第3話 秘密基地
3.秘密基地
学校も夏休みに入り、部活に入っていない僕はバイトの予定がスケジュールの殆どを占める。
今日も僕はバイトの終わる15分前になると、いつもソワソワしだす。やはり立ちっ放しで、人見知りの割に接客の仕事だけあって 緊張しているのだ。もうすぐそれらから解放されると思うと、体がはやる気持ちを抑えきれないのだ。
今日も例に洩れず、終業近くなると時計を見る回数が増える。ピンポーン。入口のチャイムが客の入店を知らせる。体が自然と反応する。
「いらっしゃいませ」
そこへ姿を現したのは、彩愛だった。レジの所にいる僕をチラッと見てから、お菓子売り場の棚へと姿を消す。
「あっ・・・」
思わず、僕の口からそう声が漏れる。しかしその後、この前みたいにすぐに商品を選んでレジには来ない。僕は店内のミラーで彼女の姿を追う。お菓子の棚から雑誌の棚へ移る。
「もう上がっていいよ」
そう店長に声を掛けてもらって奥に引っ込む。制服を脱いで鞄を持って出てくると、店内にいた筈の彩愛の姿が消えていた。
店を出てキョロキョロすると、脇から『わっ!』と子供みたいに脅かす声がする。彩愛だ。
「どうしたの?」
「アイス食べよ」
そう言って、彩愛は今買ったばかりの袋からアイスを取り出し、一本を僕に差し出した。
「あ・・・ありがとう・・・。で、どう・・・」
もう一度『どうしたの?』と聞こうとしたところで、彩愛が先を越した。
「この前のお詫び」
「お詫びって・・・?」
「お昼一緒に食べようって誘っといて・・・食べられなかったから」
「あぁ、あの事か」
その瞬間、少し切ない風が僕の心の中を吹き抜けていったが、それを悟られない様にめいっぱいの笑顔を向けた。
「混んでたしね。しょうがないよ」
コンビニの駐車場の端っこに寄り掛かって、僕らはアイスを食べた。食べ終わって僕は財布から小銭を出した。
「アイス、ありがとう」
「私のおごり。じゃないと、お詫びになんない」
僕は考えた末に、その小銭をしまう事にした。
「ごちそう様。じゃ、そのお礼に駅まで送るよ」
しかし彩愛は返事をしなかった。もしかして・・・。僕の心にどんよりとした雨雲が影を落とす。
「時間、まだ平気?」
僕は思い切って聞いてみる。頷く彩愛の瞳の奥が暗い。
そこから歩いて暫く行った所に、広い公園がある。7月の夜9時過ぎ、ジョギングをする人影がちらほら見える。
「夜、こういう所って不気味だよね」
彩愛を連れて来ておきながら、僕は半分笑いながらそう言った。すると彩愛も半分笑いながら言った。
「じゃ、なんでここ来たの?」
「ここに来たかった訳じゃなくて・・・通り抜けたかっただけ」
「どこに向かってんの?」
当然の質問だ。
「ん・・・小学生の時の・・・思い出の場所」
公園を抜けると大きな通りに出る。そして、そこから又細い住宅街の路地に入る。そこら辺で、彩愛が口を開いた。
「この間の事、誤解してるよね?」
「・・・誤解?」
「私は別に、よっしーといるとこ 見られるのが嫌なんじゃないよ」
「・・・いいよ、もう。大丈夫だよ」
僕等の歩調が少しゆっくりになる。
「よくない。よっしー、変な風に誤解したでしょ?だから急に帰ろうって言ったんでしょ?」
「違うって。どこも混んでたから・・・」
「あっ!もしかして、私と二人でいる所、見られんの嫌だったんだ?」
「違う、違う!そうじゃないって」
僕は慌てた。まさか、そんな風な解釈もあるとは思わなかったからだ。
「よっしーってさ、どんな人とも合わせられそうな感じするけど、本当は苦手なタイプとか あるの?」
僕はちょっと首を傾げる。あまりそんな事考えた事なかったからだ。
「もしかして、私の事 苦手だったりして?」
僕は必死に首を横に振ってそれを否定した。
「だって、よっしーはおっとりしてる癒し系タイプでしょ。私はこう・・・何ていうかガチャガチャしてるっていうか・・・。テンポとか性格とか真逆っぽくない?」
