暗い森で
ラーガの事件以降、数日間は左程気温も上がらず、移動は快適そのものだった。それはまるでラーガの体調を慮った神様の贈り物のようだった。
この日も快適な移動は続いていた。道は木々に覆われ、道端には短い草がチラホラと生えている。木漏れ日で道全体が明るい緑色に染まっていた。どこからか涼しげな水のせせらぎが聞こえてきた。心地よいと言うには少し気温は高かったが、時折涼しい風が吹いて、一行の体を優しくなでた。
「夏の涼風というのは、なんとも気持ちのいいもんじゃな」エンユウが馬上で大きく伸びをしながら言った。白いわずかな産毛のような後頭部の髪を緩やかな風が揺らしている。「クシマの気持ちもわかる」
「それにこのせせらぎ…、なんと耳に心地いい」ハリマは耳の後ろに手を添えて、耳をすませた。
「ジュレス行きを忘れてしまいそうじゃな」さっきに増して大きく伸びをして言った。
「いえ、それはそれ。混同してはいけません」ハリマがすげなく言った。エンユウは冷めた視線をハリマにあびせながら小さな声で「お主のその四角四面の性格はなんとかならんか」と言った。
「何かおっしゃいましたか」
「いや、いつもこんな陽気であれば、ラーガも倒れずに済んだだろうと思ってな」
ハリマはじっと湿った眼差しをエンユウに向けている。エンユウはチロとハリマを見るとすぐに目をそらせた。ハリマは小さな息をつくと「まあ、いいでしょう」と言った。
ラーガはナーガと楽しそうに話しながら馬に揺られている。数日前の出来事がうそのようだ。「ラーガも元気そのものじゃな」
「本当に迂闊でした。賢いようでもまだまだ子供。大事がなくて何よりでした」ハリマが言った。
「今回は本当にみんなのお陰じゃ。ナーガももちろんじゃが、エレナ殿、ゴシマ、クリス、トシみんなの力でラーガを救った。特にエイレン殿の力は大きい。エイレン殿がいなければ今頃どうなっていたかわからん」
「確かに。あの手際はたいしたものでした」エイレンはエレナとナーガ兄弟のすぐ後ろを進んでいる。エレナと並んでも育ちの良さはまったく引けを取らないように見える。ハラドにいたころは、優雅な暮らしを送っていたであろうエイレンに、あんなことができようとは全く想像がつかなかった。
ラーガはあの事件以来、頻繁にエイレンと話すようになった。エイレンも弟のようなラーガをよくかわいがった。
ナーガと言えば、初めの数日間は借りて来た猫のようだった。顔もうつむき加減で、自分からはほとんど口を利かなかった。しかし、ラーガが元の通りに元気になってくるにしたがって、ナーガの口数も増えてきた。そして、以前のようにボヤくようになるまで1週間とかからなかった。
ラーガの件のあとのうそのよう穏やかな日々に一行の緊張の糸も途切れがちだった。まるで物見遊山にでも出かけるかのように笑いながら馬に揺られた。ゴドラの件以来、元気のなかったエレナもすっかり元気を取り戻したように見える。
トシと交互に先頭や殿を務めるゴシマでさえ、欠伸をかみ殺すことが一度や二度ではなかった。そんな中、トシだけはまるで変わらなかった。トシが変わらない緊張感の中で周囲に気を配っているのを見て、ゴシマは欠伸が出そうになるたびに自分で自分の頬を張った。
トシはゾラを懐に乗せ、先頭を進んでいる。いつものようにすべての感覚を研ぎ澄まし、一歩一歩確認しながら慎重に進んでいる。
「気にくわん」懐のゾラが言った。
「どうかしましたか」トシが言った。会話をしている際にも最低限の意識を割くだけで、周りには怠りなく注意が注がれている。
「平穏に過ぎる」
「はあ…」
「ゴドラを覚えているか」
(ゴドラ…)トシの脳裏に数日前に崖から落ちた怪物のことが浮かんだ。あの理解できない行動、あの瞬間ゴドラはわずかばかりの恐怖すら感じていないようだった。何のためらいもなく崖を跳んで、何の感情も持たないまま谷底へと消えて行った。表情のない視線だけを残して。
