ゴドラ、再び
赤龍の涙で涼んだ一行は再び馬上の人となった。滝からの霧雨は過酷な日差しにさらされていた体を一時的にせよ楽にした。それもつかの間、左手の巨大な岸壁を通り過ぎ、滝の音が聞こえなくなると、遠慮のない日差しがじりじりと肌を焼いた。汗に濡れた服が体にまとわりつく。風はそよとも動かず、逃げ場のない暑さが全身を包んだ。ゆらゆらとした陽炎は見るだけで気分が萎えた。しかし、すぐに冷たい泉があるというハリマの言葉が効いたのか、弱音を吐く者は誰も(あのナーガでさえも)いなかった。
ゴツゴツと岩がむき出しになった斜面を道がうねりながら上っていく。道端には申し訳程度の草が生えている。そんな中右方向前方に一本だけ大きな白い老木が生えているのが見えた。木は乾いた地面と同化している。空に向かって伸びた枝は何かを訴えるかのようにわだかまっている。節だらけの枝の先には何羽ものカラスが羽を休めていた。
その時、青い空を凄まじい速度で飛んでくる白い大きな鷲の姿があった。悠然と空を泳いでいるにもかかわらず、その速さはほかの鳥たちとは比べ物にならなかった。翼を広げて3メートルにもなろうというその鷲は甲高い鳴き声を上げながら、空をたゆたっている。羽ばたくこともなく、真っ青な空を進んでいくただ一点の白い姿はどこかしら神々しくさえ見える。一行の上空をそのまま通り過ぎていくと思いきや、いきなり急降下を始めた。そしてエンユウたちの頭上を後ろから追い越すと、老木に向かって真っすぐに飛んで行った。
カラスたちは鳴き声を上げながら蜘蛛の子を散らしたように逃げて行った。鷲は木の手前で何度も羽をばたつかせ、勢いを殺してから強靭な足で太めの枝を掴んだ。そして一瞬エンユウのほうを見たかと思うと、首を巡らせて熱心に毛づくろいを始めた。その脚には小さな円筒形の筒が付けられている。
「おうジェンカじゃ。クシマの奴ようやく連絡をよこしおった」エンユウは馬を降りて老木へと近づいて行った。すると鷲の方もそれに合わせるように低い枝へと移動を始めた。白っぽい枝に鷲の大きな鋭い黒い爪が食い込んでいる。エンユウは両手を伸ばして白い鷲の脚から筒を取り外し、中から幾重にも折りたたんだ手紙を出した。そして、ポンポンと脚を叩くと、鷲はまた高い位置へと戻って行った。
「まったく、これまで何をやっておったのか」ぶつくさと文句を言いながら、エンユウはゆっくりと手紙を開いた。早速手紙を開いたエンユウは少し読んだところで大きく目を見開いた。
「どうかしましたか」エンユウの異変に気付いたハリマが馬を降りてきた。
「…トロールが出た、しかも6匹も」
「…トロール」ハリマは視線を地面に落としたままボソリとつぶやいた。「やはり…」
エンユウは続きを読み始めた。視線が左から右へとせわしなく動く。そしてある場所に来ると再び動きが止まった。そしてまたも驚いた表情を浮かべると「…バカな」と言って手紙を閉じた。
「何かありましたか」
「クシマらしくもない」エンユウはあざけるような笑みを浮かべた。
「どうしたんです」
「でたらめを書いてきおった」
「でたらめとは」
「バラキがトロールを倒したということじゃ。しかも3匹も」
「3匹?バラキが?まさか」
「そうじゃろう、そんな馬鹿なことがあろうはずがない」
「いくらなんでもそんなこと…」
「ザビアのシャール、ロタのジル、ラジルのケットー、いずれもその国に語り継がれる剣士たちじゃ。百人斬りのガインですら、ほうほうのていで逃げ出したという者もおる」
「シトンのガインですね」
「そうじゃ。奴は本当に強かった。アーグなど、ガインを見ただけで我先にと逃げた出したもんじゃ。ガインがトロール相手に逃げたかどうかは知らんが、トロールを倒せなかったことは事実。バラキに倒せるわけがあるまい」
「しかし、クシマはバラキが倒したと言ってきたのですね」
「そうなんじゃ」
「ビュリンの剣でも手に入ったのでしょうか」しばらく間をおいてハリマが言った。
「いや、何の変哲もない剣だそうじゃ」エンユウは老木を眺めながら続けた。「奴らは普通の武器では歯がたたん。ゆえにアンルーガス(貫くことができない者)という者すらいる。それをバラキが…考えられん」
