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侯爵令嬢、告白する

「フェリエド……!!」


 コーデリアが長いドレスを引きずって駆け寄る。コーデリアの膝の上に引き上げられたフェリエドは脇腹を大きく切りつけられてはいたが、致命傷は食らっていないのだろう。意識があった。それでももう立ち上がる力はないようだった。


「……っ陛下!」


 ガクリと膝をついたイザクの元に今度こそシエナが駆け寄る。おびただしいほどの血が流れていた。半ば倒れこむようにしてシエナの肩に額を預けたイザクの息は弱弱しい。今にも命の灯火が消えてしまいそうなイザクに、シエナは鼻孔の奥が痛くなった。


「陛下、イザク、薬です、飲んで――――……イザク?」


 抱きとめたイザクから返事はない。試験管の蓋を開けてイザクのかさついた唇に押し当てても、イザクは飲んでくれなかった。いや、違う。もう自力で飲む力もないのだ。


「……っイザク!」


 重なり合った胸から伝わるイザクの心音はひどくゆっくりで弱い。今にも止まりそうな心臓に怯えたシエナは、こらえていた気持ちが決壊したように顔を歪めた。


「やだ、やだ……っ。死なないで、ねえ」


 揺さぶっても反応がない。代わりに揺すった手にはベッタリとイザクの血が貼りついた。ああ、嫌だ。死んでしまう。こんなに出血しては、前世の自分のように――――……。


「……っ死なせないわ」


 涙の張った瞳を決然と燃え上がらせ、シエナは解毒剤をグイと口に含んだ。周囲が固唾を飲んで見守る中、シエナはイザクの黒髪を払い、顎を引き上げる。それからイザクの唇に口づけた。シエナは歯列を割り、解毒剤を喉の奥へと流しこむ。イザクの顎に、双方の唇から零れた琥珀色の液体が滴った。


(お願い飲んで、飲んでよ……)


 祈るような気持ちでシエナはイザクの口内へ解毒剤を流し切る。と、ややあって、イザクの浮き出た喉仏が上下した。コクリ、と鳴った音は、やがて大きく続く。シエナの後頭部に、世界だって掴めそうなくらいたくましい手が回った。


「陛下……!」


「――――もうイザクとは呼んでくれないのか?」


 シエナの腕の中で、いたずらっぽい声がする。


 ビックリして目を瞬くと、その拍子にアパタイトを彷彿とさせる瞳から大きな涙が一粒零れ落ちた。それを掬い上げるイザクの指はもう震えておらず、まるで霧が晴れるように、イザクの顔色に生気が戻っていく。


「すごい効き目だな、体の芯から力が漲ってくるようだ」


 上体を起こしたイザクは、手のひらを開いたり閉じたりしながら感嘆の声を上げる。左肩の傷までもが塞ぎかかっていた。


「ネフィリカスは万能薬だから……」


 解毒剤の成分にネフィリカスが入っていたのは幸いだったと、シエナは小さくしゃくりあげながら思った。子供のように顔をくしゃくしゃにするシエナを、顔色の戻ったイザクは愛おしそうに撫でる。熱を持った頬を撫でられたシエナは、唇を引き結んでイザクの胸を叩いた。


「……っ馬鹿陛下!」


 子供じみた暴言を、シエナは泣きながら吐いた。


「馬鹿な意地を張らないで! 馬鹿みたいに他人に優しくしないで! 馬鹿みたいに……っ誰かを守ろうとしないで」


 再び力強い鼓動を刻み始めた胸元を叩いたシエナは、涙のしずくがひっかかった睫毛を伏せてイザクの厚い胸元へ耳を寄せる。安心したら堰を切ったように涙が止まらなくなった。


「……生きててよ。死なないで」


「……ああ」


「ねえ、伝えたいことがあるって言いましたよね? 私、誰よりも生きていたいのよ。長生きしたいの! でも、もう」


 シエナは血で汚れたイザクのシャツの胸元を握りしめた。


「貴方なしじゃ生きていけない……。私と……」


 祈るような気持ちで、シエナは告げた。


「私と一緒に生きて……っ」


 これからの人生すべてを。


 涙でぐしゃぐしゃになった瞳はうまく焦点を結べない。泣きすぎて溶けてしまいそうな目でそれでもイザクを見上げようとすれば、強い力で頬を掬い上げられた。朧げな視界いっぱいにイザクの端正な顔が迫り、次の瞬間、奪うように口付けられた。


「イザ……ん……っ」


 角度を変えて何度も重なる唇に溺れそうになる。シエナの意識が白みかけたところで、名残惜しそうに唇が離れていった。驚きで涙の止まった両眼に、熱っぽいイザクの顔が映る。


「あの」


「俺もだ」


「イザ……」


「生きていくなら、シエナと一緒がいい。俺の妻になってくれ」


 一度目は啖呵を切って断った。二度目は返事ができなかった。でも今なら……。


「愛してるって言ったでしょ。そういうことです」


 可愛げのない言葉が涙に濡れた唇から零れる。どうしてもっと可愛く答えられないのかと後悔しかけたところで、少年のように破顔したイザクと目があった。


(ああ、こんなに可愛げがない言葉でも宝物を受け取ったような顔をしてくれるのね)


 愛しいという気持ちが際限なく溢れてくる。手のひらから一つも取りこぼすことなくすべて伝わればいいと、シエナはイザクの背中に腕を回した。



「……フェリエド、フェリエド……!」


 腹部を押さえたまま起き上がれないフェリエドをコーデリアが揺さぶる。ここが修練場であることを思い出したシエナは、イザクからそそくさと離れた。


 しっかりとした足取りのイザクが二人の元へ歩み寄る。影が落ちたことでイザクが目の前に立ちふさがったことに気づいたコーデリアは、イザクからフェリエドを庇うように抱き寄せた。