ゴドラに襲われて以来、あの不気味な感じを思い出すことが何度かあった。実際にゴドラのことを語るだけでも得体の知れない悪寒が背中から全身に広がった。「覚えています」時間をおいてトシが言った。
「奴らは必ず来る」巨大なラジル馬の背中で、足元に視線を落としながらゾラが言った。「もう、すぐそばまで来ているかもしれん」
(…奴らがそばに?)しかし、あれ以来怪しい気配はまったくしなかった。これまで一瞬たりとも気を抜いていた覚えはない。木々の陰にも、叢にも、岩陰からも怪しい気配はまったくしなかった。
「嫌な予感がする」ゾラがぼそりと言った。
トシは思った。確かに人外の相手は厄介だ。しかし、もし奴らが現れたとしてもラジル馬が追いつかれるとは思えない。どんなに恐ろしい奴らでも追いつけなければどうにもならない。もし奴らに気付かれてもラジル馬ならば逃げ切れるはずだ。でもそう思い切れない何かがゴドラにはあった。崖から落ちていたときのあの目…、あの目が今も頭から離れない。
鬱蒼と茂った木々の間からの光は柔らかく、穏やかだった。2人の思惑とは別に一行はなごやかな様子で進んでいった。重なった木の葉は日光を適度に遮り、ほとんど肌も汗ばんでいない。普段は日差しの強い昼間の移動は避けていたが、この日は頭を覆っている木々が日差しを防いでいてくれるため、昼間の移動となった。
ハリマもエンユウもゾラもゴドラが出たことで、ジュレス行きを急がなくてはというところでは一致していた。なるべく距離を稼げるこのような日こそ、もくもくと馬を進めなくてはならない。この日も短い休憩を数回とっただけで、食事もろくにとっていない。
気が付くと頭上の緑はますます濃くなっている。厚い木々のベールにつつまれ、足元に届く光もかなり薄暗くなっている。いつの間にか、白く見えていた道も短い草が生え、ほとんど見えなくなっていた。
「随分と暗くなってきたね」ラーガが言った。
「なあに、これなら暑くもないし、快適さ」ナーガは磊落に言った。
「でも、もう夕方みたいな暗さだよ」
「ラーガも臆病だな。大丈夫、兄ちゃんがついてらあ」右手はラーガの頭をなでている。
「兄ちゃんは怖くないの?」ナーガの顔を見上げるようにしてラーガが言った。
「怖い?兄ちゃんが?」ナーガはプッと噴出した。「怖いわけがねえ。正直言って、この程度の森なら真夜中に一人でだって大丈夫だあ」
「すごいね。僕は少し怖いや」ラーガは兄の力強い言葉に心から感心している。ナーガはへへっと小さく笑った。「お前はまだちっこいからな。大きくなったら兄ちゃんみたいに怖くなくなっから、安心しな」
「うん」ラーガはナーガをチラリと見上げて言った。
「どんな怪物が来たって…、例えばトロールが来たって兄ちゃんがやっつけてやっから大丈夫だ」ナーガは弟の視線にあえて気づかない振りをして言った。調子に乗ったナーガは鼻歌を歌い始めた。聞いたこともない歌だったが、ラーガだけは楽しそうにリズムを取っている。
「岩の怪物がやって来た。大きな大きな棍棒持って。
林の木々をなぎ倒し、ドスンドスンとやって来た。
岩の怪物は臭かった。吐き気を催すその臭い
緑のよだれは真ん中で、プランプランと揺れている。
岩の怪物は固かった。鈍い色したその皮膚に
自慢の槍も秘伝の剣も、ポキンポキンと折れちゃった。
岩の怪物は強かった。剣や弓矢を跳ね返し、
盾や鎧は棍棒で、ガツンガツンと砕け散った。
岩の怪物が追ってくる。怪物倒す武器はない。
しかし魔法の礫なら 怪物だってイチコロさ」
奇妙な節のついた歌は静かな森の中に響いている。誰も知らないその歌は妙に耳に残る感じがした。すっかり元気を取り戻したエレナがすぐに興味津々の目で近づいてきた。「なあに、その歌。変わった歌ね」
「親父が作った歌でさ。よく枕元で話をしてくれたとき歌ってくれたんでさ」
「あら、お父様ってすごいのね。ラーガも歌えるの」エレナが聞くと「もちろん」と言って、たちまち兄弟での歌合戦となった。エレナとエイレンは歌に合わせて楽しそうに首を振っている。
