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ゴドラの襲撃

 ハリマたち一行は、ラバス街道を東にずれた荒野を歩いていた。東の森が真っ赤な朝日を背景に、黒々としたシルエットを浮かび上がらせている。地平を彩る目のさめるような赤は高さを増すにしたがって青みを帯び、上空にはまだ星が輝いている。夏も盛りを向かえ、涼しい早朝に移動を開始し、暑いさなかには木陰などで休むというのがこのところの行程になっていた。


 前方から時折熱をはらむ前の風が心地よく顔をなでていく。一行は徐々に青みを失っていく空に瞬く星をのんびりと眺めながら、馬に揺られていた。

 シュノンの市場を出たあとは、追いはぎや人外に襲われたものの、その後は何事もなく進んでいた。ジュレスに向けての旅で初めて人外を見たエレナたちはショックを受けていたようだが、数日がたって再び笑顔を見せるようになっていた。


 初めのうちこそ、エレナやエイレンの乗馬の腕を心配していたエンユウだったが、すぐにそれが杞憂だとわかった。2人の手綱さばきはいかにも手馴れた感じで、ぎこちなさはかけらも見えない。そのうえ、その振る舞いは優雅そのもので、余裕すら感じられた。


 「エレナ殿もエイレン殿も随分と乗馬がお上手ですね」クリスがすぐ前で馬に揺られているエレナたちに声をかけた。

 「じゃじゃ馬なんです」エレナが振り向きながら口元に手を当てて笑った。男のような格好をしていても、仕草は若い女性そのものだ。

 「いやいや、お2人とも大したものです」クリスの頬が思わず緩んだ。エレナたちが話すようになったここ数日、一行の雰囲気も柔らかく明るくなった。

 「クリス様のお国では、考えられませんわね」エレナはいたずらっぽい視線をクリスに向けた。


 「何にせよ、できるということはいいことです。男性、女性など関係ありません。わがラビスにはそこまで見事に馬を乗りこなす御婦人はおりません、残念ながら」クリスは2人の姿をまじまじと見ながら言った。

 「でも、じゃじゃ馬が過ぎると誰ももらってくれなくなってしまうかしら」エレナが少し困ったような顔をした。

 「なんの、乗馬ができる女性、魅力的ではありませんか、なあゴシマ」クリスは隣で轡を並べているゴシマに言った。

 「み、魅力的です」ゴシマが言った。クリスと違ってこういう会話に慣れていないゴシマはたどたどしく答えた。


 「それじゃあ、いざというときはゴシマ様にもらっていただこうかしら」クスクスと笑いながらエレナが言った。ゴシマは適当に受け流すことができず耳まで赤くなっている。

 「それはいい。このゴシマはこう見えて笛の名手でもあるんです。エンユウから笛を拝領するほどの。ロタの曲など、涙なくては聴けませんよ、なっ、ゴシマ」クリスが話しかけたが、ゴシマは真っ赤になって何も返すことができない。

 「ぜひ一度お聴かせいただきたいわ」エレナが言うとゴシマはますます赤くなった。

 「いつまで赤くなってる。間に受けるな、社交辞令だ」クリスが言った。

 「バ、バカ言うな。間になど受けておらん」ゴシマは慌てて言った。エレナはそんなゴシマを見て、またクスリと笑った。


 「きれいだね。エレナ様」クリスの後ろでその様子を見ていたラーガが頭を後ろに傾けて言った。

 「へえ、お前にもそんなことがわかるのかい」子供だと思っていたラーガの口から、初めてそんなことを聞いたナーガは少し驚いている。

 「だって、きれいなものはきれいだよ」ラーガはクリスと楽しそうに話しているエレナを見て言った。

 「正直言って育ちってやつだ。ハリマ様たちには悪いが、男の格好をさせても、育ちの良さがにじみ出てらあ。いくら変装させたってこればかりはどうしようもねえや」

 「楽しいね」エレナたちが打ち解けた様子を見せるようになってラーガはなぜかとてもうきうきしていた。


 「エレナ殿たちも、このところ我らに溶け込んできたようです」クリスが後ろをチラリと見て言った。旅を始めて数日がたち、ほかの者の衣服は徐々に旅の垢にまみれてきたが、なぜだかこの男のはいつ見てもきれいに整えられていた。まだうっすらと星が輝いているのにも関わらず、買ったばかりの新しい帽子を斜にかぶっている。


