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誰かが見てる

 暗い森は続いた。足元がますます不安定になってきたため、一行は馬を引いて進んで行かざるを得なかった。先頭を行くトシは鬱蒼と枝を伸ばしている木々を通して注意深く太陽のありかを探しながら、慎重に道を進んで行った。相変わらず倒木は行く手をふさぎ、大きな根や石が足元を危うくし、コブだらけの木々が覆いかぶさるようにその腕を伸ばしている。


 森の雰囲気とまだ見ないトロールへのいいようのない不安で皆無口で道を進んだ。ただ、湿った足音だけが規則正しく耳に届いた。皆表情が固い。クリスだけが時折、自分の手の匂いをかいで、その度にその端正な顔をゆがめた。


 ナーガは目の前の光景の気味の悪さにキョロキョロと落ち着かない視線をあちこちに投げている。その懐でラーガも心細げな表情を浮かべている。そんな様子を察して、エレナが突然口を開いた。


 「ああ、おなかがすいた。はやくこの陰気な森を出てごはんを食べたいわ」

 「わたしもペコペコです」エイレンが笑いながら答えた。

 「ラーガは食べ物では何が好きなの」エレナがすぐ後ろのラーガに言った。不安げな眼差しで周りを見ていたラーガだったが、問われるままにあれこれ考え始めた。そしてしばらく考えた後「シチューがいいな」と言った。

 「シチュー、おいしいわね。私も大好き」エレナもラーガの話に合わせた。「だれが作ってくれるの」

 「オイラでさ」ナーガが答えた。珍しく少し照れている。

 「兄ちゃんのシチューはおいしいよ」


 「今度ご馳走してくださいな」場を和ませようとエレナはナーガにおべんちゃらを言った。意外にもナーガは「いや、エレナ様に召し上がっていただくほどの料理じゃないでさ」と少し謙遜している。

 「兄ちゃんのシチューは本当においしいよ、肉も柔らかいし…」ナーガを見上げるようにしてラーガが言った。

 「まあ、正直言って肉は特別性だからな、でもエレナ様に召し上がっていただくとなると…」

 「そうだよね、エレナ様はやめておいたほうがいいかも」エレナをチラリと見てラーガが言った。


 「まあ、ラーガったら。私がわがままであれやこれやと好き嫌いばかりしていると思ってるのね」エレナは唇をつんと尖らせ頬を膨らませてみせた。

 「いや、そんなことはないけど…でもやめておいたほうが…」

 「またそんなこと言って、柔らかいお肉の入ったシチュー、ぜひご馳走になりたいわ」

 「まあそこまでおっしゃるなら、作らないでもないですが」エレナにしつこく請われてナーガもまんざらでもない様子だ。


 「良かった、楽しみだわ…ちなみに何のお肉を使っていますの」ニコニコと笑みを浮かべながら大きな瞳で探るようにナーガを見た。

 「お肉ってほど、上等なもんじゃありませんが…」と言って、いつものようにもったいつけて、すぐに答えを言わずにラーガにわざわざ話を振った。「な、そんな大したもんじゃないよな、ラーガ」

 「そ、そうだね」

 「何のお肉ですの、気になるわ」


 「いや、本当に大層な肉じゃないでさ。確かにほかの肉じゃあの柔らかさは出ないでしょうが」

 「そんな意地悪ばかりおっしゃらないで教えてくださいな」

 エレナが繰り返し聞くとナーガは大きな咳払いを一つした。「秘密ってわけじゃないですが、正直言って人に話したことがない取って置きと言うか…」じらすような前置きの後、探るような目でエレナに聞いた。「どうしても聞きたいですか」

 「お願いするわ」初めはナーガに合わせていた感じのエレナもじらされるだけじらされて本当に気になってきたようだ。


 「特別ですよ」離れた目で恩を着せるようにエレナを見た。エレナはただコクリと頷いた。エンユウはまた始まったとばかりにシラーッとした視線でナーガを見ている。

 「その柔らかい肉と言うのは…」最後の最後までもったいつけてナーガはなかなか答えを言おうとはしない。

 「肉と言うのは?」身を乗り出すようにしてエレナが言った。


 「大ネズミでさ」

 「ネズミ…」エレナから笑顔が消えた。

 「他人に言っちゃだめですよ。言ったら、この辺りの大ネズミはみんないなくなっちゃいまさ。これが本当に柔らかくて…、正直言って、ウサギや豚じゃなかなかこうはいきません。特に腹の部分の肉はたまりませんや、いつもラーガと取り合いになります、ってのは冗談でラーガにあげますけどね、へっへ」言葉を失っているエレナの前でナーガはペラペラとしゃべり続けている。エレナは助けを求めるようにラーガを見たが、ラーガはたまらず、そうっと視線をそらした。