「教えてくださる」エレナが言ったので、エレナとエイレンも加わって大合唱となった。しんとした森の中に4人の歌声だけが聞こえる。
「ま、元気なことはいいことじゃ」少し冷めた目でエンユウが言った。煙草に火をつけ、ゆっくりとくゆらすと途端に険しい表情になった。パイプを手に取り、眉根を寄せながらいかにも汚らわしい物でも見るかのようにして「なんと味気ない」と言った。
「どうかしましたか」ハリマが言った。エンユウの自慢のパイプはハリマとの賭けに負けて没収されてしまっていた。代わりにハリマにもらったパイプを手にエンユウは何か言いたそうな顔をしている。
「何か?」念を押すようにハリマが言った。
「いいや、何でもないわい」出かかった言葉を飲み込むようにしてエンユウが言った。灰皿にパイプを叩きつけて灰を取り出すと早々に煙草を切り上げてしまった。「で、何の話じゃったか」
「エレナ殿たちの話です。何にしろ元気なことはいいことです。エレナ殿は少し元気がなかったようですから」ハリマが4人を振り向いて言った。
「はて…エレナ殿が元気がないとは初耳じゃが…」
「気づきませんでしたか。いつもではありませんが、時折何かを思いつめたような顔をしておられることがありました。やはりかなりショックだったのでしょう」
「…ほう」エンユウは振り返るとエレナのほうに目を向けた。ハリマの言っていることが疑われるかのような屈託のない笑顔で歌を歌っている。「あの顔、お主の考えすぎではないのか」
「いや、勘違いであればそれに越したことはありませんが」チラリとエレナたちを振り向いてハリマが言った。
進むにつれて平らで通りやすかった道が険しくなってきた。丈の短い草が辺りを覆っていたかと思うと、時折、巨大な根が行く手をふさいだ。両側の土は土手のように次第に盛り上がり、木々が道をふさぐように覆いかぶさって来た。一行は道にはみ出している枝をよけながら道を進んだ。
「道が荒れてきたな」エンユウが言った。
「なんの、これまでが順調過ぎたのです。少しぐらい荒れたところでラジル馬には何の支障もありません」ハリマが言った。確かにラーガが倒れて以来この数日間、移動はまさに快適だった。一行の中で疲れた顔をしたものはいない。厳しい行程を想像していた一行にとって少しばかり物足りなく感じるほどだった。
エンユウは改めてラジル馬の大きな背中からたくましい首を眺めた。筋肉の盛り上がりが穏やかな光を反射している。前に進むたびに筋肉の塊がそれ自体が生きているかのように、モリッモリッと動いている。ほかの馬と比べても体の大きさ、艶、ともに際立っている。ハリマの言うとおり道が荒れてくる中、心強い限りだ。
道はどんどん荒れてきた。ところどころで土手から染み出している水が溜まって道の真ん中に大きな水溜りを作っている。行く手に目を向けると木々はますます生い茂り、一行が進めないよう腕を広げて阻んでいるように見える。見る限り進んで行けるようには思えない。仮に進めたとしてもちょっとやそっとの苦労では済まないことが容易に想像できる。
「このまままっすぐ進んで大丈夫でしょうか」先頭を行くトシがゾラに言った。ゾラは目を細めて行く先を伺うように見ている。視界を四方八方から伸びている枝が邪魔している。そしてこめかみに青筋を立ててしばらく考えてから「戻るか」と言った。
「さあ、進みますよ」トシが馬を翻そうとしたとき、ハリマがトシたちに追いついた。
「戻ったほうがいいのではないか」片繭を上げてゾラが言った。
「戻る?」エンユウはそう言うと、行く先を探るように見た。四方から枝葉が視線を遮るように伸びている。一見して通り抜けるのが厳しいとわかる。「そうじゃな。この分だと進めんかもしれん。いくらラジル馬だろうと道がなければ進めん」
「いや、進みましょう」ハリマの口ぶりには有無をも言わせぬものがあった。エンユウもゾラもハリマがなんで同じことを繰り返すのかわからなかった。「話を聞いていたのか」ゾラがギョロリと目を剥いて言った。