「何か言ってきたのか」ジェンカが飛んできたのを見て、トシが馬を寄せてきた。その懐にはゾラがまたがっている。
「トロールが6匹出て、そのうちバラキが3匹倒したそうです」
「しかも普通の剣でな」エンユウがハリマの答えに付けくわえて言った。ゾラは一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、すぐによれよれのカバンから羊皮紙とペンを取り出し、馬上で記載を始めた。
「驚かんのか」エンユウはゾラのいつもと変わらない様子を見て拍子抜けしている。
「クシマはウソはつかん」一瞬だけペンを休めてジロリとエンユウを見ながらゾラが言った。
「それはそうじゃが…これまで誰一人倒すことができんかったトロールじゃぞ」エンユウは鼻を大きく膨らませてながらしゃべっているが、ゾラは書くのに夢中でエンユウをチラリとも見ようとしない。皆、なにか起こったことを察してこのやり取りを遠巻きに見ている。
「とりあえず、今は進みましょう。詳しいことはクシマに会ったときに話してくれるでしょう」まわりの様子を察してハリマが言った。
「そうじゃな」エンユウは手紙を懐にしまうと白い鷲の元へ近づいて、上目づかいに「ご苦労じゃったな、ジェンカ。しばらくはクシマのそばにいてくれ」と言った。ジェンカと呼ばれた鷲はエンユウが話している間、まるで話を聞いているかのように涼しげな瞳をずっとエンユウの顔に向けていた。話が終わると一旦大きく翼を広げてからふわりと空へと飛び立っていった。そしてあっという間に空の彼方へ消えて行った。
一行はいつものように夜明け前から移動を始めていた。昨日の赤龍の涙と冷たい泉は暑いさ中の長い旅路のつかの間の安息となった。心なしか皆の足取りも軽い。皆の口を閉ざしていたあの重苦しい雰囲気は感じられなかった。思い思いに話をしながら、ゆっくりと道を進んで行った。
「のどかじゃな」エンユウがパイプを片手に言った。その口からは煙の輪が徐々に明るくなってきた空に向かっていくつも立ち上っている。
「本当に、まだ暑くもないですし」ハリマが答えた。
「やはり、ゴドラは現れんようじゃな」
「今のところ、ですけどね」釘を刺すようにハリマが言った。
「現れんよ、もう。いくら奴らがしつこくても追いつけなきゃ同じことじゃ」
「まだ、ほんの数日です。分かりませんよ」
「負け惜しみを言いおって」
「あなたは簡単に考えすぎです」
「まあ、いいわい。いずれわかるじゃろう」長い煙を鼻から出してエンユウが言った。
「その通り、いずれわかる時が来ます」と言うとハリマはチラリとエンユウを見て、さっさと馬を進めていった。
「なんだかんだ言っても負け惜しみの強い奴じゃ」ハリマの後ろ姿を見ながらエンユウがぼそりと言った。
突然、ラジル馬の蹄の音に混じって、遠くから喧騒が聞こえてきた。パイプを吹かしていたエンユウは大きく咳き込んだ。
トシは音がした前方に向かってすでに馬を走らせている。あっと言う間にトシとゾラを乗せた馬は小さな点になった。走らせてすぐに異変に気づいた。前方から馬の蹄の音がする。かなりな数であるのは音でわかる。そして蹄の音に混じって耳障りな胴間声が聞こえてきた。敵だ。しかし、未だ姿は見えない。
「トシ、敵だ、かなり多いぞ」ゾラが言った。
「ハリマたちに伝えます」馬を翻してトシはハリマたちに知らせに戻った。トシが戻ったのを見てハリマはすぐに察した。「敵ですね」
「音からして30は下るまい。完全に挟まれた格好だ」ゾラが言った。
「何で前から来るんじゃ」エンユウは苦虫をかんだような顔をしている。「どうする?後ろに戻ればゴドラと鉢合わせになる可能性がある」
「蹴散らしますか」ゴシマは弓を片手に馬腹を蹴ろうと脚を上げた。
「いや、30となると厳しいでしょう。前進するのは危険です」ハリマが言った。
「そうじゃ、まかり間違ってもエレナ殿を奴らに渡してはならん。危険は避けねばならん」
