熱中症
ゴドラの異様な行動は、エレナだけではなく一行の心にいつまでも消えないシミのようなものを残した。得体の知れない薄気味悪さは一行の気持ちをふさいでいた。会話らしい会話もなく、居心地の悪い気詰まりな空気が漂っていた。
特にエレナのうけたショックは大きく、小さな物音にもビクビクする有様だった。それでもエイレン、ラーガ、クリスたちがなんとか元気づけようと、ことあるごとにエレナに話しかけ続けた。
そのラーガは、何日も人外が現れなかったこともあり、元の通りナーガと一緒の馬に乗るようになった。またゴドラたちが追いかけてくるかもしれないというハリマやエンユウの意見もあったが、ナーガが頑として譲らなかった。
エレナは表情全体をこわばらせ、エイレンにすら打ち解けた会話を交わそうとはしなかった。というより話すことができなかった。それでもエイレンはエレナの様子に合わせて、決して無理をせず、根気良く向き合った。
ラーガはラーガで子供らしい素直さでエレナに接した。そのような努力の甲斐もあって、数日が経ったころにはエレナも少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。闇の中では、時折不安気な様子を見せたが、日中には笑い声も漏れるようになった。
一行は今日も早くから馬に揺られていた。早い時間帯にも関わらず、強い日が肌を灼いた。それでもラーガたちを中心にエレナやエイレンも和やかに歩を進めていた。
そんな中、ゴシマは考え込んでいた。しかし、ゴシマの頭を占めていたのは、ゴドラではなくトロールのことだった。ジェンカが飛んで来たとき、比較的エンユウたちの近くにいたゴシマには断片的に話していた内容が聞こえていた。
トロールと言う言葉は特に耳についた。(トロール、一体どんな怪物なのだ…。剣や槍が通じないというのはどういうことだ…実際にそんな怪物がいるものだろうか)一行の中では賢者以外にトロールを見たものはいない。ハリマやクシマはトロールには普通の武器は通用しないと言う。しかし、ゴシマは弓の腕には絶対の自信があった。今、ロタにいる当代随一と言われた兄にこそかなわなかったとはいえ、たとえアーグであっても一度でしとめられなかったことはなかった。そのことはハリマたちも知っている。知っていてハリマたちは通用しないと言っている。ゴシマは右手を頭の後ろに回して、背中の矢筒から出ている弓矢にそっと触れた。矢羽の滑らかな触感が指を伝う。この矢を放っても倒すことができない怪物とはどんな怪物だろう。ゴシマの頭の中はトロールのことでいっぱいだった。
「どうしたい、難しい顔をして。珍しいな」クリスが後ろから馬を横に付けてきた。
「クリスか…」ゴシマは無理に笑って言った。「いや、こう暑いと嫌になるな。ついついボヤキたくなるよ」
「ごまかすな…。何を気にしてる」クリスが言った。ゴシマは周りをくるりと見渡してからささやくように言った。「おまえ、トロールのことは知っているか」
「トロール?まあ、知ってるってほどじゃないが、ラビスの国史にもたった一箇所だけ記述がある」
「国史に?」
「ああ。ラビスも先の大戦でトロールどもに襲われたからな」
「どんな記述だ」
「たしかこうだ」クリスはゆっくりと馬に揺られながら、顔を上げ、静かに目を閉じて、とつとつと語り始めた。「山のごとき者、雄たけびをあげ、わが軍を襲いけり。わが軍、これを迎え撃つべく、白刃をひらめかせ反撃すれども、その者のはだえ岩のごとし。何人も貫くこと能ず」ゴシマはクリスが語っているのを神妙な面持ちで聞いている。
「剣や槍でも貫けない。実際にそんな怪物がいるのか?」
「それはいるんだろうよ。少なくともハリマたちは目にしている」
「そんな者たちとどうやって戦うのだ。ハリマの言うとおり逃げるしかないのか」
「その昔、ウゴ族がいたころは手組の武器とやらで倒したのだろうが、先の大戦で滅ぼされたということだし」
「じゃあ、お手上げか」
「わからん。しかし、エンユウはビュリンを試そうとしているらしい」
「シトンのか。俺も以前マガタで見たことがある。しかし、ハリマの話だとシトンは決して混じりけのないビュリンは外に出さないということだ」