「この先はもしかしたら道が途絶えているかもしれません」
「ならばどうして…」エンユウが話しかけたがハリマは構わず続けた。「しかし、そうでないかもしれません。確実に言えるのは引き返せば、それだけゴドラと遭遇する可能性が高まるということです。次にゴドラと遭うようなことがあれば、エレナ殿が危険です。まずはゴドラを避けることを最優先に考えるべきでしょう。道が途絶えていないこともありうるなら、進むべきです」ゴドラの名が出てエンユウもゾラもだまってしまった。疫病神のような存在は決して楽観的な想像を許さなかった。
「まったく鬱陶しい連中だ」エンユウが鼻から大きなため息をついた。ゴドラは賢者たちにとっても記憶の片隅にこびりついた染みのような存在だった。拭いたくても拭いきれず、忘れたくても忘れられない負の記憶だった。あの無表情な顔が生命の輝きの欠片すら宿すことのない目が何かの拍子ですぐに頭をもたげてくる。いやな沈黙が続いた。
ゾラは再度確認するように行く先に視線を投げてから、ひと言「進むぞ」と言った。トシは黙って馬を進めた。
すぐに後悔するほど、道はひどくなっていった。両端の土手もいつの間にかなくなり、道と呼べるものは既に見当たらなくなっていた。
でこぼこにうねった地面を深い苔が覆っている。木という木、岩という岩にも暗い緑が張り付いている。鬱蒼とした樹海のような景色が目の前に広がっている。節だらけのわだかまった枝は、この世の苦しみからなんとかして逃れようと、天に向かって命からがら差し出した死にかけの老人の手に見えた。
「な、なんかすごい道ですな」誰に言うでもなくナーガが言った。さっきまでの元気はどこへやら、心細げに周りを見ながら馬を進めている。ラーガもどことなく落ち着かない様子で首を巡らせている。ついさっきまでの楽しかった道行はあっという間にどこかへ行ってしまった。緑色に包まれた木々はラーガを驚かすかのように迫っている。ラーガは思わずナーガの袖をつまんだ。
「ヒッ」いきなり袖をつかまれたナーガはビックリして大きな声を上げた。
「どうしたの」ラーガが驚いてナーガの顔を見上げた。
「ラ、ラーガ、いきなり袖を掴むから、ちょっとびっくりしちゃうじゃないか、ハハ」無理に笑顔を作って言ったが、顔が引きつってうまく笑えていない。
一行は凹凸だらけの道を地面から張り出した根や大きな石ころを注意深くよけながら進んでいかなくてはならなかった。下ばかりに気を取られていると、張り出した枝が顔にぶつかった。上下に注意しながらなんとか進んで行くと、今度は倒木が邪魔をした。馬を降りて倒木をどけ、再び馬に乗った。すると今度は幹が道に大きく張り出して、道を通るために馬を降りた。遅々として進まない道を一行は少しずつ少しずつ進んで行った。いつもならナーガのボヤキが延々と聞かれるところだが、回りの不気味な感じに呑まれてボヤキどころではないらしい。
「また倒木です」トシが言いながら馬を降りた。トシは先頭を進んでいるため、何人かでどけないと動かないような倒木以外は全部一人でどかした。何回も馬を降りなくてはならなくても、どれだけ大きな木が倒れていようとも、トシは淡々と作業をこなした。まるでそうすることが初めから決まっていたかのように。
「一人で大丈夫か、トシ」クリスが言うとトシはクリスの方を向いてわかるように大きく首を縦に振った。木は一番太い部分を手前に奥に行くほど細くなっている。それにほかの倒木に比べ、表面が黒くゴツゴツしている。ほかの物と少し様子の違う倒木を前にトシは一瞬首を傾げた。
トシは確認するようにポンポンと木のアチコチを叩いた。何か違和感があるのか首を傾げながらも、腰を落とし両手で木を持ち上げた。想像以上の負荷が両手にかかった。ゴツゴツとしたところが手に食い込んでくる。腰を入れて精一杯の力で持ち上げた。しかし端が少し浮いただけで持ち上げることはできない。息は上がり、額には汗がにじんだ。
