侯爵令嬢、身構える
帰り道、馬車に揺られながら、シエナは窓に頭を預けてイザクのことを思った。
イザクがどうしてシエナに名前で呼んでほしいのか分かった気がする、と。血がつながっているにも関わらず、決して名前で呼ばない母親を見て、せめて近しい者たちだけには呼んでほしいと思ったのだろう。
「孤独ね……」
「何か仰いましたか? シエナ様」
丸い瞳で見つめてくるリリーナへ、シエナは曖昧に首を振り「何でもないわ」と言った。
イザクに傾倒しているニフとロア、その二人が侍っていてもイザクが孤独なのは、彼はあくまであの二人が『王』である自分に仕えていると思っているからだ。だからイザクはきっとシエナに自分の名を呼んでほしいのだろう。『陛下』ではない『イザク』を必要としてほしいのだろう。
「こんな大国を統べる王様なのに、望むことがささやかすぎるわ」
夕闇に覆われた世界の中浮かび上がる街の明かりは星の海のよう。そんな広大な国の頂点に君臨しているというのに、あの空っぽの右目は孤独なのだ。
「――――……」
「シエナ様? 本当にどうされたのです? 体調がすぐれないようなら、帰宅後に薬を用意いたしますが……」
心配そうに見つめてくるリリーナを可愛く思いながら、シエナは「平気よ」と言った。
「でも、そうね、帰ったら……お父様に会いたいわ」
厄介な人を敵に回してしまったと報告しなければ。あの飄々とした父は、娘が王太后に目をつけられたと知ったら、どんな顔をするだろうかと思うと、今から気が重いシエナなのだった。
王宮では、羽目殺しの窓ガラスから王都を臨むコーデリアが、背後に恭しく跪いた臣下へ命令を下していた。
「あの生意気で気の強い侯爵令嬢の情報を集めよ」と。
コーデリアと同じ室内にいるだけで毒のような痺れを感じ、臣下はこめかみに汗を滲ませる。
「はっ。しかし恐れながら王太后様、知り得る限りの情報はすでに報告しております。更に、ネイフェリア侯爵の警戒が厳しく、容易には――――……」
「わらわに刃向かうでないわ!」
ぴしゃりと扇を閉じ、コーデリアは臣下の男を睥睨する。ひっと臣下が肩を震わせる向こうで、ソファに腰掛けていたフェリエドは欠伸を噛み殺した。紅の引かれた唇を歪ませたコーデリアは、疎ましそうに呟く。
「しかし、ネイフェリア侯爵か……いまいましい奴じゃ。先王のお気に入りであったからといって大きな顔をしよって……。あのタヌキは、これまでわらわがあの化け物を排斥しようとする度に、何かしら手を打ってきた」
イザクを貶めようとする度にオルゲートに邪魔された過去を思い出し、青筋を浮かべるコーデリア。フェリエドはソファから身を乗り出すと、楽しげに言った。
「侯爵も曲者かもしれないけど、シエナは博識だよ、母上。特に毒に関する知識は目を見張るものがある」
「ほう……毒は通じぬか」
「それに、どうやら自衛のために多少の武芸もたしなんでいるようだ」
「それは厄介な。しかし……よいよい。あの娘にそれが通じぬとて――……わらわの計画に支障は何もない。あの娘の強みを、逆手に取ってやればよいのじゃ」
ぞっとするほど凄絶な笑みを浮かべて、コーデリアは呟く。それを見て、フェリエドは内心でほくそ笑んだ。早く水の精霊と見紛うほど美しい侯爵令嬢を手に入れたい。そして、玉座も。
フェリエドは肉刺の出来た手のひらをグッと握りこむ。もうすぐ、自分の望むものが手に入るはずだ。そして自分にはその権利があるはず。そうフェリエドは思った。
オルゲートとの面会は、翌日にかなった。
父の部屋に通されたシエナは、相変わらずオルゲートが紅茶に砂糖を十個以上も投入するのを嫌そうに見つめながら王宮での出来事を話した。
コーデリアに目をつけられたことも告げたが、ソファにかけたオルゲートは特に驚いた様子を見せなかったため、もしかしたらすでに情報を得ているのかもしれないな、とシエナは踏んだ。
長い足を組み、いやに優雅な仕草でティーカップをソーサーに戻したオルゲートは、ニッコリと言う。