「そこは円卓の賢者の威光というやつで何とかするんだろう」
「いずれにしても、トロールがジロンに出たとなれば、近いうちに我々の前にも現れるだろうな」眉間に深いシワをつくってゴシマが言った。
「少しでも現れるのが遅いのを願うのみさ」クリスは右の拳を眉間に当てて祈る真似をしてみせた。うだるような暑さの中、冷たい汗がゴシマの背中を流れた。
山道の脇を緑が覆うようになった。草むらの下には濃い影が落ちている。つやつやした濃い緑の葉を太陽が白く照らしている。強烈な日差しのもと、草たちも濃厚な匂いを放っていた。むせ返るような草いきれの中、一行はもくもくと馬を進めた。
「暑い、暑い、暑い、暑い、もういやだ」ナーガのボヤキが始まった。「なんでまたこんな暑い時間に移動しなくちゃならないんだか、理解に苦しみまさ。第一、こちらの道には怪物が出ないって言うからこんな道と言えないようなところを通って、あんな気味の悪い怪物に襲われて、挙句の果てに無理やり崖まで飛び越させられて、正直言っていい貧乏くじでさ」誰にいうでもなくナーガが続けた。暑い暑いと言っている割にはよくしゃべる。ただでさえトロールのことで頭が一杯なゴシマには後ろからブツブツブツブツ聞こえてくるボヤキはとても耳障りだった。
初めのうちは聞き流していたゴシマだったが、いつ終わるともないナーガのボヤキにとうとう我慢しきれなくなった。すっと馬の速度を緩めてナーガの馬に並んだ。「ナーガ、いい加減にしろ。お前のボヤキを聞いているだけでうんざりする」
「そんなこと言ったって暑いものは暑いでさ」開き直るようにナーガが言った。
「ラーガを見ろ。その小さな体で何一つ文句を言っておらんではないか」ゴシマの言うとおり、ラーガはナーガの懐で大人しく馬に揺られている。「第一、暑いと言って涼しくなるものでもあるまい」
「そんなことはわかってまさ」ふてくされたようにナーガが言った。「でも、ボヤキたいと思っているのは何もオイラだけじゃないでさ」
「バカを言うな」ゴシマは小さく笑った。そしてしかつめらしい表情を浮かべて言った。「仮にも人外からこの世を救うために集まった我らのどこにそんな不心得者がいると言うのだ」
「ダンナでさ」
「えっ」思わず言葉に詰まった。
「オイラこの耳で聞いてまさ」言いながらわざわざ左の耳をつまんでみせた。
「そ、そんなことは言っておらん」思わず声が小さくなる。確かについさっきクリスにそんなことを言ったような気がする。
「ごまかすつもりですかい」小さな目を見開いてナーガが言った。小柄なナーガの視線はゴシマを見上げているが、その態度は完全に見下している。「ダンナの悪い癖でさ。何かあるとすぐごまかそうと思って」
「ダンナは確かに弓の腕はたつし、オイラなんかが気軽に口をきいちゃ罰が当たるぐらいえらいお人ってのはわかるんだが、どうなんでしょうな。ウソをつくってのは…人として」イライラの矛先を見つけたナーガに容赦はない。
「オイラはこう思いまさ。立派であれば立派であるほど、すごい人であればあるほど、その人がうそつきだとわかった時はなんかとても嫌な感じがするんでさ。ごまかせば、その場は何とでもなるかもしれないが、そういうのってよくないと思うんでさ。いや何、何もダンナのことを言ってるんじゃないんだが、どうなんでしょうなあ、ごまかすってえのは、人として」低い鼻をフンと鳴らし、顔を心持上に上げて、ゴシマを見ている。
「くっ」ゴシマの脳裏にあのシュノンの店での苦々しい思いがよみがえってきた。こうなると何を言っても言い返されるに決まっている。ゴシマとしては黙っているしかない。
「あ、あの…」後ろからエイレンが馬を寄せてきた。
「どうかしたんで…」まだまだ言い足りないナーガが冷ややかに言った。
「大丈夫ですか…」フードの中のエイレンは眉を顰めなにか心配ごとがありそうな表情を浮かべている。
「何がですかい」
「ラーガ、顔が真っ赤ですよ…」
「へっ?」ナーガが声を出したのと同時だった。ラーガはガクンと大きく体勢を崩し、馬から落ちそうになった。あわてて、ナーガがその体を支える。