 「ずっと男として育てられたそうじゃ。これまでの苦労を思えば、何と言うこともないのかもしれんな」ラジル馬にまたがり、大きなパイプをゆっくりとくゆらしながら、エンユウが言った。大きな鼻から立ち上った煙はゆらゆらと揺れながら、青黒い空へと消えていった。


 「まだ、お若い身でありながら、たいしたものです」クリスが2人を見て言った。エレナとエイレンは話をしながら笑っていた。2人の少女の華やいだ会話は見る者を和やかにさせた。


 「しかし、もうゴブリンが出ているとは…予想外じゃった」エンユウが言った。

 「もうとは、どういう意味です」

 「お主は知らんかったか」エンユウはクリスの側の片繭を上げながら続けた。「今回、封印が解かれたのが3月ごろとされておる。封印が解かれると人外の中でも力の小さな者から順に現れると言われておる。初めのうちはわれわれにとっては大きな問題ではない。たいした苦労もせずに倒すことができるじゃろう」クリスは横でウンウンとうなずいている。「ちなみに先の大戦ではゴブリンが我らの前に現れたのは、封印が解かれた後、1年ほど経過してからじゃった」


 「というと」クリスにはエンユウの言おうとしていることが今ひとつピンと来ていないようだ。その様子を見て、エンユウは噛んで含めるように続けた。

 「いいか、封印が解かれてから、まだ4カ月。なのに先の大戦では1年かかってようやく現れたゴブリンがもう現れておる。これがどういうことかわかるか」

 「力のある人外がこれまでになく早く出てきているってことですか」

 「そういうことじゃ。もしこのまま力のある人外がどんどん現れるとジュレスに到着する前にそ奴らと闘わねばならないようになる」


 「ゴブリンは倒せましたが、これからはそうはいかないということですか」

 「ゴブリンでさえ、なかなか手こずったのではないか」エンユウに言われてクリスは苦い顔をした。

 「たしかに…あのしぶとさは厄介です。あんなことはアーグの時にはありませんでした。あれ以上の奴らが出てくるとなると、もはや僕らの手には負えませんよ」

 「今後トロールより力を持った輩が出てくるとなると、もうお主たちの武器では通用せんじゃろう。じゃから、ビュリンを試そうかと思っておる」

 「シトンの武器のビュリンですか」

 「そうじゃ。シトンが版図をあれほどまでに拡大したのは、ビュリン製の武器があったからと言われておる。ビュリンの武器をトロールに試したことはこれまで一度もなかったはずじゃ」


 「たしかにこれまでのラクレス製の武器に比べ、その強さと軽さは比較にならないと聞いたことがあります。ラビスもシトンから遠く離れているわけではない。僕たちもビュリンの武器には戦々恐々としておりました」苦々しい表情を浮かべてクリスが言った。「そのビュリンが人外を倒すカギになると言うのですか」

 「かもしれん」


 「…ビュリンであれば倒せるのですか」探るような目でクリスが言った。

 「なんとも言えん、が、試す価値は十分にある。もし、通じんようだったら…」

 「通じんようだったら?」

 「かなり厳しい戦いになるじゃろう、これまでに経験したことがないほどにな。なにせこれまで誰一人として倒すことができなかった怪物じゃからな。光の民以外ではな」エンユウが厳しい表情を浮かべて言った。しかし、なぜかクリスはクスクス笑いだした。


 「何がおかしいんじゃ」エンユウはクリスをジロリとにらんだ。

 「いや、失礼」クリスは笑いをかみ殺すようにして続けた。「もし、トロールがジロンに出たとすると、バラキの奴がうるさいだろうなと思って」

 「バラキがうるさい?」

 「アイツはこれまで倒した者がいないとか、そういうの大好きですから。俺にやらせろって駄々をこねるに違いない。カインはカインで怖がって闘いたがらないだろうし…、クシマも大変だ」と言うとまたクックと笑った。エンユウは白けた表情でクリスを見ると「お主はどっちの口じゃ。バラキのように闘わせろと言うとも思えんが」と言った。

 「御冗談を。僕は勝てない戦いはしない主義でして」クリスは少しおどけた表情を浮かべた。

 「フン、食えん奴じゃ」言い終わると鼻から白い煙をゆっくりと吐き出した。煙はエンユウの大きな鼻をなでるようにゆらゆらと空に登っている。「しかし、こう展開が早いと二手に分かれてでも、シトンへ行かねばならんかもしれんて」