「いやあ、厄介な相手にケンカを吹っ掛けたねえ。流石わが娘」
「……怒って、ます?」
オルゲートは温厚でいつも笑顔を絶やさないため、感情の機微の見極めが難しい。そのためシエナは窺うように尋ねたのだが、オルゲートは「いや?」と眉ひとつ動かさずに言った。
「そもそも、シエナに陛下への夜伽を持ちかけた時点で、いずれこうなる可能性は予想していたよ」
「そうですか……。それなら是非最初から陛下の元へ夜伽に行く展開を回避していただきたかったものですけどね」
シエナが棘棘しく言うと、オルゲートは悪びれた様子もなく言った。
「でもそうしたら、シエナは陛下に出会えていなかったよ。それでもいいのかい?」
「……今は、出会えてよかったと、思ってます」
オルゲートは娘のイザクに対する感情が変わりつつあることに気付いているのだろう。恐らく、二人の関係が恋に発展しようとしていることにも勘付いているのだ。それを知っていてあえて聞いてくるのだから、たちが悪いとシエナは思った。
「良かった。本当は、父親である私がシエナの孤独を埋めてあげたいところだったんだがね……どうにも君は、私にはあまり何も求めていないようだったから」
目を伏せたオルゲートは、少しだけ寂しそうな顔をする。シエナは言葉を探しあぐねた。
別にオルゲートに何も期待していなかったわけじゃない。前世での孤独を背負ったシエナがオルゲートに何かを声に出して求めたりしなかったのは、もう十分に彼から沢山のものを与えられたと思っていたからだ。
何不自由ない生活と、安全。
そしてシエナが適齢期を迎えるまで好きにさせてくれた。だからシエナは、オルゲートの預かり知らないところで起きた前世の痛みを、彼に癒してもらおうとは思わなかった。これ以上、父親に望むのは大それたことだと思っていたのだ。
しかし、オルゲートは甘えないシエナに対し、遠慮されていると思っていたのかもしれない。だから、シエナが甘えられる存在を当てがおうと、イザクを紹介したのかもしれないな、と今なら思える。
――――まあ、そのせいと自分の気の短さが災いしてただいまピンチを迎えつつあるのだが。
「こちらの心配はしなくて大丈夫だよ、シエナ。君は君の心配だけしていなさい」
オルゲートは励ますように言った。
「シエナが館にいる間の安全もこれまで以上に確保しよう。外出の際の警備も強化した方がよさそうだね」
「……い、命を狙われる心配があるということですか?」
ドギマギし、膝の上で固く手を組みながらシエナは聞いた。
「うーん。もし側妃になれば、王太后に操り人形にするため取り入られる可能性はあると危ぶんでいたけど、王太后を怒らせたとなると……命の危険に晒される可能性が跳ねあがったね」
「ああー……」
シエナは頭を抱えて呻いた。何であんな啖呵を切ってしまったのだ、自分は。
(思えば、随分遠くまで来たなぁ……)
生きることにしか興味のなかった自分が、他人のために啖呵を切って自らを危険に晒すなんて。
そしてそれでも嫌な気はしないなんて、とシエナは自分の変化に驚いていた。
「シエナ、こちらも出来るだけのことはするから、あまり気落ちしないことだ」
可愛い顔が台無しだよ、と言うオルゲートに、シエナは落ちこむのをやめた。
「ああ、でも、一つ疑問があるんです」
「何だい?」
「陛下が気に入っている庭園に、どうして王太后がいたのかしら……と思って。陛下を嫌っているはずなのに……」
「ほう?」
オルゲートは両腕を組み、興味深そうに言った。
「その意味を考えていったら……もしかしたら、最大の武器になるかもしれないね」
「武器、ですか?」
「ああ。君を守る最大の武器になりえる」
この父親は口八丁手八丁で何を考えているのか分からないが、それでも侯爵の地位を冠する者なのだ。オルゲートの分かっているのかいないのか曖昧な予想は、大体にして当たる。シエナは心にとどめておこうと思った。