「ラ、ラーガ」思わずナーガはラーガをゆすった。ラーガは真っ赤になって、苦しそうに激しい呼吸を繰り返している。ラーガの体を支えながら、ナーガはどうしていいかわからず、オロオロとするばかりだ。
「揺さぶってはいけません」エイレンがピシャリと言った。「どこか日陰に連れて行かなくては」
「すぐ先に林があります。もう少し行けば泉もあります。もういくらもないはずです」ハリマは馬を降りると急いでゴシマにラーガを預けた。ゴシマはラーガをなるべく揺らさぬよう気を付けながら、先の道を急いだ。真っ青になったナーガがそのあとに続いた。
まもなく林が見えてきた。林に入った途端に暗闇が広がった。炎天下にいただけに一瞬、何も見えなくなった。豊かな緑は強烈な日差しを完全に遮った。肌を焼く日の光が隠れたことで体感温度はぐっと下がった。ラーガは人形のようにゴシマの懐でぐったりしている。ゴシマは手綱を持ったまま、両腕で落ちないようラーガを挟み込むような形で馬を進めている。
「…降ろして」林に入って間もなくゴシマの耳を小さな声が掠めた。耳を撫でるわずかな風の音や馬の枝葉を踏む音にかき消されそうな微かな声。ラーガの声だった。
「もう少しで泉だ。我慢できんか」ゴシマが言った。
「降ろして…」ラーガが力なく繰り返す。自力では座ったままの姿勢を保てないラーガはゴシマの腕にしがみついた。ラーガのすぐ後ろに沿うように馬を進めていたナーガは今にも消え入りそうな声を聞いて、拝むように言った。「お願いでさ。降ろしてやってください」目には涙を溜めている。さっきまでゴシマを攻めていた男と同一人物とは思えない。
やむを得ず、ゴシマは馬を降り、ラーガを抱きかかえ、柔らかな草の上に静かに横たえた。ラーガの胸は荒い呼吸に大きく上下している。見るからに苦しそうな様子だ。体中びっしょりと汗をかいている。
「大丈夫ですか。ラーガは」エレナがすぐさま馬を降りてラーガの元へやって来た。ゴドラのことがあってその顔は少しやつれている。
「…何せこの暑さですから」エイレンが言った。
「なんと言ってもまだ幼い子供。この暑さは堪えるでしょう」クリスが言った。ナーガはなんともいえない表情を浮かべ、みんなのやり取りを聞いている。「ちょっと待ってくださいよ」そう言うとクリスは荷から水筒を降ろし、水が入っているか振って確かめた。「だめだ、少しでも残っていればと思ったのですが…」
「私の水筒にまだ少し水が残っています。それを飲ませましょう」エイレンが言うとナーガはまるで神様でも拝むかのように手を合わせた。
エイレンは背後からそうっとラーガを抱きかかえると残り少ない水筒の水をゆっくりとラーガの口に含ませた。ラーガは初めのうち小さくむせたが、結局コクリと水を飲み干した。しばらく様子を見て何口か水を飲ませた後、ゆっくりと体を横たえた。そして確認するようにラーガの首筋にそっと手を当てた。たちまちエイレンの表情が曇る。「いけない、なんとか熱を下げないと」
急いで残りの水筒の水をハンカチに浸して、ラーガの首の後ろに当てた。ラーガの体がピクリと動いた。冷えたハンカチはすぐに熱を帯びた。次にハンカチを裏に反して、わきの下に当てた。小さなハンカチではわずかな効果しか望めなかったが、ひっくり返しながら場所を少しずつずらして、丁寧に熱をぬぐっていった。
「ゾラは水の魔法が使えるのでは」クリスが言った。
「無理だ」ひと言、ゾラが言った。「水魔法は水がたっぷりとある場所で初めて使えるのです。ほんの少量ならともかく、何もないところからある程度以上の量の水を発生させることはできません」ゾラの代わりにハリマが付け加えた。
ナーガは落ち着きなくラーガの枕元付近を行ったり来たりしている。思いもよらないことに完全に我を忘れている。何をどうしていいかわからないナーガは、ぐったりしている弟のまわりをただ意味もなく、ぐるぐると動き回るだけだった。「気持ちはわかりますが、少し落ち着きなさい」ハリマが言った。
「ラーガ、死ぬなよ」真っ青な顔でナーガが言った。ハリマの声もナーガには届いていない。ラーガを見ては手を合わせ、オロオロと周りを落ち着きなく動き回り、動き回っては手を合わせながらラーガを見るということを繰り返していた。
