カオルの花
一行は再び歩を進めた。極端に怯えていたエレナは何事もなかったかのようにクリスと話している。時折、笑顔を見せるなど、特にこれまでと変わったような素振りはない。エレナの件が勘違いだとわかって一行にもなんとなく安心感が広がったのか、あちらこちらで話し声が聞かれるようになった。
「ああ、ビックリした」ラーガが言った。
「まったく、エレナ様にも困ったもんだ。あんな小さな光と怪物を見間違うなんて。まあ、昔っから高貴なお方ってのはちょっとばかりおっちょこちょいが多いと相場が決まってっけどな」ナーガがヘラヘラしゃべった。
「えっ、そうなの」ラーガはプッと噴き出した。「なんか、エレナ様がおっちょこちょいって面白いね」
「あんなおきれいな顔をしてるのにおっちょこちょいなんだからな」
「そうか、エレナ様っておっちょこちょいなんだ」ラーガは変に納得している。そのすぐ後ろでエイレンは一人馬を進めていた。少し遠巻きにエレナを見ながら、時折思いつめたような視線を馬の背に落としている。
「エイレン様」ラーガが振り向いて言った。
「えっ」考え事をしていたのかエイレンは体を小さくビクつかせた。
「あのさ、エイレン様」
「エイレンでいいわ」
「エレナ様っておっちょこちょいなの?」ラーガはあけすけに聞いた。
「ラーガ、そういうことはあまりはっきりとは言わない方がいいんじゃないかな」ナーガがあわてて言った。
「さあ、どうかしら」エイレンは小さな笑みを湛えて言った。
「けどあのエレナ様がおっちょこちょいってちょっと面白いね」
「そうね」
「えらい人っておっちょこちょいが多いんだって、知ってた?」
「いや、まあ、そういうこともあるって言うか、もちろん例外はありますが」ナーガが言い訳のようなことを言った。
「エイレンもおっちょこちょいなの?」
「さ、さあ、どうかしら」クリッとした目で無邪気に聞いてくるラーガを見ていたエイレンの目に涙があふれてきた。長いまつげを伏せると涙がつつっとほほを伝った。
「ど、どうしたの?」突然泣き出したエイレンを前にラーガがあわてて聞いた。
「ご、ごめんなさい。何でもないの」
「ごめん、僕変なこと聞いちゃったみたい」ラーガは自分が泣かせたと思っているのか、少し元気がない。
「違うの」エイレンは繰り返し言った。「あなたたちを見ていたらついうらやましくなって、そしたらわけもわからないまま涙が出てきちゃったの」
「なら、いいんだけど」と言いながらもラーガはまだしょんぼりしている。
「ごめんなさい。本当にそれだけなの」エイレンは華奢な肩を震わせている。ラーガもナーガもかける言葉が見つからなかった。
先頭を行くゾラとエンユウもエレナのことを話していた。
「一時ははどうなることかと思ったが、大したことにならなくて何よりじゃった」ふうっと小さな息をついてエンユウが言った。安堵の表情を浮かべているエンユウをゾラはじっと見ている。
「なんじゃ、ワシの顔に何かついとるのか」エンユウが言った。ゾラはプイと前を向くとそのまま馬に揺られている。
「聞いとるのか、ゾラ」
「どこに目をつけておる」ゾラがひと言言った。
「なんじゃと」
「エレナ殿はかなりショックを受けている」
「ショックとな」エンユウが言った。そしてチラリとエレナの方を見た。そこには和やかに話をしているエレナとクリスの姿があった。「そう言えば、ハリマも以前そんなことを言っておったが、とてもそうは見えん」エンユウが言った。エンユウの話が聞こえていないのか、ゾラは全く気にかける様子もない。
「どこがショックを受けているというのじゃ。楽しそうに話しているではないか」エンユウの言うとおり、エレナは時折笑顔を浮かべながら話をしている。「あれでショックを受けていると言うのか」
「今はいい」
「どういう意味じゃ」
「これまでにも時折手が震えておった」
「なんじゃと」
「ゴドラの恐怖が波のように襲って来るのだろう」ゾラに言われてエンユウはひと言「なるほどのう」と言った。
「お主、いつも小難しい顔をしとるが、なかなかどうしてよく見ておるではないか。いや、感心、感心」エンユウが続けて言った。そんなエンユウの顔をゾラはシラーッとした目で見つめている。
「なんじゃ」
「お主は動物の心は読めても人間の心は読めんようだな」ゾラがボソリと言った。
「な、何を言う、たまたまじゃ」真っ赤になってエンユウが言った。
「『水』を汲んで来た方がいいかもしれん」独り言のようにゾラが言った。
「『水』か…そうじゃな」エンユウが答えた。
ゾラはその日以来、姿を消した。