「どうした、手伝おうか」クリスが再び声をかけてきた。トシは肩で大きく息をしながら「す、すまない」と言った。
「お安い御用だ」クリスは上等な上着を脱いで鞍にかけ、薄手のシャツ一枚になった。そして、トシと一緒にこのいびつな木を持ち上げた。見た目以上の重さが全身にかかる。革の長靴が地面に沈んだ。
「一歩ずつ行こう」クリスが言うとトシは黙って頷いた。2人はよろよろとよろめきながら、一歩ずつ慎重に足を運ぶとなんとか木をどかして、道を確保した。クリスは四つん這いになって、肩で息をしている。
「ちょっと待て」いきなり後ろから声をかけられて、クリスの体がビクッと動いた。ゾラだった。ゾラはクリスには構わず、足元に転がっている木に近寄った。そして、その物体の形状を見るや、顔を近くに寄せ匂いをかいだ。かいだと同時に顔をしかめた。トシとクリスは汗を拭いながら、その様子を眺めている。
ゾラは2人の顔を見ると「自分の手の匂いをかいでみろ」と言った。何を言っているのかさっぱりわからなかったが、言われるままに両手の匂いを嗅いだ。凄まじい匂いが鼻をついた。強烈な獣の匂い。野に生きる獣の匂いを何倍にも濃縮したような目に染みる匂い。トシとクリスは大きくむせた。
「わかるか」とゾラが言った。クリスは少し涙目になりながら、「何です、このひどい匂いは?」と言った。よっぽどこの匂いが嫌なのか、クリスは両手をできるだけ、顔から離している。
「トロールの棍棒だ」
「…トロール」確認するように自分の手の平を見ながらトシがつぶやいた。
「やれやれ、こんな重い物を振りまわす化け物を相手にしなければならないとは」クリスはさも汚らわしそうに両手をパンパンと叩いている。
「その辺りに潜んでいるかもしれん」言いながらゾラは周りを見渡した。いつの間にか3人の周りにはほかの連中が追いついていた。皆不安げな表情を浮かべている。3人のやり取りを聞いていたのだ。
「間違いないのですか」確認するようにハリマが言った。
「トシやクリスの手の匂いを嗅いでみろ」ゾラが言った。言われるままハリマはトシの手を取ると鼻を近づけた。匂いを嗅ぐとすぐに手を離した。そして、何度も鼻の前で激しく手を振ると、残っている悪臭をすべて出し切ろうと鼻の穴をふくらまし、勢い良く息を吐きだした。そして大きく顔をゆがめながら「いやはや、何度かいでも強烈です」と言った。
「ついに現れたか…」ゴシマがつぶやいた。すぐ後ろでエレナとエイレンが神妙な面持ちで立ちすくんでいる。
「やれやれ、やっかいなことだ」クリスが肩をすくめて言った。肩をすくめているときも手の平が顔に近づかないよう注意している。
「…ハリマ」思いつめたような顔をしてゴシマが言った。「やはり、奴らに対しては逃げるしかないのですか」
「残念ながら、今のところはそうです。武器で倒せない以上、魔法でと言うことになりますが、特にトロールは魔法が効きにくいのです。誘導の魔法は特に効きにくい。我らも奴らの動きを多少止めることができるぐらいで、倒すことは難しいでしょう」
「動きを止められるのなら、その間に剣や槍で攻撃ができないものでしょうか」
「何度も言っているように奴らにはその武器が通用しません。剣や槍が折れるのが関の山です。お前には信じられないかもしれませんが、そのような輩が確かにいるのです」
「し、しかし…」普段は賢者たちの言うことに対して言い返すようなゴシマではなかったが、この日のゴシマは違った。「これまでに何度もアーグたちと剣を交えてきましたが、一度たりとも遅れをとったことはありません。この矢で射抜いてみせます」
「ゴシマ…」ハリマが静かに言った。「アーグとトロールでは比べ物になりません。お前の腕は承知しているつもりです。それでもなお、想像を超えるような怪物どもがこの世にはいるのです」そして諭すような視線でゴシマを見据えた。ゴシマはもうそれ以上言い返さなかった。
ハリマとゴシマのやり取りは結果的にトロールの強さだけを皆に印象付けることとなった。