侯爵令嬢、駆ける
「イザク……!!」
グラスが空になると、広間に割れんばかりの拍手が響いた。
目を見開いたシエナは、ガクガクと壊れたように震える。イザクに突き返されたグラスを見下ろし、それからもう一度イザクを見たシエナの奥歯は、怯えで上手く合わさらなかった。
「イザ……」
ぐらりとイザクの上体が傾く。異変を察したロアがイザクに手を伸ばすと、イザクはテーブルに手をつき、ロアの助けを制した。
「問題ない」
そう言う声が、何十年も水を口にしていないように渇ききっていた。
「水の精霊、さあ退くがいい」
後がつかえておる、と悠長に言うコーデリアに、シエナは目の前が赤くなった。ああ、この人は―――――……。
「貴女は……!! これを見越していたの!? 陛下が私を庇ってこれを――――……!!」
「何を、じゃ?」
毒を飲むと。
イザクが毒を飲んだと、誰も気付いていない。
ニフとロアはおそらく異変を感じとっている。しかし、周りは相変わらずイザクの男ぶりについて語るだけだ。何より、毒を食らったイザク自身が平静を装っていた。おそらくシエナが毒を飲もうとした理由と同じで、他国にフィンベリオーレの品を落とさないためだ。
そして、そこまで計算していただろうコーデリアが、勝ち誇ったように口の端を吊り上げた。
追い立てられるような焦りがシエナを襲う。今すぐコーデリアを糾弾したい。紛糾するシエナはとにかく、一刻も早く――イザクに解毒剤を飲ませねばと焦った。
「ニ、フ……」
「お嬢?」
「お願い、お願いよ――――今すぐ陛下をここから連れ出して!! お願い……!!」
その場で地団駄を踏みそうになりながら、シエナは憎いニフにさえ懇願した。コーデリアに対する怒りから噛みしめた唇は無残に切れて出血している。
イザクの異常な息の荒さとシエナの尋常でない怒気、そして双子の肩割れの動揺を見たニフは
「イザク様、少しお耳に入れたいことがあります」
とイザクに離席するよう頼んだ。
「イザク……イザク……!!」
広間の重い扉が閉まるなり、外へ出たシエナは悲鳴じみた声を上げた。
ぐらつき壁に手をついたイザクの反対側の肩を、ロアがすかさず支える。長い漆黒の前髪越しに見えるイザクの顔は青白く、珠のような汗をいくつもかいていた。
「ああ……ッ何てこと……イザク、しっかりして!」
「こんな時に名前を沢山呼んでくれるとはな」
紙のように白くなった唇を歪めて、イザクが弱弱しく笑う。そんな仕草さえ辛そうな様子に、シエナは怒鳴った。
「バカ……!! 今すぐ解毒しないと死んでしまうんですよ!?」
「お嬢、イザク様は毒を盛られたんで?」
「そうよ!! この人、私を庇って……!!」
遅行性とはいえ、今話せているのが奇跡だとシエナはニフとロアに言った。
「何で庇ったんですか!! 私なら、毒薬を飲んだって平気なのに……! 大概の解毒薬なら調合出来るし、それに……っ」
「毒を盛られた状態で調合なんて出来やすかい? お嬢」
ニフの言葉に、シエナは歯噛みした。
「……っでも!」
「お前が調合出来ようと出来なかろうと一緒だ、シエナ」
もはや立っていられない様子のイザクは、それでも力強い隻眼でシエナを真っ直ぐに見つめた。
「俺はお前にみすみす毒を飲ませたりはしない」
「だからどうして……っ」
「誰が好いた女をそんな目に遭わせたがる?」
「……っ」
胸をつく思いがして、シエナはギュッと胸元を掻き合わせた。大きなアクアマリンの瞳を揺らすシエナの頬に手を伸ばし、イザクは困ったように笑った。
「……危険な目に遭ったら助けてやる。約束したことだ」
そうだろう? というイザクに、シエナはぐう、と喉の奥を詰まらせる。そうだ。約束した。約束してくれた。でも、本当に果たしてくれるなんて。
「あんなグラス、叩き割ってしまえばよかったのよ……! 」
他国の目があるあの場所で、そんな真似が出来ないことは自分が一番承知している。シエナだって、それが出来ないと思ったから毒を飲み干そうとしたのだ。それでも、シエナはイザクが毒を飲むなど耐えられないと思った。
「私だって……私、だって……」
――――好きな人に、そんな目に遭ってほしくない。
「ロア、水と薬師を呼んで。早く!」
「御意。……誰だ?」
踵を返そうとしたロアの前に立ち塞がったのは、コーデリアだった。複数の臣下と――――それから顔色を悪くした配膳係を連れている。毒の入った葡萄酒をコーデリアに渡した女だ。
寒くもないのに頭のてっぺんから足の先までブルブルと震え上がった彼女は、壁伝いに座りこんだイザクを恐ろしそうに見下ろしていた。
「席に戻らぬゆえ様子を見に来てみれば……一体どうしたというのだ?」
「白々しい……! 貴女が毒を盛るよう指示を出したのでしょう!!」
コーデリアに噛みついたシエナの剣幕に、臣下たちは目を白黒させて言った。
「貴様……王太后様に向かって不敬な!! いやしかし――――毒とはどういうことです? 陛下、毒を盛られたのですか? 薬師、薬師を……」
「一体誰に?」
「陛下、お気を確かに!」
「これ、騒ぐと皆に聞こえる……!」
統率を失ったようにうろたえる臣下たちに舌打ちしたい気持ちを押さえ、シエナが口を開こうとした。しかし――――……。
「わ、私が毒を盛りました……!!」
奇妙に上ずった声で、配膳係の女が言った。緊張から土気色になった彼女は、喘ぎ喘ぎ言い、そしてニフとロアを指差した。
「わ、私はこのために、給仕として潜りこまされていました……。私、私は、あの二人に脅されてやりました! ニフ様とロア様が、陛下の求婚を突っぱねた不敬な侯爵令嬢に毒入りの酒を飲ませろとおっしゃったので……」
「はあ!? 俺らはそんなこと頼んじゃいねえ!!」
「心外」
ニフとロアは突然嘘をのたまった女に怒鳴り散らした。しかし――――……。
「我が息子、そしてフィンベリオーレの王になんたることを……!! こやつらを拘束せよ!!」
コーデリアの指示により、面食らっていた臣下たちはニフとロアに飛びかかった。
「ちょっと!! 待ってよ!!」
目の前で拘束されるニフとロアを止めようとするが、シエナは突き飛ばされた。
(完全に謀られた……!! 陛下の側近であるニフとロアまで排除する気……!?)