「大丈夫です。何があってもお守りします」ハリマはすぐ後ろで心細そ気な視線を送っているエレナを見た。エレナは緊張の面持ちを浮かべたまま、コクリと頷いた。
「…ならば戻るか」エンユウが言ったが、すぐに頭を横に振って否定した。「いや、いかん。戻ればゴドラと出くわす可能性が高い。ここでゴドラとあいまみえるわけにはいかん」
「でも前からの敵にゴドラがいないとも言えません」ハリマが言った。
「トシ、東の方角。全速力だ」突然ゾラが言った。トシは一瞬ハリマを見たが、ハリマが判断しかねているのを悟って、軽く頭を下げたのち、ゾラの言うとおりそのまま馬を東に進めた。
「なにか逃げられるあてがあるのか」エンユウが言ったが、ゾラを乗せた馬はもうすでにかなり先を走っている。
「どうする?ゾラを追うか」
「前にも進めず、後ろにも戻れずではしようがありません。ゾラを信じましょう」ハリマが言った。同時に前方から50騎ちかいアーグの集団が、岩陰から姿を現した。幅広の剣を右手で振り回し、こちらに向かっている。
「ヒャッハー、やっと見つけたぞ。奴らの言った通りだ」先頭のアーグはチラリと後ろを振り返りながら言った。視線の先には数人の男たちが馬を駆っている。騒ぎ立てながら馬を走らせるアーグたちとは対照的にエレナたち一行から片時も目をそらすことなく、ひたすらに馬を進めている。
「誰だ、アイツらは」
「知らねえ、グージの命令でついてきてるって話だ」
「獲物が見つかったんだ。奴らが誰でも構わねえよ」
「それより、獲物だ獲物」
「勢いあまって殺すなよ」
「ばっかやろう、そんなことしたらジーの野郎に殺されちまわあ」
「でもよ、ほかの奴らは殺してもいいんだろ」
「あったりめえよ」
好き勝手なことをわめいて近づいてくるアーグは厳つい肩当てと胸当てをつけている。50頭もの馬は乾いた土に砂埃を巻き上げた。
「もう、迷っているヒマはないようじゃな」そう言うとエンユウは、皆に向かって叫んだ。「急げ、ゾラの後を追うんじゃ」アーグはもうすぐ目の前まで迫っている。
「ひっ、き、来た」ナーガはぎこちなく馬腹を蹴った。またも体を大きく後ろに持っていかれ危うく落馬しそうになる。夢中で手綱にしがみついた。
正面から朝日が昇っている。皆まぶしそうに目をすぼめながら、馬を走らせている。一時はかなり近づいたアーグたちだったが、ラジル馬が走り出すとグングンと差は開いた。ナーガも何とかついてきている。少し遅れて50騎のアーグがその後を追う。
道はゆるい傾斜を描きながら上っている。しかし、ラジル馬にとってゆるい坂などものの数ではなかった。いつの間にか、道はゴツゴツとした岩場となり、少しずつ傾斜がきつくなったが、差は広がりこそすれ、縮まることはなかった。そしてとうとう、アーグたちは見えなくなった。
「おい、やべえよ、逃げられるぞ」先頭を行くアーグが叫んだ。このまま逃げられでもしたら、ジーに殺されかねない。その声には悲壮感が漂っている。
「心配するな」後ろを追いかけるアーグはまるであせった様子を見せなかった。それどころか、口元にゆがんだ笑みを浮かべている。「馬鹿な奴らだ」
「そっちは地獄行きだっツーの」横のアーグが笑いながら、だみ声を張り上げた。
「おい、なんで笑ってんだよ」
「お前は相変わらず、方向音痴だな」
「なんでえ、藪から棒に」
「行き止まりだよ」
「えっ」
「この先は崖っぷちだろうが」
「崖っぷち?」
「目もくらむほどの断崖だ。落ちたら一巻の終わりよ」
「へっ、そうなの?」
「奴らの馬に羽根でも生えてりゃ別だが、いくら速く走れたって空を飛べるわけじゃねえ」
「そりゃあそうだ」先ほどの悲壮感はどこへやら、ニヤリと口角を上げた。口元から鋭い牙が覗いている。
そんな後ろの様子を知らずにゾラたちは走り続けている。もうアーグは影も形も見えない。しかし、ハリマたちにはゾラがどこへ向かっているのか見当もつかなかった。ただ、闇雲にゾラたちの後を追って行った。真正面から差している朝日のせいでろくに目を開いていられない。
そんな中、先に行ったはずのゾラが馬から下りてハリマたちを待っていた。その眉間には深いシワが刻まれている。
