第5話 友情
5.友情
彩愛が自分の事を『12時を過ぎたシンデレラ』と例えてから、僕の心は苦しいまんまだ。いや、12時を過ぎたシンデレラにガラスの靴を届けられなかった自分の頼りなさに絶望している、と言った方が良いかもしれない。本当は心配で毎日でも彩愛にメールしたい気持ちだが、『今は一人で居たい』と言われてしまった衝撃がまだ抜けない。それほど情けない男なのだ、僕は。自分から連絡は出来ないくせに、バイト先にふっと姿を現すんじゃないか とか、夜メールが来るんじゃないか とか、一日中彩愛の事を考えない日はない。女々しい男だ。
今日は幸也と大黒ふ頭の釣り場に来ている。まだ朝早くて空も暗いうちだから、夏でも少ししのぎやすい。幸也の勘で良さそうな場所を決めると、そこへ二人は腰を下ろして、針に餌をつけたりと準備に余念がない。今日釣れるか釣れないかで、帰りの電車でのテンションが違う。いや、帰り道だけではない。3日、いや、一週間やる気が違う。だから当然期待値も上がり、同時に気合も入る。
釣り糸を垂らしながら、地べたにあぐらをかいて座る幸也が 思い出した様に口を開いた。
「この前、角田見掛けた」
僕の耳が急に幸也に吸い寄せられた。
「いつ?」
「いつだったかな・・・。先週だ」
「先週?」
「うん。福島のお婆ちゃん家に家族で行った帰り。結構遅い時間だったけど、一人で歩いてた」
「どこ?」
「あ~、学校の近くの歩道橋に昇ってくの見た。こっちは車で信号待ちの間に見掛けただけだけど」
夜中自転車を走らせて行った歩道橋だ。やはりあの日彩愛は、あの場所に来ていたのだ。
「どんな風だった?何か変わった様子じゃなかった?」
「う~ん・・・」
幸也が記憶を辿る。
「暗かったし、一瞬だったから・・・」
「・・・・・・」
そんな答えじゃ僕が満足しないのを察して、幸也が必死に僅かな記憶を絞り出す。
「夜中の12時過ぎてたしさ、そんな時間に女の子が一人でのんびり歩いてたから・・・目に留まったんだと思う。で、よ~く見たら角田だったって訳。あいつん家って、学校の近くなんだっけ?」
僕は首を横に振った。
「何だかさ・・・当てもなく歩いてるって感じだった」
僕はそんな幸也の話を聞きながら、あの晩の彩愛とのメールのやり取りを思い出していた。
「学校で見る角田と ちょっと雰囲気が違ったから、最初分かんなかったんだけど」
僕は、最初に彩愛がバイト先に来た時の様子と重なって聞いていた。
「角田もさ・・・結構深刻な悩みがあるらしくって。多分その日なんだけど、心配だから会いたいってメールしたんだけど、・・・『一人でいたい』って言われちゃった」
ずっと竿の先しか見ていなかった幸也が、急に僕の方を向いた。
「そんな話する程の仲になってんだ?」
僕は幸也のその言い方に少したじろいだ。
「する程の仲って程でもないけど・・・」
幸也が何か言いたそうに『ふぅ~ん』なんて相槌を打つもんだから、僕はつい又言い訳を考えてしまう。幸也が竿を少し動かしながら、言った。
「角田に好きだって言ったの?」
僕は何故か動揺してしまって、首だけ横に振ればいいものを、全身をぶるぶると振るった様に思う。しかしその後も幸也が何の反応もしないから、僕がぽか~んとしていると、幸也が突然僕の竿の先を指さした。
「来てるよ!」
「え?!」
もたもたしながら、僕がリールを巻き取るが、急にふっと引きが軽くなる。針を水面に持ち上げると、そこには餌だけが無くなった釣り針が揺れていた。それを見て幸也が あっはっはっと笑った。
「ぼけーっとしてるから逃げられちゃうんだよ」
もちろん返す言葉はない。すると幸也は更に核心をついてくる。
「もたもたしてると、角田にも食い逃げされちゃうよ」
一瞬息を呑んだが、必死で僕は言い返した。
「何だよ、食い逃げって・・・」
「都合よく利用されて終わっちゃうよ」
「・・・・・・」