 「しかし、これまでにないほど早く進んでいるとは、なんでまたそんなことが起こってるんです?」

 「さあ、どうしてじゃろうな」エンユウはエレナの方をチラリと見た。エレナは空を仰ぎ見ながら、ゆるりと馬を進めている。まだ明けきらない空に瞬く星々に見とれているエレナは怪物たちの存在を忘れているようにも見えた。

 「…なるほど」エンユウの視線の先の少女を見ながらクリスがつぶやいた。


 空は少しずつ明るさを増し、細長い雲が朝焼けの名残の光に照らされて赤く伸びている。遠くに見える湖面に赤い雲が反射して見える。青い空を映した湖をところどころ赤い雲が覆っている光景はなんとも言えず美しかった。


 道は緩やかに西に向かって下っている。朝焼けの赤は徐々に金色に変色し、少しずつ空の濃い青を侵食している。絵画のような風景の中、初めに異変に気付いたのは先頭を進んでいるトシだった。

 「敵だ」トシが振り向いて言った。一行に緊張が走る。

 「どこです?」ハリマがぐるりとあたりを見回しながら言った。夜が明けたとはいってもまだまだ薄暗い。一面濃い灰色に塗り潰されたような視界ではどこから敵が迫っているのか、よくわからなかった。慌てる一行にトシは「右前方からです。われわれと並行して走っています」と言った。


 一行は走りながら、視線を右前方に投げるが、トシ以外だれもその姿をとらえることはできない。目を凝らしてよく見ても、揺れる馬上で薄闇の中では無駄なことだった。しかし、エンユウの耳はすぐにラジル馬とは違う種類の蹄の音を聞き分けた。音は少しずつ大きくなってくる。「来たぞ」エンユウが叫んだ。


 前から砂埃が飛んで来た。複数の蹄の音が聞こえる。視界がはっきりしない中で蹄の音だけが不気味に響いた。まもなく右前方にうっすらとシミのような影が見えた。影は徐々に輪郭を際立たせ、数騎の敵となって現れた。前方を並走している敵騎は少しずつスピードを落とし、一行に近づいて来ている。


 「どうします。一旦引き返しますか」クリスが言った。

 「なんの、何のためのラジル馬じゃ。ついてまいれ、突っ切るぞ」エンユウが拍車をかけた。敵を避けるように左前方に緩やかな弧を描きながら進んでいく。一行もエンユウに続いた。

 急に速度を上げて走り出した一行を見て、ナーガもあわてて後に続いた。ラジル馬の強靭な脚が力強く地面をけった。グンッと体が後ろに持っていかれる。「くっ…」ナーガの懐でゆっくりと舟をこいでいたラーガも慌ててタテガミにしがみついた。


 進むにつれて敵が近づいてくる。はっきりとは見えないものの、顔が振り返り気味にこちらを向いているのはわかる。顔を小さく左右に揺らし、一行の中に誰かを探している。そして目的の人物を探し当てたのか、急に速度を落として一気に距離を縮めてきた。一行はエレナたちを真ん中に匿うようにして走っていく。


 「来ますよ」ハリマが叫んだ。「ワシに考えがある。同じように走るんじゃ」エンユウは後ろをチラリと見て、エレナたちがついてきているのを確かめると少しずつ速度を落としていった。合わせるように一行も速度を落とす。敵も一層スピードを落としてきた。


 黒い背中がだんだんと近づいてくる。そしてまさにエンユウたちのもとへたどり着こうとした瞬間、エンユウは再び拍車をかけた。溜めていた力は迸る奔流のように一気に爆発した。ラジル馬は飛ぶように走った。かすかに見える景色が溶けて行くように流れていく。ラジル馬は速度を落としてきた敵の馬を一気に抜き去った。


 「すまんな、馬の差はいかんともしがたい」エンユウはニヤリと笑いながら、抜きしなにチラリと敵の顔を見た。ギョッとした。その顔には表情と言うものがなかった。と言うより、その顔からは生気がまったく感じられなかった。焦点の合わない目、少しだけ開けられたままの口、およそ、このような緊迫した場面でお目にかかれる顔ではない。


 敵はなおも追いかけて来るが、いかんせん、馬の速度が違った。ゆっくりと押し寄せる波をすり抜けるようにラジル馬は走った。あっと言う間に一行は敵の追跡を振り払った。エンユウは一行の無事を確認するため、後ろを振り返った。そのとき…。


 「ナーガ!」エンユウが言った。最後尾を一心不乱に走っているナーガとラーガが今にも襲われようとしている。「ひいいい」甲高い悲鳴を上げて、ナーガは懸命に逃げようとするが、ただでさえ馬の扱いがうまくないナーガが2人で乗っていることもあって、少しずつ距離を縮められている。