「と、とどめは刺さないでくれ……フェリエドは、フェリエドだけは……」


「どいてくれ母上……。僕はまだ、まだ戦えるんだ……」


 フェリエドがもがく。しかし身じろぐたびに腹部から出血するため、立ち上がることはできないようだった。激痛に呻くフェリエドは、自らを無感動に見下ろす兄を見て逆上した。


「僕をつまらない者扱いするなよ! 僕はもっとやれるんだ。僕は……」


「知ってる」


 イザクがたった一言、ひどく冷静に告げた。その言葉に込められた数々の意味を読み取ったのだろう、フェリエドは瞠目したあと唇を噛みしめた。


「なんで……何であんたが僕を認めるんだ……」


 誰もフェリエドを認めなかったのに。憎んでいるイザクだけがフェリエドを認めたことが悔しかったのだろう。フェリエドは熱くなった目頭を押さえた。


「ニフ、フェリエドを寝台へ運べ。ロアは薬師を呼んで手当させろ。治療が済んだら捕縛しろ。……フェリエド、母上、アイザードも、沙汰は追って知らせる」


 すげなく言ったイザクに、コーデリアとアイザードは驚愕した。


「何故じゃ。わらわ達はお主の命を奪おうとしたというのに、何故わらわをその場で斬って捨てぬ?」


「それが望みなら叶えてやらんこともないが」


 泣いて頬に黒髪が一房貼りついたコーデリアを見下ろし、イザクは剣を鞘にしまった。


「……シエナが言ったことは、本当か? 貴女が本当は俺を……」


 心の底では愛していたと。そう口にするには勇気が足りなかったらしい。言いよどんだイザクに、コーデリアはギクリと肩をこわばらせた。それが何よりの答えだった。


「信じられない。あんたは俺を憎んでいるとそう思ってきた。今もそう思っている。今までの仕打ちを許せはしない」


 今更本心が分かったからといって、はいそうですかと絆が修復するほど簡単な溝ではない。すでにイザクとコーデリアの間には、深く暗く、重い隔たりが横たわってしまった。真実を提示されたとて、許せるかと問われればイザクの答えはノーだった。過去は消せない。


「でももし」


 俯くコーデリアへ、イザクがぽつりと呟きを落とした。


「もし、そうだとしたら……もし俺のことを心のどこかで愛していたからこその行動だったとしたなら……俺はシエナの言う通り本当にもう、過去を乗り越えていける。このがらんどうの目も……」


 イザクは利き手でそっと、からっぽの右の瞼を押さえた。


「醜くないと言ってくれた女がいた。この魔力があったからこそ救えたものもあった。この炎を、シエナは温かいと言ってくれた。だからもう、過去に囚われたまま生きるのはやめたんだ。シエナがやめさせてくれた」


 時は傷を癒してくれなかった。自身の力では過去を乗り越えられなかったイザクに、初めて寄り添ってくれたのがシエナだった。イザクから目を背けたコーデリアにはできなかったことだ。


「あんたはどうする? どう思う?」


 イザクはポッと手のひらにオレンジ色の温かい炎を灯し、コーデリアにかざして見せた。炎を受けたコーデリアの紅の瞳が、爆ぜるようにキラキラと輝いて見えたのは、彼女が泣いていたからだった。


「過去に囚われたまま生きるのか。その答えを聞いてから、沙汰を告げようと思う」


 淡々とした声だった。平坦で、抑揚に欠けている。それでもイザクが勇気を絞り出して言った言葉だと思ったシエナは、炎をしまったイザクの手を優しく握りしめた。


 握り返すイザクの手に力がこもる。が、離すものかという強い気持ちと決して傷つけないという固い意志が合わさったように優しい力だった。


「私、コーデリア様が陛下を心の底では愛しているって知って、嬉しかったです」


 シエナはちょっと迷ってから言った。


「貴女のしたことは絶対に許せないけど、でも、陛下は見ての通り自分の命を軽視するから」


 シエナはわざとイザクの手の骨が軋むくらい強く握りしめた。イザクはばつが悪そうに顔をそらした。


「だから、もっともっと愛されている自覚を持って命を大事にしてほしいから。そのためには、やっぱり母親に愛されているっていう事実は大事かなって思うんです」


「……いったい誰が」


 コーデリアは、ぐったりと青ざめたフェリエドの髪を撫でながら言った。


「いったい誰が、そなたを水の精霊などと言ったのか。そなたは精霊なんていう可愛らしいものでは表せられまい。イザクの周りに侍ろうとする女はみな王という肩書しか見ておらぬと思っていた。まさか、イザクのためにここまで危険を冒すとは……。そなたがこんなに強い女子おなごだともっと早く知れていたなら……わらわは……」


 強い悔恨の滲んだ声だった。


 それでも過ちが消えることはない。本当のところシエナは、コーデリアもフェリエドも絶対に許したくない。許すつもりもない。どんな理由があれ二人はイザクの命を危険に陥れたのだ。その怒りが消えることはきっと自分が死ぬまでないだろうと思った。でも。


(陛下が、先に許せないと言ってくれたから、心が少し軽くなったわ)


 許さなくても進んでいこうとするイザクが下す沙汰を見守ろうと思えた。苦しみを抱えてもなお立ち上がる彼のそばにいようと。彼の決断を信じようと思ったのだ。



残り2話で完結となります。

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[良い点] ピッキングに長けたヒロイン [気になる点] そこまで美しく身分もある公爵令嬢が良い年になるまで婚約者がいないのはちょっと不自然ではないかと思いました。 [一言] 陛下もヒロインもややお互い…
2021/06/07 13:39 退会済み
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