多分僕の口は、何か言いたくてパクパクしていた様に思う。言い返したいが、悔しいかな 言い返す言葉が浮かばなかったのだ。
結局その日幸也が4匹小さい魚を釣り上げたが、僕は結局あの一回だけで、あとは引っ掛かりもしなかった。夕焼けを引き連れた電車に揺られて、僕等は家路に着いた。朝早かったせいもあって、電車の座席に座って心地良い揺れに身を任せていると、自然と夢の世界へと吸い込まれていった。
そんな僕を現実に引き戻したのは、ポケットで震える電話だった。見ると、彩愛からのメールだ。
『今日はバイト出てないんだね』
僕は必死に頭を現実に呼び覚ます。彩愛がそう聞いてくるという事は、今バイト先に来たという事だ。またメールのやりとりに失敗して、この前みたいに逃げられてしまうのはごめんだ。慎重に言葉を選んだ。
『来てくれたんだね。ありがとう。もう少し待っていられる?』
『どの位?』
すぐの返信がある。前回と違い、良い感触に僕の気持ちも上がってくる。
『急いでる?』
電車を降りる前に、僕は幸也に聞いた。
「魚臭いかな・・・?」
「魚臭い俺に聞いたって分からないよ」
もっともだが、じゃ誰に聞けばいいと言うのだ。そんな事を思っていると、幸也が鞄からボディシートを出した。デート前に身だしなみを気にする自分を見られている様で、ちょっと気恥ずかしさを感じながら 僕はそれを一枚貰って首や腕を拭いた。
「サンキュ」
そして一足先に下りる僕が立ち上がると、幸也は言った。
「今日釣れなかったの、この為だったのかもな」
その一言で、僕は急に元気が出てくる。
駅の改札を出て階段を下りたら、彩愛がきっと待っていてくれる筈だ。そう思うと、ちょっと勘違いしそうに心が躍り出す自分にブレーキをかけるのが大変だ。駅の階段を半分下りた位の所で、駅前のベンチに座っている彩愛の姿が見える。少し高いベンチに深く腰掛けて、足をぶらぶらさせながら下を俯いている。
「ごめんね、待たせちゃって」
まるでデートの待ち合わせに遅れた男の台詞みたいだ。僕は言いながらそう思う。彩愛はその言葉で顔を上げて、僕が釣竿を持っている事に驚いている。僕は『今日はどうしたの?』と聞きたい気持ちをぐっと堪え、言葉を探した。
「もしかして、あそこ・・・行きたかった?」
彩愛はこくりと頷いた。
「そ。秘密基地」
この間と同じ様に、覚えにくい道順を進みながら秘密基地を目指すと、彩愛が言った。
「もっと分かりやすい道、ないの?」
「凄い遠回りになるよ」
「え~、どの位?」
「・・・2~30分は違うんじゃないかなぁ」
「そんなに違うのかぁ」
「そうだよ。それに、その道覚えちゃったら・・・もう一緒に行けなくなっちゃうでしょ」
自分でも言っておいて驚いている。同じ様に、多分隣を歩く彩愛も変に思ってるに違いない。だって相槌がないから。少しの沈黙を挟んで、彩愛が言った。
「・・・あっ!そうか。よっしーの秘密基地だもんね。勝手に侵略されたら嫌だよね」
彩愛が違う風に勘違いしてくれて、少しホッとしている様な、でもそれも違うと言った方が良い様な複雑な気持ちで、僕は首だけを横に振った。
目的地に到着する手前の坂道で、息を切らしながら彩愛が言った。
「今日よっしー、バイトじゃなくて良かった」
僕だってそう思っている。だけど『そうだね』なんて言うのは気恥ずかしいから、ちょっとはぐらかしてみせる。
「だから初めっからメールくれれば良かったのに。そしたら待たせないで済んだのに」
「・・・いいの。私、時間 いくらでも待てるから」
「え?だって前、レストランであんまり長くは並べないって・・・」
「それはそうだけど・・・。今日みたいな時は、別」
僕の耳に『今日みたいな時』がいやに重く残る。また嫌な事があって逃げ出して来たのだろう。しかし、ならどうしてバイトじゃなくて良かったと言うのだろう。
