表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/52

雲の上へ

 2時間ほどかけてガーラの傷は完全に治った。今は柔らかい草の上で気持ちよさそうにすやすやと眠っている。トシはその様子を少し距離を置いた場所から穏やかな目で見守っていた。


 「雨になるかもしれません」空を見上げながらハリマが言った。

 「雨が降ると厄介じゃ。そうそうに出かけるとしよう」座ってくつろいでいたエンユウがローブのお尻の部分を払いながら言った。


 (わるいな、気持ちよさそうに寝ているところを…)トシはゆっくりとガーラに近づくとその頭に手をそっと置いた。ガーラは待っていたかのようにパチッと目を開いた。そしてむっくりと起き上ると、身だしなみでも整えるかのようにくちばしで毛づくろいを始めた。さっきまでの怯えた様子はまったく見られない。トシはほっと胸をなでおろした。


 早速、各々同じグリフォンに乗って、洞窟を出発したときと同じ順番で飛び立った。ガーラの飛翔は力強かった。治療前のあのふらふらな感じは全く感じられない。羽ばたくたびにグングンと高さをまして、あっという間に地面は遠くなって行った。(よし、これなら全く心配ない)トシは確かな手ごたえを感じていた。


 トシはいつも以上に周りに気をつけながら慎重に飛んでいた。また、どこからかワイバーンが飛び出してくるかもしれない。これまであんなに大きなワイバーンは見たこともなかったが、もしかするともっと大きなワイバーンだっているかもしれない。もう、二度と怪我をさせてはならない。エンユウならどう操ったのか。ガーラが怪我をした時のことを思い出しながら、考えを巡らせていた。


 雲が低く垂れこめている。まだ早い時間帯にもかかわらずあたりは薄暗く、眼下の景色は一面のっぺりとした灰色で覆われていた。遠くに聳える山も谷をうねって流れる川も豊かな森も風が渡る野原も皆色あせて見えた。圧迫感のある分厚い雲がすぐ頭上まで迫っている。漂っている空気もじとっと重たい感じがした。


 ガーラは完全に回復した。キトナ山脈を出てから数時間が経っていたが、キトナ山脈を飛び立ったばかりと何ら変わらなかった。

 トシは目を瞑って体中をなでる風を感じていた。湿気を帯びた風は妙にぬるく、厚手の服も湿気を帯びて、決して快適ではなかったが、ガーラが元のとおりに回復したという事実が湿った空気ですら心地よく感じさせた。後ろからその様子をクシマが楽しげに見ている。


 しばらくするとクシマがハリマ越しに「ほれ、エンユウが何か合図を送っとるぞ」と言った。トシは身体をビクンと動かし、言われるまま右隣に並んで飛んでいるドラコの頭部に視線を移した。ドラコの巨大な首にまたがったエンユウは豆粒のように見えた。それでもエンユウがこちらを向いて右手の人差し指を上に向けて動かしているのは分かった。


 「雲の上を行こうということじゃろ」クシマが続けた。

 (雲の上を?)灰色の雲は厚く、太陽が今どこにあるかさえ分からない。トシにとって雲の中をグリフォンで突っ切っていくというのは初めてだった。もちろん、ゴシマやカインにとっても初めてのことだった。トシは息をのんだ。この雲の中に入ると思うと、より黒く、より厚く見える。


 「ドラコの直後に行くのは危険です。あの風圧をまともに食らったんではガーラでも持たないかもしれません。ドラコが行った後、少したってから行きましょう。雲の中は少ししんどいですよ」ハリマが言った。


 エンユウはゴシマとカインにも合図を送るとすぐに厚い雲の中に消えて行った。カインは合図にまったく気づかなかったが、ドラコが雲の中へ入っていったのを見てようやく気付いた。

 「とにかくゆっくりで行きましょう」ハリマがトシに言った。そのまま、ゴシマとカインにも手の平を下に向けて「ゆっくり」という意味の合図を送った。


 「……雲を行くのか」ゾラがぼそっと言った。

 「何かおっしゃいましたか」ゴシマが後ろを振り返った。

 「何でもない」いつも顔色のよくないゾラだが、いつもに増して黒ずんでいる。


 ドラコが雲に入っていった。少し間をおいてからトシはガーラを後に続けた。すぐに湿っぽい空気が顔面を襲った。うまく息ができない。口をすぼめて小さく息を吸った。おまけに雲の中はほとんど視覚が利かなかった。雨粒のような小さな水滴が顔を叩く。目を開けていられない。それでもトシは薄目を開けながらなるべく視界を確保しようとした。すぼめた口に細めた目に細かな水が入ってくる。おまけに鼻から入った水で頭が痛い。目からは涙があふれてくる。