「ほれ、落ち着け。少し先に泉がある。皆の水筒を集め、冷たい水を水筒に入れて持ってまいれ」エンユウがナーガに言った。それでもエンユウの声が耳に入っていないのか、ナーガはなかなかラーガの元を離れようとはしない。
「お願します。冷たい水が必要なんです」エイレンは残り少ない水を使って小さなハンカチで休みなく体をぬぐっているが、ラーガは相変わらず苦しそうに胸を上下させている。
「ほれ行かんか。今必要なのは冷たい水じゃ」エンユウが言った。しかしナーガはラーガに向かってぶつぶつ何かを呟きながら手を合わせている。エンユウは小さく息を吐くと声を荒げて言った。「水を汲んでこんか。お主がいても役に立たん」
エンユウの声の大きさに驚いたナーガがやっとのことでエンユウの顔を見た。「水じゃ。いいな。ラーガには今水が一番必要なんじゃ。水を使って体を冷やさねばならん」噛んで含めるようにエンユウが言った。ナーガは水汲みへと動いた。そして何度もラーガのほうを振り返りながら、馬に乗り泉への道へ向かった。水汲みを手伝うためにすぐにトシも後について行った。
まだ日は高かったものの、一行はその日の行程はそこまでとし、林の中で一晩を過ごすことになった。まだまだ、先の長い行程、ハリマとしては少しでも前に進みたかったが、ラーガの様子では、無理をさせることはできなかった。
「すまんかった。細いエレナ殿やエイレン殿のことばかり気にしておった。何といってもお主はまだまだ子供。もっと気にするべきじゃった。可哀そうなことをした」エンユウがラーガの顔を見ながら言った。ぷっくらとしたほっぺたとつんと上を向いたくちびる。寝ている姿は実際の年齢以上に幼く見える。
エイレンは荷物から自分の衣服を取り出すと躊躇なく切り裂いて大きめの布を作り、トシたちが汲んできた冷たい水を浸してラーガを冷やした。その行動には迷いが全く感じられなかった。
その動きには急いでいる様子がまるでなかった。むしろゆっくりと動いているように見えた。しかし、流れるような動きでたんたんと作業は進められ、あっという間に数枚の布きれを作った。そして水を浸してラーガの体中の熱を吸い取った。エイレンは数枚の布きれを交互に使ってラーガを冷やした。
「な、何かオイラにもできることはないですか」ナーガが言った。
「…そうですね」エイレンは一瞬作業の手を止めると「ラーガに風を送っていただけますか。何かでラーガを扇いでください」と言った。
「承知しました」ナーガはそう言うと一目散に扇ぐ物を探しに行った。
「俺たちも行こう。トシは見張りを頼む」ゴシマが言うとエレナ、クリスも散らばって行った。
「トシ」ハリマがトシを呼んだ。「お前のことだから大丈夫だとは思いますが、こんなときだからこそ、注意を怠ってはいけません。頼みましたよ」と言った。トシは小さく頷くと林の中へと消えて行った。
数分後、手ごろな大きさの木の皮を見つけてきたナーガたちが戻ってきた。中でもエレナが剥いできた木の皮は大きく、軽く扇いでもなかなかの風が吹いた。それに比べてナーガの採ってきた皮は小さく、手の平と左程変わりがなかった。ナーガはふらふらと青い顔をしながらエレナの元へやって来た。
「エレナ様、一生のお願いでさ。その皮とオイラの採ってきた皮を交換してもらえないですか」ナーガが言った。その真剣な様子は普段のナーガからは想像できないほどだ。
「しっかり扇いであげてくださいな。ラーガは私の大切な友達ですから」エレナが言うと、ナーガは押し頂くようにして木の皮を受け取った。
「大丈夫、きっとラーガは助かります。あんなにいい子ですもの。何かあるはずがありません」エレナが言うとナーガは泣きながら、ありがとうございます、を何度も繰り返した。
ナーガはラーガを扇ぎ続けた。ゴシマたちが交代で扇いでいる間も少しも休まずに扇ぎ続けた。いくら周りが言って聞かせても頑として扇ぐのをやめなかった。林の中の暑さはそれほどでもなかったが、たちまちナーガは頭からかぶったような汗をかいた。エイレンも休みなく体を冷やし続けているが、にも関わらず、ラーガの体温はなかなか下がらなかった。