坂道を登りきって、とうとう例の秘密基地に辿り着く。先日登った木の幹に寄り掛かって、彩愛は目を瞑って深呼吸をした。そのまま暫く目を瞑ってじっとしていた彩愛が、僅かに込み上げる涙を堪えているのを感じて、僕は少し離れて荷物を置いた。すると、彩愛が小さい声で言った。
「ありがと、連れて来てくれて」
「いや・・・」
なんで僕はこういう時、さり気なくてかっこいい台詞を言えないんだ。そう自分に怒りをぶつけて、小さく足元の土を蹴飛ばした。ザザッという音に目を開けた彩愛が、一瞬僕の姿を探す素振りを見せた。
「よっしーってさ・・・」
僕の胸がドキンと鳴った。
「・・・さり気なく、超優しいよね」
「・・・そう?そんな事ないけど・・・」
ほら、こういう野暮ったい返事しか出来ない自分が嫌いだ。しかし彩愛は、僕の気持ちの中を知る由も無く、話を続けた。
「よっしー、彼女いる?」
「・・・いないよ」
「じゃあ、どんな子がタイプ?」
もしかしたら、今が告白のタイミングなのかもしれない。そう思うが、口に出す勇気を今一歩出せない。沈黙を恐れ、苦し紛れに出した言葉が最悪だ。
「前に、角田が彼氏と一緒に歩いてるの見たんだ」
「え?」
「学校の近くの商店街で・・・。その後車乗ってどっか行っちゃったけど」
沈黙を恐れて話を変えた筈なのに、さっき以上に気まずい空気が立ち込めた。そこで僕は初めて、触れてはいけない領域だった様に感じた。黙ったまま、彩愛が木に登ろうとしているのを、手伝っていいのかが躊躇われる。そこは殆ど月明かりしか届かない様な場所で、街の明るさに慣れてしまっている僕等には暗く感じるが、それでも意外に彩愛の表情まで見えたりもする。
「やっぱり登れないや・・・」
そう独り言の様に呟くのが聞こえ、僕は木に近付いた。
「先に登って、引っ張ろうか?」
彩愛の手を握るのは二回目だ。木に登るのを手伝うという立派な理由の元でだ。前回と同じ幹の分かれ目に彩愛が腰を下ろす。それを見届けて、僕ももう一段上の分かれ目に座った。前回と同じ眺めだ。
「よっしーには軽蔑されるかもしれないけど・・・」
僕の全身に急に緊張が走った気がする。
「お金・・・渡しちゃった」
思わず『えっ!』と漏れそうになる。
「やっぱ よっしーの言う通りだったのかもね・・・」
僕は彩愛の話をひたすら待った。
「金の切れ目が縁の切れ目」
『え?それってどういう意味?』と聞きたい気持ちを無理矢理押さえつけて、僕はまだ黙って聞いた。
「なんか最近冷たかったから・・・こっちに振り向いて欲しかったのかもしれない。・・・お金で買おうとしたのかも、私。最低だよね・・・」
器のちっちゃい僕は、こんな時どんな言葉を掛けたらいいか 引き出しがない。
「そん時は優しくなったけど、またすぐ同じ」
そう言い終えて、彩愛は少し首を傾げた。
「同じ・・・じゃないか」
「同じじゃない・・・?」
僕はただ言葉を繰り返すだけしか出来なかった。すると彩愛ははぁと溜め息をついてから、更に小さな声で言った。
「最近じゃ、家に行かせてもらえない・・・」
「・・・・・・」
「他に女が出来たのかな・・・」
「そんな・・・」
思わずそう言ったが、僕は前に見た彩愛の彼氏を思い出して言葉を詰まらせた。
「元々私達もナンパだったし・・・」
そう言われると、言葉が出ない。
「それとも・・・私、嫌われちゃったかな」
「え・・・どうして?」
「だって・・・度々家飛び出して、泣きついて・・・面倒臭いもんね、私」
「そんな事ないよ!」
勢い余って立ち上がったつもりが、また足を滑らせる。一歩間違えたら地面に落ちていたところだが、かろうじて幹に掴まって難を逃れた。しかし、肝心なところで格好悪い僕には変わりない。
「大丈夫?」
彩愛が僕を見上げて聞くから、とっさに何食わぬ顔をしてしまう。僕は最高にダサい自分を必死で隠そうとしていると、彩愛が大きな口を開けて笑い出した。
「よっしー、天才的!」