 「じゃあ、いつにしますか」

 「えっ」

 「シチューでさ」

 「そ、そうね、この旅が終わったら、ご馳走になろうかしら」引きつった笑顔を浮かべてエレナが言った。

 「なあに、大ネズミならこの辺りでもいないわけじゃありません。今度とれたらご馳走しましょう」


 「で、でも私のために、そんなに急いていただくのは申し訳ないわ」

 「なあに、ラーガが倒れた時はあれだけお世話になったんだ。ぜひ、ご馳走させてください」初めは左程乗り気ではなかったナーガだが、エレナがしつこくせがんだことで、すっかりその気だ。その様子を見てエレナの隣でエイレンはおかしそうに笑っている。


 「エイレン殿もぜひ、召し上がってください」ナーガが満面の笑みで言った。

 「えっ、私?」エイレンは驚いて目をパチクリしている。

 「遠慮することはないでさ。ラーガを助けてくれた一番の恩人だ。一番大きな肉をご馳走しまさ」


 「わたしは…その…」

 「良かったな、ナーガ、エイレン殿がシチューが好物で」クリスが後ろからチャチャを入れた。今度はエレナが笑いをこらえている。


 ハリマはナーガたちの一連のやりとりを振り返りながらじっと見ていた。

 「どうかされましたか」後ろにつけているゴシマが言った。

 「いや、感心していたのです」

 「感心?」

 「ゴドラやトロールなど、一番怖い思いをしているのはほかならぬエレナ殿でしょうに、あの若さでたいしたものです」

 「確かに、エレナ殿もエイレン殿もまだ10代とは思えませんな」振り返ってゴシマが言った。

 「これではどちらが守られているのかわかりませんね」

 「おっしゃる通りです」


 進むほどに森は深くなっていった。幾重にも重なった枝や葉で昼のさなかとは思えないほど光が入ってこない。トシは頭上を見上げ、太陽のありかを探すが、空が曇っているのか、ぼんやりとした位置すらわからない。大きな幹からくねくねと伸びた枝が、くもの巣のように一行の行く手を阻んでいる。道らしい道がなくなってかなり時間が経っている。トシは馬を停めた。


 「どうした、トシ」ゾラが言った。

 「迷ったようです」トシが言った。ゾラは黙って頭上を見た。あちこちから覆いかぶさるように腕を伸ばしている枝に密生している葉はほとんどの光をさえぎっている。太陽が今どこにあるのか、まったくわからない。ぐるりと周りを見回してみても手がかりになるようなものもない。ゾラは針金のようなひげを右手でなでて「そのようだ」と言った。


 「どうかしたのか」エンユウが2人に追いついてきた。ゾラはチラリとエンユウに視線を移し「道に迷ったようだ」と言った。

 エンユウはまっすぐ前を見て、それから後ろを振り返り、頭上を見た。方向がわからないことがわかると、エンユウは大きな鼻からフウーッと長い息を吐いた。そして「ここにこうしていても始まらん。とにかく前に進もう」と言った。


 「うかつに動くな」ゾラが言うのも聞かず、エンユウはずんずん前に進んでいった。慌てて追いかけるようにトシが馬を進めた。トシの耳にゾラが小さく舌打ちするのが聞こえた。


 樹木も張り出した根も、足元に転がっている石も倒木も、古い切り株もすべてが黒い緑一色で塗られている。その一帯は太古の原生林を思い出させた。生臭いような匂いが鼻腔に漂った。一歩前に進むごとにラジル馬のひづめが、生乾きのような緩んだ地面に沈んだ。そのたびにひづめはヌチャヌチャと粘っこい音を立てた。視覚も、嗅覚も、聴覚も、感覚もすべてが不快を催した。


 辺りを窺うようにして一行はゆっくりと馬を進めた。暗い生命力であふれているような森の中はしんと静まり返っている。それだけに絡みつくような足音が神経を逆なでした。


 いつものように注意を払いながら歩を進めているトシは奇妙な感覚に襲われていた。何者かがじっとこちらを見ている。進むにつれてその感じは強くなった。

 (…なんだ、この感じは)トシは思った。ハリマたちと行動をともにして、これまで人外とも何度か闘ってきたトシだったが、こんな感じは初めてだった。バクバクと心臓が高鳴っている。妙に息苦しい感じがする。手綱を握っている手から汗が滴る。トシはいつの間にか全身に鳥肌が立っているのに気がついた。