 男がゆっくりと剣を振りかざした。「伏せろ、ナーガ」エンユウが叫んだ。

 「ラーガ!」ナーガはラーガの頭を押さえてかばうように覆いかぶさった。同時にゴシマの放った矢が敵の腕を貫いた。男は声を上げることもなく、馬から落ちた。そのまま、すさまじい勢いで後ろに転がっていった。それでもすぐに起き上がろうと身を起こした。


 その瞬間、後ろから猛スピードで走ってきた仲間の馬に巻き込まれた。男はぼろ切れのように蹴飛ばされ、踏みつけられた。後続の馬にも次々に巻き込まれ、とうとう動かなくなった。


 「やったぞ、ゴシマ」クリスが叫んだ。しかし、喜んだのもつかの間、敵は一向に追撃の手を緩めない。仲間が落馬しようと、馬に巻き込まれ動かなくなろうと、気にすることなく追いかけてくる。


 ラジル馬は速度を落とすことなく敵との距離を広げていった。時間が経つにつれ、敵は小さくなり、やがて見えなくなった。

 十分に敵との距離を開けて一行は馬のスピードを緩めた。しばらくは追いついてこないはずだ。


 「ダンナ、すまねえ。こ、殺されるかと思った」青い顔をしたナーガが言った。薄闇の中でもわかるほどガタガタ震えている。

 「うむ、よく頑張ったな。ラーガは大丈夫だったか」ゴシマが声をかけたが、ナーガは放心状態で全く気づかない。しかたなく、ゴシマはヒョイと腰を上げてラーガの顔を覗きこんだ。見るとラーガはすやすやと気持ちよさそうに眠っている。


 「この状況でよくも寝られるものだ」ラーガの寝顔を見ながら、ゴシマが笑った。時折、ガクッと馬から落ちそうになっては、一瞬目をあけて、またこっくりと船をこぎ始めるというのを繰り返した。「やれやれ、やはりしっかりしているようでもまだまだ子供だな」あどけないラーガの寝顔を見てゴシマが言った。


 「それにしても…」言いかけて言葉を切った。そしてラジル馬のたくましい首に視線を落とした。しばらくそのままでいたかと思うとおもむろに右手を馬の首に当てた。

 「どうかしましたか、ゴシマ」その様子を後ろから見ていたハリマが言った。

 「この馬はすごい。まるでグリフォンに乗っているようでした」顔に興奮をにじませてゴシマが言った。

 「何のことです」

 「この馬です。まさかあの状況から振り切れるとは思いませんでした」

 「そうですか。確かにすごい馬です。でもラジル馬の評価を下すのはまだ早いかもしれません」ハリマは淡々と答えた。

 「それはどういう」

 「ラジル馬の能力はこんなものではありません。ま、いずれわかるでしょう」ハリマが言った。


 「アーグには見つからないんじゃなかったんですか」クリスがハリマに馬を寄せてきた。その声には多分に非難の色が混じっている。「先日のゴブリンはともかく、さっきのは完全に我らを狙ってましたよ」

 「確かに」ハリマはつぶやくように言った。「なぜ、私たちのことがわかったんでしょう」


 「わかるのも当然じゃ」うす闇でもわかるほど、エンユウは深刻な表情を浮かべている。

 「どうしてです。これまで、一度たりともアーグどもに見つかった覚えはありませんが」

 「アーグであればそうじゃろう…」エンユウは次の言葉を言おうとしてなぜか、そのまま口に出すのをためらっている。

 「どうしたんです」クリスが言った。

 「奴らはゴドラじゃった」エンユウの眉間には深いシワが刻まれている。


 「なんです、そのゴドラというのは」クリスが言った。

 「まさか、そんな」ハリマが言った。

 「なんですか、2人して」2人の異様な雰囲気を察してクリスが言った。

 「気味の悪い奴らです」しばらくしてハリマが言った。「我らにも正体はよくはわかっていません。とにかく使命を果たすまでは絶対にあきらめません。倒しても倒しても食らいついてきます」


 「倒しても?」

 「何度も倒したことはある。でもまた現れるんじゃ。どのゴドラもそうじゃ。これまで何度も倒してきたが、また必ず現れおる。まさに厄病神じゃ。先の大戦ですべてのゴドラは倒したども思っとったが、なんともしつこい連中じゃ」嫌悪感を表しながらエンユウが言った。