 叩きつけるような水滴はゴオッーというものすごい音を伴い、一切の音は塗りつぶされていた。他は何も聞こえない。両手で耳をふさいでしまいたかった。水滴と恐怖で体温が急速に奪われていった。視覚が聴覚が触覚が雲の中で徹底的に破壊される感じがした。


 突然、目の前が明るくなった。時間にしたらほんの数十秒のことだったが、随分長く感じられた。雲の上にはあふれんばかりの光が降り注いでいる。体全体で太陽を感じた。視界がほとんど利かない雲を通ってきたこともあって、今度はまぶしくて目を開けていられなかった。ほとんど真上にある太陽が雲海に反射して金色に輝いている。


 ドラコは何事もなかったかのように、悠然と雲の上を泳いでいる。銀色の羽毛がキラキラと光を反射している。トシは目の前の巨大なグリフォンが光り輝くさまを見て、心から美しいと思った。ドラコの様子とは裏腹にエレナとエイレンは激しくせき込んでいた。よほど苦しかったのだろう。


 「相変わらず、雲の中はしんどいのう」クシマが言った。

 「…本当に」右手で目をこすりながらハリマが言った。

 カルが雲から出てきた。スピードが遅かったからか、ゴシマは手の平で目をゴシゴシとこすっただけで、割に平気な顔をしている。それにひきかえ、うしろにいるゾラはエレナたち以上に激しく咳き込んでいた。小さな体を激しく揺らしながら、ゲホゲホと繰り返した。ゴシマがしきりにゾラに話しかけ、右手を後ろに伸ばしてその小さな背中をさすろうとするが、その度にゾラに払いのけられた。


 「あいかわらず、ゾラは雲の中が人一倍苦手な様じゃな」クシマがすぐ斜め前のゾラを見ながら言った。

 「そうですね。気の毒に…」ハリマは神妙に肯いた。


 雲の上は快適だった。衣服が多少水を吸っているが、雲の中が厳しい状況であったため、そこを抜けた開放感が大きかったかもしれない。しかし、一行はすぐに異変に気付いた。


 「カインはどうした」クシマが言った。

 「そういえば、見当たりませんね」ハリマが振り返りながら言った。ハリマの言う通りカインの姿はそこになかった。エンユウやゴシマも気づいたようで、あちこちに視線を投げている。

 「落ちたのでは」視線を下に落としながらトシが言った。

 「それはないでしょう。いくらカインが巨漢でもベルトでしっかりと固定しているのですから」ハリマは前方を飛んでいるエンユウに視線を転じて言った。エンユウも盛んに雲の下を気にしている。

 「まだ雲の下にいるのでしょうか」ハリマが肩越しにクシマに声をかけた。

 「わからん。あまりにきついので途中であきらめて雲の下へ下がってしまったのかもしれん」クシマの言うとおりカインの性格を考えればあり得ないことではない。


 「まさか、またワイバーンにでも襲われてしまったのでは…」

 「あんな大きなワイバーンであれば確かにロンぐらいの大きさのグリフォンはやられてしまうかもしれんが…、ワシにはそんな気配は感じられなかったが」ハリマとクシマの会話を聞いて、トシは油断なく辺りの様子を伺った。しかし、3頭のグリフォンの下には金色に輝く雲のじゅうたんが広がるばかりで、他に何の気配もなかった。ドラコに乗ったエンユウたち、カルに乗ったゴシマたちも頭を四方に巡らせて探しているが(ゾラはまだ咳き込んでいる)、カインは見つからない。


 すると後方の雲のじゅうたんから小さなグリフォンの頭が現れた。少し遅れて坊主頭が浮かんだ。

 「ぶっふぁ、はっはっはっは、もう、いやだ~」カインは他のグリフォンからでも聞こえるほど大きな声で叫んだ。「帰りたい~」涙やら鼻水やらで顔中が大変なことになっていた。誰よりも激しくせき込み、誰よりも文句を言っている。

 「やれやれ、なんとか全員無事だったようじゃな」クシマが言った。


 さわやかな風が行く者の頬をなでた。雲の上でも高度はさほど高くない。ドラコは他の3頭のグリフォンを見守るように一番最後を飛んでいた。


 「少しは落ち着きましたか、エレナ殿」エレナたちの後ろのクリスが言った。

 「ええ、さっきまでは苦しかったのですが、なんとか」胸を左手で押さえながらエレナが答えた。

 「エイレン殿は」

 「ええ、ありがとうございます」小さな声でエイレンが答えた。言葉とは裏腹に目は少し赤みを帯びていた。それに気づいたクリスは懐からハンカチを出すと「これをお使いなさい」と言った。

 「ありがとうございます。でも自分のものがございますので」エイレンは小さく頭を下げ、ハンカチを取り出すと静かに目元を抑えた。


 そんな中、一番最後に座っているバラキはずっと右後ろを振り向いていた。バラキが視線を送る先には、母なるユングの稜線が見えた。他の山々が一面の雲の下に隠れているのをあざ笑うかのように天を突いて聳えている。厚い雲はほんの裾野を隠しているだけで、まるで空全体を覆い隠すように迫っていた。