日が傾いてきた。暑さは一旦落ち着き、林の中を時折涼しい風が渡った。ずっと扇ぎ続けているナーガを除き、ゴシマたちは交代で扇ぎ、泉に水を汲みに行った。エイレンは相変わらずラーガの体を冷やし続けている。その手際があまりにも良かったために、誰も代わりに冷やすということが言えなかったのだ。エイレン自身も誰かに代わってもらうことは少しも思っていないようだ。
夜になってようやくラーガの状態も落ち着いてきた。一行はラーガを囲むようにして小さな火をおこし、思い思いの場所で夜を過ごした。ラーガが回復してきたこともあり、それぞれ安心して眠りについた。周りからかすかな寝息が聞こえる中、ハリマ、ナーガ、エイレンがラーガの様子を見守っている。少し離れた場所でトシは不寝番をしている。
ナーガは相変わらずひと言もしゃべらずにもくもくと扇ぎ続けている。汗でぐちゃぐちゃになった顔は土のような色をしていた。ハリマもエイレンもなにを話すでもなかったので、夜の林は静かだった。ラーガの呼吸も今は落ち着き、小さな寝息を立てている。
エイレンはラーガの首筋に手を当てると、無言で扇いでいるナーガに向かって「ラーガは大丈夫です。熱はすっかり下がったようです。もうお休みになってくださいな」と言った。エイレンの顔にもさすがに疲労の色が現れている。
「そいつあ、だめでさあ。お2人を差し置いてオイラが寝るわけにはいきません」疲労のためか、ナーガの声が小さい。
「いいえ」エイレンはナーガの目をまっすぐに見据えて続けた。ナーガはその落ち着いた物言いに思わず居住まいを正した。「あなたまで具合を悪くしたら、今度はラーガが悲しみます。ラーガのためにもお休みになってください」
エイレンのラーガのためという説得が効いたのか、その凛とした佇まいに圧されたものか、ハリマが拍子抜けするほどナーガはあっさりと言うことを聞いた。寝る場所へ移動する足取りが心もとなかったが、クリスの寝ている横に適当な木を見つけると根と根の間に横になった。よほど疲れていたのか間もなく大きないびきをかきだした。いびきは時間が経つにつれ、大きく、豪快になっていった。敏感なクリスはすぐに起きだし、場所を変えて再び眠りについた。
「寝ても覚めても騒がしい男です」ハリマが苦笑いを浮かべた。
「ずっと扇ぎっぱなしだったのですもの」エイレンも応えるような笑みを浮かべた。「余程心配だったのでしょうね。気持ちはよくわかります」
「ときにあなたは随分と手際が良く手当をしてくれましたが、どこで覚えられたのですか」
エイレンは長いまつげを伏せた。大人びた顔立ちにゆらゆらと柔らかい光がゆらいでいる。パチパチと枝がはぜる音が聞こえる。そのまま小さな火を見るでもなく眺めながら一つ一つの言葉をつむいでいくように話を始めた。
「私にも兄がおりまして、幼いころ兄も炎天下の中で倒れたことがあります。子供の頃でしたから、その頃はなんの役にも立てなかったのですが、周りがやってくれたのを見ていましたから」心持ちゆっくりとした口調で語られる言葉は小声ではあるが、真面目なエイレンの人柄がよく表れていた。
「子供のころに見ただけですか。それにしては手際が素晴らしかったようです」
「本当に兄が死んでしまうかと思ったのです。そんな時に自分が役に立てないことが悔しくて…、本当に優しい兄だったものですから、なので後から教えてもらったのです。同じことがあった場合に兄を助けられるようにと」そう語る顔はどこかしらさびしげに見えた。「だから、あの兄弟を見ているとうらやましくて…、やはりお互いのことを誰よりも思っているのは見ているとよく伝わってきますから」
(…たしかに)ナーガの顔を見ながらハリマは思った。この目立ちたがりの計算高い小男も弟のことになると自分のことは二の次になる。ゴドラに追われていたときも、身を挺してラーガをかばった。弟のことだと途端に計算が働かなくなるのだ。だからこそラーガが倒れた際、あそこまで取り乱したのだろう。
「兄弟とはいいものですね」ハリマが言うとエイレンは小さく笑って「はい」と言った。