 「どのゴドラも?ゴドラというのは何人もいるんですか」

 「ゴドラは一人ではない。何人いるかは我らにもわからんが、10人はいるかもしれん。ゴドラには共通の表情がある。つまりは無表情じゃ。倒されても、剣で刺されても眉一つ動かさん」

 「刺されても?」体をブルッと震わせてクリスが言った。「それは不気味ですね」


 「エレナ殿たちにはこのことは伏せておきましょう。いたずらに不安をあおるだけです」ハリマが言った。

 「そうじゃな。しかし、ゴドラとなると奴らがエレナ殿たちの顔は知らなくても、ワシらがいることで目印になってしまう。またすぐに襲ってくるぞ」


 「となると、できる用心はしておかねば…」ハリマが後ろを振り返って言った。視線の先にはナーガ兄弟がいた。ラーガは相変わらず、ナーガの懐で気持ちよさそうに舟をこいでいる。ナーガはまだショックから立ち直れない様子でキョロキョロと不安げな視線を辺りに投げていた。

 「用心とは?」クリスが言った。

 「クリスは以前、ラジル馬に乗ったことがあったと言ってましたね」

 「まあ、何度か乗ったことがあると言った程度ですが…、それが何か」

 「奴らがいつ来るかわかりません。あなたがラーガを連れて行ってください」


 「ラーガを?」先ほどの襲撃ではナーガたちが遅れたために、危うくゴドラの餌食になるところだった。ゴシマが矢を放たなければ、今頃ナーガたちはあの世行きだ。「でもナーガが承知しますかね。なんだかんだ言ったって、ラーガのことがかわいくてしょうがないようですが。さっきだって身を挺してラーガを守ってましたし」

 「なら、なおさらじゃろう」煙を勢いよく鼻から出しながらエンユウが言った。「ナーガと一緒では逃げ遅れてしまうかもしれん」

 クリスはしばらく考えていたが、やがて「わかりました。僕がラーガを連れて行きましょう」と言った。


 渋るナーガを何とか説き伏せ、ラーガをクリスの馬に乗せ、一行は再び歩き始めた。初めのうちナーガはかたくなにラーガと離れるのを嫌がった。しかし、ナーガと一緒の馬だと敵に捕まるかもしれないというハリマとエンユウの説得に応じ、しぶしぶクリスにラーガを託した。


 一行は夜明けの荒野を静かに進んで行った。トシは相変わらず先頭で周りに注意を払いながら、慎重に馬を進めていた。違っていたのは、進みながら右手で左の腕を何度もこすっていることだ。


 「どうかしたか」その様子をトシの懐で見ていたゾラが言った。

 「…何でもありません」トシはいつものように答えた。たとえ、どんな重大事が起ころうと、気を使ってこんな風に答えるのがトシだった。


 「気になることがあると顔に書いておる」トシの顔を見上げながらゾラが言った。

 「……」トシはしばらく考えた挙句、「鳥肌が…」と言った。

 「鳥肌?」ゾラはトシの腕に目を落とした。

 「……急に息苦しくなって」トシは何とか絞り出すようにして言葉を吐いた。

 「息苦しい?」

 「奴らが近づくにつれて寒気がして…」


 「無理はない。奴らは闇に生きる悪夢だ」

 「闇に生きる悪夢?」

 「奴らの顔が少しだけ見えた。やはり間違いではなかった」ゾラは小さなため息をついた。ただでさえ深い眉間のシワをよりいっそう深くしている。

 「アーグではないんですか」

 「…奴らはゴドラ。蛇のような奴らだ」ゾラははき捨てるように言った。「力が強いわけではない。先の大戦のおり、すべてのゴドラを倒したと思っておったが、相変わらずしつこい…」

 「…ゴドラ」つぶやくようにトシが言った。それ以来2人は口を閉ざした。トシはあわだった腕をさすりながら進んだ。


 気味の悪い圧迫感を感じていたのはトシだけではなかった。こうしているうちにも背後からまた、得体の知れない怪物が襲ってくるかもしれない。しんがりはゴシマが務めている。何かあれば合図をしてくれるし、敵の馬ではラジル馬には追いつけないこともわかっている。でも、拭いきれない不安が心のどこかに引っかかっているのだろう。誰も口を開こうとしない。蹄の音だけが薄暗い中で規則正しく聞こえてくる。


 明るくなるにしたがって、干からびたような小さな草むらがいくつも目に付くようになった。低く生える雑草や丸くなった草むらも乾いた土と同じような色をしている。行く先には低いはげ山が左右に連なっているのが見える。