「陛下!! 陛下、しっかりしてください!!」
若い臣下が、床に伏したイザクの肩を揺する。もう声を出すのさえままならないのだろう。シエナは全身をゆっくりと蝕んでいく毒に呻くイザクを見下ろし、命の砂時計がサラサラと流れていく恐怖を味わった。
「大変です! 調剤室にいた薬師がすべて倒れておりました!」
廊下の角から、調剤室に向かった臣下が戻ってきた。
「それもこの者たちの仕業に違いない」
コーデリアはニフとロアのせいに決めつけ、地下牢へ引っ張っていくよう命じた。
(薬師もいない。ニフとロアは頼りにできない……なら……)
「……っねえ誰か! その双子を捕えるなんて無駄なことをしてないで陛下を寝台へ運んでください! それから、私を調剤室に案内して!!」
「侯爵令嬢が何をするつもりだ」
シエナの剣幕に戸惑いつつも訪ねた臣下に、シエナは強い口調で言った。
「薬師が倒れて使い物にならないなら、私が陛下の解毒剤を作ります」
臣下たちが互いに目を見合わせて騒ぎ出す。一介の侯爵令嬢が何を、と言い出す前に、シエナは一喝した。
「この私に作れない解毒薬なんてないのよ!! つべこべ言わずに案内なさい!! ――――イザク、待ってて。必ず貴方を助けます。伝えたいことがあるのよ。だからねえ――――」
シエナはぐったりと目を伏せ荒い呼吸を繰り返すイザクの背に手を回し、強く抱きしめた。
「死なないで。絶対に死んではダメよ」
そう伝える声がみっともなく震える。耳元にかかるイザクの息が末期のように弱弱しくて、シエナは鼻孔の奥が痛くなった。高所にいるように足が竦む。もしここで離れたら、二度と生きたイザクに会えない気がして怖かった。
しかしシエナの不安を打ち払うように、シエナの細い背に大きな手が回った。まるで太陽のように温かい手だ。そのイザクの温かさが、薄いガラスのように脆くなったシエナの心を奮い立たせた。
かさついたイザクの唇がわずかに動く。その唇の動きを読んだシエナは、熱くなる瞼をこすり、立ち上がった。
(――――待ってるって、言った。陛下……!!)
「お嬢! イザク様を頼みますぜ!!」
ニフの声を背後に聞きながら、臣下に先導されてシエナは回廊を駆ける。動きやすいよう膝上のスカートでよかったと思いながら、シエナは必要な材料を頭に思い浮かべた。
(ユクユク草……はこの時期は採れない。けど、調剤室になら乾燥させたものを常備してあるかしら。あとは不死鳥の涙が一滴。それから、この薬を作るうえで外せないのは……あれ……?)
筆から滴り落ちた墨のように、小さな疑問が胸に一滴滲み出す。その違和感の所在を確かめたいのだが、シエナはあと一歩で手が届きそうなところで意識を現実に戻した。
階段を上って渡り廊下を抜け、もうかれこれ十分近く走っているが、一向に調剤室にたどり着かないのだ。しかし、先ほど調剤室へ薬師を呼びにいった臣下はそんなに時間をかけていただろうか。
自身の前を走る剛健そうな中年の臣下に、シエナは一段低い声をかけた。
「……調剤室はこの道であってるの?」
長い回廊に、シエナの声が吸いこまれていく。
アッシュグレイの髪を後ろで束ねた臣下は、ゆっくりとシエナを振り返った。まだ日は落ちていないのに、この回廊は日当たりが悪く薄暗い。深いしわの刻まれた臣下の顔が、薄暗くて見えなかった。
「あってはいないかもしれませんねぇ……」
「どういうこと……きゃっ!?」
突如扉の開いた部屋から伸びた腕が、シエナを中へ引きこんだ。その瞬間に見えたのは鳶色の髪と、兄によく似た緋色の瞳。
それがフェリエドだと認識した時には、シエナは部屋の中央に突き飛ばされていた。入れ違いに、フェリエドがマントを翻して部屋を出る。
「エ……っ」
エド、と呼び名が喉で絡まる。愕然とするシエナの希望を奪うように、フェリエドは笑顔で扉を閉めた。ついで聞こえてくる無情な音は、鍵のかかった音だった。