“おっとりしてる癒し系”言い換えれば、“のろまで鈍くさい頼りない男”だ。彩愛の様に皆の前では明るく元気で、でも本当は心に悩みも抱えてる様な少し大人びた子は、きっと僕なんか選ばない。もっと包容力があって、現実を忘れさせてくれる様な楽しみをいっぱい与えられる男を好きになる。
「全然面白くも何ともない人間だからね・・・」
すると彩愛が、半歩前を歩きながら言った。
「今日・・・また家で嫌な事あって出てきちゃったんだけど、その時に『あっ、よっしーに会いに行こう』って思って来ちゃった」
え?!僕に会いに?そう言った?耳を疑いたくなる。
「多分・・・よっしーといると・・・」
次に続く、彼女の心境に一番適した言葉を探している。
「何だか自然と胸があったかくなって、優しい気持ちになれる気がする」
この上ない極上の褒め言葉だ。今まで生きてきた17年で一番嬉しい言葉かもしれない。だから僕はつい気持ちが良くなって、勝手に勢いづいてしまった。
「今日は・・・彼氏の所に行かなかったんだ?」
そうだ。こんな時に彼氏よりも自分が選ばれた優越感に満足していたのだ。すると、彩愛が思いがけない言葉を漏らした。
「彼、めっちゃ優しいけど・・・怒ると怖いから・・・」
「怒ると・・・?なんで、怒られるの?」
「・・・・・・」
彩愛が黙ってしまったので、僕も少し待ってみる事にした。
僕の小学生の時の思い出の場所に辿り着く。そこは少し高台になっていて、大きくて太い木が一本、今でも尚そこに変わらずに存在していた。街並みが一望できる その場所だったが、特別展望台とかでもない為、人気はない。昼間は気持ちの良い風が吹き抜けて、夏には木陰と風でとても心地良い場所だ。
「こんな場所、あるんだね。きれい・・・」
彩愛が夜の街を眺めながら言った。
「小学生の時、嫌な事があると 走ってここに来ては、この木に登って 気が済むまでじっと街眺めてた」
「木に登って?!」
僕は懐かしいその木の感触をもう一度確かめると、子供の頃の様に節に足をかけて登った。
「懐かしい~」
すると、好奇心旺盛の彩愛は、目を急に輝かせた。
「私も登ってみたい」
僕が初めに足をかけた節に 彩愛も同じ様に右足をかけて勢いを付けるが、上手く登れない。そして彩愛が片手を伸ばしてきた。
「ねえ、引っぱって」
その手に戸惑っているのは当然僕だけで、すっとスマートに手を差し出せずに躊躇してしまう。僕が座っていた二股に別れた木の幹から立ち上がり、下の彩愛を眺めて考える。
「そしたら、よっしーが落っこっちゃうか」
なかなか手を貸そうとしない僕が、そんな事を考えていると思ったのだろう。誤解が定着する前に、僕はようやく慌てて手を差し出した。
「左手でそこに掴まって、ぐっと上がってごらん」
彩愛は言われるまま左手を木の幹のでっぱりを掴み、右手を僕の方へ差し出した。初めて繋ぐ彩愛の手の感触がどうだったかなんて感じる余裕はない。しかし、登って来られた彩愛がやけに嬉しそうな笑顔を僕に向けた。
「登れた!ありがと」
手はいつの間にか離れていた。二股に別れた幹に彩愛が座れる様、僕はもう一つ上の二股へ足をかけて登った。木に腰を落ち着けると、彩愛が街並みを眺めてもう一度声を上げた。
「こっからの眺め、最高!」
「木の上から見ると、また違うでしょ?」
「うん」
少しそよそよと風が通り抜けて行くゆっくりとした時間に、僕等は包まれた。会話の無い時が暫く過ぎてから、彩愛がぽつりと言った。
「秘密基地だね」
「当時、自分の中でそう呼んでた」
彩愛は両手を広げ、胸いっぱいに大きく深呼吸をして言った。
「今日、よっしーに会いに来て良かった」
今日何度目だろう。彩愛の言葉でこんなに心が浮かれてくるのは。もう一度風が頬を撫でた後、彩愛が又喋り出した。
「私、好きな人が出来ると、その人全部になっちゃうの。だから家に居たくなくなって飛び出してくると、彼ん所に行っちゃうんだけど・・・。彼がね、疲れてる時とか、私にかまう余裕が無い時とか・・・すっごい怒らせちゃう。今日もね、家出てすぐに彼氏にメールしたの。そしたら『またか・・・』って返信来て・・・」
僕は、一番悲しくて辛い時に受け止めてもらえなかった彩愛の気持ちを思うと、心が急に苦しくなった。
