侯爵令嬢、不興を買う
イザクは夜の世界を体現したような男だった。
さらりと流れる髪は夜空よりも黒く、蔓草模様のあしらわれた暗紫の衣装がよく似合っている。薄い唇は一見酷薄そうな印象を与えるが整っており、前髪のかかった鼻梁は高い。
そして何より目を引くのがその瞳――――……鋭い切れ長の左目は煉獄の炎を閉じ込めたように赤く、右目は――……
「隻眼……」
黒い眼帯に覆われていた。
感動したのは、顔の半分が眼帯で覆われていても、イザクの容貌を損ねるどころかより美しく見せていることだった。
彫刻のように容姿の整った男を、瞬きを忘れて見つめるシエナ。先に言葉を発したのはイザクの方だった。
「……へえ? あのオルゲートが自信ありげに寄こすだけあって、見目の良い女だな」
扉に凭れて腕を組み、イザクはシエナへ検分するような視線を寄こしてくる。イザクの所作は年齢よりもずっと大人びており、声は海のように深かった。
値踏みされている視線を感じたシエナは、ドレスを持ちあげ礼をした。
(何だか陛下って伊達政宗みたい……。私としたことがオーラに気圧されてたわ……危ない危ない)
「シエナと申します。今宵は陛下に――」
挨拶の途中で、イザクにクイッと顎を持ちあげられる。一瞬で間を詰められたことに動揺して、シエナの胸が上下した。この間合いでは逃げられない。
「聞き飽きた口上はいい」
そう言えばこの男は貴族の令嬢を毎晩かわるがわる抱いているのだった。毎夜似た挨拶を聞いてうんざりしているのだろう。この男の容姿なら、女の方も喜んで抱かれたに違いないな、とシエナは思った。
「水の精霊ニーファミアのようだと耳にしたことはあるが……なるほど? 噂に違わぬ美貌だな」
そう言ってシエナの頬を撫でるイザクの手つきは、褒めているのとは裏腹に乱暴だ。蔑んでいるのかと思うほど。
「どうせその美貌に見合う美しい物ばかり目にしてきたんだろう」
「え……?」
唐突に手を離され、思わずよろめいてシエナはソファの背に手を置く。イザクは興味がそがれたのか、向かいのソファにかけ、テーブルに用意してあった酒に手を伸ばす。シエナは酌をしようと一歩前に出たが、手を振って「必要ない」と言外に伝えられた。
「……オルゲートには世話になった。その娘のお前に無体を働く気はない。あの狸に俺を改心させるよう言われて此処まで来たんだろうが、無駄足だったな。さっさと帰り、オルゲートに失敗したと伝えろ」
「はあ……えっと……」
どうやら無傷で帰れるようだ。ラッキーである。色狂いかと思っていたイザクは予想に反して思慮深そうにも見える。単にシエナに女としての魅力が不足していただけかもしれないが。
でもまいった。シエナは気付いたのだ。イザクが女遊びに耽り政をないがしろにして国が傾けば笑えないし、その間に敵国にでも攻めこまれればシエナの安全長生き計画も危ない。しっかりしてもらわねば。
「私をお抱きになる気がないならば、どうしてここへお呼びになったのでしょう?」
「興味本位だ。オルゲートが常々自慢している娘をこの目で見てみたかったというのもある」
「……一度父の要望に応えてやれば、もう小うるさく戯れをやめろと言われることもないですしね」
イザクは涼しげな目を少し見開き、口の端を吊り上げた。
「なるほど? 毎夜邪な内心を隠した貴族から送られてくる、俺に媚びへつらうだけの女たちよりは賢いようだな」
「……このまま何もせずには帰れません」
内心はものすごく、それこそダッシュして帰りたい。が――王の機嫌を傾けて帰るのも避けたいが、命じられるまま帰るようではここへ来た意味もない。
それに先ほどの発言から察するに、イザクはオルゲートを気にいっているようだ。ならば娘のシエナに刃を向けたりはしないだろう。そう思うと強気に発言も出来る。のだが、どうやらイザクはシエナの発言で機嫌を傾けたらしく、眉間にしわを寄せた。
「……前言撤回だ。この俺が返してやると言っているのに従わないとは、容貌の良い女の中身は総じて空っぽなのか? それとも何だ? 俺に抱かれたいとでも?」
立ち上がりこちらへ回りこんできたイザクにぐいと腰を抱かれる。間近で見る王の瞳はルビーよりも暗く輝いていた。シエナの腰が引けるのを感じたのか、イザクは鼻で笑った。
「お前は俺に抱かれたいようには見えないがな」
「……恐れながら申し上げますが、陛下が今まで抱いてこられた見目の優れた女人が愚かだとおっしゃるなら、尚更女遊びなんて軽挙は控えるべきではありませんか? そうでないなら、お気に召した令嬢を妃に迎えてはいかがかと……」
シエナが出過ぎた発言だと気付いた時にはもうイザクの耳に届いた後だった。吸いこまれそうなイザクの瞳に、凶暴な色が揺らめくのをシエナは確かに見た。腰に回された腕の力が強くなり、不安を煽られる。
(私の馬鹿、もっと迂遠な言い回しをするべきだった……!)