 (誰かいる)思わず後ろを振り向いた。しかし視線を感じた先には不恰好な木が上に向かって枝を伸ばしているだけだ。確かに背後に何者かの気配を感じた。しかし、誰もいない。でも誰かいるという感覚は残っている。しかも、絶えずこちらを見ている。倒木の陰から、うねった根の陰から、岩の陰から、大きな幹の陰から息を潜めてじっとこちらを見ている。トシは異様なのどの渇きを覚えた。


 トシは再び振り向いた。クリスと目が合った。クリスも同じようなことを感じていることはすぐにわかった。クリスはトシの様子を見てすべてを察したようにコクリと頷いた。


 「トシ」クリスが後ろから馬を寄せてきた。そしてくるりと回りに視線を投げると声を潜めて言った。「お前も感じたんだな」

 「…うん」

 「誰かが僕たちを見てる」

 「………うん」

 「こんな感じは初めてだ」クリスはゆっくりと後ろを振り向いた。ナーガやラーガはもちろん、エレナもさっきまでとは様子がまるで違っていた。落ち着かず怯えた子供のような目で盛んに周りを気にしている。その横でエイレンは腰に帯びた剣に手をかけながら、注意深く辺りを見回している。その細い肩はかすかに震えていた。


 「あの様子ではエレナ殿たちも気づいているな」クリスが言った。

 トシは答える代わりに小さく頷いた。

 「ゴドラにやられておるのだ」ゾラが言った。

 「どういう意味です」クリスが言った。

 「谷に落ちた瞬間を見ていたろう」

 「はあ、確かに見ましたが」

 「だからだ」ゾラがひと言言った。


 「だからってなんのことです。今ゴドラは関係ないと思うのですが」

 「ゴドラを見た者は精神的なダメージを受けることが多い。特に闇の中でな」

 「そんなばかな。あれだけのことでそんなことになるんですか」

 「あれだけ?」ゾラはチラリとクリスを見た。「ならば聞く。お主、あれ以来、ゴドラのことが浮かんだことは」クリスは思わず口ごもった。トシには分かっていた。クリスも自分と同じようにあの瞬間に見たに過ぎないあのゴドラの顔がいつまでも頭の中にこびりついていることが。


 あの顔はいくら時間が経ってもまったく忘れることができない。それどころかどんどん鮮明になって行くような気さえした。馬に揺られているとき、食事をしているとき、根を枕に眠りにつくとき、あの表情のない顔が、ゆっくりと回りながら谷底へ落ちて行く光景が頭に浮かぶ。


 「それが証拠だ」クリスの様子を見てゾラが言った。「あれだけのことがもうそれだけお主の心に深く刻み込まれておる」

 「考えないようにと思うな。さすれば奴らの思う壺だ」ゾラが続けた。

 「ではどうすれば」

 「自然のままにせよ」ゾラが言った。クリスは肩をすくめて「それができれば苦労はないですよ」と言った。


 嫌な疲労感が一行を襲う。誰も口にしないが、誰しもが暗い森が終わることを願っているのは明白だった。

 行く先に黒い木影が見えた。濃い緑色の世界に現れた塊は古い大きな切り株だった。周りの木と比べても極端に大きい。近づいていくにつれ徐々に大きさを増してくるその切り株は、前を通り過ぎるころには小山ほどにも見えた。


 切り株の根元には大きな穴が開いている。それは老いた巨人の口のように見えた。口の上の二つのくぼみはたるんだ老人の目に見える。その周りをいくつもの太い根がうねっている。根のところどころにはただれた皮膚のようなものがぶら下がっている。そのうちの数本がそばに生えている細い木に下からからまっていた。巨人が小動物を捉え、これから食らうかのようだ。


 まさにその横を通り過ぎようとしていた時、エレナが小さな悲鳴を上げた。

 「エレナ様?どうかされましたか」エイレンがフードの中を覗いた。

 「か、怪物です」エレナは切り株から顔を背けて言った。

 「大丈夫。落ち着いて。ただの切り株です」エイレンは落ち着かせようと努めて明るい声で言ったが、エレナは固まったように動かない。

 「な、中に、あの者がいます…」


 「あの者?」エイレンは切株の穴に視線を投げた。しかし、エレナが何を言おうとしている物がわからない。「あの者とは誰のことです?」賢者たちもこのやり取りに気づいて、エレナたちを見ている。