 「お前は本当にユング山が好きだな」クリスが言った。

 「そりゃあ、あんなケタ違いの山は他にはねえからな。あの大きさはすげえよ」視線を動かさずにバラキが答えた。山を語るバラキはとても生き生きとしている。「この高さから見るとまた格別だな」

 「すべての命をつかさどる山だからな。他とは比べ物にならん」クリスが言った。

 「へっ」バラキはなぜか自分が褒められたかのように照れて鼻の下をこすった。


 「なぜ、お主が照れる」エンユウが独り言のように言った。

 「お嬢ちゃん、まあ見てみなよ。どこから見てもすごいが、ここから見ると一層すごいぜ。特にここ数日はすごいんだ」バラキがクリス越しにエレナとエイレンに言った。

 「本当に圧倒されますわ」エレナが言った。

 「なっ、すごいだろ」まるで自慢の身内でも紹介するかのようにバラキが言った。


 「だから、なぜお主の手柄のように言うのだ」チラリと後ろを見てエンユウが言った。「まあ、お主がそう思うのも無理はない。なにせ今年は豊饒の年じゃからな。100年に一度、母なるユングはありとあらゆる命を育む豊饒の年を迎える。空も大地も海もさまざまな生き物であふれかえる。まさに命の饗宴が始まるんじゃ」興奮気味にエンユウが言った。

 「聞いてませんよ、バラキの奴は」クリスが言った。クリスの言う通りバラキはまた振り返ってユングを見ている。エンユウの顔が苦虫を噛み潰したようになってるのを見てクリスは肘でバラキをつついた。


 「あ、悪かった、何だっけ」

 「いや、エンユウがユングの話をしてくれてたんだ」雰囲気を察したクリスが言った。

 「別にもういいわい」

 「母なるユングの話ですのね?聞かせていただきたいわ」気を使ってエレナが言った。

 「まあ、エレナ殿がお望みであれば話さんでもないですが」エンユウが言った。バラキもユングの話と聞いて身を乗り出すようにしている。「でもそんなに大した話でもないぞ」エンユウが言った。


 「そんなこと言ってないで、エンユウ、どうです、話してやっちゃ」クリスが言った。

 「お聞かせくださいな、エンユウ様」エイレンがたたみかけるように言った。


 「まあ、そこまでおっしゃるなら…仕方がないですな」エンユウはひとつ咳払いをしてから、改まって話し始めた。「母なるユングは百年に1度豊饒期を迎えます。豊饒期のユングはありとあらゆる命を育み、ユングから流れる滋養にあふれた水は大河イルグを通して世界中に広がっていっていきます。それこそ身体中を流れる血液のように。水は流れついた場所で新たな命を育みます。そうして草が育ち、草は動物の糧になり、動物はその肉を喰らう獣の糧となる。それゆえ、生きとし生ける者はその豊かさを共有できるのです」エレナやエイレンはエンユウの言葉を真剣な眼差しで聴いている。


 「流石は賢者様、よくご存知ですのね」エレナが言った。

 「なに、人よりも少しばかり長く生きているだけです」エンユウが謙遜して言った。

 「それから?続きをお聞きしたいわ」エレナが急かすように言った。

 「そうそう、続きを話してくださいな」エイレンも言った。


 「これは困りましたな」と言いながらも、エンユウはとても嬉しそうだ。上機嫌のまま、エンユウが続けた。「この年のユングはいつも以上に木々が生い茂り、ユングに棲む生き物たちも活動を活発化させます。そのため、いつも以上に大きく見えるのです。ひとまわり以上大きく見えるというも者もいます。というわけで、バラキがいつも以上に興奮しているのも無理もない話なのです。いつも適当なことばかり言っているお主も今回ばかりはあながちデタラメとは言えんようじゃな。ガッハッハッハ」豪快に笑いながらエンユウはチラリと振り返った。話を聞いていると思いきや、バラキはユングを見て「それにしてもすげえな、あの山は」と言った。


 「バラキッ」体を震わせながらエンユウが言った。あまりの迫力にエレナが小さい悲鳴を上げた。

 「何だよ、爺さん。お嬢ちゃんが驚いてるじゃねえか。だめだぜ、迷惑かけちゃ」バラキが言った。エレナは2人の間に挟まれてハラハラしている。対照的にエイレンは2人のやり取りを聞いてクスクス笑っている。


 「お主にだけは言われる筋合いはないわい」顔を真っ赤にしてエンユウが言った。でもバラキはすでに視線をユングに戻している。

 「ん、何か言ったか、爺さん」バラキが言った。

 「な、何でもないわい」

 「そうか」と言うとバラキはまた振り返ってユングを眺めた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