「あ、ごめんね。その後よっしーの所に来たって事になるんだけど・・・彼が駄目だからこっちみたいな・・・」
僕は何て言葉が今一番適切なのか分からず、首だけを横に振った。
「来てくれて・・・嬉しかった」
「ありがとう」
「・・・本当、すっごく嬉しかった」
僕の口が、勝手にそう言っていた。
「そう言ってもらえると、救われる」
「本当・・・なんていうか・・・僕で力になれる事があればいつでも来てよ」
ふふっと笑ってから、彩愛が僕を見上げて言った。
「よっしーは優しいね」
「・・・包容力もないし、頼りないかもしれないけど・・・気持ちはさ・・・笑顔になってもらいたいって気持ちは・・・凄くあるし・・・」
もう僕は何を喋っているのか分からない。勝手に口が動いている感じだ。しかし、それを聞いた彩愛は首を振った。
「よっしーは、どんな時も傍でそっと寄り添ってくれる感じがする。どんな私も否定しないで受け入れてくれそうな安心感もある」
今の僕にそんな褒め言葉を聞かせたら、ヨットの帆に追い風を与える様なものだ。
「角田の・・・事さ・・・」
勢いでそこまで言ってしまったが、その後の言葉が続かない。僕は自分の気持ちをどうしていいのか困ってしまって、思わず立ち上がった。するとその時、足を滑らせて太い枝の上で尻もちをついた。
「痛っ!」
「大丈夫?」
バツが悪くなって、僕はさっきまで言おうとしていた言葉を胸にしまった。
再び静寂が訪れる。僕は時計を気にした。
「お家の人・・・心配してるんじゃない?」
彩愛はポケットから携帯を取り出すと言った。
「何の連絡もない。誰も心配なんかしてないんだ」
僕の心はまた悲しい色に染まった。
「・・・この後・・・どうするの?」
あははとカラ元気に笑ってみせる彩愛。
「どうしようかな・・・」
僕はさっきついた尻もちのせいで、お尻が痛い。
「ずっと朝までこうしてようかなぁ・・・。あっ、よっしー帰っていいよ。バイトも終わってるのになかなか帰って来ないって、お家の人心配してるんじゃない?ごめんね」
僕はちょっと勇気を出して言った。
「うち・・・来る?」
あまりにも唐突な提案に、彩愛は声も出さず 僕の顔をじっと見ている。
「親もいるし、姉ちゃんも二人いるし・・・確かお客さん用の布団も一組あったと思うし・・・」
変な説明をした。やはり、彩愛は返事をせず黙ったままだ。
「クラスメイトにバイト帰りにバッタリ会ったって言えば・・・さ。あ・・そこは本当だけど・・・」
相変わらず返事はしない彩愛だが、嫌だとは言わない。僕はまだ続けた。
「僕の部屋使えばいいよ。僕は他の部屋で寝るから」
その時ふと気が付く。さっきから僕は寝る事ばかり考えている。心配しなくていいよと言いたいつもりが、かえって変な言い訳に聞こえそうだ。そう思ってしまった途端に言葉が詰まって、今度は少し重たい沈黙が流れた。それに耐え切れず、僕は別の案を出した。
「それとも・・・送ってこうか?家に帰りづらいなら、一緒に行ってもいいし・・・」
そこでようやく彩愛が口を開いた。
「よっしーの家族、皆びっくりしちゃうよ・・・。こんな家出娘連れて帰ったら」
「大丈夫だよ。人見知りなの、家族の中で僕くらいだから」
「迷惑じゃないかな・・・」
「平気だよ。明日・・・学校もないしね」
突然決まった突拍子もない様な計画が、この後どうなるかなんて僕は考えてはいなかった。いや、考えていたら出来ないと思ったのだ。だからもうここは勢いで、僕の無い知恵を絞って浮かんだ彩愛を守る方法を強制執行するのだ。そう腹に決めて、僕は力強く立ち上がった。
「じゃ、行こうか」
少し高い木の枝から、僕はひょいっと飛び降りた。地面が意外に硬くて、足の裏がジンジンする。しかし、それを見ていた彩愛が感嘆の声を上げたので、僕は足が痛い素振りを必死にやせ我慢した。
「すっご~い!」
彩愛に褒められる度、単細胞な僕はスーパーマンにでもなった様な気持ちになる。
「どうやって降りよう・・・」
「さっきと同じ向きになって、ここに足掛けて・・・」
その指示通りにやってみようとする彩愛だったが、意外に足を掛けた幹の節までが遠い。