ただ事ではない気配を感じてエンユウが急いで馬を降りた。「な、何かあったのか」
追いかけるアーグたちはもう王女を奪い返したかのように浮かれている。自然と声も大きくなる。
「奴ら今頃オロオロしてんぜ」
「恐怖に引きつる奴らの顔は最高だろうな。特に王女のように高貴な女が恐怖に顔を引きつらせるのはたまんねえ」
「でもよ、奴ら戻ってくっかもしんねえな」
「そしたら、皆殺しさ。王女以外はな」
「ジーの野郎を喜ばせるのも癪だがな」
「違えねえ」クックと1人のアーグが笑った。
「たまんねえぜ、実際。奴のミスで逃げられちまったもんを。丸っきり八つ当たりじゃねえか」
「そうなのか」
「そうよ。ハラドの国に勝手に乗り込んで行って脅かしたはいいが、それがもとで結局逃げられちまったらしい」
「奴らしいな。阿呆なのよ、結局」
「だいたい奴は上にたつ器じゃねえよ。先の大戦でも、クシマにさんざんな目に合わされたってこった」
「どんな?」
「よくは知らねえよ。だいたい奴はこの話を絶対しないし、万が一話しているところを奴に見られようものなら、そりゃあひどい目にあわせられるってこった」
「もしかして…あの目か」
「そうよ、奴が片目を失ったのもクシマにやられたらしい」
「だからか…奴に報告するときはクシマの名前を出さない方がいいってのは」
「なんだ、そりゃ」
「以前報告した奴が言ってた。クシマの名前を出した途端、豹変したって。危うく殺されちまうとこだったらしい」
「クズだな」
「クズよ」ジーに対する日ごろの恨みで一杯なアーグたちからはジーの悪口が止まらない。
「なんとかなんねえのか、ジーの野郎!」馬上で一人のアーグが鎧に立ち上がって大声で叫んだ。
「バーカ」あきれたように1人のアーグが言った。「何ともなんねえよ。奴の強さは半端ねえ。100人で、いや1000人でかかったってかなわねえ」
「バカな考え起こすと殺されちまうぞ」
「怒りは奴らにぶつけるこったな。女もいることだし」
「いたって王女じゃ手を付けるわけにはいかねえだろうが」
「バカ、ほかにも1人いたろ。日に焼けた女だよ」
「そんなのいたか」
「いたさ。あれなら好き放題だ」
「しかたねえ、そいつで手を打つか」大きな牙をむき出して下卑た笑いを浮かべながらアーグが言った。「人を食うのも久しぶりだ」
緩やかな上り坂を登ってアーグたちはペチャクチャと無駄口を叩きながら進んで行った。そしてハリマたちに遅れること数分、アーグたちも崖の手前に到着しようとしている。地平線には上ったばかりの太陽がギラギラと輝いている。
「ヒイイイア~、皆殺しだ~」近づくにつれ、アーグたちのテンションは上がり、突拍子もない声で意味の分からないことを言い出し始めた。
「女は俺が殺るぜイイイア~」
「バーカがああああああああ、てめえに殺らせるかよおおおおおおおおお」狂ったように叫びながらアーグたちは幅広の剣を抜いた。
「いたぞ、奴らだ」大声で叫んだアーグが見たのは、全速力で走っていく巨大な馬の後ろ姿だった。乗り手はエンユウだ。真正面の朝日に向かって真っすぐに走っている。風のように走ったと思いきや、馬はそのまま、大きくジャンプをした。それは跳躍ではなく、飛翔だった。ラジル馬はその瞬間確かに空を飛んでいた。馬は朝日を背景にして、光の中に溶けていった。
「おお…」目を細めながら見ているアーグが思わず声を上げた。気づいたときには馬は崖を飛び越え、反対側に達していた。アーグとエンユウたちの間は断崖で隔たれている。
「ばかな…」アーグたちは信じられないといった面持ちで崖の反対側を眺めている。揃って馬を降りると列をなして崖の手前までやって来た。足の下には目もくらむような崖がある。
前で見ていたアーグたちはゴクリと生唾を呑み込んだ。前が邪魔でエンユウたちが見えないと後ろのアーグたちは口ぐちに悪態をつきながら、構わず前につめて来た。
「バカ、押すな」先頭のアーグたちが言った。それでも後ろから押される格好でジリジリと前に進んでいく。目の前には深い谷が口を開けている。崖までの距離はもうほとんどない。必死にもがくアーグをよそに後ろの連中はどんどん前に詰める。断崖のはるか下には細い川が素知らぬ顔をして流れている。
