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赤のアーグ

 そのころ、シュロムのとある山あいの細い道を縫うようにして一目散に走っている怪物の姿があった。発達したあごと眉毛の辺りの張り出した骨はまさにアーグ(食人鬼)そのものだが、体は小さく肌の色が赤かった。その周りを数人の緑のアーグが取り囲むように守っている。というより遅れないように必死でその後をついて行っている。


 赤のアーグは何かに取りつかれたようにわき目も振らずただ走っている。途中、むき出しになった小さな岩で足を切ったが、一切足を止めることはなかった。

 体力は既に限界を超えているが、一向に休もうとはしない。目からは涙が流れていた。周りのアーグは一人、また一人と脱落していった。ただ、赤のアーグだけはペースを緩めることなくもくもくと走っている。全身が赤い中、甲冑から覗く腹だけは赤黒く膨れていた。


 数時間前、赤のアーグはトルカの西の国境付近の山あいで起こったシュロム軍とトルカ軍の小競り合いを岩陰に隠れて見ていた。両軍あわせても五十にも満たない規模の小さな戦いだったが、国境にかかる橋をめぐってお互いに激しい攻防を続けていた。


 「おい、こんなところで一体何を始める気だ」緑のアーグの一人が言った。

 「俺に聞くなって、ただ俺はジー様にコイツらの争いを影から見てろって言われただけなんだから」赤のアーグが答えた。

 「奴らをやれってんなら、やってやるぜ。そんなもん、朝飯前だ」

 「バカ野郎、ジー様がくれぐれも手を出すなって言ってたのを忘れたのか。俺たちの役目はコイツを守ることだ。余計なことをすると殺されるぞ」別のアーグが言った。

 「わかってるけどよ…、なんで俺たちがコイツと一緒に奴らが戦ってるのをただ指をくわえて見ていなきゃならねえんだ」緑のアーグにとって、赤のアーグを守るなど我慢のならないことだった。「第一、おりゃ腹減ってんだ。久しぶりに人間も食いてえ。奴ら食っちゃダメかな」

 「ジー様に殺されていいんなら、食うんだな」


 赤のアーグは緑のアーグに比べて体も小さく力も弱い。当然、アーグの仲間からは馬鹿にされるような存在だった。にもかかわらず明らかにジーたちは赤のアーグを特別扱いしていた。赤のアーグは数はぐっと少なかったが、どのアーグもみな同じように目をかけられていた。赤のアーグと喧嘩して怪我でもさせようものなら、それこそ命がけの大問題となるのだ。「なんなんだ、お前らはナーズなんて呼ばれて、昔から特別扱いされやがって」

 「し、知るか、文句があるならジー様に言えってんだ」


 両軍の力は拮抗し、なかなか勝負がつく気配はなかった。時間がたつにつれ、戦いは激しさを増した。矢が飛び交い、何人もの兵が傷つき、倒れた。大地は血にまみれ、川は朱に染まった。一人また一人と力尽きていった。友を失った者は泣き叫び、敵への怒りを募らせた。今や戦場には怒りと憎しみの感情が渦を巻いてうねっていた。


 アーグたちは動くことなくその様子を岩陰で見ていた。ただでさえ、血の気が多いアーグが人間たちの戦いをただ指をくわえてみていると言うことは普通考えられないことだった。それでも、アーグたちは陰から見ているだけで、赤のアーグも何をする様子もなかった。戦いはますます激しくなり、総力戦の体をなしてきた。激しさを増していくにつれ、アーグたちのイライラも限界に達してきた。


 「おい、いつまでこうしてるつもりだ」緑のアーグの1人が痺れを切らして赤のアーグに詰め寄った。しかし、聞こえていないのか、赤のアーグは答えない。ただでさえ、イライラしていた緑のアーグは声を荒げた。「おい、何とか言え」それでも赤のアーグはピクリともしない。「てめえ」胸座をつかもうとしたそのとき、突然、赤のアーグが岩陰から立ち上がった。


 「おい、お前何やってんだ、奴らに見つかるぞ。変なことをすりゃジー様に殺されるだろうが」緑のアーグが必死になって赤のアーグを座らせようとした。しかし、どんなに力を入れてもビクともしない。数人がかりでも赤のアーグを座らせることはできなかった。

 「ど、どうなってんだ。あんなに非力だった奴が…」緑のアーグの一人が赤のアーグを見上げた。その目を見てぎょっとした。それはいつもの目ではなかった。瞬き一つすることなく、大きく見開かれている目は、黒目の部分が一回り大きくなって、しかも金色に変色していた。「コイツ、どうしたってんだ」


 赤のアーグはおもむろに両手を両軍の兵士たちのほうに向け、ゆっくりと口をあけた。緑のアーグたちはなんとか座らせようとしたが、座らせるどころか、上げた腕を下げることすらできなかった。戦いに夢中になっている両軍の兵士たちはまだ気づいていない。