「やっぱ・・・出来ないよ・・・」
そんな弱気な、ちょっと女の子っぽい彩愛の一面を見て、僕は早速格好つけたくなる。
「じゃ、お尻で滑り降りるイメージでさ。最後はぴょんって飛び降りたら、ちゃんと受け止めてあげるから」
「わかった」
僕の言葉を100%信じてる素直な彩愛を、可愛いと思った。
「大丈夫だから、おいで」
今目の前に鏡があったら、きっと僕はこんな風に言っていない。まるで二枚目気取りだなと自分でも思っている。そんな恥ずかしい事を言えたのも、多分夏の開放的な夜風のせいだ。
彩愛がぶきっちょに木の幹を下りてきて、最後のところで両手を差し出しながら僕に向かって飛び降りてくる。
「きゃーっ!」
目を瞑ってる彩愛が、僕の思っていた以上の勢いで飛び降りてきたから、受け止める筈の僕もよろめいてしまって、しりもちをついた。しかし彩愛だけはしっかりと受け止めている。僕の両手は彩愛の腕と脇を支え、顔はすっかり僕の胸の中にある。
「大丈夫?」
どっか擦りむいたり打った所はないか、気になる。だって僕が格好つけて『大丈夫だからおいで』なんて言って信用させたのに、結局受け止めきれなかったのだから。自分を情けなく思いながら、彩愛の様子を気に掛ける。彩愛は、大丈夫だとも痛いとも言わない。僕に飛びついたままの体勢でじっとしている。益々僕は心配になった。
「どっか・・・痛い?」
「・・・・・・」
「ごめん。大丈夫だからなんて言って・・・頼りなくて・・・」
心配から胸のドキドキの方が大きくなってくる。何故なら、彩愛が僕の腕の中からなかなか離れないから。だから僕は、必要以上にお喋りになる。
その時、彩愛の顔が急に近付いてきて、僕の唇にそっとキスをした。こういう時は、どうしたらいいのだろう。そのままそっと抱きしめてあげた方がいいのか。しかし彩愛の気持ちも分からない。暗くて尚更 表情も見えない。淋しくてただ僕じゃなくても良かったのかもしれない。ただそこにいた誰かに甘えたかっただけかもしれない。そうだとしたら、勘違いして、二枚目気取りな態度は恥ずかしい。二人の間に妙な空気が流れて、気まずさに耐えられなくなった頃、彩愛が体を離した。
「ごめん・・・」
僕は良く分からないけれど、気が付くとそう呟いていた。相変わらず何も喋らない彩愛に、僕もどうしていいか分からず、とりあえず立ち上がった彼女に合わせて、僕も尻もちで汚れたズボンを払って立ち上がった。
「どっか・・・痛くなかった?」
そうだ。何も無かった事にしよう。あの瞬間だけ切り取って自分だけの蓋付の入れ物にしまっておこう。そう必死に自分を納得させて、その前の話題に戻す。
「大丈夫。よっしーこそ、平気だった?」
「僕なんか全然。・・・ぴょんっと飛び降りてなんて言ったのが悪かったよね・・・。本当ごめんなさい」
僕は頭を掻きながら、深々と頭を下げた。そして今度は彩愛が言った。
「さっきの・・・」
もうその話題は要らない。僕は又訪れるかもしれない変な空気に怯えながら、彩愛が何か言い出すのを遮る様に言葉を早めた。
「こっちこそ、ごめんごめん。ボーッとしちゃって。尻もちついた衝撃っていうか何ていうか・・・」
文字数ばかり無駄遣いして、内容は大した事話していない。ただ日本語を思いつくままに羅列しただけだ。そんな僕の様子を待って、彩愛が口を開く。
「さっきは、ごめんなさい」
改めてそう謝られると、誰かの代わりだと言われている様で、やはり悲しい。
「謝んないでよ。こっちこそ・・・悪いっていうか・・・」
言いながら、矛盾している事くらい気が付いている。だってあのキスは、僕からじゃない。でも、これ以上謝った理由を説明なんかされたら、もっと傷付く気がしたから。大好きな女の子とキス出来たのに、こんなに複雑な気持ちになるとは思ってもいなかった。
結局はっきりしないまま、二人は僕の家へ向かった。僕の家は大きな団地のB棟の3階だ。もう古い団地だ。突然彩愛を連れて行ったら驚かれるから、一応母親にメールだけは入れた。
『友達と一緒に帰る。今日泊めてあげて欲しい』