「お、落ちる」足が崖ギリギリにかかった。そのまま、じわりじわりと前に押され、つま先が崖の端からはみ出した。懸命に足を踏んばる。瞬間、足元が小さく崩れた。一瞬足が宙を泳いだ。小石がポーンと大きく断崖を跳ねながら落下した。
「落ちるって言ってんだろ」前のアーグたちは大声を上げながら後ろに反り返った。そのまま倒れるようにして間一髪で落下を免れた。
「バッカやろう、押すなって言ったろ。死ぬとこだったじゃねえか」息も絶え絶えに言った。全身からかぶったような汗をかいている。
「モタモタしてっからだ。邪魔なんだよ、おめえら」逆にほかのアーグたちに文句を言われ、すごすごと後ろに下がった。
「そんなことよりよ、やべえよ、ジーに殺されちまうぞ、どうすんだ、えっ、どうすりゃいいんだ。おめえ、空を飛べるわけがねえって言ってたじゃねえか、ありゃあ空飛んでたぞ、どうすんだよ」
「やかましい、ちったあ黙ってろ」文句を言われたアーグが声を荒げた。文句を言ったアーグは渋々口を噤んだ。
「ここを馬で跳ぶのか…」深い谷を見下ろしてアーグが言った。崖の向こう側にはエンユウたちがこちらの様子を伺っている。アーグはゴクリと生唾を飲み込んだ。
「一体なんだ、奴らの馬は」アーグたちは逃げられたことを悔しがるよりも、今、目の前で起こったことに驚いている。さすがにエンユウたちを追ってこの崖を跳び越そうという輩はいない。そうこうしているうちにエンユウたちが巨大な馬体を翻して崖から離れていくのが見えた。
「こ、このまま行かすな」我に返ったようにアーグの1人が言った。そして弓を番えるとエンユウたちに向かって矢を放ってきた。
ゴシマとトシとクリスが迎え撃った。谷を挟んで弓矢が飛び交う。念のためエレナたちやナーガ兄弟は矢が届かない位置まで下がらせた。
アーグの放ってくる矢は勢いはあっても、狙いを大きく外しているものが多かった。それに対してゴシマとトシの放った矢はすべてアーグに命中した。すぐに不利を悟ったアーグたちは射程距離から避難するように崖から遠く下がっていった。
ヒュー、クリスが口笛を鳴らした。「すごいな、2人とも。奴ら逃げていったぞ」
「まだじゃ」エンユウが言った。
「何がです?」クリスがエンユウを見て言った。そのすぐ目の前を矢が勢いよく通り過ぎた。「なっ」クリスは驚いてアーグたちに視線を戻した。アーグは下がった位置から矢を放ってきていた。「奴らこの距離で矢を放ってきましたよ」
「まぁ、奴らは腕力には自信がありますから」ハリマが言った。
「力任せか。やれやれ品のないことで」クリスが苦々しげに言った。そのすぐ横でゴシマが矢を構えている。「ゴシマ、いくらなんでもこの距離じゃ届かない。第一向こうの方が高い」クリスが言ったがゴシマは構わず矢をキリリと引いている。
「それより我々もすぐにここから離れましょう。ここは危ない」クリスは馬を翻えそうと手綱を引いた。ちょうど同じタイミングでゴシマが矢を放った。矢はシュルルという音を立てて飛んでいった。谷の向こう側から断末魔の声が聞こえた。こちらを罵る胴間声が続いた。
「嘘だろ」クリスが言った。ゴシマの矢は正確に敵を射抜いていた。ゴシマは続けざまに矢を3本放った。クリスは一瞬光の筋を見たような気がした。すべての矢は過たず弓を構えていたアーグの額に命中した。アーグたちは慌てふためいている。我先にと後ろに下がりだした。
「ふう、一時はどうなることかと思ったわい」エンユウが小さな息をついた。そしてすぐ横でゾラはアーグたちの様子を見ていた。アーグたちを追い払ったにもかかわらず、相変わらず険しい顔をしている。「ゾラ、お主その顔は何とかせい。いつでもこの世の一大事のような顔をしくさって。とんでもないことが起きたと思うではないか」
「余計なお世話だ」ゾラはギロリとエンユウをにらんだ。
「まあまあ、あそこにゾラが立っていなければ、我らは崖に気づかなかったでしょう。真正面から朝日が差して、ろくに見えなかったのですから」ハリマが言った。