どういう意味だ?僕は複雑な気持ちで、彩愛がお腹を抱えて笑うのを見ていた。
「だって・・・このタイミングで・・・最高!よっしー」
何故か褒められている自分に心の中で首を傾げていた。でも、彩愛のその笑顔を見ていたら、さっきまで何とか元気付けたいと思っていた彩愛が笑っているのだから、それだけで僕の心の中は自然と嬉しくて軽くなってくる。
「ありがとう、よっしー」
僕を見上げて言う彩愛の顔が、月明かりでぼんやりとする中に、少し潤んだ瞳が反射して僕はドキッとしてしまう。
「ありがとうって・・・」
戸惑う僕を見て、又ケタケタと笑って彩愛が言った。
「いいの。ありがとうで」
それから暫く、さっきとは別人の様な幸せそうな顔で彩愛が言った。
「やっぱ、よっしー 癒し系だわ」
彼氏とどういう状況になっているのか気になりながら、僕は聞いて良いのか迷っていた。
「ねぇ。男と女の友情って成立すると思う?」
僕は嫌な予感に胸が騒ぎだす。もしかして告白する前に、完全にフラれるパターンか?フラれても仕方ないと分かっていながら、告白も出来ずに散っていくのは更に悲しい。僕がはっきりと返事しないから、彩愛が自分の気持ちを話し出す。
「私ね・・・よっしーとは、そう・・・」
そこまで聞いて、もうこれ以上は決定的な言葉しか続かないと察し、僕は何とかそれを阻止したいと立ち上がった。
「あっ・・・!」
急に僕が立ち上がって大きな声を出したから、彩愛は言葉を止めて僕の方を見上げた。
「あ・・・ほら、あそこ・・・」
目の前に大きく広がる夜空を指さしてみるが、必死にごまかす理由を考えていた。
「どこ?何?」
「あ・・・今・・・あそこ」
似た様な言葉を繰り返すダメな僕も、駄目なりに必死で目が何かを探していた。
「流れ星かな・・・何か今・・・」
「・・・ええ!?凄い!流れ星?」
「うん・・・」
「見たかったぁ。・・・また来るかなぁ?」
「どうかな・・・」
やっぱり行き当たりばったりの思いつきは駄目だ。話をどっちに持って行っていいかも分からず、僕はパニックになる頭の中を必死に隠して、半分自己嫌悪に陥っていた。すると、意外にも彩愛がその言葉の後を繋いだ。
「あっ!もしかして 隕石だったりして?」
「いや・・・どうかな・・・」
「違うか・・・」
彩愛は何の疑いも持たず、僕の話を素直に聞いた。また沈黙が訪れて、僕はまたさっきの話の続きが始まるんじゃないかと、内心ビクビクしていたのだ。
「そうだ。今度さ、自転車で遠出してみない?」
「自転車で?」
突拍子もない僕の発案に、彩愛が当然の如く驚いている。
「昔お父さんに連れて行ってもらった所なんだけど、夏朝早く行くと涼しくて、景色もいい場所」
「へぇ」
乗り気でないかどうかを確かめる為に、僕は彩愛の顔を見下ろした。まんざら嫌ではなさそうな顔をしている。
「遠い?」
「う~ん、2時間位・・・いやもうちょっと掛かるかな」
「お弁当持って行く?」
「あ・・・そうだね。コンビニで買ってってもいいし」
「じゃ、私お弁当作ってく」
「え?!」
「よっしーの分も作ってく。おにぎりがいい?それともサンドイッチとか・・・リクエストがあれば言って」
「・・・いや、別に・・・」
「なんか楽しみになってきた」
僕は思いがけなくデートの約束を取り付けて、急に胸がドキドキし始める。
それから約束の当日まで、僕に届く彩愛のメールはまるで彼氏に送る内容の様で、勘違いしてしまいそうになる。
『お弁当で嫌いなおかずある?』
『おにぎりとサンドイッチどっちがいい?』
『凄く楽しみ』
きっと僕が彩愛の事が好きだって言ったら、この関係は壊れてしまうのだと思う。彩愛がこの間言いかけた『よっしーとは男と女を越えた純粋な友達みたい』っていう思いが、きっと安心して僕と手作り弁当を持って出掛けられるのだろう。嬉しい様な悲しい様な、やはり複雑な気持ちで僕はその日を迎えた。