玄関のドアの前で、彩愛がもう一度言った。
「本当に迷惑じゃないかな・・・」
「平気、平気」
ガチャッと玄関の扉を開けて、いつもよりも少し凛々しい声で 僕はただいまと言った。
真っ先に玄関に出てきた母親の顔が急に驚きの顔に変わる。
「あ・・・ら、まぁ・・・いらっしゃい」
「クラスの友達。バイトの帰りにバッタリ会って・・・ちょっと今日泊めてあげてくれる?」
そう紹介されて、彩愛も後ろから遠慮がちに姿を見せて頭を下げた。
「夜分に突然すみません」
すると母が僕に聞いた。
「もちろん うちは構わないけど、お家の方はご存知なの?」
「あ・・・大丈夫。彼女も電話持ってるし」
少し怪訝な表情を残したまま、家の中に通された彩愛に母が聞いた。
「お腹は?ご飯まだでしょ?一緒にどうぞ」
居間でテレビを見ている父と泉美に、彩愛が深々と頭を下げる。皆、僕が連れてくる友達というのを完全に男だと思っていたから、度肝を抜かれた様な顔をしている。少し気味がいい。いつもよりも ほんの少しだけ胸を張って、僕は食卓につく。
カレーが二人分出てくる。
「今日はね、時間が無かったからカレーにしたの。良かったよぉ、カレーで。いっぱいあるからお替りしてね」
妙に明るい母の話を、僕は広げた。
「うちはさ、カレーっていうとでっかい鍋にいっぱい作んの、昔っから。それが一週間毎日形を変えて夕飯に登場するって仕組み」
「一週間は言い過ぎでしょう」
母が反論する。
「だって、次の日は二日目カレーって言って そのまんまでしょ。3日目からはカレーうどん、カレーそば、カレードリア。あっ!カレーコロッケの時もあった」
「凄いでしょ?」
母は開き直って彩愛に同意を求める。そんな、一見馬鹿馬鹿しい様な会話で、彩愛の緊張も次第にほぐれてくる。
「ほらほら、遠慮しないで沢山食べて。高校生って言ったら、食べ盛りだもんね。お姉ちゃん達が高校の時なんて、今の善之より食べてたかもよ」
会話に自分が登場すると、居間からそれを聞きつけた泉美が、食卓の空いた席に座って身を乗り出した。
「うちってね、ご飯の品数が少ない訳よ。ほらね、今日もカレーだけでしょ?サラダとか、他の物がない訳。だから、炭水化物で空腹を満たすしかないのよ」
母がそれに応戦する。
「サラダ?だってカレーに野菜が入ってんのよ?それだけで充分じゃない。カレーはね、バランス満点栄養食だから」
「そうそう。お母さん、昔っからそれ言ってる」
泉美が半分呆れた様な顔で笑いながら言った。
「カレーだけじゃないわね。シチューもバランス満点栄養食」
そこでようやく僕がボソッと言った。
「ルウが違うだけだからね」
すると彩愛が急に笑い出して、その笑い声は 初めはクスクスッと控え目だったけれど、段々に堪えきれなくなって、とうとうカレーのスプーンを皿に置いて、手を口に当てて大声で笑い出した。彩愛が家に入って来てから、初めて笑顔を見せたので、皆が安心した。
「これ食べたら、お風呂入ってね。着替えは幾らでもあるから。ほら、あんたの服、何か貸してあげて」
「おっけー」
そう呑気な返事をして泉美が立ち上がったところで、急に立ち止まる。
「今日・・・どこに寝るの?善之の・・・部屋?」
泉美が母を見る。すると母も急に目をキョロキョロさせた。
「そうね・・・。うちはいいけど、こちらのご両親に申し訳ないからね・・・」
何の話だ。そう呆れながら、僕は言った。
「僕だけ、今日ソファで寝るから」
「あっ、そう。・・・そうね」
さっきから母のおかしなリアクションに、笑ってしまいそうだ。
「僕の部屋に布団一組運ぶから」
「一人で退屈したら、女子部屋おいで」
女子部屋とは姉二人の部屋の事だ。3LDKの間取りで、一部屋は僕、もう一部屋は両親の寝室、そしてもう一部屋が姉達二人の部屋だ。
風呂から上がった僕は、ソファに横たわりテレビを小さい音で付けた。家族はもうそれぞれの部屋へ引っ込んで、家の中が静かになっている。そこへ彩愛が、僕の部屋からそっと出てきた。
「今日、ありがとう。・・・来て、良かった」