 「は、は、早く逃げましょう」エイレンの問いには答えることなくエレナが言った。エレナの手はかすかに震えている。エイレンは馬を降り、落ち着かせようとエレナの両手を握った。これまで楽しげに話していただけに、エレナの怯えぶりに周りも驚いている。


 「まさか、あの者とは…」エイレンが何か言おうとしたとき、ハリマとエンユウが馬を翻してきた。「いかがなされた」震えているエレナを見てエンユウが言った。

 「エレナ様が何かを見たらしいのです」エイレンが言うと、エレナは「切り株の穴の中にあの怪物が…」と言った。


 「あの怪物?人外か」エンユウが言った。

 エレナのおびえ方を見てハリマが「もしや…ゴドラですか」と言った。途端にエレナがピクリと反応した。その反応を見て、一行はすぐに了解した。


 「ゴドラ!ゴドラがいるのか!」場が騒然とした。「どこにいるのです」クリスが言った。

 「き、切り株の穴の中です」


 「…穴の中…」クリスは巨大な切り株に目をやった。世をはかなんだ老巨人のうらみつらみを表したような切り株を前にクリスはグビリと唾を飲み込んだ。そして、馬を降りスルリと剣を抜くと意を決して切り株に向かっていった。地面の嫌な柔らかさが足を伝う。あの中にゴドラがいると思うとそれだけで足取りが重くなった。それでも一歩一歩自分に言い聞かせるように近づいて行った。万が一に備えて、トシやゴシマも剣を抜いてエレナの周りに控えている。


 ようやくクリスは穴の前に立った。こめかみにひと筋の汗が流れている。随分と時間が経っているが、誰もクリスを急かそうとする者はいない。この穴の中に異様なものを感じているのだ。

 「大丈夫か、クリスは」エンユウが言った。手にはもしもの際の杖が握られている。

 「わかりませんが、ゴドラとなれば、無視していくわけにはいきません」ハリマが答えた。


 クリスは大きく息を吐くと、機械的に足を動かした。重い足がゆっくりと動いた。クリスが立ったまま入っても十分なほどその穴は巨大だった。切り株の外側からそっと顔を覗かせて穴の内側を探った。穴の中は暗く、饐えたような匂いがした。誰もいないことがわかるまで少し時間がかかった。誰もいないと確認したクリスは安堵の息をついた。「中には誰もいません」


 「ここから見えます」言いつつも、エレナは決して切り株の方を見ようとはしなかった。クリスは再び馬に乗りエレナのそばに馬をつけた。そしてなるべくエレナの位置に近い場所から切り株の穴を見た。場所を変えてみてもクリスにはただ黒い闇が見えるだけだ。「あの穴に何かいるというのですか」


 クリスの問いにエレナは答えなかった。と言うより、クリスの言っていることが耳に入っていないようだ。ゴシマも同じように馬を寄せて見てみるが、すぐに首を捻った。


 「トシ、わかるか」ゴシマは場所をトシに譲った。トシはゴシマのいた場所に馬を進めると同じように穴を見た。トシの体がピクリと動いた。


 「何かわかったか」ゴシマが言った。

 「いや、確かではないけれど」と言った。そしてもう一度視線を穴に戻すと「もしかしたら」と言った。

 「ゴドラがいるのか」エンユウが聞いた。

 「…見ようによっては」

 「どれだ」懐のゾラが言った。

 「小さな光が2つ並んで見えます」

 「どこだ」

 「穴の左上の辺りです」


 鐙の上にたちあがり、トシの言うとおり穴の左上の付近に目をやった。すると闇の中に輪郭のはっきりしない小さな光が二つ並んで見えた。その2つの光の間に細い光が縦に走っている。二つの光が目に、縦の細い光が鼻に見えないこともない。「もしや、あれか」


 「どれ」エンユウが割り込むように馬を入れてきた。「左上じゃな」と言うと目を凝らして切り株を見た。ほとんどにらみつけるような視線で穴を覗いている。

 「光が2つじゃと、良くわからんが」エンユウが言うとトシは「かなり小さいものです」と言った。


 トシの説明が的を射ていたのか、エンユウは程なく2つの光を見つけた。切り株に開いた小さな穴からわずかばかりの光が漏れ入った小さく淡い物だった。無理に見ようとすれば、顔に見えないこともないが、ゴドラの顔にしては大きさが小さすぎる。エレナが見たものはゴドラではなかった。

 エイレンがエレナに話してようやくエレナも勘違いだとわかったようだ。少し照れたように笑っている。


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