エレナの件は勘違いだと分かったものの、エイレンが泣き出してしまったことで、なんとなく重い雰囲気を引きずったまま、一行は薄暗い森をゆっくりと進んでいた。深い緑の世界は湿った空気と独特の匂いに包まれ、どこまでもどこまでも続いているように思えた。口を開く者は誰もいない。ただ聞く者の神経を逆なでするような地面にめり込む蹄の音だけが規則正しく聞こえてくる。鼻をつく臭い、どんよりとした空気、不快な音、馬を通して感じる地面のぬかるみ、すべての感覚が精神を蝕んでくる。
1週間がたった。姿を消していたゾラが再び合流した。相変わらずの重苦しい雰囲気の中、一行はもくもくと進んだ。顔を心待ち下に下げて薄闇の中をただ進んだ。エレナやエイレン、ナーガは息苦しさからか、少し息が荒くなっている。特にエレナは取り乱すことはなかったものの、顔はやつれ、顔色も優れなかった。エイレンはその様子を見るにつけ、悲し気な表情を浮かべた。
クリスやトシは馬を進めながら、時折後ろを振り返った。四方から見られているような感覚はまだ続いていた。いないとはわかっていても確かめないわけには行かない。逃げ場のない森の中、救いのきっかけになったのはトシのひと言だった。
「見てください、光が差しています」
「本当か」クリスが言った。
「どこじゃ」トシの言葉に騒めく一行。暗い森の中でトシのひと言は一行に希望を与えた。行く先に目を凝らして光の在り処を探る。しかし、深い緑に覆われた森が広がるばかりでそれらしいものは見えない。「ようわからんが」エンユウが言った。一行の顔に失望の色が浮かぶ。光の乏しい道行が長く続いただけに光に対する渇望も強い。しかし、わずかな希望が落胆に変わろうとしたとき、ラーガが叫んだ。「本当だ。光が差してる」再び一行に騒めきが起こった。
「どこだ」ナーガが言った。
「ほら、あそこだよ」ラーガの指差す方を見て、何人かがようやく安堵の声を上げた。まだかなり距離があるが、暗い森の中を一本の白い線が上下に貫いている。暗闇を貫く一筋の光は天から差し出された救いの手のように見えた。
「エレナ様、エイレン、ほら光が差しているよ」ラーガは思わず大声を上げた。
「ありがとう」やつれた顔を上げてエレナが言った。
それはたった一カ所に差し込んだ光だった。しかしそれは一行にとって大きな意味を持った光だった。誰が先導するでもなく、皆、光の元へと向かった。闇に疲れていた人は光を欲していた。乾ききった旅人が水を求めてさまようように。
光は力強く森の一画を照らしていた。暗い緑に包まれた世界の中でそこだけが白い光にさらされている。近づくにつれ、その場所だけが周りの景色から浮かんで見えた。
「見て、エレナ様、エイレン」ラーガが言った。周りを覆っている暗い苔はそこだけ生えていない。代わりに小さな草花が一本生えていた。見るも鮮やかな青い葉をつけた草花は白い花を咲かせている。深い緑一色に塗りつぶされたような世界の中で、天から降ってくる白い光に照らされた青い葉と白い花は神々しくさえ見えた。皆示し合わせたように馬を降りて、異空間に突然現れたような花を眺めた。
「きれい」エレナがうわ言のように言った。
「きれいな花だね。なんて花だろう。見たことないや」ラーガが顔を近づけて言った。
「こ、これは…」ハリマは驚きの表情を浮かべている。「カオルの花!」
「カオルの花?」エンユウは慌てて馬を降りてきた。そして、花を見て続けた。「これがカオルの花か。そんなことはあるまい。第一こんなところに生えているわけがないじゃろう」
「カオルの花だ」ゾラが言った。
「カオルの花の葉はもっと青いじゃろうが」
「この花はもう盛りを過ぎているのです」ハリマが言った。そして花の脇にしゃがむと小さな青い粒を拾った。「カオルの花の種です。ほかにも花が咲いていたのでしょう」
「なんです、そのカオルの花というのは」クリスがハリマに聞いた。
「強力な薬草です。別名呼び戻しの花とも言われています」
「呼び戻し?」
「黄泉の国へと旅立とうとする者を強引に呼び戻す花と言われています」
「しかし、この地にカオルの花が咲くことはない」エンユウが言った。
「確かに…その点は不思議ですが」ハリマはプックリとしたあごの下に右手を添えて考え込んでいる。
「いずれにしてもそんなにすごい花ならば、摘んでいかない法はないでしょう」クリスが言った。
「いえ、こうなってはもう終わりです。この花を煎じても効果は期待できません」
「そうだな」ゾラはいつものように羊皮紙を取り出し、このことを記載している。
「単に勘違いなのではないか」エンユウが言った。
「では種だけでも拾っていきましょう」クリスがしゃがみながら言った。するとハリマが「やめなさい。この種が花を咲かせるには百年は優にかかります。先を急ぎましょう」と言った。




