくことではなかったのです」スオウの話を聞いてリルはクシマの後ろから顔をのぞかせた。そして事の成り行きを探るようにムサシとスオウの顔を交互に見ている。
「よかったのですか。大切な村の宝の秘密を」
「よいのです。五賢者様にまで秘密にしておく理由はございません。もともと緘口令を敷いていたのはこの私なのです」しばらくの沈黙の後、スオウは一つ一つ言葉を選ぶように話し出した。「ため池の水が不思議な力を持ち始めたのはちょうど100年ぐらい前でしょうか。私の祖父がまだ若かったころの話です。何度も話してくれました。まあ、そちらの話は祖父が直接体験しておりますので、本当に興奮して話してくれました」
「100年ほど前ですか。ではその日を境に村の生活が豊かになったと言うことですか」
「はい、それまでは文字通り爪に火をともすような生活だったようです。それが、水が不思議な力を持つようになってからは、作物が恐るべき速さで成長し、しかも、見事な実をつけるということで、村の生活は一気に豊かになったと言うことです」
「しかし、シュノンの市場ではジロン産の野菜は特に見なかったように思います。あれだけおいしい野菜ならば、それこそ大変な人気になると思うのですが」
「『命の水』のことがもれてしまう危険を考えて市場へは出荷していないのです。お金が必要な際は、それぞれ行商に行きます。場所がばれないようにわざわざ遠くまで行って野菜を売ります。決してどこでつくられた物かを明かさないようにして。それでも、ここの野菜ならひと目見ただけで多くの者が喜んで買っていってくれます。産地を探らないことを条件にしているのです」
「それにしてもすごいものですな、『命の水』というのは。目の前にしても信じられない思いです」
「そうですな、まさに『命の水』でございます」
クシマとスオウの話を聞いて、リルはクシマの後ろから出てきた。さっきまで泣いていたのにもう顔は笑っている。
「あ~、びっくりした。村長おどかさないでよお。叱られると思った」リルはスオウの前まで出てきて言った。スオウはカッサに比べてリルに厳しくないので、リルも友達のような感じでしゃべることがよくあった。
「リル、調子に乗るんじゃない」ムサシがリルの頭に拳骨を食らわせた。「ご、ごめんなさい」リルはまたまたクシマの後ろに隠れてしまった。
「あの…村長…」リルが恐る恐る声をかけた。「ラクト柿の種は『命の水』をかけても何も起こらなかったのに、ストラ豆はあっと言う間にしおれてしまったのはなんで?」
「リル、『命の水』は命あるものすべてに同じ結果を齎すわけではない。ストラ豆はほんの少しの量でもすぐに成長してしまう。だから、どの作物がどれだけの量が必要なのか、みんなわかって水をあげている。あげすぎれば、すぐにしおれてしまう。量が多ければ『命の水』ではなくて、『死の水』になってしまうのじゃ」
「だから、ストラ豆はあんなに早くしおれちゃったんだね」
「でもラクト柿もストラ豆ほどではないが、ちゃんと『命の水』の影響は受けておる」スオウはリルの後ろを指さして言った。見るとさっき植えた場所にはもう大人ほどの背丈の木が生えていた。
「スオウ殿、それでは一つお願いがございます。実は村の四隅にあるゴーレの木の種を植えさせていただきました。ひとたび芽吹けばトロールなど、この村に入ってくることはできなくなりましょう。どうか『命の水』を使ってゴーレの木を成長させてくださいませんか」
「ゴーレ、初めて聞く名ですな。いづれにしてもお安い御用でございます」スオウは恭しく頭を下げた。
「僕がやるよ」すかさずリルが言った。
「お前は出しゃばらんでいい」釘をさすようにムサシが言った。
「いいではないか。リルが持っている『命の水』を使うことにしよう」なだめるようにスオウが言った。
「…いいの?」ムサシの顔色を窺うようにリルが言った。ムサシは苦虫をかみつぶしたような顔をして「今度だけだぞ」と言った。