 「大丈夫、ご安心ください。奴らの馬では絶対に追いつけません」雰囲気を察してハリマがエレナたちに声をかけた。エレナはニッコリと微笑むと、「わかっております。私たちはハリマ様たちを信じておりますゆえ」と言った。


 「まあ、心配には及びませんよ」エンユウが言った。

 「でも、なんだか妙に気味が悪かったですね、あの男たち」エレナが言うと、ハリマとエンユウは顔を見合わせた。

 「あの…奴らのことをご覧になりましたか」ハリマが言った。

 「ええ、無表情で生気がないと言うか…、思い出すだけで身震いがします」エレナは苦笑いを浮かべている。

 「心配なさいませんように。先ほども言いましたが、奴らの馬では絶対に追いつけません」ハリマが念を押すように言った。


 「さよう、エレナ殿は心配されることは何もありません」続けてエンユウが言った。

 「また現れるでしょうか」エレナは不安げな様子を浮かべている。

 「いや、もう現れることはないでしょう」エンユウが言った。ハリマがピクリと反応した。

 「また適当なことを。なんでそんなことが言えるです。さっき現れたばかりではありませんか」ハリマが声を低めて言った。

 「何さっきのは例外中の例外でしてな。もう大丈夫。現れません」エンユウはなぜか自信たっぷりに言った。


 「ちょっと失礼」ハリマはエレナに向かって作り笑いを浮かべながら、エンユウを引っ張っていった。

 「なんじゃ」右の小指で耳の穴をほじりながら、エンユウが言った。

 「なんだじゃありません。あんな適当なことを言って。あなたの悪いクセですよ」

 「何を言っとる」エンユウは鼻で笑った。「適当なことなどひと言たりとも言っておらん」

 「それが適当だというのです。さっき現れたのを忘れたとでもいうおつもりですか」

 「奴らはもう追いつけん。ならばもう現れないと言っても同じことじゃろうが。その方がどれだけエレナ殿が安心するか」

 「しかし、もしまたゴドラが現れたら、エレナ殿はもう私たちを信じてはくれませんよ」

 「ありもしないことをさもありそうに言ってどうする。それこそお主の悪いクセじゃ。いたずらにエレナ殿たちを不安にさせるだけじゃ」

 「何を根拠にありもしないと言うのですか」

 「ごくごくわずかな可能性だけでエレナ殿を不安に落とす必要はない。それこそ愚の骨頂じゃ」

 「もう、ゴブリンも現れているのです。これまでとは違っていると話したばかりじゃないですか」

 「確かにゴブリンには驚いたが、物事はもっと大局的に捉えねばならん」

 「ジロンのトロールは?あのワイバーンはどうなんですか?」


 「どちらにしろ」ハリマの言葉を遮るようにエンユウが言った。「やつらは現れんよ。もし現れたら」

 「現れたら?」

 「お主にワシの杖ケースをやろう。ルカの名工スマリに作ってもらった特別製じゃ」

 「いりませんよ。私はサモの名工カイドに作ってもらいましたから。それよりご自慢のパイプをいただきましょうか」

 「え?」

 「つい先ほども吸っていたじゃないですか。あのパイプをいただきたい」

 「いや、あれはいかん」

 「なぜです」


 「あれはゴーレの樹液を固めて作った貴重なものでな、あれだけの樹液がたまるのに、何年かかると思っとるんじゃ。二千年じゃぞ」

 「…二千年ですか、それは途方もなく長い時間ですね」

 「そうじゃ、気の遠くなる年月がかかっておる」

 「ゴゾの実ひとつできるのにかかる時間と同じですね」痛いところを突かれてエンユウは一瞬言葉に詰まったが「第一お主はほとんど煙草を吸わんではないか」と言った。


 「普段はまず吸わないんですが、大仕事を終えた後の一服がたまりません。ですから、私もパイプは持っています。安物ですが。あなたがご自慢のパイプで吸っているのを見てうらやましいと思っていました」

 「いや、しかしこれは」

 「自信がないと言われるのなら、それでもいいのですが」ハリマはチラリと見下すような視線を投げた。


 「誰もそんなことは言っておらん。もちろん、それで結構じゃ」

 「それではそういうことで」と言うとハリマはエレナたちの元へと馬を進めた。その後ろ姿をエンユウはじっと見ている。

 「現れるわけがあるまい」独り言のように言うとパイプを取り出し、煙草に火をつけた。


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