 「おい、もういいよ、ほっとけ」息を切らして一人のアーグがほかのアーグに言った。

 「い、いいのか、止めなくて。ジー様に殺されるぞ」

 「ジー様が言っていたことを思い出せ。ジー様はコイツの邪魔をするなと言ったんだ。それはコイツのすることに構うなってことだろうが」

 「なるほど…たしかに言われてみれば」

 「だからよ、これからコイツが何をするか見守っていりゃいいんだよ」

 「それもそうだな」そう言うと緑のアーグたちは一斉に腰を下ろし、そのまま岩陰から事の成り行きを見守ることにした。


 「お、おい見ろよ」少しして一人のアーグが言った。

 「なんだ、戦況は特に何も変わってないだろ」隣のアーグが答えた。

 「戦況じゃねえ、コイツだ」アゴをしゃくるようにして、赤のアーグを指した。言われるままに赤のアーグを見上げると、思わず驚きの声を上げた。「な、なんだ、コイツ」


 赤のアーグの口から紐のようなものが何本も出ている。紐のようなものはゆらゆらと揺れながらだんだんと兵士たちに向かって伸びて行った。それは紐ではなく、光の筋だった。


 はじめに気づいたのはシュロム軍の馬だった。ある馬は驚いて前足を跳ね上げ、乗っている兵士を振り落した。落とされた兵士は何が起こったかわからず、キョトンとしている。しかし、すぐ気を取り直してトルカ軍に斬り込むため、再び馬にまたがろうとした。その時、兵士の頭上にスーッと光の筋が伸びていき、後頭部に触れた。瞬間、兵士はビクンと動いたかと思うと、そのまま直立して固まったまま動かなくなった。


 光の筋は後頭部に張りつくと頭から何かを引き抜いた。それはぼんやりとした白い塊だった。塊はそのまま引き抜かれ、光の筋に呑み込まれた。そして獲物を呑み込んだ蛇のように、うねりながら塊を赤のアーグの口の中に運んでいった。抜かれている間、兵士はずっと痙攣を起こしていた。その顔からみるみるうちに生気が失われていく。そして塊がすべて抜き出されると兵士はまるで土人形のように干からびていた。


 ようやく気付いた兵士たちはたちまちパニックに陥った。そして敵のことも顧みず、三々五々に散らばって行った。その顔に恐怖の色を浮かべながら。しかし、赤のアーグから出ている何本もの筋は誰一人逃さなかった。あちこちから叫び声が聞こえてきた。そして戦場は地獄と化した。


 両軍の兵士から塊を呑みこむのに長い時間はかからなかった。今や目の前には数十体の土人形が草原に転がっているだけだった。塊はすべて赤のアーグの腹に収められた。塊を呑み込んだアーグの腹はぶよぶよと醜く膨れていた。


 (俺はどこに向かってるんだろう)ぼんやりとした意識の中で赤のアーグは思った。自分でもどこに向かっているのか、何をしようとしているのかわからない。ただ、抗うことのできない大きな力によって動かされていることだけは確かだ。止まろうとしても、曲がろうとしても自分の体なのにまったく思い通りにならない。


 (…く、苦しい)激しい呼吸を繰り返しながら、アーグは走り続けた。あれだけいた緑のアーグたちはとうとう皆いなくなった。全身がバクバクと波打っている。いい加減にしてくれ、もう限界だ。岩で切った足がズキズキと痛んだ。それでも止まることは許されず、ペースを落とすことすら許されない。


 腹に違和感を感じた。あの戦場で呑み込んだものが、腹の中でうごめく。まるで生きたまま呑み込んだエサがもがき苦しんでいるように。強烈な吐き気を感じた。でも吐くことは許されない。この腹だ。この腹に溜まった物を何者かに届けるために俺の命は使い捨てられる。そう思った。


 山はどんどん深くなっていく。どこへ向かうか一切迷う気配はない。初めから決められた道を走っているのだ。初夏の草木の匂いがきつく鼻をついている。


 低いうめき声のような音が耳を掠めた。ほんの小さな音だが、奈落からの底から漏れ聞こえてくるような黒い響きだった。これから行く場所に、このうめき声の主がいるような気がした。周りの景色が飛ぶように映る。間違いない、この景色が俺の最期の景色になる。


 またうめき声が聞こえた。さっきより大きい。その声は濡れた蛭がうなじを這うかのように神経を逆なでした。確実に近づいているのがわかった。(俺、死ぬのかな)涙があふれてきてとまらない。


 深い草木に覆われた道を抜けると数百メートル先に大きな洞窟がぽっかりと口をあけているのが見えた。うめき声はそこから聞こえてくる。入り口の脇に生えている大きな誘いヤナギの木が誘うようにそよいでいる。(いやだ、いやだ、いやだ、助けてくれ)感情とは裏腹に足はまっすぐ洞窟へと向かって行った。そしてそのまま赤のアーグは洞窟の奥へと消えていった。


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