「まあ、言われてみればな」ハリマに言われてエンユウは矛を収めた。しかし正確には矛を収めたのではなく、矛先が変わっただけだった。ゾラからナーガに。「お主もお主じゃ、ナーガ。何じゃ、エレナ殿たちでさえ、すぐさま跳んで見せたと言うに。お蔭で最後に跳んだワシは危うくアーグたちに追いつかれそうになったわ」
「そ、そんなこと言ったって、無理でさ。こんな距離、馬で跳ぶもんじゃありません」ナーガはまだ膝が震えている。
「跳ぶタイミングは馬に任せれば大丈夫と言ったろうが…」
「そ、そんなこと言ったって、万が一ってことがありまさ。それにしたって、ひどいでさ、あんな無理やり」いくら言っても嫌がるナーガを無視して、結局エンユウは馬の尻を杖でピシリと叩いた。
ナーガはわめきながらも手綱にしがみついて、何とか崖を飛び越えることができた。よっぽど怖かったのか、崖を飛び越えてからもずっと文句を言っている。ラーガが飛ぶ時もやめるよう大声を出したナーガだったが、いかんせん、クリスが簡単に跳んでしまったので、文句を言うにも言えなくなってしまった。
「普通の馬ではここを飛ぶことなど思いもよりません、万が一跳べる能力があったとしても、ほかの馬では恐がって飛ぶことはできないでしょう。この肝の据わり方もラジル馬の大きな特徴です」ハリマがゴシマに言った。
「評価を下すのはまだ早いとおっしゃっていたのはこういうことだったのですね」興奮気味にゴシマが言った。
「さあ、参ろうか」エンユウが馬をめぐらせようとしたとき、崖の向こう側が不意に騒がしくなった。
「な、なんじゃ」崖の向こうに目をやると崖の際でアーグたちが何やらわめきながら後ろから来た者に押しのけられるように道を開けているのが見えた。
「な、なんでえ、てめえら」危うく崖から落ちそうになったアーグが言った。その脇をすり抜けて勢いよく一頭の馬が走ってくる。馬は加速をつけて一気に崖に迫ってくる。そしてそのまま崖を跳び越そうとジャンプした。その行動にはなんの躊躇もなかった。馬の乗り手は一人のゴドラだ。
しかし、ゴドラの馬では跳躍力がまったく足りない。馬ともども崖からまっさかさまに転落した。突然の出来事にエレナが悲鳴を上げた。
ゴドラはまったく表情を変えずに落ちて行った。その際、エンユウは見た。落下している間ずっとゴドラがまっすぐにエレナのことを見ていたのを。あの焦点の合わない目、少しだけ開けられたままの口で。瞬き一つしないで、ゆっくりと回転しながらも、顔は常にエレナのほうを向いていた。生気のない、死人のような目はずっとエレナを追っていた。エレナもそのことに気づいているようだ。口元に手を当てて怯えている。
普通の馬では飛べるとは思えないあの崖をためらいもせず跳んだゴドラは獲物に対する執念を感じさせた。ゴドラの常軌を逸した行動に、だれも口を開かない。辺りに漂っている重たい空気がそれを阻んでいた。
「あいも変わらず、気味の悪い奴らじゃ」しばらくしてエンユウがはき捨てるように言った。
「さ、先を急ぎましょう」ハリマが言った。皆、くるりと馬を翻した。しかし、エレナは固まったようにゴドラの落ちていった谷底を見ている。
「エレナ様、いかがなされました」エイレンが声をかけたが、返事はない。
「エレナ様?」
「ご、ごめんなさい、ぼうっとしてました」エイレンが再び声をかけて、ようやくエレナは我に返った。その瞬間、エレナは何かに気付き、崖の向こうに視線を投げた。そして耳をつんざくような悲鳴を上げたかと思うと、馬上でうずくまった。体全体がガタガタと激しく震えている。
「どうしたんじゃ」エンユウはエレナの視線を追うようにアーグたちを見た。ゴドラがいる。ゴドラは一人ではなかった。落ちた仲間を気にすることもなく、ただただ虚ろな眼差しでエレナを見ている。と言ってもこちら側に顔を向けているに過ぎないが、エレナを見ていることは疑いのないことのように思えた。3人のゴドラたちはエレナに視線を向けたまま、崖に沿って馬を走らせた。ハリマたちはその事をエレナに伝えず、そっと崖から離れて行った。