「妃に迎えろと言うのか……。俺に、あの欲に塗れた女たちを……? 俺があんな女たちを気に入ると思うのか?」
ひどい侮辱を受けたと言わんばかりの口調に、シエナの中にも疑問が生まれる。イザクは女狂いと噂だが、実際に会ってみると女を軽蔑しているように感じられたからだ。
(女を嫌悪しているの……? なぜ? 自分で望んで女たちを抱いているんじゃないの……?)
「ひゃっ!?」
突如、室内を取り囲むように炎が舞い上がった。いや、正確にはイザクを囲むように業火が燃え盛った。
(しまったーーーーっ!)
シエナは後悔した。イザクの気分を害してしまった――『炎王』に魔法を使わせてしまった……!
炎が舌をちらつかせているというのに、シエナの鼻先は冷えていった。心臓が握られたような心地がする。
前世にはあって現世には存在しないものがあるように、前世にはなくて現世には存在するものも、もちろんある。その最たるものが魔法だろう。
この世界では通常草花や動物にしか宿らない魔力――……しかし、この国では王たるイザクだけが人間でありながら、炎を自在に操る魔力を持っていた。
手塩にかけて育てた娘が捨てられても貴族の長たちが表だって不平をぶつけたりしないのは、イザクの圧倒的な魔力の前では、一捻りで潰されてしまうからだろう。フィンベリオーレを大陸一の強国にし、外国からも恐れられるほどの魔力を有しているのが『炎王イザク』なのだ。
(卑怯だわ。魔法使える相手じゃ剣なんか役に立たないわよー!!)
刃を向けられる心配はなくとも炎で燃やされる心配があったのを失念していた。
こめかみに冷や汗の伝うシエナを嘲笑うように、イザクは口を開いた。口元に凶悪な笑みをたたえて。
「ただで帰してやるつもりだったが気が変わった」
「え……っ」
「気に入った令嬢を側妃に娶れと言ったな? それは他の女ではなくお前でも良いわけだ。俺が気に入るかどうか、お前でも試してやろう。他の貴族の女たちにしたように!」
「えぇ……っ! 結構で……きゃっ」
足をすくわれ、シエナは固い腕に抱きあげられた。冷えた耳へイザクの低い声が流しこまれる。ぞくりと肌が粟立った。
「部屋へ招き入れて早々、こうして抱き上げてやった。耳元で甘く囁きながらな。寝台までそれこそ姫のように丁重に扱い運んでやった」
イザクの長い足が部屋を横切り、奥の寝台へと向かう。丁重とはとても言い難い動きだったが、シエナには希望の逃げ道である扉が遠ざかった方が問題だった。
(やだ、犯される? それとも殺されちゃうの……!? いやだー!!)
「へ、陛下! 生意気言ってすみませんでした……!」
「もう遅い」
「うわーん、私が悪かったですー!」
必死すぎてシエナの口調は崩れに崩れる。どこまでも深く沈みそうなベッドに下ろされ、シエナは股にイザクの足を割り入れられる形でのしかかられた。
「……頬を撫でてやると、女どもは娼婦のように俺の首へ腕を回した。ねだるように」
血の気をなくしたシエナの頬を、イザクの無骨な手が撫でていく。武人のように固く節くれだった手だ。シエナの細い首をたやすく折れそうなほどに。イザクの手はシエナの頬から首へ滑り、胸元の方へと下りていく。
「陛下……」
シエナが頼りない声で呼ぶと、イザクは嗤った。
「肩紐を落とすと、そうやって甘えるように俺を呼ぶ女もいたな」
イザクの表情が暗くなる。心を閉ざしてしまったように彼の瞳が色を失った。
「そして俺に抱かれることを期待し、まして妃になることに夢を膨らませて瞳を輝かせた女たちが――――――俺の眼帯の下を見て、なんと言ったと思う?」
「え…………?」
思いがけぬ問いかけに、シエナは瞠目する。シエナのドレスにかけていた手を退けたイザクは、上体を起こし、眼帯の紐の結び目に手をかけた。
「へい……か……」
呼びかけるシエナの声が掠れた。
するりと解かれ、シエナの胸元に落ちる眼帯。雲が途切れたのだろう、分厚い雲間から差しこんだ月光が、窓ガラス越しにイザクの顔を青白く照らし出した。
「目が……」
通常ならばそこにあるはずの右目。だがイザクの眼球はどこにも見当たらず、目の周囲はひどく焼け爛れて皮膚の色が変わり、瞼は肉が引き攣れ盛り上がっていた。