翌日、夜が明けて間もない時間にラーガは目を覚ました。目の前にエレナの大きな瞳があった。ラーガはビックリして起き上がった「まだ、だめよ、寝ていなくちゃ」エレナはラーガの肩をやさしく押して再び横にさせた。
「大丈夫?」エレナはラーガの額にそっと手を当てた。ひんやりとした手が気持ちよかった。
「ありがとう、エレナ様。僕、倒れちゃったんだね。でも、もう大丈夫だよ」と言うと再びゆっくりと起き上がった。起き上るとまだ少しふらついた。「エレナ様がずっと見ていてくれたの?」
「ごめんなさい、ラーガ。あなたを看病してくれたのは私ではなくエイレンなの」エレナはすぐ横を見て言った。視線の先にはエイレンが木の根を枕に小さな寝息を立てている。ラーガはあごの下に添えられているエイレンの手を眺めた。ほっそりとしたその指は、すぐ下の節だらけの太い根と対照的に見える。
(…あれはエイレン様の手だったんだ)ラーガは思った。昨日倒れてからはっきりとしない意識の中でラーガはぼんやりと覚えていた。心を尽くして手当てをしてくれた優しい手のことを。ラーガはおぼろげに覚えている昨日の記憶をたどった。
(柔らかい手だ…。だれの手だろう)だれかがハンカチを当ててくれている。ハンカチが触れるたびにスーッと熱が引いていくようだ。薄く目を開けたが、視覚が意味をなして頭に入ってこない。結局、誰がやってくれているのかはよくわからなかった。丁寧なその当て方にその人の優しさがそのまま表れているような気がした。その人が動くと花のような匂いがした。(…いい匂いだ。母さんみたいだ)ラーガは安心しきって再び夢の中へと落ちて行った。
(ありがとう、エイレン様)エイレンの寝顔を見ながら心からそう思った。幼い頃に母を失ったラーガにとって、うれしいような、ちょっぴり恥ずかしいような、くすぐったくなるような経験だった。
「ラ、ラーガ」ラーガが目覚めたことを知って、ナーガは泣きながらラーガを抱きしめた。夢中で抱きしめたので、ラーガの顔がナーガの懐でひん曲がっている。
「く、苦しいよ、兄ちゃん」ラーガはナーガの腕の中でもがいているが、ナーガはオイオイ泣いていて気がつかない。
「こ、これ、それでは息ができんぞ、折角直っても何もならん」見るに見かねてエンユウが言ったことで、ようやくナーガが気づいた。ラーガはゲホゲホ咳き込んでいる。
「ご、ごめん、兄ちゃん、うれしくって、つい」
「許してやれ、ラーガ。兄ちゃんはお前を助けようと珍しく頑張っとった」エンユウが言った。
「珍しくはひどいでさ」ナーガは笑おうとしたが涙があふれてうまく笑えていない。エイレンはエレナの後ろでその様子を見て本当にうれしそうに笑っている。
「本当にごめんなさい。みんなに迷惑かけちゃって。泉も近くだと言うし、もう少しなら大丈夫だと思ったんだ」ラーガが改まって言った。
「お前が謝ることは少しもありません。謝るのはこちらのほうです。お前はまだ子供だと言うのに、無理をさせてしまって本当に申し訳ないことをしました」ハリマはラーガの元に来て丁寧に謝った。
「一番悪いのはオイラでさ…」ナーガがしゃくりあげながら言った。「ラーガが苦しがっているのもわからずに、人一倍文句を言って…、ラーガが何も言わないのに…、これでラーガに何かあったら…、本当に、本当にオイラって奴は…」と言うとまた、オイオイ泣き出した。
「もう、泣くな。とにかく助かったのだ」ゴシマが肩を叩いた。ナーガはウンウンと頷いてはまた泣き続けている。クリスもナーガの肩を抱いて元気付けている。
「あの…」ラーガはエレナの後ろで微笑んでいるエイレンに話しかけた。「ありがとう。エレナ様に聞いたよ。僕を一生懸命冷やしてくれたって」なぜかとっても照れくさかった。
エイレンはニコッと笑うと「エレナ様の大切なお友達に何かあっては大変ですもの」と言った。そして穏やかな視線でラーガを見つめ「けど、本当に何もなくてよかった」と言った。
ナーガはまだ泣いている。初めのうちは励ましていたゴシマやクリスもいつまでも泣き止まないナーガに愛想をつかして水を汲みに泉へ行ってしまった。
「もう泣くな。まずは腹ごしらえじゃ」エンユウの声とともに、一行は食事の準備にかかった。