彩愛がバイト先に姿を現した時よりも、心なしか明るい表情になっていて、僕は嬉しかった。
その時彩愛の携帯が震える。電話の着信を知らせている。が、取るのを躊躇している。
「・・・彼氏から・・・」
「あっ・・・」
そう言って僕が席を外そうとすると、彩愛が僕の腕をそっと掴んで首を横に振った。
「大丈夫」
そのうち、電話の着信が途切れた。
「・・・良かったの?出ないで」
僕は心配して、そう尋ねた。俯いたままの彩愛の手元で、再び電話が震えた。
「・・・心配してるんじゃない?出た方が・・・いいんじゃない?」
その言葉に背中を押された様に、彩愛はその電話を取った。
「・・・もしもし?・・・今?今は・・・友達の家。・・・学校の・・・」
彩愛の受け答えから、かなり追及されている様子だ。僕は隣でじっと様子を窺っていると、急に彩愛の電話から 相手の張り上げた声が漏れて響いた。すると急に怯えた様な声になる彩愛。
「本当だよ。本当に学校の友達。・・・女の子の友達だってば・・・」
僕の中に緊張が走る。
「・・・浮気?私が?そんなのする訳ないでしょ・・・」
その言葉に、僕は秘密基地でのキスを思い出してしまう。きっと彼氏の家に行かなかった事で、他の男の所に行ったのだと疑われているのだ。
「え?友達?・・・今・・・お風呂入ってて、ここに居ないから。・・・本当だってば。・・・どうして信じてくれないの?」
今にも泣きそうな彩愛に、僕はその場を立って姉の部屋へと向かった。
泉美を連れて居間に戻ってきた時には、彩愛の姿は無かった。部屋に行くと、彩愛が布団の上ですっかり首をうなだれていた。そこへ泉美が片手を差し出した。
「ほら、彼氏に電話して。友達役やってあげるから」
チャチャっと仕事を片付ける様にして、泉美が彩愛の彼氏との電話を切る。
「ありがとうございました」
「お安いご用で」
軽く笑ってみせた。しかしその後、泉美は彩愛に質問した。
「あの彼と、上手くいってんの?」
「・・・・・・」
「つき合ってどれ位?」
「8カ月位です」
「・・・なんか、会ってる時の心配事とか・・・あるんじゃない?」
「・・・全部、私が悪いんで・・・」
その言葉を聞いて、泉美は僕を外へ出る様促した。
「ここからは女同士の話するから。おやすみ」
あそこで途切れてしまった会話の続きが気になるが、僕は言われるままに部屋を出た。
次の日学校のない僕等は、朝の慌ただしい家の流れを傍観する。父親と詩織が出勤していき、次に母が洗濯物を慌ただしく干し終わるや否や仕事に出掛ける。もう夏休みに入っている短大生の泉美は、昼前からのバイトに合わせ まだ寝ている。ソファで寝ていた僕も、朝のバタバタに目を覚ましたが、テレビをつけてボーッとそれを見ていた。彩愛も、母が出掛ける寸前に起きてきて挨拶をすると、母が笑顔で言った。
「眠れた?朝ご飯しっかり食べてね。うちで良かったら、又いつでもいらっしゃい」
母を見送った後で、彩愛が言った。
「さ、私も帰らなきゃ・・・」
「・・・平気?」
「もうこの時間なら、誰もいないと思うから」
駅まで彩愛を送る道中、彼女が言った。
「又・・・秘密基地行きたくなったら、来てもいい?」
「もちろん」
「一人じゃ道分かんないから、その時はまたバイト先行く」
「うん。あ・・・でも、バイト出てない日だったらどうしよう・・・」
すると彩愛が電話を取り出して立ち止まった。
「教えて、連絡先」
「あ・・・うん」
彩愛の電話番号とアドレスが、ついに僕の携帯に登録された。着実に彩愛との距離が近付いている。連絡先も交換したし、僕の秘密の場所まで一緒に行った。僕の家族にも会っちゃったし、家に泊まりにも来た。そして何より・・・キスをしてしまった。あれは確かに事故みたいなものだったが、好きな僕が一方的にしたんじゃなくて、彼女の方からだ。理由なんて、どうだっていい。あの時、目の前に居た僕にキスしたいって思った、それ以上でもそれ以下でもないと、僕はその事実に喜ぶ事にしたのだ。
7月の終わりの午前中、今日もこれから暑くなると感じさせる様な蝉の鳴き声を聞きながら、僕等は木陰を選んで駅までの道を歩いた。